滝川一益

<北伊勢攻略>
 滝川一益(たきがわかずます)は、大永五(1525)年に甲賀の土豪(国人)の子として生まれたと伝わっている。また、忍者(上忍)だったとも言われている。
 一益がいつごろから織田家に仕えたのかは、はっきりしない。南近江の守護六角氏に仕えていたかもしれないが、何らかの理由で甲賀を離れたようだ。甲賀を出た一益は北伊勢あたりで野武士を率いていたのかもしれない。
 尾張をほぼ統一した織田信長は美濃へ進出しようとしていた。美濃は斎藤家を中心に一つの勢力が形成されており、信長は美濃攻略に苦戦していた。信長は浪人からとりたてた木下秀吉と尾張と美濃の国境あたりの川並衆を用いて美濃への足がかりをつかんだ。
 信長は美濃攻めと平行して北伊勢へ進出しようとしていた。当時の北伊勢には大勢力は存在せず、小豪族が各地に割拠している状態だった。南近江の大名六角家と尾張を統一し美濃を手に入れつつある織田家に挟まれているこの地域の豪族は、どちらかに従属しなければ生き残れない状況にあった。
 一益は、信長の命じられて永禄十(1567)年ごろから北伊勢の攻略にとりかかり、その地の豪族たちを帰服させることに成功する。これにより六角義賢は、この方面から織田家をけん制することが困難になった。美濃を攻略した信長は、足利義昭を奉じて上洛の途につき、途中で六角義賢・義治父子を甲賀へ追って京都へ入った。一益は伊勢の押さえとして残され従軍しなかった。上洛をはたした信長は天下布武を目指し盛んに行動した。信長は大軍をもって南伊勢の攻略を行い、このとき一益は大河内城攻めで活躍し手柄を立てた。南伊勢の国司(こくし)北畠具教(とものり)は信長の次男信雄(のぶかつ)を北畠家の養子とする条件で降伏した。

<遊撃軍>
 足利義昭と信長の仲が険悪になり各地で反信長勢力が決起し信長は窮地に立たされた。この時期、一益は他の諸将と共に各地を転戦する。天正元(1573)年の越前朝倉攻め、北近江の浅井(あざい)攻め、天正二(1574)年の伊勢長島の一向一揆攻め、天正三(1575)年の越前を占拠していた一向一揆の征伐、同年の長篠の戦いなどである。信長は伊勢長島の一向一揆掃討後、一益に長島城と北伊勢五郡の支配権を与えた。一益は一国一城の主になった。このとき一国一城の主になっていた織田家の将に明智光秀や羽柴秀吉がいたが一益は彼らよりもはるかに多い領地を与えられたことになる。
 一益は、佐久間信盛が担当する石山本願寺攻め、光秀が担当する丹波攻め、秀吉が担当する播磨攻めに遊撃軍(援軍)として参加した。

<関東管領>
 天正十(1582)年、畿内を手に入れた信長は武田攻めを開始した。先鋒の総大将は信長嫡子の織田信忠で、一益はその補佐役に選ばれた。当時の武田家の勢力範囲は、本拠地の甲斐に加え信濃・上野・駿河におよんでいた。しかし武田勝頼は、数年前の長篠の戦いで惨敗し人望を失っていた。織田軍が木曽から武田の領国に攻め込むとまともな合戦も無いまま武田軍は崩壊した。一益は天目山に武田勝頼を追い詰め自害させた。織田軍は武田を滅ぼして信濃・甲斐・上野・駿河を制圧することに成功した。論功行賞で一益は信濃のうち二郡と上野一国を与えられ、上野の厩橋(うまやばし)城を本拠地とした。また一益は、「関東八州の御警固」と「東国の儀御取次」の役を命じられた。この一益の役目は、室町幕府の関東管領(かんれい)職に準じるものである。一益の役割は関東の大小名を織田政権に組み込むことと、北条氏を従属させること、奥州の大名を取次ぐことなどである。

<神流川の戦い>
 武田攻めを完了させた信長は京都に入ったが、明智光秀の謀反により本能寺で横死した。この知らせが関東に伝わると、占領してまもない一益の領国は動揺をみせた。信長の死を知った相模・伊豆・武蔵の大部分を領有する北条氏が上野目指して進軍を開始した。天正十(1582)年六月十八日、一益は譜代衆と上野衆を率いて北条軍を神流川(かんながわ)で撃退した。翌日、北条勢は態勢を立て直し再び滝川勢と交戦した。一益は北条勢を破り追撃に移ったが、上野衆の戦意が鈍く逆に北条勢に反撃されて大敗した。一益は後退して、関東経営をあきらめて箕輪から小諸に移り本領の伊勢へ帰還した。この時、明智光秀は羽柴秀吉によって滅ぼされており敗軍の将である一益は織田政権での地位を失墜させた。

<清洲会議>
 尾張の清洲(きよす)城に織田家宿老が集まって織田の家督について談合を行った。信長の嫡男信忠が明智光秀に殺害されていたためである。信長次男の織田信雄(のぶかつ)と三男の神戸(かんべ)信孝が成人しており候補者として有力である。織田家中一の重臣柴田勝家は、信孝に家督を継がせることを主張した。これに対して織田政権の簒奪を画策する秀吉は、信忠の子三法師(二歳)が嫡流であるとして反対した。織田家家督は秀吉の政治力によって三法師に決まり、信孝は三法師の後見人に決まった。  柴田勝家と羽柴秀吉が関係が悪化すると、織田家の諸将はそれぞれどちらかに属することになった。一益は、伊勢支配のころから関係が深い信孝側に協力することにした。

