住職の法話 |
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3月11日更新 ここ数日、日中は春本番を思わせるような陽気となっています。境内の紅白の梅の花も春の柔らかい日差しに促されて満開となりました。 今日3月11日は、東日本大震災が発災して2年。各地で三回忌の追悼法要が勤まっています。テレビや新聞では震災関係の報道がなされています。 しかし悲しいことに3月11日が近づかないとだんだん震災の報道も少なくなってしまっています。それは私自身も同じだと思います。相田みつおさんの詩のお言葉をお借りするならば、「傍観者」なのだと思います。決して被災された方の悲しみや苦しみを分かることはできないし、寄り添うこともできない自分であることは分かっています。しかし、こんな私でもなにかできることはないか、そのことは常に思いながら生きていきたいと思っています。 称名相続 『春季永代経法要』 ~東日本大震災三回忌法要~ 3月16日 昼座・夜座、17日 昼座 (3月15日は常例法座) 〈ご講師〉行信教校講師・天岸淨圓先生(大阪) どうぞみなさまお参りのうえ、ご法話をお聴聞ください。 |
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1月8日更新 明けまして南無阿弥陀仏 平成25年(2013年)が始まりました。昨年一年は皆さまにとってどんな年であったでしょうか。嬉しいこと、悲しいこと、楽しいこと、辛いこといろいろなことがおありになったことと思います。 私も大晦日にお参りをさせていただきながら、「今年の元旦には想像もつかなく、いろんな意味で思いもよらないことがたくさんあったなあ」と思いました。同じように今年もどんなことが飛び出してきてもおかしくないことでしょう。そう思うと、新しい年を迎えて、楽しみでもあり不安でもあります。 いずれにしてもお念仏を申しながら一日一日を一瞬一瞬を大切に、そして丁寧に生きていきたいと思っています。 称名念仏 【御正忌報恩講法要】 『お正月』 新たな年を迎える節目にあたり、いま一度みずからを見つめなおし、確かな足どりで人生を歩みたいものである。 道徳はいくつになるぞ 一つ年を重ねるにあたり、あらためて念仏を勧められたのである。 いま私たちは、真実の教えに出あい、念仏申す身となって、大いなる安心のなかに人生を歩んでいる。 『拝読 浄土真宗のみ教え』より |
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10月19日更新 十月も半ばを過ぎ、朝夕は寒さを感じるようになりました。皆さま、お身体にはくれぐれもご慈愛ください 浄光寺では、10月に入ると各ご家庭のご仏壇に『報恩講』のお参りをさせていただきます。 報恩講法要では、お仏壇やお寺のお内陣のロウソクは<朱ロウソク>にします。朱(赤)という色は、一般的に“よろこび”の色でしょう。一方で、『報恩講』は宗祖・親鸞聖人のご法事です。 礼拝 『報恩講』 報恩講は、宗祖親鸞聖人の遺徳をたたえ、その恩を報ずる法要である。親鸞聖人三十三回忌に際し、報恩講と名付けられて以来、毎年宗祖のご命日を縁として、脈々と営まれ続けている。 すみやかに本願真実の他力信心をとりて わが身の今度の報土往生を決定(けつじょう)せしめんこそ 他力の信心を得て浄土の往生を決定(けつじょう)することこそ、親鸞聖人のご恩に対するなによりの報謝となるのである。 本願寺出版社『拝読 浄土真宗のみ教え』より |
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8月31日更新 残暑 南無阿弥陀仏申し上げます 今年の夏も本当に猛暑ではなく、“酷暑”となりました。どうぞお身体にはお気をつけください。 さて私にとって今年のお盆参りが疲れた原因は暑さばかりではありませんでした。 『お彼岸』 彼岸とは、念仏の教えをいただいたものが、いのち終えて生まれていくさとりの世界。仏となった懐かしい方々がおられる、阿弥陀如来の西方浄土のことである。 善導大師はお示しになる。 西の岸の上に人ありて喚ばいていはく 阿弥陀如来は、「必ず救う、われにまかせよ」と、西の岸よりよびかけておられる。如来のよび声は、南無阿弥陀仏の名号となって、今この私に届いている。 本願寺出版社『拝読 浄土真宗のみ教え』より ◎次回法要 |
