王貞治(1959−1980)<読売ジャイアンツ>
1940年5月20日、東京生まれ。
2002年5月、日本のプロ野球が初めて海外で試合を行ったが、その際、王貞治(以下敬称略。単に”王”と表記した場合は王貞治を指す))は台湾の生んだ英雄のような扱いであった。王は1961年以降は、中華民国国籍であり、現在の台湾で英雄視されて当然である。しかし、それは表向きの話であって、本当は複雑な人間模様が絡んでいる。
王貞治は現役のプロ野球監督であり、誰もが認めるスポーツ界の人格者でもある。その王自身が、「もうその話は私の胸の中で納得済みなので、蒸し返さないでほしい」と封印している国籍の話を、わざわざ当HPで掘り起こす必要はないように思える。ただ、いくら封印しても、隠し切れない事実の断片が一人歩きしているのも事実である。それが「王さんは国民栄誉賞ももらっているし、もう日本に帰化したんですね」程度の誤解ならともかく、「王さんの父親は確か中国大陸の生まれで、国籍も中華人民共和国だったはず。どうして息子の王さんは中華民国の国籍なのだ?」というところまで調べあげて、かつ疑問まで持たれたらどうなのだろう。そこに何か政治的意図を勘ぐる向きも出ないとも限らない。本人の処世術と、周囲の気遣いはやはり別物と考えたい。
以下は、王貞治と同時代に生きることのできた一野球ファンが、感謝を込めて書いた王貞治の真実である。なお、この真実は、ほぼ鈴木洋史氏の労作「百年目の帰郷」に依っている。鈴木氏は、その本に書かれた事実についてすべて王本人に確認をとっているので、正真正銘の真実である。そのままダイジェストするのは、著作権法でいう「引用」の範囲を逸脱するので、私の知っている事実、私が独自に感じた感想などを混ぜて、私オリジナルの拙文としたい。
中国大陸浙江省。上海から南に下ると、ミカンで有名な温州という町がある。そこから内陸部に40キロほど行ったところに四都という場所がある。その地で、王仕福は、王銀雄と「太婆」(当時の中国では貧しい農村の女性に正式な名前はないのが普通だった)の子供として生まれた。1901年のことである。仕福が5歳のとき、銀雄は理由不明の自殺を遂げる。「太婆」はすぐに再婚し、仕福は銀雄の兄弟の家に預けられる。「太婆」は二度と仕福の面倒をみなかったばかりか、仕福と一緒に実母のもとを訪ねた仕福の弟を寒空の下に追い返し、病死させてしまう。父母の愛を受けることなく、辛い毎日を送った仕福だが、幸いなことに面倒見のいい年長の友人がいた。彼は(「四都」のような貧しい農村では珍しくないことだが)郷土脱出を図り、はるか東シナ海を越えて日本に渡った。1915年頃のことらしい。恐らく、その年長の友人のツテで、仕福も日本に渡ることになる。1922年のことである。日本での生活は楽ではなかったが、故郷での生活を思えば我慢ができたらしい。しかし、翌年9月に関東大震災が起こる。朝鮮人がいわれなき誹謗を受け虐殺されるという混乱のなかで、同じく外国人の仕福も、すぐ当局の手によって捕えられ、本国に強制送還されてしまう。仕福はあきらめなかった。最近でも時折、不法入国者を乗せた船が日本近辺に流れ着くというニュースをみかけるが、仕福の2度目の来日はまさにそれであった。彼は密入国し、まんまと成功した。今ほど入出国管理が厳重でない時代とも言えた。
2度目の来日を果たした後、仕福は中華料理店に勤めることになった。そこで、自分と同じく両親を亡くして女中奉公していた当住登美と知り合い、結婚するのだが、当住家では「中国人との結婚などもってのほか」と大変な剣幕であった。しぶしぶ結婚を認めたものの、登美は国籍を日本から中国に変えないということを約束させた。戦前の日本ではわざわざ中国国籍にするのは不利益だらけだったからである。
こうして、やっとの思いで1928年に結婚・同居する。その直後に仕福は独立して、「五十番」という中華ソバ屋を営む。子供も順調に生まれ育っていった。1930年には長男鉄城、1932年には長女幸江、1936年には次女順子と次々に生まれ、1940年には貞治が誕生。貞治は二卵性双生児だった。もう一人の女の子の名前は広子といった。仮死状態で生まれた貞治がその後もずっと病弱だったのに比べ、広子は健康優良児のようにすくすく育っていった。ところが、健康なはずの広子が、わずか1歳3ヶ月で急死するのである。そして、不思議なことに、それを契機に病弱な貞治が見違えるように元気を回復していく。まるで広子の生命力が貞治に乗り移ったかのようであった。
