明智光秀
<はじめに>
そろそろ有名な人物を書きたいと思っていたので、明智光秀を書くことにします。光秀は、謎の多い人物ですが、ここでは手元にある小和田哲男氏の『明智光秀 つくられた「謀反人」』(PHP新書)を参考にして、簡単に光秀を紹介したいと思います。
<光秀の出自>
光秀の出自は、父親の名前が、わからないほど謎に包まれている。ここでは左の系図を参考までに紹介しておく。一般に、光秀は美濃の土岐氏の庶流明智氏の出身といわれている。
光秀の出身地に関しても、いくつかの説があるが、岐阜県可児市広見・勢多をあげておく。ここは、かつて明智荘と呼ばれていた。光秀家臣の溝尾庄兵衛・可児左衛門・肥田玄蕃らも、ここの出身といわれている。
光秀は生年もはっきりしない。信憑性の低いとされる『明智軍記』によれば、享禄元(1528)年に生まれたことになるが、確かなことはわからない。
<織田家に仕える前>
美濃で斎藤道三と斎藤義竜が争ったとき、明智光秀は道三側につき、明智城を攻め落とされ、美濃を退去することになった。この戦いは道三が破れて、美濃一国は義竜が支配することになった。美濃を逐われた光秀は、隣国尾張の織田信長を頼らず、上京して、将軍足利義輝に仕えた。しかし、義輝は、永禄八(1565)年五月十九日、三好義継を擁する松永久秀と三好三人衆の軍勢に攻められ殺害された。
この後、光秀は越前の朝倉家に仕えることになるが、これは後に義輝の弟・義秋(後の十五代将軍義昭)が細川藤孝や一色藤長らを伴って朝倉家を頼って越前に逃れてくることと関係しているのかもしれない。
細川藤孝は、義昭を擁立して幕府を再興するため、朝倉家の軍事力で京都を三好家から奪回しようと画策するが、朝倉家当主の義景は現状の維持以上に望みがなく、上洛を実行するほどの覇気がなかった。光秀は、藤孝に尾張・美濃両国を支配し大大名となった織田信長を頼るようにすすめる。光秀は、美濃の信長のもとへ行き義昭と信長の橋渡し役をした。これは信長室の濃姫と光秀が従兄弟で、光秀は、この縁で信長と面識があったからだ。
<幕府再興>
朝倉家を辞した光秀は信長に仕えることになる。もちろん義昭近臣の立場のままである。信長は義昭を美濃へ招くと、美濃の隣国武田、尾張の隣国徳川、北近江の浅井と同盟して北伊勢・尾張・美濃の軍勢数万をもって上洛の途についた。信長は、南近江で抵抗した六角承禎を甲賀へ追い、義昭を奉じて入京して畿内の反攻勢力を駆逐した。義昭は、永禄十(1568)年十月十八日、征夷大将軍に補任された。
信長は、十月二十六日に京都から軍勢を伴って岐阜へ帰還するため出発した。このため阿波に逃れていた三好三人衆が京都へ攻め込み義昭を本圀寺に包囲した。光秀は義昭を守護して防戦にあたり、畿内の織田軍が援軍に加わり三好勢を退けた。再び上洛した信長は、義昭のために二条御所を造営した。
このころ光秀は、丹羽長秀・中川重政・木下秀吉らと共に京畿の政務を担当する京都奉行に任命された。
義昭は幕府が再興された以上、諸大名は私戦をやめて将軍の権威の元に秩序を回復するべきだと考えたが、信長は織田家による天下の武力統一を目指し両者の対立関係が始まった。
<一国一城の主>
信長は越前の朝倉討伐のため越前に出陣したが、江北の浅井長政が離反し織田軍の背後から迫った。これを知った信長は、京都へ撤退することを決める。光秀は秀吉・池田勝正と共に殿軍として活躍した。