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7月29日更新 『お 盆』 亡くなられた先人たちのご恩に対し、あらためて思いを寄せるのがお盆である。親鸞聖人は仰せになる。 願土にいたればすみやかに 浄土へと往生した人は、如来の願力によってすみやかにさとりをひらき、大いなる慈悲の心をおこす。 本願寺出版社『拝読 浄土真宗のみ教え』より ◎【盂蘭盆会・歓喜会】 8月15日 午後7時より |
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5月1日更新 “生まれる”ということの意味 称名相続 <次回法要> |
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1月25日更新 ““世のなか安穏なれ 仏法ひろまれ”” 称名相続 |
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1月5日更新 明けまして 南無阿弥陀仏 平成24年、2012年が始まりました。皆さま、どんな新年を迎えられたでしょうか? 称名相続 |
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12月21日更新 寒中お見舞い申し上げます 称名相続 |
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9月7日更新 残暑お見舞い申し上げます 称名相続 |
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8月1日更新 “如来興世の本意には 本願真実ひらきてぞ 6月10日、13日の両日、ご本山・西本願寺で勤まっています『親鸞聖人750回大遠忌法要』に参拝してまいりました。一日は家族と、もう一日は近隣寺院の若手僧侶の皆さんと参拝しました。 午前の部、午後の部それぞれ約4000名の参拝者がおられて大変賑わっていました。記念法話、雅楽、そしてお勤めととても荘厳な法要で身の引き締まる思いがいたしました。50年に一度の宗祖親鸞聖人の大遠忌法要にお参りさせていただくことのできる有難さ、そして重みもまた感じさせていただきました。長く生きても100年余りの人生で50年に一度のご縁に遇うことのできるということは本当に稀なことです。ただ50年という年数だけではなく、人としていのちをいただき更には<仏縁>というご縁に遇うということは本当に難しいことです。 漢字というものはその一文字が大変大きな意味を表しています。 それに対して、「遇う」と表す“あう”もあります。この漢字の場合は「たまたま遇う」ということです。考えてみると、この私が今いのちをいただいてことも多くの不思議なご縁が重なってのことです。その私が仏様とのご縁を結ばせていただいていることは本当に不思議以外のなにものでもないでしょう。そこには私の“功績”など何もなく、ただこの私に仏縁を与え、導いてくださった先人方に感謝させていただくばかりです。 冒頭に挙げさせていただいた和讃(親鸞聖人が著された仏さまを讃える日本語のお詩)は今回の『親鸞聖人750回大遠忌法要』で新しく制定されたお勤め『宗祖讃仰作法』の中に納められているものですが、そのおこころは、 「お釈迦さまがこの世にお出ましになられた真意は、阿弥陀さまのご本願の真実を開かれるためでありました。このご本願に遇うことは、三千年に一度しか咲かない霊瑞華(れいずいげ)に遇うようなもので、本当に難しいことです」 私たちは人としていのちをいただき、さらに仏縁という遇い難きご縁に出遇っていても当たり前とさえ思えない生き方をしているのかもしれません。全てのことが当たり前ではなかったということに気付かせていただいたときに、“有難きこと”として感謝させていただく生き方となっていくのかもしれません。それがまさしく“仏縁”と出遇わさせていただいた私たちの生き方なのだと思います。 称名念仏 |
