このディスカッションは、11/29 千日前貸しホールにおいて、「A」の上映終了後に行われたものを、採録者の責任において編集したものです。オウム真理教についてはここで改めて書くべきものはありませんが、映画「A」はそのオウムの内部に入ったカメラからの視点で描かれたものだけに、「オウムの擁護」でないにも関わらず、公的、私的を問わず公開される場所がないのが現状です。しかし、一連の「オウム事件」をまったく見ないふりをしてやり過ごすことが不可能であるように、「オウム真理教」を隠蔽してしまうことで本質的な解決が見えてくるのでしょうか?現代に生きる私たちが、その現代を直視しないで先へ進むことはできるのでしょうか?もしかしたら、オウム事件とはそんな私たちの心の隙間にこそ入り込んでいたとは言えないでしょうか?
「岡山映画祭2000」はこの「A」もまた、私たちの物語と考えました。
当日参加していただいた多くの皆様に感謝致します。
○ この映画を見ていると荒木さんへのシンパシィをどうしても感じてしまって、面白いんだけど同時に危険だという気もする。音楽の使い方もドラマ的な効果を生んでてプロパガンダ映画に一見見えてしまう。
○ インタビューは中立的、現実的に行われているけれど、きっと立場によって見方はまるっきり変わってくるだろう。マスコミに対してとか、信者に対してとか・・。
○ でも、どうしても、現世的、信者的、シンパ的に見えるけどね。
○ 僕はある宗教に入ってて、自分のところと比較して見たんだけど、やっぱり宗教に熱中するとオウムと何ら変わらない気がする。上は絶対っていうか、他の宗教の事を知ろうともしないし、僕はアメリカへ行って仏教を見つめなおす機会があったりしたけど、今それを周りに勧めても異端視されるだけという感じ。
○ 信仰とは何だということが分からなくなる。冷静に考えればいいところでも、妙に熱狂的な中でスローガンを言われるとそれが正しいのかなとつい思っちゃう。
○ 私もある宗教に入ってますが、オウムを通して自分の宗教の良さが分かったり、オウムの教義を読んで自分のところの間違いがわかったり、その繰り返しですがね。
○ 私はスペイン人ですが、今スペインもカソリックが衰退して、無宗教になりつつあります。興味がなくなってきているんですね。日本も無宗教の国だと思っていましたが、やはり宗教の話は複雑です。この映画のわからなさが日本のわからなさにつながっていると思います。
○ 荒木さんを見て、普通の日本の若者と違うと思いましたか?
○ それぞれのポジションが分からないと説明も難しいですが、科学的な考えからしても分かりづらかったです。
○ 私は50代です。何故この映画を見に来たかというと、「何故オウムに入ったのか?」と「あのような事件を起こしても、何故今も信仰を捨てられないのか?」というのが知りたかったからです。どちらもよくは分からなかったのですが、ただ、やめると言うことに対して、自分がやめるようになる前に、社会がやめさせない構造をもってしまってるのではないかと思いました。
○ 宗教の核心とは信じることのみで、疑うことはないんですね。でも、疑うことがある種人間の本質という面もあるわけですから、そこに宗教との対立が見えてくるわけです。ただ、生きている以上限り無い不安と言うのもやってくる・・それを引き受けるのが自分なのか他のものなのかという近代人の宿命は避けがたい。
○ だから、オウムの信者は平均的な日本の若者というのか、信じる心も疑う心もない人とは違うよね。
○ 監督が言う、何故オウムに留まるのかというのは、逆に言えば「社会に何がないのか」ということでもあると思う。
○ ただ、この掘りさげ方だとそのポイントを上手くはつけない。むしろ在家の信者を掘り下げた方が深くなるような気がするけどな。
○ どうしてあそこまで信じるのかっていうのは、メディアの行き過ぎも考えないと。僕は田口ランディさんの文章を読んで見にきたんだけど、荒木さんって普通の人じゃんて感じだし、そこで信者であり続ける意味っていうのは、やっぱりどこかシュミレーションゲームの感覚があるって感じで、マスコミっていう強大な敵から自分達を守る戦いって言うか、ゲームでも敵の攻撃をどう守るかって結構面白いじゃないですか、その守るための活動が面白くて、がんばってるよとなっちゃうんだろうし、自分達は別に犯罪を犯してるわけじゃないのに、マスコミから攻撃されるのは不当だって結束してるだけのように見える。
○ 普通になれないというか、今の日本での普通が耐えられないんでしょう。自分を充実させたい、確認したいと思った時には普通と違うことをしなきゃならなくて、荒木さんが凛々しく見えるのは、一人でマスコミや法律や権力に向き合う姿に共感してるのだと思います。荒木さん自身もそうやって堪え難いものに対抗していく感じだと思います。
