三好之長
阿波は鎌倉時代初期に小笠原氏が守護職を任じられて以来代々世襲してきたが、南北朝時代に細川氏の勢力が入り応安六年(1373)に管領細川頼之の弟・細川頼有が守護に任じられてからは細川氏の支配が続いた。阿波の豪族・三好氏は小笠原氏の庶流と言われているが、やがて細川氏に仕えるようになった。
三好之長は阿波細川家当主の細川成之に仕え、成之に従って上洛していたが二十七歳のころ徳政一揆を起こして京都を荒らした。之長は幕府に追捕されると成之の館に逃げ込んだ。幕府は成之に之長を差し出すように要求したが、成之は之長をかばってこれを拒絶した。
管領細川政元は将軍を追放して畿内諸国に絶大な権力を誇ったが修験道に熱中するあまり女人を遠ざけ実子がいなかった。そのため政元は文亀二年(1502)に前関白九条政基の子を養子とし、将軍義澄から一字もらって澄之と名乗らせて丹波守護に任じた。翌文亀三年、政元は阿波細川家から養子をとり澄元(成之の孫)と名乗らせ細川宗家の後継者とした。
之長は阿波に戻っていたが、十五歳の澄元に従って再び上洛することになった。澄元は摂津守護に任じられ、之長は摂津西半国の守護代に任じられた。之長は配下の阿波兵を率いて摂津各地で荘園の横領を行い勢力を広げていった。さらに之長は政元の命で大和に出陣するなどの活躍をみせて澄元の立場の強化に尽力する。
細川宗家を継ぐことが絶望的になった細川澄之は、永正四年(1507)六月二十三日に刺客を用いて沐浴を行うため湯帷子に着替えようとした政元を襲って暗殺した。翌日、澄之方の軍勢が澄元の舘を攻めた。澄元と之長は、不意をつかれ劣勢だったが必死に防戦して夜までたえて、闇にまぎれて近江に逃れた。澄元と之長は、近江青地から甲賀谷へ移り潜伏した。七月八日、澄之は将軍義澄から細川氏家督を許され摂津、丹波、讃岐、土佐の守護に任じられた。しかし、七月末から和泉守護細川政春の子・高国を中心とする勢力が諸所で澄之方に反撃を開始した。八月一日、甲賀衆の援助を得た之長は京都へ進軍し澄之勢を破り、追い詰められた澄之は自害した。八月二日、澄元は義澄から細川家督、摂津、丹波、讃岐、土佐の守護に任じられた。
政元に京都を追放された前将軍足利義尹(よしただ、前名・義材(よしき))は、山口の大内義興のもとにいたが、政元の死を知ると義興を中心とする中国・九州の緒大名に命じて軍勢を集めさせた。永正四年(1507)十一月、義尹と義興は山口を出発し、十二月に備後鞆の津に着陣した。大内義興は勘合貿易の権利をめぐって細川政元と確執があった。大内氏は博多商人と細川氏は堺と結びついていた。
澄元は祖父の阿波守護細川成之と細川高国に義尹との調停を依頼した。しかし、高国は澄元に代わって細川宗家を継ぐ野心を持っていた。義尹側に通じた高国は、永正五年(1508)三月に伊勢参詣と称して伊賀守護二木高長のもとに移った。伊賀に入った高国は兵を集めだした。義興勢と高国勢に京都で挟撃される形になった澄元は之長と共に、四月九日に屋敷を焼いて北近江に逃れた。澄元に代わって高国が京都に入り、義澄は危機を感じ近江朽木谷に逃れ、さらに逃れて近江岡山城の九里(くのり)氏をもとに身を寄せた。
義尹は海路堺に向かい、四月二十六日に堺に入り、六月八日に京都に到着した。政元に追放されてから十四年ぶりの帰京だった。七月一日、義尹は従三位、権大納言、征夷大将軍に任じられた。義尹は、高国を右京大夫、管領に義興を左京大夫、管領に補任した。義尹は四十三歳、高国は二十五歳、義興は三十二歳である。
