HASHIMOTO TOSHIAKI/1954.10.23 生 A型
よく、hashimotoのpaintを見て
「やっぱりこういう美術の学校出られたんですか?」
という質問をされます。
ところが違うんです。
hashimotoはあみだくじのようだ、と、申しておりますがいろいろ経験してairbrushpainterとなりました。
hashimotoはここ岡山へ帰って来る前は、千葉で暮らしていました。
20代を過ごした千葉では、千葉や湘南で波乗りに明け暮れていたらしいです。そしてその頃のことが「ついこの前」みたいな感じに思えるらしいです。
そもそもは、福岡工大(電気工学科)を出て「国鉄」(今のJRですね)へ就職しました。その時「首都圏本部」へ配属され千葉へ行くこととなりました。
サーフィンしていた彼は半パンにロン毛、というふざけた格好で出勤していたこともあったそうです。
湘南、大東、勝浦、手原、いすみ川、なんかで波乗りしていました。
湘南に「魚切まさと」という人がいて、airbrushでボードやポスターに描いているのを見たhashimotoは「オレも描いてみよう」と思いました。そしてairbrushの道具を買いました。hashimotoのairbrush
paintの始まりです。それから、自分の部屋に飾る絵を自分のために描き出したのでした。
国鉄時代、就職して1.5年くらいして上司に「君みたいなのは海外研修にいったらどうだね」と、アフリカのザイール行きを打診されたことがあったそうです。きっと上司に逆らうばかりしていたからではないか、とtacozoは想像します。結局、転勤するのがいやで3年で国鉄は辞めました。
そのあと、青果市場で働きました。報酬は良かったけどきつかったらしいです。佐藤君という友だちが「海へ行こう。」と電話をかけてきた時、hashimotoは寝ぼけて
「キャベツがもうひと山あるから・・」と、答え佐藤君はびっくりして飛んできたらしいです。
で、また職を変えるわけです。
1979年に、西千葉、千葉大近くで「SOUL飯屋」(hashimotoいわく「魂のめしや」)をはじめました。これは面白かったらしいです。大家さんの都合により2年で閉店しましたが、いろんな面白い人が来ていたらしい。
今でも、人が集まると得意になって料理を作るhashimoto。(soul food)
今度は、看板屋です。
そこで働いていた時に茶トラの1匹の雄の子ネコを拾いました。マンキンと名付けました。
看板屋さんでの3年を経て・・・
hashimotoはマンキンやボードやいろんながらくたと共に岡山へと戻ってきました。
岡山でも看板屋さんで働いた後、独立して一人でartworksという屋号をかかげ、airbrush painterとなりました。
そしていろいろな人との出合いがあって今あるのです。
(注)/tacozoはhashimotoと世代が違うので、理解し 難いところがあります
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