竹中半兵衛重治
半兵衛は天文十三年(1544年)に竹中重本の子として生まれた。重本の居城岩手城は、近江と美濃の国境に近い交通の要所だった。重本は、美濃国主斎藤家の家臣で六千貫の身代だった。半兵衛は十九歳のときに家督を継いだ。
半兵衛は斎藤家重臣で美濃参人衆の一人、安藤守就の娘を娶った。彼は、戦国の荒武者というよりは痩せ型でおとなしく無口であった。それゆえ主君、斎藤龍興やその近臣に軽んじられた。ある者は半兵衛が下城する際矢倉の下を通る半兵衛に小便をかけた。口答えすることなくそのまま帰宅する半兵衛を見た者たちが臆病者とあざけった。
帰宅した半兵衛は無念の思いで、舅の安藤守就を訪れ主君斎藤龍興とその近臣を見返す計略をうちあけた。最初、守就は軽挙を戒めたが半兵衛の決意が硬く翻意が無理と悟り協力をすることにした。守就が協力しようと思うほどその計画はみごとだった。
半兵衛の弟久作は義興の居城稲葉山城に人質として入れられていた。半兵衛はまず久作に仮病を使わせそのみまいと称して家来に長持ちを運び込ませた。長持ちの中身は武具だった。永禄七年(1564年)半兵衛は家来わずか十七人で登城し久作の部屋に入って武装した。油断している城内で半兵衛は家来を率いて手当たり次第に切り伏せた。城内は突然の出来事に混乱した。そこへ安藤守就が手勢を引き連れ城内に乱入したので、龍興は降伏し城を退去した。
難攻不落の名城稲葉山城をわずかの手勢で攻略した半兵衛の名は諸国に知れ渡った。それを知った織田信長は半兵衛を家臣に加えようと誘ったが、半兵衛は稲葉山城を龍興に変換し斎藤家を出て隠棲した。
その後斎藤家は織田信長によって滅ぼされた。さらに織田信長は足利義昭を奉じて上洛し畿内各地を転戦し越前の朝倉義景討伐に向かった。しかし北近江の浅井長政の離反により退却した。本拠地美濃に戻った信長は木下秀吉に浅井家臣堀次郎、樋口三郎兵衛の調略を命じた。秀吉は彼らを寝返らせるため高名な半兵衛の力を借りることにした。秀吉の懸命の説得に応じて半兵衛は秀吉の軍師になることに応じた。
まもなく織田・徳川勢と浅井・朝倉勢が雌雄を決する姉川の合戦が起こった。このとき半兵衛は秀吉軍師として調略、ゲリラ戦を得意とするが今だ大軍と大軍がぶつかる合戦経験のない木下勢に陣のとり方や軍勢の進退についてアドバイスをした。その後も秀吉の軍師として彼と共に行動するした。
日本の中央部を征圧した信長は秀吉に中国計略を命じた。秀吉は山中鹿介率いる尼子残党と共に播磨で毛利勢と交戦するが、大阪石山本願寺が健在であり荒木村重の叛乱などが起こり苦戦が続いた。半兵衛はそのさなか天正七年(1579年)六月に三十六歳の若さで病没した。
半兵衛の人柄は裏切りを疑われた黒田官兵衛の子(後の黒田長政)を命がけでかくまった挿話からうかがうことができる。