永正六年(1509)春、之長は三千の兵で山城如意岳へ進出したが高国、義興の三万の軍勢に撃退された。八月、之長と之長の子・長秀は京都に攻め込んだが、再び破れて、伊勢に逃れた長秀は北畠材親(きちか)に攻められて自害した。十月二十六日、義尹は義澄の放った忍者達に寝所に忍び込まれて襲われた。義尹は自ら刀を取ってこれを撃退したが八ヶ所を斬られて重傷を負った。翌日、激怒した義尹は近江を攻めさせた。澄元と之長は近江を逃れて本国の阿波へ戻った。
永正八年(1511)、澄元は阿波勝瑞(しょうずい)城にいたが播磨守護赤松義村を味方につけることに成功したため反撃を開始した。澄元は細川政賢と細川元常を堺方面から上陸させて和泉を制圧させた。その後、之長を阿波にとどめて澄元は堺に向かい政賢らと合流して摂津の高国方の軍勢二万と数千の兵で交戦して敗走させた。勢いにのった澄元勢は一ヶ月ほどで京都南方の山崎まで進出し、八月十四日に高国と義興の軍勢と対陣した。この日、澄元が義尹に代わって擁立しようとしていた前将軍義澄が近江岡山で没した。だが八月十五日、澄元は高国勢の背後を一揆に襲わせることに成功し戦況は有利であった。八月十六日、高国と義興は義尹を奉じて高国の本拠地である丹波へ逃れ、澄元は軍勢を率いて入京した。
八月二十三日、丹波から京都奪回のため進軍してきた高国と義興の二万数千の軍勢と澄元・政賢率いる数万の軍勢が洛北の船岡山で激突した。大内義興は八千の兵を率いて船岡山の着陣するとそのまま休まずに夜襲を強行した。これによって澄元軍は大混乱を起こして壊走し、細川政賢が討ち死にするなどの大打撃を受けた。澄元は阿波に逃れ、義尹が入京し義稙と改名した。
永正十四年(1517)、之長は淡路に攻め込み淡路守護細川尚春を殺害し淡路水軍を三好家の勢力かに入れることに成功する。
永正十五年(1518)八月二日、高国勢の主力である大内義興が山口に帰国した。出雲の尼子経久が義興の領国を侵し始めたからである。澄元と之長は高国を倒す好機とみて準備を始め、翌永正十六年に摂津に上陸して越水(こしみず)城を包囲した。高国は救援のために京都を出発したが、その間に下京で大規模な土一揆が蜂起し高国の兵は動揺し逃亡するものが相次いだ。このため高国は京都へ敗走した。京に逃れた高国は、義稙と共に近江に逃れようとしたが拒まれたので、しかたなく将軍を残したまま近江大津の園城寺(おんじょうじ、三井寺)に逃走した。
之長は山崎まで進出してしばらく留まって洛中の様子を見た後、大軍を率いて入京をはたした。この時。澄元は病気のため摂津伊丹城で療養していた。義稙は、澄元に細川家督と摂津、丹波、山城、讃岐、土佐守護に任じた。之長は一ヶ月近く澄元の名代として京都を支配していたが、高国が近江守護六角定頼の援助を得て反撃に開始した。高国は丹波守護代の内藤貞正も動かして数万の大軍で東山如意岳に陣取った。それに対して之長は二、三千の阿波衆を率いて義稙の御所である三条屋敷付近に陣取って防戦することにした。之長は五万の敵を相手に互角に戦い日没まで持ちこたえたが、ついに破れて敗走した。之長は、子の芥川長光・長則と共に通玄寺塔中曇華院に逃げ込んだ。之長父子は、寺を出て高国陣営の出向いて許しを願ったが、そこに細川尚春の遺児がいて之長を殺すように高国に訴えた。このため之長は上京百万遍で切腹させられた。(六十二歳?)
<おわび>
書きなぐったような悪文ですみません。わたしの力不足です。