毛利元就

 元就が生まれたのは、明応六年(1497年)で応仁の乱が終わって二十年経ったろである。この乱以降幕府の権威は失墜し守護大名の多くは領国を実力で維持しなければならなくなり、その力のないものは領国をうしなった。明応四年には、北条早雲が小田原城を奪い取る事件が起こっている。また明応二年には、京都でクーデターが起こり管領細川政元によって将軍足利義稙が追放され足利義澄が新たに将軍に擁立された。
 当時の毛利氏は安芸吉田で三千貫の土地を保有し郡山城を本拠としていた。
 文亀元年(1501年)足利義稙が周防の大名大内氏の後援で上洛して再び将軍になろうと兵を募っていた。この前年毛利家当主は元就の父弘元だったが、幕府から大内義興が擁立する義稙を討つよう命じられ、毛利氏は大内氏に従属していたので板挟みとなり、隠居して嫡子興元に家督を譲った。この後弘元は詠正三年(1506年)に三十六歳で死去した。また家督を継いだ元就の兄興元は大内義興に従軍して京都へ上った隙に元就は多治比(たじい)と猿掛城三百貫を家老の井上元盛に横領されてしまう。一五歳になった元就は猿掛城をとり返し幼名松寿丸から元服して多治比元就と称する。
   大内義興は上洛してしているその留守中、領国である安芸国内に紛争があいついだので麾下の武田元繁を帰国させた。大内氏の勢威の前に屈しているとはいえ、もともと安芸守護家の武田元繁はこの隙に失われた威勢を取り戻そうと安芸征圧の準備を始めた。永正十三年(1516年)に毛利興元が死亡し年少の幸松丸が家督を継いだが、この隙をついて翌年詠正十四年、元就二十一歳のとき武田元繁が毛利領を侵した。元就は武田元繁が包囲する吉川領有田城を救援するため百五十騎を率いて出陣した。これをみて元繁麾下の熊谷元直が兵六百騎を率いて襲いかかった。少数ながら元就は善戦しついに熊谷元直を討ち取った。この闘いが元就の初陣だった。このあと加勢にきた本家七百騎と援軍吉川勢を合せて武田勢と交戦し、数倍の兵力の武田勢を破りしかも逃げる兵を叱咤しようと先陣をきって突激して来た武田元繁を討ち取ったのである。このとき共に武田勢と戦った吉川家の当主国経の娘を元就は娶ったが、吉川氏は山陰の尼子氏と縁戚関係にあり、その当主尼子経久は傑物で尼子氏の勢力は日々強大になっていたので元就も大内氏と縁をきって尼子氏に属することになった。
 大永二年(1521年)ごろ大内義興も本拠地周防山口に帰って、尼子に属した安芸の豪族の攻略にとりかかった。義興は安芸の加茂郡西条に鏡山(かがみやま)城を築き、蔵田備中守信房とその叔父日向守に守らせた。翌年、尼子経久はこれを落とすため大軍を率いて安芸に出陣した。このとき毛利氏は先陣を命じられ、当主幸松丸とその後見人として元就も出陣した。しかし鏡山城は蔵田備中守がよく防戦したので落ちる気配がない。鏡山城の副将蔵田日向守が利にさといことを知った元就は、大内の援軍が到着する前に攻略するため密使を差し向け次ぎのように通達した。
 「総領・蔵田備中守を討ち取って降伏すれば、城と領地を日向守に与える。そうしなければ、一族もろとも誅戮して城を没収する。」
 これにより蔵田日向守は内応し毛利軍を城内に案内した。蔵田備中守は降伏し切腹した。寝返った蔵田日向守は、尼子経久に許されず斬首された。
