思うがままに徒然に



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1  東京生活
更新日時:
2008.08.31 Sun.
東京に越してきて一年半。不安はあったが心配しても仕方ないので、時に身を任せた。最初の半年は、金銭的に苦しく貯えが底をつきかけた。まぁ、こちらに来たときに各種手当ての申請をしていたので、それが出てほっとした。年金だけでは、苦しくて大変だったと思う。
 
住んでるところは墨田区の小さな木造アパートで、以前に一度、一週間泊まらせてもらった事業所の寮になっているところ。だから、ヘルパーの男性とシェアリングしている。車椅子で出入りしやすいように、玄関口には手作りのスロープが二つ設けてある。初めのうちは車椅子で畳を傷めないように段ボールを敷いていたが、すごく動きにくいので区役所に相談して六畳のウッドカーペットを支給してもらった。右の写真は、近所の駄菓子屋さん。小学校の下校時間になると開き、いつも子供たちが集まっている。この通りには明治からつづく八百屋があったり、路地裏では三角ベース野球に興じる子供たちがいる。聴くところによると、この辺りは戦火を免れたらしく、お寺なども江戸時代からのものが多く現在している。
 
チャットの友人にパソコンをセットしてもらい、最初の1年間はお金の出入りがわからないので、岡山にいたときと同じ低速な回線を使って仕事や遊びをやっていた。
仕事は、おもに事業所のチラシやポスターを作ること。昨秋にはA2のポスターを2枚作ることになり、悪戦苦闘してどうにかできあがった。印刷だけはできないので、アパートの近くにある印刷所にデータを持ち込んでお願いした。数日が過ぎてから、出来上がったものを取りに行き事業所へ届けた。ラミネート加工されたものをみると、“やっとできた”という気持ちになった。
 
休みや何もないときは、近くを散歩したり、デジカメを持って公園や庭園まで足を伸ばす。とはいっても、全部車椅子で行くことのできる距離。遠くても20分でつく。友達はせっかく東京に出てきたのだからいろいろいと出掛ければいいというが、あまり出かけたいとは思わない。路地裏の風景や、子供たちが遊ぶ姿を写真に収めると、そこには古き日本の姿が残像のように見え隠れしてくる。建物とかの物理的なことでは多少不便は感じるが、人々の暖かさというか、心のバリアフリーはすごく感じる。
ある時ヘルパーと出掛けた帰りに、バスターミナルで待っているとバスが入り、先にほかの客が乗ったあとから運転手の誘導で乗り込もうと前を見たとき、就学前後と思われる男の子が車椅子を止める席に座っていたお年寄りを指さして「ここに車椅子の人が来るから、どけてあげて」と可愛く、はっきりと言った。お年寄りはちょっと苦笑しながら後ろの席へ移り、子供はこちらを見てにっこり笑った。毎月2度岡山まで電動車椅子サッカーの練習で出かけていたけど、こういう体験はなかった。この子たちがいる限り、日本はまだ大丈夫だと強く感じた。
 
私が介護を受け、仕事をもらっているところは、路上生活をしていた人にヘルパーの資格を取らせて、寮に住まわせて雇っている。それぞれがいろんな職を経ているから、困ったときでも何とかなるときが多い。朝、用を足すときのポータブルトイレ、寝ころんでできるよう木枠をつけてできるように、元左官だった人が作ってくれた。
 