この後、信長と浅井・朝倉との戦いが続き、元亀元(1570)年九月ごろから反織田勢力が決起して信長は窮地に陥った。信長は、危機的状況を勅命講和で切り抜け比叡山の焼き討ちを行った。宇佐山城代に任じられていた光秀は、この作戦の中心的部隊として準備から焼き討ち実行を任された。この手柄から、光秀は近江志賀郡の支配を命じられる。光秀は、志賀郡の支配にあたり坂本城を築く。光秀は、一国一城の主となったが他の織田家の諸将に先んじての破格の待遇だった。
志賀郡を与えられたといっても、志賀郡全てが織田家の領地というわけではなく、没落した比叡山領や一向一揆の勢力などがあり実力による切り取りが認められたことを意味していた。
光秀は、比叡山領の接収を行い堅田の水軍の掌握に成功し、浅井・一向一揆の勢力を退けて志賀郡全域の支配を確立した。志賀郡は約五万石である。
<義昭追放>
信長に敵対した武田信玄が陣没した後、朝倉義景と浅井長政が滅び、また将軍義昭も信長によって京都から追放された。このため幕府衆が光秀の家臣団に組み込まれた。
信長は、浅井の旧領北近江三郡(伊香郡・東浅井郡・坂田郡)約十二万石を秀吉に与えた。
天正三(1575)年五月、信長は長篠設楽ヶ原で武田勝頼を破って、東方の脅威を除き、西国の経略にとりかかった。光秀は、京都奉行から外され丹波経略を命じられた。
同年七月、信長は朝廷に家臣の改姓任官を要求した。このため武井夕庵が二位法印に、松井友閑が宮内卿法印に、光秀が惟任(これとう)日向守に、塙(ばん)直政が原田備中守に、丹羽長秀が惟住(これずみ)に、秀吉が筑前守に、簗田広正が別次(べつき)右近大夫に、それぞれ改姓あるいは任官した。
同年八月、信長は一向一揆が支配する越前へ攻め込んだ。光秀と秀吉は敦賀から出港し、光秀軍は杉津浦から、秀吉軍は河野浦から上陸し府中へ進軍し龍門寺城を攻め落とした。さらに、光秀軍と秀吉軍が先鋒となって加賀へ攻め込み江沼・能美の二郡を占領した。
<丹波経略>
丹波の地侍は、信長が義昭を奉じて上洛した後は信長に属していた。しかし、信長が義昭と不和になり、信長が義昭を京都から追放してからは織田家から離反して敵対するようになっていた。このうち船井郡と桑田郡は細川藤孝が与えられており織田勢力圏である。
天正三(1575)年十一月、光秀は丹波に出陣し有力国人領主・赤井(荻野)直正を攻めた。赤井直正は、猛将松永甚助(松永久秀の弟)を討ち取ったほどの名将である。
光秀は、但馬の竹田城から丹波に入り直正の立て篭もる黒井城を攻めた(図参照)。この時、氷上郡八上城の波多野秀治など大部分の丹波の国衆が光秀に味方して従軍していたが、波多野秀治が寝返ったため光秀は破れて坂本城へ退却した。光秀は丹波経略を引き続き任されたが、畿内の石山本願寺や松永久秀攻めなどにも従軍し、丹波に全力を傾けることはできなかった。
天正五(1577)年十月十六日、光秀は細川藤孝・忠興父子と一緒に丹波に出陣し、亀山城の攻撃を開始し、これを降伏させた。さらに多紀郡の諸城を攻めた。光秀は亀山城を丹波経略の拠点とするため普請をはじめた。
天正六(1578)年三月、光秀は多紀郡八上城の波多野秀治の攻撃を開始した。光秀は、要害八上城を包囲して兵糧攻めの体制を整え、摂津や播磨の援軍を勤めながら攻囲を続行した。
光秀は摂津の荒木村重が謀反したため、これの説得を行った後、天正七(1579)年六月に調略を用いて波多野秀治・秀尚を場外に呼び出し捕らえて安土へ送った。
同年八月、光秀は黒井城を陥落させ(赤井直正は既に死亡していた)丹波一国の制圧に成功した。信長は数国(播磨・但馬・備前など)を切り取った秀吉よりも光秀の働きの方を高く評価した。それだけ丹波攻めが困難と考えられていた。
<近畿管領>