 首実検の後、吉田郡山城に凱旋した幸松丸は発病し大永三年に九歳で死去した。これにより元就は本家の家督を相続し多治比元就から毛利元就となった。家督相続に際し尼子経久の後援を得ている元就次弟の合相(あいおう)四郎元綱を支持する者がいたが志道広良の尽力や家中最大派閥の井上党の支持を得て元就は家督を継ぐことができた。だが合相元綱は尼子家臣亀井秀綱の使者と密会し毛利家重臣渡辺勝や坂広秀と謀反の計画を練っていた。これを察知した元就は機先を制して元綱とその与党を攻め誅殺した。このとき坂広秀の従兄弟の桂広澄が責任を感じ切腹した。広澄の嫡男桂元澄は父に殉じようと居城桂中城に立て篭もったが、元就が単騎で城へ向かい捨て身の説得をしたので事無きを得た。こののち桂元澄は元就側近として重用されることになる。この事件により元就は尼子氏に恨みを抱いたようだ。事件後の大永四年(1524年)から郡山城を大幅に増築しだしたが、これは将来尼子が来襲することを予測したものと思われる。
 この年五月二十日、大内義興は嫡子義隆を従え周防、長門、豊前、筑前勢三万余騎で安芸へ出陣した。大内勢は二手に分かれ一手は義興自身が率い、もう一手義隆に重臣・陶興房をつけ佐東銀山城を攻めさせた。これに対し尼子経久は麾下の亀井秀綱と牛尾遠江守を両大将とし安芸、備後の尼子勢に従軍させた。元就も後詰めとしてこれに従った。だが名将・陶興房率いる大内勢に尼子勢は惨敗した。そこで元就は、諸将と相談し夜襲をかけこれを撃退した。この敗戦により大内勢は銀山城の囲みを解き廿日市の義興本陣へ撤退した。元就の強さを知った陶興房は主君義興に元就を味方にするよう進言した。義興は承諾し、陶興房は毛利重臣・志道広良を通じてこれを元就に申し入れた。元就はかねてから尼子氏に含むものがあったので、これ以後大内氏に属することになった。元就は大内氏と協力して広島湾沿岸を制圧しさらに、大内軍の備後攻めの先陣に命じられ活躍した。元就は大内方として各地を転戦し確実に勢力を伸ばしていった。
 享禄元年(1528年)に大内義興が重病にかかり大内軍は徹底した。義興は、この年十二月に死去し嫡子義隆が家督を継いだ。このころ元就は毛利領の北方に領地を持つ高橋氏を滅ぼした。高橋氏は兄興元の妻の実家だが相次いで当主が死んだため家政が乱れていた。元就は高橋家の内紛をこじらせそれに乗じて高橋氏を滅ぼし、その領地を併呑した。この領地のうち五百貫を宿敵・宍戸氏に割譲して和解した。元就は安芸の国人領主と備後の国人領主を次々と自己の陣営に引き入れていった。元就が尼子と手を切ることができたのは尼子領内で叛乱が起きていたためで、尼子氏は安芸・備後方面に兵を割く余裕がなかった。この内乱は長期にわたり、尼子氏衰退のきっかけを作った。経久の嫡男政久は永正十五年(1518年)に戦死していた。経久が後継者を政久遺児の詮久(あきひさ)に定めたところ三男の塩谷(えんや)興久が不満を抱き叛いた。この内乱は天文三年(1534年)興久が自害してやっと収まった。天文六年、経久は隠居し詮久に家督を譲った。
 叛乱を鎮圧し家督を継いだ詮久は俄然攻勢に出た。大内氏の援軍を得るため元就は十五歳になる嫡子隆元を人質に出した。詮久はまず中国地方東部へ軍勢を出し、天文七年(1538年)六月に因幡を制圧し、八月に備前・美作・播磨を攻撃し守護大名の赤松氏を圧倒した。九月には備中へ出陣した。
 天文八年十一月一日、詮久は軍議で来年安芸へ侵攻することを提案した。これに対して経久次男の国久率いる尼子新宮(しんぐう)党は賛成したが、経久の弟幸久は反対して意見を述べた。その内容は、