1945年に戦争が終わり、登美と4人の子供は皆日本国籍を離脱し、中国国籍となった(なお、まだ中華人民共和国は成立していない時期である)。登美の弟が皆戦死または消息不明となり、天涯孤独となった登美としては、自分を日本国籍でしばっておく必要がなくなったからである。王貞治の日本国籍の時代はわずか5年間で終わった。
仕福の「五十番」は戦後大繁盛し、一時期は都内数ヶ所に支店を持ち、従業員も15名近くにふくれあがった。王は、成功した華僑の家の末っ子として伸び伸びと育ち、中学生の頃には地域の野球チームの看板選手として有名になっていった(中学校には野球部がなく、やむを得ず卓球部に所属していたらしい)。その頃、大毎オリオンズの荒川博が、出身の早実高校野球部のために有望選手をスカウトしていて、王も荒川の指導を受けた。荒川のアドバイスで右打ちを左打ちに変えたのは有名な話である。荒川は、仕福を訪ねて、王の早実入りを打診した。仕福は断った。華僑がこの厳しい異郷の地で生きていくには、医者になるか電気技師になるのが一番と仕福は考えていた。たかが野球のためにその進路予定を変更するわけにはいかなかったのである。王は予定通り隅田川高校を受験した。隅田川高校には野球部はなかった。本来ならここで王の野球人生は終わったはずだったのだ・・・・しかし、関係者の誰もが驚いたことに、王は不合格となった。これは普段の成績からみて信じられないことだったが(事実わずかに1点足りずに不合格だったらしい)、結果として王の早実入りが実現したのだから、人生はわからないものである。
早実野球部の王は、東京ローカルのエースから全国区のエースに飛躍した。1年生夏にはもう甲子園の土を踏み、翌春の選抜では見事優勝を果たす。その夏にはノーヒットノーランを達成。3年の春には打撃が向上し、2試合連続本塁打を放っている。その栄光の歴史の間に、王自身初めて味わう屈辱の大事件が起きている。昭和32年の国体の高校野球で、早実が選抜されたとき、王だけ出場を認められなかったのである。「出場は日本国籍を有する者に限る」という国体のルールに抵触したからであるが、それまで日本人と同様の意識で生活していた王にとってはショックであった。王は後にこう回想する。「今までの人生で、私が一番傷ついたのは、この時だ」。チームメートから離れて一人試合を見学する王。心中は察するに余りある。
高校3年の夏、当然甲子園出場と思われた早実だったが、都大会決勝の土壇場で王の投球が乱れた。延長11回表に4点を入れた早実は、その裏にそれ以上の失点を許し、あっけなく敗れてしまったのである。途端に王争奪戦が繰り広げられ、ほぼ阪神入りで確定したが、これも土壇場で巨人が割り込み、地元東京のチームに入って親を安心させたいという王の一心で、契約金の低い巨人入りが決まってしまう。
巨人入りには、ジャイアンツへの憧れ、紳士の球団というイメージが、王のほうにあったことは確かである。ところが、入団してみると、「おい、ワン公」などはいいほうで、「あいつはシナ人だからな」と陰口を叩かれることもしばしばだった。国体ショックの後遺症がまだ残っていた王は、この頃友人に「巨人入りは失敗だった。憧れの球団と思っていた自分がバカだった。どうせどこでもこういう扱いを受けるんだろうから、それなら契約金の高かった阪神にしとけばよかった」と述懐している。
入団してから2、3年は、期待されたほど打撃が伸びない王。しかし、同じポジションの川上哲治が引退した直後というラッキーも加わって、何とか一軍レギュラーに止まっていた。
昭和36年、川上の決断で巨人初の海外キャンプが実施される。昭和27年制定の外国人登録法により、「2つの中国」のうちどちらに籍を置いていようが、等しく中国国籍と扱われるようになっていたが、海外へいく場合は、どちらの中国の国籍なのか決めなければならなかった。王は、現実的選択で「中華民国国籍」を選択する。当時は、その国籍でいたほうが、海外へ行く場合スムーズだったからである。そして、その選択にそれ以上の意味はなかった(もっとも、その2年後にプロ野球選手代表としてヨーロッパに招待されたとき、今度は中華人民共和国を本来の中国と認めていたイギリスへの入国に際して、この国籍は邪魔になった。川上・中西・長嶋・野村は何ら問題なかったが、王だけは入国を認められず、一人パリのホテルで3日間過ごす羽目になった)
