「映画の記憶」について


 松田完一さんは、もの心つく頃から84歳の今日まで、敗戦後20年余りの生活の困窮を極めた時期を除き、ここ岡山の地で、専門家としてでなく一個の市民として映画を観続けてこられました。生きることと、映画を観ることが分ち難く結びついているかのごとくですが、いったい映画の何がそんなに面白かったのでしょうか。
 松田さんへのインタビューは、松田さんの来し方を振り返りながら、どんな映画を、どのように御覧になったのかお聞きしたのですが、御高齢にもかかわらず、映画について話すのは全く疲れないと、毎回長時間、淀みなく、その当時の暮らしぶりも交え語って下さいます。
 松田さんの記憶に、映画の何がうつっているのでしょうか。それは映画の本質…が、あるとして、それ…と、どう関わるのでしょうか。 

 これは市井に生きる一個の人間の、かけがえのない人生に思いをめぐらし、それを彩った映画に固有の何かをつかみたいと願ったインタビューです。

松田さんには、ほぼ一ヵ月に一度の撮影を、計5回、岡山市内各所でお願いしました。

「一番最初に見た、成瀬巳喜男監督の『チョコレートガール』のラストシーンは

今でも鮮明に覚えております・・・。」

身振り手振りを交えて、

70年前の映画を再現される松田さんの語り口から、見たことのない映画のシーンが甦ります。

「映画の記憶」はそんな松田さんの12時間に渡る言葉を、

一つの映画として繋いでいく企画です。

無声映画の魅力。なかでも弁士の活躍。

「連鎖劇」とよばれる芝居と映画の融合した表現方法。

1930年代の映画館の物売りの様子。

それらをあたかも昨日の事のように語り続ける松田さん。

そして、話は岡山が生んだ大スター「目玉の松ちゃん」のエピソードに・・・。

「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助を巡る神秘的なエピソードと、

そんな大スターをないがしろにし続ける郷土への苛立ち。

ぽつりと呟く「なんとか・・・して欲しい・・・」

一方で好きな監督は山中貞雄。

「なかでも『盤嶽の一生』が一番でしょうなぁ」

少年時代の松田さんは山中貞雄に演出を受けたこともあります。

今やフイルムが残っていない山中作品を再現していく松田さんの言葉は、

「映画の記憶」そのものです。

山中貞雄について

 昭和七年。嵐寛寿郎プロにおいて「磯の源太 抱寝の長脇差」でデビュー。以降、時代劇のみにも関わらず映画技法上新鮮さを持つ作品を撮り続け、召集されるまで21本の作品を残した。遺作となった「人情紙風船」の封切りの日に召集礼状を受け取った山中は「人情紙風船が山中の遺作ではチト淋しい」と言う言葉を残したまま、中国にて戦病死。彼の作品は現在殆ど消失し、僅か3本の作品でしかその才能を見ることができない。

「映画の記憶」内で示される「あんたのシャシンには情がある。恋がある。涙がある。ほてから詩がある。ポエジーや。他の誰にもないポエジーがあるんや。社堂やん、わかっとるんか」は「磯の源太」を最初に見た時のアラカン(嵐寛寿郎)の言葉と言われている。

 「社堂」とは山中のあだ名であり、撮影所では誰もが山中をそう呼んでいた。

 光と影の芸術である映画を愛した山中らしい「シャドウ」

 また、同じく「山中みたいな男を死なして何が戦争や」とはマキノ正博の言葉と言われる。

そして、戦争へと向かう時代へ。

「私は、戦争も、日本という国もしっくりこなかったです」

「12月8日の、あの日でさえ、私は映画館の不安を感じて走っていったんです」

松田さんの生涯ベストワン作品は

溝口健二監督の「浪速悲歌」

この作品も日本でのビデオは絶版となり殆ど見ることができません。

そんな「浪速悲歌」に松田さんが魅せられる理由とは・・・?

「私の身体のどこを切ってもフイルムが流れとったらええですなあ」

「映画の記憶」 2005年 60分 DV

製作 岡山映画祭2005


松田 完一 (まつだ さだかず)さんの横顔

1921年(大正10年)11月、岡山市西大寺町83番地 (現 岡山市京橋町6-9)に生まれる。生家は、およそ四代前まで池田藩御用の米穀商。廃藩後、池田公の命により料亭「大一(だいいち)」を営むと祖父母より聞く。調理人等の料亭の若い人に連れられて、もの心つく頃より映画に親しむ。
 時は、日本映画の最初の黄金時代の始まる頃であり、無声映画からトーキーにやがて移行していく時期にあたる。無声映画、トーキーを問わず、邦画、洋画に惑溺していく半生は、岡山文庫、松田完一著「岡山の映画 (1983年、日本文教出版刊)に詳しい。

 1945年(昭和20年)6月の岡山空襲により、生家の料亭「大一」焼失。戦後の農地改革により、大地主として持つ全部の農地を手放す。 
 戦後の生活は、裕福な戦前とは一変し、困窮を極める。その間を、芝居の脚本を書くなどしてしのぐ。「岡山文学」「文学地帯」同人。NHK岡山放送局ラジオドラマ執筆。「月刊おかやま」に小説を発表。
 1966年(昭和41年)頃になり、やっと生活にも余裕ができ、再び映画を観だす。
 1975年(昭和50年)5月5日。それまで折にふれて集めていた、映画のポスター、映画館のチラシ、プログラム、プロマイド等を展示する「岡山映画資料館 (岡山市玉柏)」を開館。(現在は閉館)
 1980年(昭和55年)山本遺太郎氏を会長に、世話人の一人として「岡山古典映画愛好会」を立ち上げ、無声映画の紹介につとめる。後にこの会で休演した弁士の代役を、見様見真似でやったのが、その後時たま弁士をつとめた最初である。
 
 池田義信監督「不如帰」、板東妻三郎主演「影法師・前篇」を含む貴重な16ミリフィルム38本を、今年(2005年)5月、広島市の「映像文化ライブラリー」に寄贈。先年の、台湾で最初の映画と言われる「義人呉鳳」の16ミリフィルム台湾贈呈とともに、映画文化に大きく寄与した。


「映画の記憶」に関する問合せは

岡山映画祭2005 事務局 大西まで

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