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5月31日更新 暑中お見舞い申し上げます 南無阿弥陀仏 先日、京都東山にある本願寺・大谷本廟にご門徒の皆さまと参拝させていただきました。当山浄光寺では毎年五月末に前年お浄土に帰られた方々のご遺族を中心に大谷本廟に納骨参拝を行っています。今年は約90名の方々がご一緒に参拝されました。例年晴天に恵まれることが多いのですが、今年は早い入梅と台風2号の接近のため大雨の中の参拝となりました。 今年は宗祖親鸞聖人の750回大遠忌法要がご本山でお勤まりになっています。来年一月十六日(旧暦では十一月二十八日)が親鸞聖人の丁度750回忌にあたり、今年四、五、六、九、十、十一月の九日から十六日に『親鸞聖人750回大遠忌法要』が厳修されています(西本願寺のホームページでは法要の模様が生中継されていますのでご覧下さい)。この五十年に一度のご勝縁にあわせて、先日まで京都市美術館では【親鸞展】が開催されていました。この度の納骨団体参拝では皆さまとご一緒に【親鸞展】を拝観させていただきました。親鸞聖人が著述されたお書物や由来の宝物など国宝、重文を多数拝見することができました。 特に親鸞聖人直筆の国宝『阿弥陀経集註』には本当に感銘を受けました。仏説阿弥陀経を書き写され、それに朱文字で勉強をされた後が残されています。その一文字一文字に親鸞聖人が仏さまと向かい合われたお姿があると同時に、どのような思いで書かれたかと思うと大変感慨深いものがあります。 “十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる” 親鸞聖人がお浄土に帰られて750年。科学技術や医学、経済など親鸞聖人がご在世の頃とは全く状況は異なります。しかし私たち人間の持つ悲しみ苦しみは全く変わりません。どんなに時代が変わろうともお釈迦さまがお示しくださった仏さまのお心は真実の教えであり、迷える私たちを導いてくださる灯火となってくださるのです。 【親鸞展】を拝観して外に出ると激しい風雨。浄光寺境内に立たれる菅笠をかぶられしっかり前を見られた親鸞聖人のお姿を思い出し、さまざまな困難がある現代を生きる私ですが仏さまを拠りどころとさせて人生を歩ませていただきたいと思いました。 称名相続 |
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4月23日更新 先日、浄光寺のご門徒さんにお願いして義捐金を募ったところ大変多くの善意をいただきました。お預かりした義捐金は山陽新聞社会事業団を通して被災された方々に送らせていただきました。ご協力いただいた方々には心より感謝申し上げます。 大震災が発生した翌日から浄光寺では「永代経法要」という法要を勤めさせていただくことになっていました。 私が全門徒さんに依頼状を書かせていただきました。その冒頭に「『東日本大震災』への義捐金のお願い」と書かせていただいたところ、「“ギエンキン”という字が違いませんか?」というお声をいただきました。“ギエンキン”とはどのような字を書かれるでしょうか? 今、新聞紙面や報道機関が書いている“ギエンキン”という字はほぼ100%が“義援金”でしょう。しかし広辞苑をはじめ国語辞典で“ギエンキン”と引くと最初に出てくる字は“義捐金”です。 “義捐金”と“義援金” 私は敢えて“義捐金”という文字を使っています。義援金とは「困った方を援助する」という意味があると思われます。勿論、その思いは大変尊いことだと思います。 私も間違いなくその一人ですが、他の方からしていただいたことはすぐに忘れてしまうにも関わらず、自分が他の人にしてあげたことは些細なことでもいつまでも覚えているのが私たち人間ではないでしょうか。 “義捐金”という文字はその自分自身の恥ずかしい生き方に気付かせていただくような気がします。 人のために援助したという思いを“捐てる”ことによって、今回被災された方々や様々な苦しみの真っ只中におられる方々にいつもいつまでも思いを寄せて生きていくことができるような気がします。 称名相続 |
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4月18日更新 『東日本大震災』で被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。 4月8日は仏教を開かれたお釈迦様のお誕生日『花まつり』でした。約2500年前にお釈迦様は真実の教えを私たちにお示しくださいました。その教えの第一が“諸行無常”ということです。 「美しき町も 瓦礫の山と化す 無常の理 身にしみて知る」 この詩は今から16年前に発生した阪神淡路大震災で被災された神戸のお寺のご住職が歌われたものです。「美しき町も」の「も」という一文字の中にお釈迦様が私たちに諸行無常ということをお示しくださった、そのことは頭では理解していたけど目の前に広がる瓦礫の山を見たときに、「諸行無常とは他のだれのことでもなかったこの私のことでした」ということ吐露されたものだと感じます。 この度の大震災を通して私もいろいろなことを知らされました。