最近は、電動車椅子で2時間くらいの距離をひとりで行ったりしている。何かあったらどうするの、といわれるが世間一般に歩いていても何があるかわからないのだから、危険を冒す自由もあると思う。さすがに初めてのところは、何度かヘルパーに連れて行ってもらうが、喋ることのできる口があるのでいざというときは人に尋ねる。そういえばこう言うことがあった。区のボランティアセンターへひとりで初めて行ったとき、一本路地を間違えてしまった。そうすると入り組んだところだから迷ってしまい、近くの家で花に水やりをしていた沖縄風に髪を結い上げた綺麗な白髪のお婆さんがいたので、場所を訪ねると、「ああそこねぇ! そこの角にある○○さんのところを右に曲がって、車椅子だからまっすぐ行ったら○×△さんがあるから、そこの横を通って、左へ行けばつくよぉ」と、丁寧に沖縄訛りで教えてくれる。まるで近所に住んでいるような感じの言い方が、おかしくもあり、嬉しくもあり、温もりも感じた。何とかたどり着くこともでき、目的を果たすことができた。
岡山のK.T先輩が亡くなる3週間前、ベッドの側を通ったので声をかけると息を詰まらせながら「できるとき、やりたいことを悔いの残らないようにやれ!」といった。それが私の心に大きく響き、今があると思う。
今月下旬、こちらへ来てはじめてひとりで富山まで遊びに行く。現地の介護事業所に介護日程表を送り、2泊3日で楽しんでこようと思っている。なぜ富山、ってそれは…。
 

2  意思疎通あれこれ
更新日時:
2013.08.18 Sun.
 脳性麻痺、ALS(筋萎縮性側索硬化症)、脳血管障害、高次脳機能障害、ADHD(注意欠陥・多動性障害)、これらの疾患の中には、相手とのコミュニケーションがうまくとれないこともある。
 言語障害にはたくさんの種類があるが、大雑把に分けて二つになる。
@ 唇や舌、呼気をコントロールできない構音障害。
A 機能的には正常だが、言語中枢などの神経回路への損傷。
 身体的障害が軽度、または言語中枢の一部が損傷を負った場合は、筆談が有効になる。筆談と言っても、ペンや鉛筆とは限らず、パソコン、携帯電話、音声付き文字盤などもある。また、文字を獲得していない子どもや知的に障害があるものに対しては、シンボライズされた絵文字を使うことも試みられている。
 重度、重複、進行性の場合は、現在はパソコンへソフトを入れて一つまたは複数のスイッチを使っての意思疎通や音声付き文字盤に補助装置をつけて方法もある。
これらのものがないときは、以下の方法をとることがある。
1,相手のサインを見つける。
  これは、その人から送られてくる「はい」「いいえ」の合図です。
  初対面で急を要する場合は、こちらでできそうなことを見つけて、
  サインを決めます。たとえば目を閉じる、指を動かす、舌を出す。
2,サインが決まれば、あとは簡単です。
  小学校のときに習った50音表を思い浮かべて下さい。
  相手に、「自分が思っている言葉の文字に来たら、合図してね」と
  いいます。
  つづいて訳者は50表の最上段、平たく言えば「あ、か、さ…わ」
  と声を出して行きます。相手から合図があれば次へ進みます。
  相手からの合図がなければ、繰り返します。
3,合図があったら今度はその行を下がって行きます。
  具体的に言うと「は」で合図があった場合、「は、ひ、ふ、へ、ほ」と
  ききます。ここで合図がないときは、濁音、半濁音とすすめていきます。
4,結構根気がいる作業ですので、焦らず、できるだけ相手の目の高さになって、
  構えずにふつうに話しているときのようにして聞いてあげて下さい。
  紙と鉛筆があったほうが便利でしょう。
 あくまでもこのやり方がすべてに使えるわけではなく、構文ができることが前提です。ある種の失語症では、相手の言葉が理解はできていても構文ができない場合があります。また、自分で発声したことのない人は、文字の脱落や逆転が見られます。これは声によるフィードバックができないためにおこります。
意思伝達装置あれこれ
@ 携帯が簡単にでき、あらかじめ登録(登録数は2〜16)された短い
  (最大10秒ほど)語句を選ぶもの。
A 50音の文字と補助機能が一つの文字盤に配され、一文字ずつ入力でき、音声
  合成で発声できるもの。こちらも携帯できるものが多く発売されている。
B パソコンにソフトを入れて使うもの。障害者用ソフトと言うだけで1本
  6万円もする。キーボードが操作できないので、1〜5コの外部スイッチをつなげて、画面上の文字盤を操作する。
 これらの装置には、外部スイッチがつけることができ、最重度の人もコミュニケーションをとることができるようになってきている。スイッチには多種多様なセンサーが使われて、数ミリの指の動きを感じ取ったり、ビデオカメラで目の動きを捉えて画面に映し出されている文字を読み取るものもある。
 進行性の疾患になって眼球も動かせなくなっても、心配はいらないようである。脳波の「怒る」「興奮する」というのをセンサーで読み取り、上記の装置を操作できる。
 コミュニケーションがとれると、生きてることを実感したり、考えを相手に伝えることができる。