昭和37年になると、王は一本足打法を完成させ、一気に日本プロ野球のスターになる。そうなると、前年の選択は別の意味を帯びてきた。おりしも、中華民国の国際社会での地位の低下が始まっていたことも、王を中華民国側へ取り込もうとしていた関係者の行動を急がせた。
昭和40年のシーズンオフ。すでに本塁打の日本新記録を達成して大スターになっていた王は、中華民国関係者が政治的意図でもって計画した台湾訪問旅行に参加する。王本人は、それほど深い意味
を思わずに素朴に話に乗っただけだったが、いざ訪問してみると、国をあげての大歓迎であり、蒋介石総統との会見も組まれていて、どこへいっても「祖国台湾を愛する好青年、王貞治」というレッテルがついて回った。しまいには、台湾の有名女優と何度も同席させられ、結婚まで勧められる事態になって、さすがの王もこれ以上の深入りはまずいと思ったのだろう。帰国後すぐに、以前から交際していた小八重恭子との結婚を発表する。しかし、恭子は諸事情により中華民国国籍取得を余儀なくされた。しかも、新婚旅行に台湾を選ばざるを得ない運命にあった。王夫妻は台湾に旅行し、恭子は「中華民国国籍を取得中の模範的女性」として紹介された。知らぬ間に、王は中華民国の国威発揚に利用されていたのである。中華民国にとってまことに都合がよかったのは、王にいろいろな依頼を投げかけても、特に面倒な事態を引き起こさない、大抵の場合引き受けてくれる人格者であったことだった。かなり強引な仕掛けを行っても、中華民国側が非難されることはなかったのである。すべて、「愛国者王貞治」が自発的に行ったこととして済ませておけばいいのだから、これ以上の広告塔はなかった。そして、王の存在は、明らかに台湾と日本の距離を縮める効果をもたらしていた。
(上の写真は、全盛期のフォーム。体はまっすぐ立ち、バットを投手側に傾けて、より大きな軌道でボールをとらえることが可能だった。下方にあるもう1枚の写真と比較してほしい。そこでは、体は傾き、バットは体の後ろに早くから引かれている。「これは打ち始めた瞬間の写真で、上の写真と比較はできないのではないか」と指摘されかねないほどフォームが変化している。何よりも右足の上げ具合が全然違う。そして、そのことを王自身が何よりも自覚していた。私は上記写真の頃に何度も王を見ているので、晩年の王(756本を打った頃)のフィルムを見るたびに心が痛む。王さん、抗議していいんですよ。本当のフォームでない写真が何度も紹介されることに異議を申し立てましょう。日本のテレビ・雑誌は、もっと王自身の納得のいくフォームだった頃の写真を紹介すべきです)
昭和47年、日本は中華人民共和国と国交を結び、その結果中華民国と国交を断絶する。極めて政治的な判断でこうした以前と正反対の外交が行われたわけで、実際はいきなり中華民国と疎遠になってしまったわけではなかった。しかし、現実に国交断絶となった以上、その影響はやはり大きく、中華民国関係者としては、何か対策を打たねばならなくなったのである。民間外交が主となるわけだが、その中心は王貞治であった。
ところが、読売の創業者正力松太郎死去(昭和44年)の後、実権を握った務台光雄は、中華人民共和国との接近を図っていた。王の立場はますます微妙になっていくのである。
昭和49年に台湾に「王貞治棒球場」の建設が始まったが、なぜか完成時には「王貞治」の名前は球場名から消えていた。しかし、王の招待については既定のこととして話がすすんでいたものの、直前の昭和51年になって、突然訪台は中止される。表向きは球場名から「王貞治」の名前がなくなったためと説明されたが、読売サイドからの圧力があったことは公然の事実であった。王は、この件で、巨人軍代表の長谷川から強力な圧力を受けており、台湾行き中止が決定した直後は「その話は、上の人が決めたことだから、上の人に聞いてよ」と言葉少なに語るだけだった。
昭和52年になると、今度は中華人民共和国が王貞治にアプローチしてくる。この年の8月、「棒球考察団」が来日するのだが、目玉として「大陸出身の華僑からの英雄」王貞治との会談を読売側に要求してきた。それまでの「棒球考察団」への援助ぶりからいって、読売としては実現にやぶさかでなかったが、前年に台湾行きを中止させた経緯もあって、これ以上中華人民共和国に肩入れすると、いかに務台ワンマンの意向であってもバランスを失する恐れがあった。そこで、練習帰りの王と偶然に「棒球考察団」が出会う、という筋書きを考案して、その通りに実行された。それは、「2つの中国」のどちらにも偏りたくない、政治にはかかわりたくないという王の意向でもあった。
