3、なぜ「らい」を「ツァラアト(に冒された人)」に変えるか。
 (新改訳聖書刊行会改訂編集委員5名の話。2003年8月3日発行、クリスチャン新聞、通刊第1754号、4面、5面)

改訂編集委員座談会=岸本 紘氏(委員長)、内田和彦氏(委員)、津村俊夫氏(委員、新改訳聖書刊行会理事長)、木内伸嘉氏(委員)、松本任弘氏(委員)
司会=クリスチャン新聞編集長・根田祥一氏

大嶋得雄のこの座談会へのコメント・・・編集委員の方々が最終的に「ツァラアト」「ツァラアト(に冒された人)」に暫定的とは言え、改訂することを決定されたことに感謝している。しかし、皆様がこの5名の方の次の座談会のお話しをお読み下されば、おかしいなと疑問を持たれる箇所をいくつか出てくると思います。例えば、アンケートの中に、「らい(病)」のままが良いと言う意見が相当数あったことに対して、「そこに付せられている意見は、それぞれに非常によく考えている」と評価していることです(最後の部分に当たる記事)。そこに付せられている意見を発表もせずに、「そこに付せられている意見は、それぞれに非常によく考えている」と評価することは、ひとりよがりである。それらの意見を記してそれぞれに非常に考えていると表示しなければならない。このような評価は誤っている。同編集委員会が研究した結果、「ツァラアト」の意味は厳密に何を示しているのかわからない、不明(Uncertain)であったために、最終的に「ツァラアト」に改訂する決定をしたのであるから、「らい(病)」のままが良いと言う意見を認めるような意見はするべきではない。そして、二次的な問題であるが、「らい(病)」は随分、前から、差別語となっており、ハンセン病と呼ぶようになっている。この点からも、「らい(病)」のままが良いと言うことにはらない。「らい(病)」で良いと言う人は、とりあえず、「ハンセン(病)」と置き換えて主張しなければなりません。「らい(病)」、「らい(病)」、と言っておられたら、キリスト教の指導者は無知だったと言うだけではすまされない、いつまでもハンセン病患者や元ハンセン病患者を苦しめていることになる。そして、これらの人々や差別や偏見撤廃に取り組む人々から抗議を受けることになります。へんなところで、このような配慮をすると、いつまでも正しい啓発ができないことになります。

  どうぞ、5、何故、長島曙教会は「らい」を「ツァラアト」に変えるように要請したかをお読み下されば、私たちの主張をお分かりいただけると思いますので、よろしくお願いいたします。


新改訳聖書改訂第三版 訳語変更の主眼
 
広く普及している日本語聖書「新改訳」の改訂第三版の内容が固まり、今週にも発行の運びとなった。今回の改訂では、懸案の「らい病」の表記をはじめ、いわゆる差別語/不快語を中心に旧新合わせて約900節で変更が行われた。その改訂の主眼について、新改訳聖書刊行会改訂編集委員の諸氏に集まっていただき、話を伺った。

根田 まず改訂の経緯について、改訂編集委員長の岸本先生、概略をお話下さい。 
岸本 新改訳聖書が完成したのは1970年ですから、それから33年たちます。当然、聖書の翻訳には改訂が必要であり、78年に第二版を出しています。少なくとも20年に1回くらいは、前面的に改訂が必要なのが聖書だと思うのですが、発刊当時は新鮮だと思った新改訳聖書も、その後研究が進み、変えた方がいいところもあります。しかし、版権をめぐる裁判がアメリカと日本で行われ、関係者がその訴訟の対応に忙殺されたため、ちょうど改訂をすべき時期に、そちらに勢力をそそがなければならなかったのです。その訴訟が終わったのが96年。その間に改訂第二版で若干の改訂をし、87年から93年にかけて、いわゆる差別語・不快語についての改訂資料をまとめました。ところが裁判とぶつかって改訂に至らなかったわけです。その後、紆余曲折があって結局、2001年6月から、ようやく第三版の改訂作業を進めることになりました。