ある報道で一人の女性が自宅の裏山が崩れてご家族が閉じ込められた光景を前に、「生きてかえって欲しい。私、ひとりぼっちになってしまう」と泣きくずれられていました。私が今、何ができるのか。毎日毎日自問自答しています。ボランテイア、義捐金、支援物資・・・。私ができることは何でもしていこうと思います。それと同時に、いやもっと大切なことは悲しみの中に苦しみの中におられる方がたくさんいらっしゃることをいつまでもいつまでも忘れないことです。前回書かせていただいたことですが、二ヶ月も経っていないにも関わらずニュージーランドの地震で被災された方々のことが忘れ去られようとしている現実があります。このような恥ずかしい私自身の姿に気付かされます。 これからも皆さん一緒に同じ命を頂いたものとして手を取り合って支えあっていきましょう。 称名相続 |
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3月1日更新 大変遅くなりましたが(もう三月ですね)、明けまして南無阿弥陀仏。 この冬は本当に寒い日が続いていましたが、ここ十日程は急に春の陽気となっています。皆さま体調を崩されてはいないでしょうか。 先週はじめニュージーランドで大きな地震が発生しました。日本の留学生の方々も多数被害に遭われています。被害に遭われている方々はもとよりご家族の方のご心痛を思うと何もできない自分の無力さを感じるばかりです。一瞬でも早く救出されることを願うばかりです。また命がけで救出にあたっておられる救援隊の方々には心より感謝申し上げたいと思います。 私は今回の大地震の報道を見ながら様々なことを考えさせられました。一つは、近年「日本はどうなってしまうのだろう」と言われている中で、志を持った方がこんなにたくさんおられるということです。世界の中で困っている人を助けたいと人生をかけておられる姿に本当に頭が下がると共に、私には何ができるだろうかという思いにさせられました。 もう一つは、人間は本当に忘れやすいということです。先週来、報道は大地震のことがほとんどとなりました。勿論多くの方々が被害に遭われているということを考えれば当然のことだと思います。一方でこの冬の大雪で家を失い農作物に甚大な被害を受けられた方のことや、宮崎で発生した口蹄疫、鳥インフルエンザ、さらに火山の噴火で今なお不安な日々を過ごされている方のことを忘れてしまったようになったのは私だけでしょうか?当事者にとっては全く問題が解決したわけでもなく、これからずっと背負っていかなければならない苦しみの中におられることと思います。それ関わらずそのようなことを忘れてしまっている自分自身を省みると恥ずかしながら他人の苦しみや悩みは所詮「他人事」としてしか受け止めることのできない自分がいることに気付かされます。 日本から遠い地で今なお救出を待っておられる方が一刻も早く無事に救出されることを切に願うと共に、さまざまな災害などに遭われて苦しまれておられる方々が一日も早く立ち直っていかれることを念じております。 称名相続 |
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12月30日更新 今年も残りわずかとなりました。皆さまにとってどんな一年であったでしょうか?一年間という時間は過ぎてみればあっという間ですが、ひとつひとつ思い出してみるといろいろなことがあるものです。新聞やテレビで報道される「今年の十大ニュース」をみても、「こんなことも今年の話だったか」と思わされます。特に近年は、十年一昔ではなく二、三年一昔となってしまうくらい世の中の流れが速くなってしまったような気がします。 私にとっても様々なことがあった一年でした。住職というお役目上、うれしいことより悲しく寂しいことの方が多いのですが、つい先日とても嬉しいことがありました。 私が兄弟のように親しくしているS君と婚約者のAさんが結婚し、私たち夫婦が媒酌人のお役をさせていただきました。S君は私と同じ浄土真宗のお寺の後継住職でいつも一緒に学び、ご法義について語り合っている仲間です。そういうご縁もあって私に媒酌人なって欲しいとのことでした。大変嬉しく光栄なことと思う一方、責任の重大さを感じました。私は媒酌人と共に、結婚式の司婚(結婚を執り行う僧)もさせていただきました。大変緊張をしましたがとても素晴らしい結婚式・披露宴となり、私も大変感動しました。 私ども僧侶が結婚することは現在では当たり前のこととなっていますが、本来僧侶は結婚(妻帯)してはならないのです。