(下の写真は晩年のフォーム。自分でもフォームの乱れを修正できない不本意な時期であった。本人は最後の3年間は自分のキャリアから除外してほしいくらいだ、と述べている。国民栄誉賞・長嶋引退後の巨人軍4番の重責は、王に休息を与えなかった)
一面では、王は偶然国籍を取得した中華民国であるのに、礼を尽くしている。すでに、中華人民共和国の国籍に変更したほうが、いろいろな面で有利であるのに、いままでの人間関係、信頼関係を重視した。一人の人間としての自負、自尊心が、自分の生活が有利になることを考えて籍を変えることを潔しとしないからだ、と鈴木洋史氏は述べている。王は恐らく死ぬまで中華民国国籍を捨てない。日本国籍への帰化も十分可能であるのに。それには、十分日本人と思い込んでいた高校時代に、「お前は日本人ではない」と宣告された国体出場拒否事件が尾を引いてるのかもしれない。どちらにせよ、王は中華民国国籍のままであり、娘3人(理香、理恵、理沙)も中華民国国籍である。そして娘には、日本国籍の男性と結婚することによって、日本国籍への道が残されているとして、「幸い、息子がいないんでね」という言い方をしている。息子がいたら、また違った選択をしていたのかもしれないが。
さて、王は数々の打撃記録を樹立し、昭和55年に引退する。本当は、そのまま浪人生活に入って、久々の家族との団欒を過ごしたかったに違いないが、引退が長嶋監督辞任と同時であったため、読売サイドから、「地味な藤田監督を補うように」残留を命じられる。かくしてあの珍妙な役職「助監督」就任が決まるのである。
その間、王仕福は、何度も中国大陸まで謎の帰郷を繰り返していた。その詳細は「百年目の帰郷」の描写に譲るが、これも驚愕の事実といってよいだろう。そして、王仕福は昭和60年に世を去っている。
その前年には王は藤田の後を継いで巨人軍監督になっていた。
王は昭和62年にやっと優勝を果たす。球団の王への信頼は厚く、3年契約を提案するが、王はなぜか1年契約を結ぶ。満を持したはずの昭和63年は、結局リーグ2位に終わるが、王は手応えを感じていた。桑田・槙原・斎藤の3本柱の成長が確実だったからである。しかし、まさかの解雇処分。温和な王はグッとこらえていたが、親しい友人には溜まった感情を爆発させていたと言う。そして、務台政権の終焉、ナベツネ政権の誕生とともに、王の影は薄くなっていく。平成5年の長嶋監督誕生で、王は巨人での復活を最終的にあきらめた。平成7年、ダイエー監督に就任し、以後ダイエーをパ・リーグの強豪チームに仕立てている。
しかし、国籍の問題は完全になくなったわけではない。鈴木洋史氏が、王仕福の人生を追跡し、奇跡的な発見を成し遂げても、王貞治は全く動じない。「がんばって大陸まで旅行したかいがあったね」と、鈴木氏を褒めた言葉一つであった。それは、王仕福があれほど中国大陸へこだわり何度も故郷に帰省していながら「このこだわりはオレ一人で十分だ」と家族にさえ秘密にしていたのとよく似ている。王にとって、いまさら中華人民共和国と自分を結ぶルーツを発見されても、素直に喜ぶわけにはいかないのだろう。しかし・・・一人の人間として、父親の隠された秘密を偶然にも発見してくれた鈴木氏の調査収穫について、無関心でいられるはずがない。父仕福は、自分の故郷に、自分の息子鉄城・貞治に関係する、ある素晴らしいものを建造していたのだから(詳細は鈴木氏の著作をご参照ください)。
すでに台湾だけではない中国の野球。それでもダイエー監督として初の国外公式戦を実施することになった際、台湾を選ぶ律儀さ。それは、王貞治という人間にとって、当然の結論なのかもしれない。
しかし、第三者である私などは、その律儀な選択にため息をついてしまうのである。ダイエー監督を退いた時に、やっと人間王貞治として自由に振舞える日々がくるのではないかと思う一方、やはりこれだけの人を周囲が放っておくわけがないだろうとも思います(スーパースターであり人格者であるということは、かくも辛いことなのか)
少なくともプロ野球ファンとしては、国籍をめぐる王さんの葛藤を少しでも理解してあげたい、と思い、以上拙文をしたためました。ご異論も多かろうとは思いますが、事実は事実として掲載しましたので、あとはご自由にご判断くださればと思います。