Mark Of HASHIMOTO

Hashimotoの近況

2010.09.06

世の中はツイッターなのに、、、、、Hashimotoは何年経ってもアナログのまんま
hashimotoの愛車!


 見学に来られる方、直接工房に来て問い合わせをしたい方は前もって電話などで御連絡下さいね。
Hashimotoが工房にいない時に来て下さったりすると会えなくて残念です。


とある町で元サーファー(といっても大昔)
のPainter Hashimotoは
冬は寒ーぃ開けっ放しの工房でストーブつけて
寒さに震えながら、
夏には暑ーぃクーラーもない工房で
Airbrush片手に、一生懸命描いてます。
車があればそこまで行き
壁があれば不安定な足場によじ登り、
お人好しでネコ好きのHashimotoは、
今日も仕事に励んでます。

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ざざっとHASHIMOTOのプロフィール

HASHIMOTO TOSHIAKI/1954.10.23 生 A型

よく、hashimotoのpaintを見て
「やっぱりこういう美術の学校出られたんですか?」
という質問をされます。
ところが違うんです。
hashimotoはあみだくじのようだ、と、申しておりますがいろいろ経験してairbrushpainterとなりました。

hashimotoはここ岡山へ帰って来る前は、千葉で暮らしていました。
20代を過ごした千葉では、千葉や湘南で波乗りに明け暮れていたらしいです。そしてその頃のことが「ついこの前」みたいな感じに思えるらしいです。

 そもそもは、福岡工大(電気工学科)を出て「国鉄」(今のJRですね)へ就職しました。その時「首都圏本部」へ配属され千葉へ行くこととなりました。 
 サーフィンしていた彼は半パンにロン毛、というふざけた格好で出勤していたこともあったそうです。
 湘南、大東、勝浦、手原、いすみ川、なんかで波乗りしていました。
 湘南に「魚切まさと」という人がいて、airbrushでボードやポスターに描いているのを見たhashimotoは「オレも描いてみよう」と思いました。そしてairbrushの道具を買いました。hashimotoのairbrush paintの始まりです。それから、自分の部屋に飾る絵を自分のために描き出したのでした。
 国鉄時代、就職して1.5年くらいして上司に「君みたいなのは海外研修にいったらどうだね」と、アフリカのザイール行きを打診されたことがあったそうです。きっと上司に逆らうばかりしていたからではないか、とtacozoは想像します。結局、転勤するのがいやで3年で国鉄は辞めました。
 そのあと、青果市場で働きました。報酬は良かったけどきつかったらしいです。佐藤君という友だちが「海へ行こう。」と電話をかけてきた時、hashimotoは寝ぼけて
「キャベツがもうひと山あるから・・」と、答え佐藤君はびっくりして飛んできたらしいです。
 
 で、また職を変えるわけです。
 
 1979年に、西千葉、千葉大近くで「SOUL飯屋」(hashimotoいわく「魂のめしや」)をはじめました。これは面白かったらしいです。大家さんの都合により2年で閉店しましたが、いろんな面白い人が来ていたらしい。
今でも、人が集まると得意になって料理を作るhashimoto。(soul food)
 今度は、看板屋です。
そこで働いていた時に茶トラの1匹の雄の子ネコを拾いました。マンキンと名付けました。
 
 看板屋さんでの3年を経て・・・

 hashimotoはマンキンやボードやいろんながらくたと共に岡山へと戻ってきました。
岡山でも看板屋さんで働いた後、独立して一人でartworksという屋号をかかげ、airbrush painterとなりました。
そしていろいろな人との出合いがあって今あるのです。

(注)/tacozoはhashimotoと世代が違うので、理解し    難いところがあります

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