3  『鉄腕アトムを見て』
更新日時:
2013.08.18 Sun.
 西暦2003年4月7日。この日を何かご存じだろうか?40代から50代の永遠のひとにかけてのヒーロー『鉄腕アトム』誕生日である。それを先駆けて、この春と夏に衛星放送で特集をやっていた。
 私は出産時の障害で幼いときから歩くことも、座ることもできず物心ついたときは畳の上を転がって移動していた。楽しみといえば、市が立つときに親父が肩車をして連れて出てくれたり、祖父が買ってくれた乾電池で当時としてはかなり高価な動くおもちゃを部屋の中で動かして遊ぶぐらいだった。たまに遊びにくる従兄弟が、唯一の友達のようなもので近所には遊び相手などいなかった。3歳の頃、大枚をはたいて両親が小さなTVを買ってくれた。当時は、今のように早朝から深夜までの続けての放送はなく、一日4回くらいの 時間編成で放送されていたと思う。こんなこと、普通は覚えてないと思うが外で遊ぶことができなかった私には、鮮明な映像として記憶されている。
 鉄腕アトム。正式名「人間型ロボットC-8号」。天馬博士が亡き息子の代わりに科学技術を結集して創りあげたロボット。最初のうちは溺愛し、教育をして普通の人間のように扱っていた。だがしかし、ロボットであるためにいつまでたっても体が大きくならないことがいやになった博士は、ロボットサーカスへアトムを売ってしまう。そこでいろいろあって、科学省のお茶の水博士の下へ引き取られる。
 アトムは人のために役立とうと、自己犠牲的に活躍する。また、人間になろうと努力を重ねていくが、とうていそれは及ばずに自分は何かを思い知っていく。幼いときは感じなかった、今それを改めてみると昔の障害者と似通ったところがあるように思われてくる。
 私が施設に入ったころは、いかにして健常者へ近づけるかが主な目的になっていて、リハビリから外科的手術が行われていた。いくらそのようにしても、身体のどこかへしわ寄せがいってしまい二次的障害を引き起こす。この現実にぶつかったのは、20代を半ばすぎたころだった。手術とかリハビリを否定しているわけではなく、ガンバレ! 努力を重ねればおまえは○○ができるようになると言われ、それを信じ込まされていたこと。
 かっこよく活躍しているアトムをこの歳になってみると切なくなってしまうのは、年を重ねたせいだけでなく、我が身と重ねてしまうせいかもしれない。

