旅行記その7

旅の余談「お宝 プレイガール・プレイボーイ」

Y団長の怒り 

 いよいよ帰国。出発の朝、ホテルの朝食に行くと、悦子さんと同室のYさんが前の席をすすめてくれた。

 Yさんは、素顔の健康的な方で、藍染めの素朴な布の服を素敵に着こなし、少しなまりのあるゆったりした口調は、おしゃべりをしていても肩が凝らない。今で言う癒し系の人である。

 「昨夜、悦子さんと部屋で最後のワインパーティーをして盛り上がったのよ。あなたも呼ぼう、と部屋に電話するために、まずルームbたずねなくちゃあと、添乗員さんの部屋に電話したの。でもいくらかけても留守で、あなたに連絡できなくて、とっても残念だったわ。」

「えっ、そうなの、まあ残念だわ。」「あなたがさよならパーティーで言ってくれたこと、とってもよかったわ。私も思うことをはっきり言ったでしょ。ところが、今朝、そこのレストランの入口で、Y団長にすごい声で怒られたのよ。『君があんなこと言うなんて、何考えてんだ』ってね。あなたは何も言われなかったでしょ。私が性教協の会員だからよ。」   

 Y団長は日本の性教育の草分け的存在で、性教育にたずさわる人々を中心になって引っ張ってきた。彼が何十年か前に国に性教育を進言していたことがかなっていたら、日本の若者ももっと変わっていただろう、と思われる先が読める方でもあった。また川田君のそばにいて、その運動には欠かせない力をもち、彼を支えている方だ。だが、その力は、時として違う使われ方をするのだな。でも、だれも長所と短所があり、それは表裏一体なのだ。みんなそれも認めている。今回、私もYさんも、Y団長にはちょっと腹が立った。でも私が(たぶんYさんも)、Y団長を尊敬する気持ちにはかわりがない。たった一面だけ見て判断しないから。

女性のためのポルノ雑誌「PLAY GIRL」

 私たちのテーブルのそばをN氏が通りかかり、Yさんが何かのお礼をN氏に言った。私が何のことかたずねると、Yさんはちょっと躊躇して「実は、N氏にたのんでこちらのポルノ雑誌を買ってもらったの。性教育の観点から、日本の雑誌と比較してみたいの。」

 そのとき、私は二十数年前のことを思い出した。「日本に月刊誌『PLAY BOY』があるでしょ。これはアメリカの翻訳版なんだけど、アメリカにはその女性版『PLAY GIRL』というのもあるのを知ってる?

 私の妹は国際結婚して今はアメリカに住んでいるけど、22年前にアメリカ留学から帰ってきたときのおみやげは、夫には『PLAY BOY』、私には『PLAY GIRL』だったのよ。私は教科書でも渡される生徒のようにかしこまってそれを受け取り、中を開いて思わず『きゃあー、してやったり!!』と叫んだものよ。だって、ちまたには女の性ばかり商品化されて氾濫していたから苦々しく思っていたので、そういう女性向きの雑誌が対等に存在することがうれしかったの。

 その後、夫がもらった男性向けは、さっさと廃品回収に出して、私の女性向けは『家宝』として押入の奥にしまい、娘に性教育が必要になるまで待っていたのよ。

 ところが、大変残念なことに家を新築して引越しするとき、どさくさにまぎれてその『家宝』の行方がわからなくなってしまったのよ。」

 「わあ、私も見たかったなあ!!その雑誌、今でもアメリカでは刊行されてるのかしら。」

 「さあねえ、向こうのことは、わからないわ。」

後日談、成長した娘が・・・

 これは後日談だが、この旅行から帰って、ちょうど入れ違いに夏休みを利用してアメリカの妹のところへ行っていた大学生の娘にE-mailで、新たに家宝を買ってくるように頼んだ。なぜか娘は大喜びで買って帰ってくれた。さっそく男女の友達を呼んでみんなで大騒ぎしながら、しっかり見たようである。これで、当初の目的も達成したので、それをYさんに送ってあげた。Yさんときたら、これで男性向けと女性向けが両方手に入り愉快愉快!!と喜んでいた。

変化したアメリカポルノ事情

 妹がアメリカから電話してきて、「おねえさんが、『PLAY GIRL』が欲しいと言ってきたときには、正直言っておねえさんにそんな趣味があるのかと、どっきりしたわ!」 「何言ってんのよ!22年前にあなたが留学から帰ったとき、私のおみやげにくれた物よ。」 「そうだっけ。そういえば、80年代になってアメリカはまた保守的になってきたのよ。ああいう本は以前はどこでも手に入ったけど、今は大きな本屋の特別なコーナーにしか置かれなくなったのよ。夫があなたの娘を連れて本屋さんに行ったんだけど、本屋のおばさんが、『年はいくつですか?』とたずねてなかなか売ってくれないので、彼女真っ赤になって『これは、母に頼まれました。母のです。母のです。』としきりに弁解していて、そのおばさんと遠くでみていた夫も吹き出したそうよ。」

 そうか・・・・・・・。70年代はアメリカもウーマンリブの勢いで、女性だって性の解放とばかりに出版された雑誌だけど、そのうち本当に女性にも男性に負けずに「そういう趣味の人」が増えたのだろう。日本の私なんかは、そういう雑誌そのものが珍しく「存在に意義」を感じておもしろがっているのだから、性の男女平等が遅れた国である証拠だろうか。ちなみに、「PLAY GIRL」はこの年発刊25周年をむかえるとか。妹が買ってきてくれたのは、まだ発刊2,3年目だったようだ。イタリア、ドイツ、スペイン、その他の国でも翻訳版が出されているらしいが、日本にはない。

嬉しいプレゼント

 飛行場へ向かうバスの中で副編集長のTさんが私に1冊の本をくださった。「あなたがさよならパーティーで生理についておっしゃったことが、とても心に残りました。だからあなたにこれをプレゼントしたいの。これから発売される私の書いた本です。あなた、『アンネの日記完全版』はお読みになった?私の本にはそこからの引用文が載せてあります。・・・ほら、ここのページ。アンネの父、オットー氏はあまりにこの文章が強烈だったので全文を載せるのをためらったのね。ここはアンネが手鏡で自分の性器を見ながら、事細やかに記述しているのよ。ぜひ読んでみてね。」

 ああ、なんてラッキーなの。私がその本に作者のサインをもらったのは言うまでもない。

帰国はピカピカの飛行機で

 「みなさま、このルフトハンザ機は、これが処女フライトです。いっしょにお祝いしてください。シャンペンを配ります。」

 席にすわると、旅の疲れがどっとでていた私だが、このひとことで元気になった。

 「やったあ、ラッキラッキー!!」と私が叫ぶと、龍平君と悦子さんが振り向いて、「みんな初めてと聞いて不安がっているのに、ひとり喜んでいる人がいる。」と言った。そして悦子さんが隣りにいらっしゃいよ、と私を誘った。そして旅の最後、私は悦子さんと話しながら日本に向かった。悦子さんは私に大きな大きな宿題をくれた。私は今、それをやりつつある。ただし、いつできるかわからない。私には大きすぎる宿題だから。