「まず幸久が石見に一万人で出陣しこれを征圧し、国久が一万人で備後を制圧する。その後詮久が三万人を率いて安芸へ出陣する、元就が出陣すれば国久勢と詮久勢で挟撃する、篭城すれば国久・詮久両名で城を包囲する、そうすれば大内が援軍を安芸方面に出す、そのときは石見方面から幸久が山口へ進撃する。」
というものだった。この意見に経久も賛成したが詮久は臆病者の策とこれを退けた。
 翌天文九年、詮久は三万騎を率いて吉田郡山城を包囲した。これに対して元就は一族郎党二千数百人と城下の百姓合わせて八千人で篭城した。篭城は九月から始まり、小規模な戦闘を繰り返し膠着状態になった。元就は大内に援軍を要請したが、大内義隆が陶隆房(陶興房の子)に兵一万をつけて山口を出発させたのは十一月二十六日で戦場へ到着したのは十二月三日だった。毛利勢はこの間城を持ちこたえた。尼子勢は数ヶ月に及ぶ攻囲で郡山城を落とせず食糧不足に陥っていた。加えて大内の援軍が到着し兵の士気が著しく低下し、このまま退陣をつつければ領国内での国人の離反も出てくる恐れがあり、ついに尼子詮久は退却を開始した。大内勢と毛利勢の追撃を受け尼子勢は甚大な被害を出しながらやっと出雲へ帰ることができた。このあと元就は佐東銀山(かなやま)城を攻め安芸守護家の武田氏を滅ぼしさらに所領を拡大した。
 吉田郡山城攻めの失敗は尼子氏の名声を失墜させ、安芸・備後・石見・備中の国人の大半が尼子から大内側へねがえった。さらに天文十年(1541年)尼子経久が八十四歳で病死すると本領出雲の国人からも離反するものがでた。尼子家当主の詮久はこのとき二十八歳で、将軍足利義晴の偏諱受け尼子晴久と改名したが、その器量は祖父経久には遠く及ばず勇猛なだけで思慮に欠けていた。この晴久を見限り石見・備後・出雲の国人と安芸の吉川興経(元就の甥)ら十二人の国人が大内義隆に出雲遠征の先鋒を申し出た。また大内家重臣陶隆房の進言もあり、大内義隆は宿敵尼子氏を滅ぼす好機と見て出雲遠征を決めた。天文十一年(1542年)正月十一日、大内義隆は養嫡子晴持・陶隆房・杉重矩・内藤興盛・冷泉隆豊・弘中隆兼ら重臣を引き連れ一万五千の大軍で山口を進発した。
 遠征軍は、安芸(毛利・宍戸・平賀・吉川・小早川・天野・熊谷・香川など)・備後・石見の諸将と合流しつつ天文十一年六月七日に出雲赤穴(あかな)の瀬戸山城を攻撃した。城兵は二千人程度だったが寄せ手は苦戦し七月二十七日にようやく落とすことができた。七月二十九日に義隆は本陣を出雲油木(ゆき)に移してここにしばらく滞陣し、十月になって馬潟(まがた)の正久寺へ移り越冬した。天文十二年正月十九日に本陣を宍道(しんじ)の畦地山(うねじやま)に移し軍議を開き、さらに尼子氏本拠地月山富田(がっさんとだ)城に近い京羅木山へ移すことにした。このとき元就は敵地深くに本陣を移すことは危険であると反対したが受け入れられなかった。二月十三日に京羅木山への布陣を完了した。山口を出てすでに一年以上が経過していた。大内軍は烏合の衆で敏速な行動ができなかった。また傘下の国人領主は強者へ寝返って憚らない者達である。
 五月七日大内義隆は退却を始めた。先に先鋒を申し出た吉川興経など国人十二人が寝返り月山富田城に入ったためである。この退却戦は義隆の養嫡子晴持ちが溺死するなど困難を極め、元就も進退きわまり死を覚悟したが渡辺通(渡辺勝の子)が身代わりとなり戦死したため虎口を脱した。