4  電動車椅子サッカー
更新日時:
2005.05.03 Tue.
当日の練習試合の画像
 2001年10月26日金曜日初めて電動車いすサッカーに参加した。高校時代に大きなボール(直径90センチほど)を電動車いすで転がして遊んでいたことはあるが、チームプレーで何かをするのは初めてだったのでとても楽しかった。
 僕の障害が重たかったせいもあって、スポーツというものに縁がなかった。見ることが多かったが自分には無理だと思っていた。それが数年前、友人から紹介されて電動車いすサッカーというものにであった。テレビでも紹介されたていたので、自分にもできそうな気がしてやりたくなっていたところに同級生や後輩から岡山にチームができたので入らないかといわれた。最初のうちは遠いので遠慮していたが、ホームページを見たり、情報を集めていたらとてもやりたくなった。オフィシャルサイトの掲示板を見ると、ほとんど知った顔ばかりだったので入部した。
 着いていきなりの紅白戦参加には、度肝を抜かれた。これも技術を見極められるテストと思い、思いっきりプレーした。流石(さすが)、特別仕様の電動車いすにしただけあって速度が多少みんなより劣るものの、瞬発力だけは誰にも負けなかった。スポーツモードを設けていて良かった、と実感できた。おかげで初得点を決めることも出来た。オフサイドを3回とられてしまって、ペナルティーキックを許してしまって、ちょっと嫌な思いましたがけっこう楽しかった。今度、行くときまでには、ルールをしっかり頭の中に入れて、練習試合に臨みたいと思っている。
 今回の外出ではもう一つ新しいことに挑戦した。それは現地で介助者を頼む、というやり方。今までは近くの短大の学生や、知り合いに頼んでいたが、都合がつかないことが多い。だから今回は、岡山のタクシー会社のヘルパーを頼んで昼食とトイレの介助をしてもらった。有料なので気兼ねすることもなく頼める点がいいと思う。
 今回使った交通機関は、新見大佐間を福祉タクシーで移動し、新見岡山間はJRの普通列車を使った。100q以上ないと半額(身障者割引は付添がいなければ100q以上)に一人の場合はならないので、和気までの往復切符を買った。岡山駅から練習場所の体育館までは、往きはノンステップバスを使い、帰りはバスの時刻が分からなかったので、福祉タクシーを利用した。今度行くときは、時刻表を調べて往復ともバスを使おうと思っている。交通費とヘルパーへの介護料、食事などを含めて全部で1万五千円。ちょっと高いようにも思うが、全行程タクシーを使うよりはずっと安い。ちょっとずつ新しいことにチャレンジしてみたくなってきた。次回も何か新たなことに挑戦しようと思っている。

5  運動会
更新日時:
2005.05.03 Tue.
 養護学校で最後の運動会は、「宇宙戦艦ヤマト」のマーチにのっての入場行進で始まった。2列になって崩れないように曲がるのが難しくて、何度も友達と放課後練習したことを懐かしく思い出す。
 3年前から施設の仲間とふたりで、1.2qほどのところへある小学校へ運動会を見に行っている。全校生徒が40人前後の小さな運動会。1年生から6年生までが、力を合わせて頑張っているのを見ると、私たちが忘れかけてしまった何かを見たような気がする。子どもたちが少ないので、午前中に終わってしまう。でも、午後からは丹治部地区の運動会になり、老若男女和気あいあいな雰囲気で進められる。昨年までは子どもたちのを見て帰っていた。今年は食事だけとりに帰り、昼からも行った。
 電動車椅子で、約15分の距離。9時半を少し過ぎたころにこちらを出て、着いた時は借り物競走が行われていた。子どもたちの競技が進んでいくのを、親たちが構えるカメラの放列の横で見ていた。いくつか見ているうちに親子リレーが始まった。−−−養護学校の時、面会に来てくれた弟妹両親と、たまに来てくれる祖父。ただいま思うと親子で出た記憶が全然ない。ちょっとさびしい。−−−大佐荘の職員も多く、みなで声援を送った。昼からは見るだけと思って出かけたのだが、ジャンケンという力もスピードもいらない全員参加のゲームがあり、出てみた。これがすごい人数でとても勝ち残れるとは思っていなかった。それが不思議なことに次々と勝ってしまい、一緒に行っていた友達と10人まで残ってしまった。5人までは賞品が出るというのをきいた時、アナウンスで「となりの人と対戦して下さい」とあり、友達とすることになった。また勝ってしまった。こうなってくると、人間欲が出てくる。そう思い出したとたんに負けてしまった。でも4位に入ることができたので良かった。そのあとも楽しく過ごし、大佐荘へ4時前に帰ってきた。
 施設にいると地域とのふれあいがあるようで、あまりない。これからもこういう機会を増やして、地域にとけ込んでいきたいと思った一日だった。




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