日本三大踟供養とは?2005年7月11日 |
まず、最初に”練供養”と”踟供養”の説明であるが、啓成社版”大字典”によると ”練(れん、ねる)”は絹を煮て柔らかくすること、転じて練り磨くこと ”踟(ち、ほる)”は行(隊列)をなして進まざること となっているので、”ねりくよう”の本来の字は”踟供養”の方が適切と思われるが、現代では”練供養”の方をよく使用しているものと思われる(Tomy私見)
次に踟供養の中心人物となる、中将姫についてその生い立ちと一生を見てみよう。 中将姫は、大化改新に功績のあった藤原鎌足の曾孫で奈良時代の権力者のひとり藤原豊成の娘として生まれた。姫は生来、輝くばかりの美貌と才能に恵まれ、9才の時には孝謙天皇の前に召されて、並み居る百官の前で琴を弾き、大変感心された天皇は褒美として玉の簪を賜われたと言われる。姫が成長するに従い、和歌や音楽の才能はますます人々の目を見張らせるようになり、15才の時には三位中将の位までいただき、世間ではこの姫のことを中将姫と呼ぶようになったと言われる。
しかし、年齢などの関係などで多少つじつまが合わない部分もあるが以下のように伝えられている。姫が5才の時、不幸なことにその母が亡くなり、豊成は後妻に照夜と言う女性を迎えた。前述のように中将姫は成長するにつれ容姿端麗、英知にも富み何事にも優れた女性になった。継母の照夜はこうした中将姫に嫉妬し、憎むようになった。その嫉妬心がますます強まり命をも狙われそうになり、姫は恋野の雲雀(ひばり)山に逃れ、無情を感じた姫が當麻寺に入り、17歳で出家した。艱難辛苦の末、満願の日に現われた老尼の導きにより、 蓮糸で約4m四方の曼荼羅を一晩で織ったとの逸話も伝わる。
そして、中将姫は29歳で他界するのだが、亡くなる日の日没には、紺青の空に一筋の雲がたなびき、西方から阿弥陀如来が、観音、勢至(せいし)をはじめ二十五菩薩と共に雲に乗って現れ、中将姫はこれらに迎えられて西方極楽浄土に旅立ったと言われている。
これらのことを元に、中将姫(の人形など)を菩薩が阿弥陀如来の待つ極楽へ運ぶ様を表現したのが踟供養であると言えよう。それをもとに各地の踟供養はその寺独自の脚色を加えて表現するようになったものと思われる。
さて、日本三大踟供養であるが、本家本元の奈良県葛城市當麻の当麻寺(たいまでら)がまず1つであるが、残り2つは、実に岡山県に存在し驚かされる。
そのうちの1つは今回紹介させていただく、岡山県瀬戸内市、千手弘法寺の踟供養である。
概要は”奈良時代、尼僧となった藤原豊成の娘「中将姫」が極楽浄土へ導かれた伝説を劇化。中将姫の木像(高さ約15 センチ)を手にした六観音が地蔵、天童、稚児、僧侶ら70 人の大行列を従え、迎え仏(阿弥陀像)のもとまで練り歩く。 年により、出発地と到着地を交代して行われるのだが、平成17年は弘法寺遍明院を出発。ほら貝やドラを響かせながら約300 メートル離れた弘法寺東寿院へと向かう。県指定重要無形民俗文化財。”
概要は”當麻寺の中将姫伝説にもとづく二十五菩薩の来迎をそのまま取り入れているが、中将姫をけがれたこの世から清らかな浄土の世界に導くだけでなく、法然上人の両親をも浄土へお迎えをする意味が付け加えられているのが特徴である。県重要無形民族文化財”
概要は”当麻寺の練供養は源信・寛印によって寛弘2 年(1005 )に始められたという。中将姫がこの當麻寺で現身のまま往生されたという伝承を再現して演じるのがこの練供養であり、真言宗と浄土宗が協力しておこなう。本堂(曼荼羅堂)から娑婆堂に架けられた100 メートルほどの来迎橋を僧が娑婆堂に赴き、中将姫の像に勤行する。その後、面をかぶり装束に身をかためた二十五菩薩が娑婆堂に赴く。そのあとに観音菩薩(すくい仏)、勢至菩薩(おがみ仏)、普賢菩薩と続く。帰りは観音菩薩を先頭に、蓮座に中将姫像を載せ、練りながら入堂する。国選択無形民俗文化財。”