 天文十三年(1544年)十一月、元就は三男徳寿丸を小早川家の養子に出した。十二歳の徳寿丸は元服し大内義隆の偏諱を賜り小早川隆景と名乗った。小早川家は瀬戸内沿岸に所領を持ち水軍とのかかわりも深く、これを乗っ取ることで毛利家の水軍が強化された。この相続に際し、元就は小早川家の反対派を誅戮するなど得意の謀略を使った。
 天文十五年、五十歳になった元就は家督を長男隆元に譲った。これは形だけでこの後も元就が後見人として隆元を補佐していく。
 天文十六年には吉川家の内紛に介入し当主興経を隠居させ次男毛利元春に吉川家を相続させた。この後吉川興経は元就に殺され名実共に吉川家の乗っ取りに成功した。  天文十九年、元就は家中最大派閥の井上元兼を当主とする井上党を誅戮し家中の支配体制を強化する。
 天文二十年、大内家重臣の陶隆房が叛乱を起こし、山口へ乱入した。室町初期から名門大内氏の本拠地として西の京と言われるほど繁栄していた山口の町が灰燼に帰した。隆房は豊後の大名大友宗麟の異母弟八郎晴英を迎え大内義長と名乗らせ大内氏を継がせ自らも晴英の偏諱を賜り陶晴賢と名乗った。この陶の動きに元就は最初は同調するように見せ周囲の城を落とし勢力を拡大したが、この動きを陶が牽制する様子を見せたので、天文二十二年石見三本松城の吉見正頼が陶に敵対したのを機に陶と敵対した。
 陶は吉見正頼討伐に向かっていたが元就が敵対したのを知ると吉見正頼と和睦し、麾下の宮川房長に兵三千を与え出陣させた。宮川勢は途中で味方と合流し七千の大軍となり毛利家の桜尾城を落とすため、折敷畑山に布陣した。
 これに対して元就は全軍を率いて篭城策を退け出陣して総攻撃をかけ数で劣っていたにもかかわらず宮川勢を壊滅させた。宮川房長は退却途中で自害した。元就は陶と敵対したことによって尼子と陶の二大勢力に挟まれることになった。そこで謀略によって両者の勢力を減らすことにした。まずは尼子新宮党に目をつけた。尼子経久次男の国久が率いる新宮党は尼子氏最強の軍団だったが、横柄な態度から晴久から疎まれていた。天文二十三年十一月一日に離間の策によりこれを晴久自身の手で殺させることに成功した。さらに天文二十四年三月十六日に陶の謀将江良房英を陶自身の手で殺させることに成功した。
 それでも陶の戦力は毛利の数倍である。勝つためには正攻法ではなく奇襲しかなかった。そこで元就は厳島に陶をおびき寄せることにした。まず厳島に囮の城を築き、さらに桂元澄に策をさずけた。それは陶が厳島に渡り毛利軍を厳島に誘き寄せれば留守居である桂元澄が吉田郡山城を乗っ取るというものだった。元澄の父、広澄が元就によって切腹させられていたので元澄が元就に対して恨みを抱いている可能性があったので陶はこれを信じた。さらに元就は陶に対して恨みを持つ能島、来島両村上海賊を味方につけることに成功した。
 天文二十四年(1555年)九月、陶は兵二万を率いて厳島に渡った。この渡海に知将、弘中隆兼は反対したが退けられた。これに対し元就は陶軍を追うように夜の闇にまぎれて全軍三千を厳島に渡らせ、夜明けと共に背後から陶軍に襲いかかった。突然の攻撃に陶軍は混乱し壊走して軍船で沖へ逃れようとしたが、海上は村上水軍によって封鎖されていた。陶は弘中隆兼が孤軍奮戦する間に軍船を求め逃げたが、ついに覚悟をきめ自刃した。また最後まで抵抗した弘中勢も全滅し厳島の合戦は毛利勢の完勝に終わった。この後弘治三年(1557年)四月に大内義長を自刃させ周防、長門を制圧した。翌永禄元年に小早川隆景に命じ豊前、筑前方面へ進出させた。これは海峡を確保し交易による利益を得るためである。