細川藤孝は、船井郡と桑田郡から丹後一国に転封され丹波一国二十九万石は光秀に与えられた。光秀は、近江五万石とあわせて三十四万石の大名になった。
天正八(1580)年正月、秀吉が播磨の三木城を陥落させ、同年閏三月石山本願寺と講和し織田家は畿内周辺の征圧に成功した。信長は重臣筆頭の佐久間信盛父子を追放し、その与力を光秀の傘下に組み込んだ。このとき光秀の与力になったのは、摂津の池田恒興・中川清秀・高山右近、大和の筒井順慶、丹後の細川藤孝・一色義有ら畿内周辺の武将達である。
光秀は織田軍団の近畿軍管区長官兼近衛師団長で、CIA長官を兼務するほどの地位を手に入れた。京都近郊を支配し、親衛隊として信長親征に従軍し、畿内の諜報活動を行い、公家との交渉も行う重要な役目である。
光秀は、天正九(1581)年二月二十八日に行われた京都馬揃え(軍事パレード)の総括指揮者の役目を果たした。この馬揃えは譲位を拒む正親町天皇に対する信長の威圧である。
天正十(1582)年正月、南信濃の木曽義昌が武田勝頼を裏切って織田家に降伏してきた。信長は、嫡男信忠を総大将に任じ、美濃・尾張の兵を伊那口から、家康を駿河口から、北条氏政を関東口から攻め込ませた。信忠は、破竹の勢いで進軍し、三月二日に勝頼の弟仁科盛信を岩殿山城に攻めて殺した。勝頼の召集に応じるものは少なく、勝頼は新府城での防戦は無理とみて、小山田信茂を頼って落ち延びることにした。だが小山田信茂は勝頼を見捨て、勝頼は自害し武田家は滅亡した。
このころ信長は親衛隊である光秀軍団を率いて安土を出陣し甲斐へ向かった。この軍団は、出陣時期からみて合戦が目的ではなく武田を滅ぼした後の信長の関東見物の護衛にあたるためのものであり、太政大臣の近衛前久も同行していた。甲斐に入った信長は、論功行賞を行い駿河へ向けて出発した。このとき信長は、同行を求める近衛前久に馬上から暴言を吐いた。やむなく前久は信濃経由で京都へ帰った。
天正十(1582)年四月十二日、駿河に入った信長は、遠江・三河を見物し尾張・岐阜を経て安土へ帰還した。朝廷は安土に勧修寺晴豊を派遣し、信長に太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任官するよう求めた。信長は明確な返答をしなかった。
五月十五日、徳川家康と穴山梅雪が安土へ御礼言上にやってきた。武田家を裏切った梅雪は本領安堵され、家康は駿河を与えられていた。光秀は二人の接待役を命じられていた。
この日、織田家中国方面軍の秀吉から信長に援軍の要請が入った。信長は武田攻め同様、自ら後詰めとして出陣することを決め、親衛隊である光秀軍団の準備のため光秀を接待役から外した。光秀は、五月十七日には接待役の務めを終え、近江坂本城へ戻り出陣の準備を始めた。
<本能寺の変>
五月二十六日、光秀は丹波亀山城に入り、二十七日に愛宕山の愛宕大権現へ参詣し、参篭を行い、おみくじを二度三度ひいた。
二十八日、愛宕大権現五坊の一つ、威徳院西坊で出陣連歌を興行した。連歌は光秀、連歌師里村紹巴を含め九人で行われた。発句は光秀で
ときは今 天(あめ)が下(した)しる 五月(さつき)かな
この句の「しる」を「治る」と解釈すると、「治る」は「治天の君」と言うように天皇家に許される用法で、光秀は朝廷のために信長を討ったと考えることもできる。光秀は後醍醐天皇に応じて丹波で幕府を裏切り京都へ攻め込んだ足利尊氏と同じ経路で京都へ進軍し信長が宿泊する本能寺を包囲した。
信長を本能寺で殺した光秀は、次いで信長嫡子信忠を攻めて自害させた。光秀は、この後羽柴秀吉に山崎の合戦で破れて落ち延びる途中、土民の手にかかり致命傷を負い自害した。