僧侶は専ら修行に励むものですから、家族や財産など守らなければならないものがあると修行に専念できなくなってしまうのです。だから僧侶は出家するのです。俗世と隔絶し、ただ自らと向かい合い修行に専念する人生を送るそれが僧侶の姿です。その一つの表れとして、伝統仏教教団のトップ(という言い方がいいかどうか分かりませんが)はどこも世襲ではなく“法脈”となっています。すなわち師匠から弟子への法義の継承です。しかし唯一異なるのが私どもの浄土真宗です。本願寺派では現在のご門主は宗祖・親鸞聖人から数えて二十四代目の世襲です。すなわち“血脈”です。それは宗祖親鸞聖人が僧侶として初めて妻帯されることを公にされたことに始まります。 現代を生きる私たちにとっては僧侶が結婚することは何の不思議もありませんが、当時は仏教界を揺るがす“大事件”だったのです。そのこともあり、親鸞聖人は越後に流罪(師匠である法然聖人は四国へ流罪)となってしまいました。親鸞聖人35歳の時のことでした。その後90歳までの45年間、親鸞聖人は布教伝道に尽くされました。親鸞聖人の教えが多くの方々の心に届いた大きな要因の一つは“在家の教え”だったことにあると思います。自分の生活とはかけ離れたところにある教えではなく、まさしく私の人生そのものにはたらきかけてくださる教えだからです。苦悩の中にある私のためにある教えなのです。以来約八百年もの間、私たちの先祖先輩方が親鸞聖人の教えを人生の依りところとして生きてこられたのです。この私もロボットやコンピュータではない“生身のいのち”を生き日々苦悩の中にいます。だからこそ親鸞聖人が開いてくださった真実の教えを依りところとして人生を送らせていただきたいと思っております。 来るべき平成23年にはご本山・本願寺で『親鸞聖人750回大遠忌法要』が厳修されます。親鸞聖人のご遺徳を偲ばせていただきながら皆さまご一緒に参拝させていただきましょう。 称名相続 |
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この夏の猛暑がうそのように急に寒さを感じる気候となりました。 私も長年お参りをさせていただいていますと気付かされることが多くあります。 「先ほどお勤めされたお経のことですか・・・」 その時のご法事では『仏説阿弥陀経』をご一緒にお勤めいたしました。『仏説阿弥陀経』とは、『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』と併せて『浄土三部経』と言って私たち浄土真宗では中心となる経典です。その中で『仏説阿弥陀経』は、私たちがこのいのち終わった後に生まれさせていただく「お浄土」の世界が説かれています。 「難しいことは解りませんが、先ほどのお経の中でとても気になった所があります。“青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光”という箇所です。私は仕事上、LEDに関心があります。光の色はその波長の長さによって決まります。波長が短いと青く、長いと赤くなります。したがって可視光線より短いものが紫外線、長いものが赤外線です。お経の“青色青光 黄色黄光 赤色赤光”はきちんと光の波長の短いものから書かれていて、最後に“白色白光”があります。白光は全ての光が合わさった色なんですよ。昔にそこまで解って書かれているのでしょうか?とてもびっくりしました。」 私はそのお話をお聞きしてとても深いものを感じました。21世紀を生きる私たちは「現代は科学的文化的論理的に成熟した時代である」という“驕り”があるのかもしれません。だからピラミッドや東大寺の大仏、寺社建築物などを見た時に「なぜコンピュータや重機もない時代に作ることができたのだろう」と思うのでしょう。私たちは先人たちが持っていた“鋭い感性”を失ってしまったのかもしれませんね。それを恥ずべきでしょう。 子どもの頃、色の三原色を混ぜると“黒”になると教えられました。しかしこれは絵の具の話だそうです。先日のご法事でのお話の中で、「光では色が混ざり合うと“白”になる」ということを教えていただきました。お互いに光り輝いたものが一緒になって打ち消し合うのではなく“真っ白”になる。まさしく仏さまの世界です。 私自身日々のご仏事の中で尊いお育てをいただいております。 称名相続 |