 元就は長門、周防制圧と平行して吉川元春に命じ石見の制圧も行っていたが、これは江戸初期まで膨大な銀を産出した石見銀山を手に入れるためである。毛利家に奪われた石見銀山を尼子晴久は何度も奪回を試みたが失敗に終わった。しかし尼子晴久は銀山に執着し本城経光に包囲させた。これを見て元就みずから兵一万を率いて駆け付けたが、尼子勢の伏兵に攻撃され大敗を喫しついに銀山を奪われた。晴久は銀山を本城経光に守らせることにした。元就は再び一万五千人を率いて銀山奪回に向かったが、北九州の毛利領に大友宗麟が侵入したため引き返した。毛利勢は大友に奪われた門司(もじ)城を奪い返したが、大友宗麟も執拗に豊前へ進出してくるので石見銀山を取り戻すゆとりがなかった。そこで永禄五年六月に調略を使い石見銀山を手に入れた。石見を巡って元就と激しく争っていた尼子晴久がこの時期急死した。晴久の嫡男義久が家督を継いだがまだ若年だったので破竹の勢いの毛利家に出雲の国人達が次々と寝返りだした。そこで元就は出雲遠征を決めた。
 その隙をついて再び大友宗麟が門司城と松山城を攻撃した。門司城は毛利水軍の活躍で大友勢を撃退したが松山城は天野隆重が奮戦したが危機を迎えた。そこで元就は嫡子隆元を援軍として松山城へ派遣した。このころ幕府は将軍を補佐する大名の上洛を促していた。西国では大内、東国では今川などだ。しかし大内が滅んだことで、晴久以来幕府と親密にしている尼子氏や石見銀山を手に入れ朝廷に献金をした毛利家も期待されていた。将軍足利義輝はこのため毛利、尼子の和睦を斡旋していた。毛利氏に圧迫されていた大友宗麟は義輝に毛利氏との和睦の斡旋を依頼した。そこで義輝は毛利、尼子、大友の三者の和睦を命じた。しかしこれに対して尼子氏到滅を狙う元就が難色を示した。しかし元就は出雲遠征を行うため大友氏と和睦したいと考えていた。義輝はこのままでは和議は困難と見て尼子を見捨て、尼子を除く毛利、大友の和睦を斡旋した。
 永禄六年(1563年)五月に大友との和議が整い元就は出雲攻めに全力を投入できるようになった。九州にいた長男隆元は出雲攻めに参加するため、安芸に戻り兵を募り出雲へ向かおうとしたが八月に四十一歳で急死した。元就は落胆したが、白鹿城を落とし難攻不落の月山富田城を落とすため半永久的な陣地を作った。永禄九年(1566年)補給路をたたれた尼子義久は降伏し城を出た。毛利家の大軍相手に三年もたえた尼子義久は若年ながら善戦したといえる。
 永禄十一年、伊予の河野氏を助けるため二万五千人を出陣させた。
 この年北九州で再び大友氏と敵対し、元就は吉川元春、小早川隆景に五万余の兵をつけ出陣させた。この隙をついて尼子勝久と山中鹿介らが出雲で尼子氏を再興するため織田信長の支援を受け挙兵した。さらに大友宗麟は周防に大内輝弘(大内義隆の従兄弟)を送り込み大内再興の兵を上げさせた。さらに宗麟は備前と美作で反毛利の動きを支援し尼子勝久に鉄砲を送った。このため元就は九州から兵を撤退させた。大内輝弘はすぐに撃退されたが尼子再興軍は勢いを得ていた。元亀元年(1570年)毛利家の反攻で尼子勝久は徐々に後退していき本陣新山城を残すのみとなった。
 元亀二年六月十四日、元就は七十五歳で死去した。元亀二年八月二十一日、新山城は陥落し尼子氏再興は失敗に終わった。

2000.1.9/4.14(改)

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