<北伊勢防衛>
 天正十一(1583)年正月、一益配下の伊勢亀山城の城主・関盛信(万鉄斎)父子が秀吉方へ寝返った。盛信・一政父子は、秀吉に拝謁するため京都へ向かったが、その隙に一益は亀山城を再び寝返らせることに成功した。閏正月ごろから秀吉は近江に兵を集めて、二月になると数万の大軍を催して一益攻撃を開始した。秀吉は、織田信雄を総大将に推戴して織田家の名のもとに一益と信孝を滅ぼそうとしていた。一益は長島城でこれを迎え撃つことにした。羽柴勢は二月十二日に峰城(鈴鹿市)を包囲したのち、亀山城(亀山市)、国府城(鈴鹿市)、関城(鈴鹿市)の攻撃を行った。
 峰城は要害で、城兵の士気も高く大軍に包囲されても容易に陥落しなかった。亀山城は二月十六日から包囲され攻撃を受け、よく防戦したが落城の危機をむかえた。一益は使者を亀山城に派遣し、開城を城将佐治新介にすすめた。亀山城は三月三日に開城し、佐治新介は長島城に入った。国府城は、二月二十日に落城していた。峰城は、諸城が落城していくなかで頑強に抵抗を続けていた。
 峯城の指揮は、一益の従兄弟(甥ともいう)の滝川儀太夫益氏がとっていた。益氏の子で慶次郎利益(とします、利太とも書く)は、尾張荒子城主前田利久の養子になっていたが、信長の意向で利久の弟・利家(利昌の四男で、当時信長近習)が前田家の家督を継ぎ利久夫妻は荒子城から追い出された。慶次郎は養父を連れて実家の滝川家にいたと考えられるが、儀太夫と共に滝川家の先手として活躍していたのだろう。
 峯城攻撃の総大将は秀吉の弟羽柴秀長で、蒲生氏郷・筒井順慶らが猛攻を加えていたが落城の気配が無かった。寄せ手は多数の金堀り人を使って坑道を掘り進めて、城壁・矢倉を崩そうとした。これをみた儀太夫は、城内からも坑道を掘らせて火薬を仕掛けて火を放ち坑道を通って来る羽柴勢を撃退した。このため寄せ手は甚大な被害を出した(死傷者二万人という)。儀太夫は城内の弾薬・兵糧が尽きてもしぶとく抵抗を続け、秀吉はこれほどの勇将を死なすのは惜しいと感じ一益に使者を送り儀太夫に開城をすすめるよう促した。一益のすすめで開城した儀太夫を秀吉は家臣に加えようと誘ったが、儀太夫はこれを拒絶して長島城へ向かった。秀吉は儀太夫に金二十枚と感状を与えた。

<賤ヶ岳>
 越前北ノ庄城の柴田勝家は、一益が窮地に立たされていることを知って深雪を冒して出陣を決行した。三月十二日勝家は、近江まで兵を進めた。秀吉は伊勢に一益の押さえを残して大軍を率いて近江に向かい琵琶湖の北部で柴田勢と対陣した。兵数に劣る柴田勢は高所に陣を取り防御を固めていた。しかし柴田勢は秀吉が守備隊を残して美濃大垣へ向かった隙に佐久間盛政が突出して攻勢に出た。羽柴勢は得意の高い移動力を使って反転して佐久間勢に攻撃を加え賤ヶ岳で柴田勢に大打撃を加えた。柴田麾下の前田利家の部隊が秀吉に内応していたこともあって、柴田勢は大きく崩れて勝家は越前北ノ庄城へ退去した。秀吉は急追して北ノ庄城を包囲すると猛攻を加えた。勝家は、しばらく防戦した後自害した。
 勝家の滅亡を知った一益は、秀吉に降伏して一命を助けられて越前大野に閉居させられることになった。

<晩年>
 織田信雄と徳川家康が連合して、秀吉と対立すると一益は秀吉の命で出陣することになった。旧臣を集めた一益はさっそく信雄配下の佐久間正勝との戦いで戦功を立てた。一益は蟹江城(清洲と長島を結ぶ要衝)の留守将前田利種(一益の従兄弟という)を寝返らせて、海賊大名九鬼嘉隆(よしたか)と共力して軍船にのって蟹江城に手勢七百を率いて入った。一益は主力を軍船に乗せて大野城へ向かわせた。一益は大野城の城将山口重政の調略を行っていたが重政はこれを拒否して家康に急を知らせた。大野城への入城に失敗した滝川・九鬼勢は蟹江城へ戻ろうとしたが海岸線は早くも徳川勢によってふさがれていた。一益は軍船に主力と兵糧弾薬を残したままだったので窮することになった。一益は城を出て九鬼船団に戻ろうとしたが、信雄の軍勢にはばまれて失敗した。一益はやむなく城に戻ったが織田・徳川の大軍に比べ兵数は千人程度であった。一益は寄せ手の猛攻を受けて降伏を願い出た。家康と信雄は、前田利種を討ち取れば降伏を認めることを一益に伝えた。一益は利種を討ち取って降伏を許された。
 織田信雄が秀吉と和睦し、家康も和議に従って秀吉と織田・徳川の争いが終わると一益は再び秀吉に一命を助けられて越前大野へ蟄居することになった。
 天正十四(1586)年、一益は蟄居先の越前大野で没したと伝わる。

2000.4.13/4.14/4.16/4.19

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