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今年のお盆は大変暑い日が続きました。そんな中、大変寂しい中にも尊いご縁にあわせていただきました。・ ・ ・ お寺の電話が鳴りました。電話の相手はAさんの娘さんでした。Aさんご家族には子どもの頃から大変お世話になっており、とても可愛がっていただいております。 「お盆のお参りのご案内をいただいたのですが父の体調がすぐれないので今年はお休みさせてください」とのこと。Aさんは八十才代の方で数年前に大病を患われましたが、その後は大病が嘘のようにお元気に過ごされていました。娘さんからお電話をいただいた次の日、私はお参りの途中にAさんのお宅へお伺いしました。丁度Aさんは病院から帰って来られたところでした。数ヶ月ぶりにお会いしたAさんは歩くのもままならない程弱っておられました。ご家族に抱えられながら家に入り、ベッドに腰掛けられました。「こんにちはお久しぶりです」と話しかけると、「あ~、お寺さん」と言って私の手を力強く握ってくださいました。お体は大変弱っておられましたが、その優しい眼差しは以前と全く変わらず私をじっと見つめてくださいました。・ ・ ・ 私は今までたくさんの方のお見舞いをさせていただきましたが、その時「果たして今までしてきたお見舞いは本当に良かったのだろうか」という気持ちにさせられました。実はAさんは医師からご自身の余命を聞いておられました。そのAさんに「がんばって下さい」「良くなったら・・・」「思ったより元気そうですね」という励ましの言葉は掛けることは出来ませんでした。死という現実と向かい合っておられるAさんにそれくらい虚しい言葉はないと思いました。私は「よくがんばられましたね」という言葉を掛けさせていただくことしか出来ませんでした。帰り際、私はAさんを抱きしめて「今まで有難うございました」とお礼を申し上げると、Aさんも「住職さん、今までお世話になりました」と私の耳元で言ってくださいました。それから三日後、Aさんはお浄土へ帰られました。・ ・ ・ 中国の高僧・道綽禅師(562―645)は著書『安楽集』で、「前(さき)に生まれんものは後(のち)を導き、後に生まれんひとは前を訪へ(とぶらへ)」と言われています。「生まれる」とは往生、すなわちお浄土に生まれるということです。私は今まで何百人という方々のお葬式をさせていただきました。しかしその悲しみの現実に会わせていただくたびに、「これで私も安心して死ぬことが出来る」と思うのです。「安心して死ぬことが出来る」とは、決して後ろ向きのことではなくて「安心して生きていける」ということだと思います。私も限りある命を生きています。今日なのか数十年先なのかわかりませんが、必ずこの命が終わる時がきます。私がこの命終わった時に私が行く先をしっかり示してくださり、私のことを待ってくださっている方がおられると思うと私も安心してこの命を終えることが出来ます。安心して命を終えることが出来るということは、安心してこの命を生きることが出来るということです。逆に言えば、「死んだ後はどうでもいい」という考えの中には“本当の安らぎ”はないのです。 ・ ・ ・ Aさんの死。私にとっては悲しくて寂しくてどうしようもない現実です。しかしこの現実をしっかりと私のいのちの上に受け止めさせていただき、Aさんをはじめ先にお浄土へ生まれて下さった方々との再会を楽しみにしながら残されたいのちをしっかりと歩ませていただきたいと思います。 称名相続 |
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先日友人の結婚式に出席しました。アットホームな披露宴でとても感動しました。 仏教を開いて下さったお釈迦さまは『人生は苦なり』と説かれました。 その後、お経は三蔵法師によって中国に伝えられたのです。三蔵法師といえば、テレビドラマでは女優・夏目雅子さんやSMAPの香取慎吾さんが演じていましたが、お一人の固有名詞ではなく三蔵法師は何人もいらっしゃたのです。 三蔵法師は経典を運ばれると同時に、翻訳もされたのです。よって同じお経でも三蔵法師によって何種類もの翻訳があるのです。 では<ドゥフカ>の意味は・・・「思うが ままにならないこと」ということだそうです。 考えてみると自分自身でも自分のことが解ってい ないのに、他の人に自分のことを理解して欲しいというのも無理なはなしですよね。 逆に言えば、「何も言うことのない幸せな人生」と いう陰には私のことを気づかないところで支えてくれている人がいることに感謝するべきでありましょう。 高砂に並ぶ新郎新婦の晴れやかな笑顔を見ながら末永くお幸せにと願うと同時に、これからお互いに支えあうという意味で「喜びも二倍、苦しみも二倍」の人生を共に歩んでいただきたいと思ったことです。 称名相続 |