○ でもそれをオウムの中でやるのってどっか狡いけどね。
○ 普通に生きることが難しいんですよ。逆に規律に従うのは楽だし、自分で決めていくのはしんどいんです。
○ オウムの信者の言っていることって30年くらい前に東アジア反日武装宣戦とか、日本赤軍とかの言ったことと全く同じなんだよ。「この社会が間違っているから、自分が社会を何とかしたい」という純粋な正義感ていうか、でもそれは逆に考えたら、この国は30年間何も学習していないってことの裏返しでしかなくて、社会はそういった異端が出る度にやみくもにそれを排除しただけで、かれらの問いかけの根本はいつだってほったらかしにされたまま・・・。今の17歳の犯罪ももしかしたら、かつて集団で行われていたことが、単純に個人のテロとして繰り返されてるだけで、そこに脈々と流れる心性とは何一つ変わってないような気がする。
○ 荒木のバックにはオウムと言う組織があったから国家に対して立ち向かっていけたんだろうけど、でも公安って恐いよ。社会のどこかで冤罪が作られてると思うとオウムより国家の方が恐いって僕なんか思う。
○ 最初見た時、なんだか危うさはあるけどオウムに入ってもいいかなって思わせるところがあったんですよ。今日ニ回目を見たら「どううけとめたらいいんだろう」とちょっと変わってきたんですけど・・・。
○ 入ってみたいとはやっぱり思いますか?
○ 覗くくらいならいいかなと・・・。
○ それは映画全体が荒木への応援歌みたく見えるからじゃない?中立とは監督は言ってるけど、確かにオウム寄りじゃないにしても、荒木寄りというかさ。
○ 自分を救うことで世の中を救うと言う考え方はよく分かります。しかし、信仰をどのように広めていくかを考えたら、やはり世界を知ることだと思うんですよ。自分の前にいる人に信頼されずして何が信仰かと思います。
○ 私は以前あるカルト宗教に入っていて、今は離れたんですけど、離れた今は社会に対しても冷めてしまった感じです。ずっと人間同士が疑っている社会が嫌で、カルトの中に希望を見い出したんですが、荒木さんの「自分が正しいと信じてるんだからいいじゃないか」という言葉はちょっと前の自分を見ているようで・・・。私には自分を受け入れてくれる周囲がいたからいいれど、そうじゃない人もいっぱいいるんです。
○ カルトには騙されたという感じなんですか?
○ それもありますけど、自分が真理だと思っていることに疑いなんかないんですよ。世界を救うということで自分は充実して幸せになれるというか・・・。そうやって社会に対して責任をとるっていうことで・・・。でも、カルトの組織をある時に客観的に見られるようになって、それは、テレビとかの影響なんですけど、その時になんかおかしいと思いはじめて・・・ただ、外界と全く遮断されていたらそんなこともなかったのかって・・・・
○ 世の中のためにって言うけど、それはどっか気持ち悪い気がする。第一、今の階級社会が嫌で出家したりするのに、組織の中ではちゃんとステージという階級制度が残っていて、そのステージが上がることで修行が進むなんて矛盾してないのかな?映画の中でも「欲を捨てたいと思うのは欲ではないんですか?」という質問があったけど、色即是空の欲は無であり、無は欲であるというのがぐるぐると回っているという、都合のいいとこだけを取り出している感じがするよね。
○ 修行の度にステージが上がっていくなんてのは、まるっきりロールプレイングゲームの世界ですよ。体力とか知力がメーターで示されてその上で次の場面に進めるのとどうちがうんだろう?
○ 僕らの教えでは、一瞬の感情の中に10個のステージというか、天界も人界も存在するし、欲望と言うのはあるものだから、それを取り込んだ上で自分を磨くことで天界に行くことができる。だからがんばれって言うんですけど。
○ がんばれって何を?
○ つまり、中途半端に教えを受ければそれは洗脳でしかなくて、冷静に勉強することが宗教だと・・・。
○ 幾つかのものを巡って納得するものを信仰したり、他の宗派を勉強したりするのが大切なんでしょう?
○ 僕もある宗教に入ってて、今はやめてますけれど、信仰をやってる人は羨ましいいです。
○ 結局「A」ではその宗教に対する答えと言うのは示されなかったというべきか、その代わりに荒木さんのいさぎよさ、無欲さのようなものを監督が切り取ることで、彼に心が動くよ。その結果が「オウムは特別な集団ではない」という結論に辿り着くことも、決してオウムを弁護しているのではないし、反ってそのことで見る側に問いかけているものは多いと思う。
採録者 大西一光