根田 第三版では、どういう箇所を改訂することが主眼となったのでしょうか。
松本 まず、どうしても差別語・不快語を直さなければならない。特に「らい」の訳を改訂するようにとの強い要請がありました。全面的に見直しするには相当の時間がかかるわけですが、不快語の問題は少しでも早く改訂する必要があるという要請が強く、その点を中心に、出来るだけ最小限に絞り、それにどうしても直したい部分を加えて、900節の改訂になりました。

根田  その差別語・不快語に関する取り扱いについて、今回の改訂編集委員会の基本的な考え方は、どういったものだったのでしょうか。
岸本 いわゆる差別語・不快語というのは人によって受け止め方が違いますし、社会や時代によって変わります。私たちは、聖書の原文が差別的に使っているのであれば、差別性がわかるように残すことも大事だと考えました。そこで、身体的・精神的な障がいなどを表す言葉がどういうふうに使われているか、聖書全体を見直したわけです。しかし、実際にはそういうことは少なかったという理解で、現代の日本語で不快感や差別感を与えないと思われる客観的叙述に言い換えました。例えば「めくら」「おし」「つんぼ」などは、今日では使われなくなっているわけですから、「目が見えない人」「口が聞こえない人」と訳すようにしました。ただ、言い換えただけで内実は何も変わらない。差別の心はそのまま残るということがあると思いますね。出版社やメディアは非常に差別語・不快語に神経をとがらせて自主規制をしている。けれども本当に大切なのは、ただ言い換えて済ませるというのではなく、差別がある現実をしっかりそのまま見つめるいうことが大事だろうと思うのです。差別を隠すのではなく、聖書に基づいて、弱さをもっている人々と本当の意味で共に生きるということが主眼であって、言い換えることが主眼でない。
内田 きれいな言葉に言い換えてしまうことで、差別があたかもないように受け止められて、かえって差別そのものを直視しそれと取り組んでいく姿勢というものが、聖書の中から導きだせなくなっていくんですよね。そのあたりが、今後の課題になっていくと思うのですけれども。
津村 タブー視されている言葉の読みを時代とともに湾曲的に変えることは、聖書の中にもあります。新約だけじゃなく、旧約にもある。

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根田 聖書の言葉自体が歴史に根ざしていて、社会的なコンテキストと無関係ではないということですね。
津村 そうです。
木内 差別というときに、人間社会での差別というだけでなく、神様が差別していると見える事実もsるのではないでしょうか。人間が勝手に積み上げた差別とその辺のところは、整理しなけければならにのではないかと。
内田 難しい問題ですね。神様は、私たち人間の尺度から見て必ずしも公平とは思えない現実の中に私たちを置かれる。それを私たちは人間の考えで合理化することができない、難しい現実があります。ヨブの苦難にしてもそうだと思いますね。そういう問題が全部、平板化されてしまって、何もないかのように翻訳の上で扱うと、聖書そのものの雰囲気が変わってしまうと思うのですね。
津村 神様の取り扱いの仕方は、一人ひとり違う。不幸のように見えることを通して魂の苦しみから解放されるということもある。
木内 その辺は翻訳とのかかわりで考えなければいけない。そういう問題に対してどういう立場をとるかということが翻訳に表われてくるのではないか。らい病・ツァラアトだけが問題なのではなくて、「けがれ」と呼ばれるものの一つの症状として「ツァラアト」が出てくる。たまたまある病気が差別の問題になっているからと、対症療法的な対応をするのは、翻訳の本来のあり方ではないと思います。

根田 その「らい病」の訳語に関して、特に療養所関係者から変更の要請がありましたが、そのような社会的な要請に対して改訂委員会で論議をしてきた。その経緯を振り返ってみたいと思います。
津村 96年に「らい予防法」が廃止されました。その前後、差別語・不快語の中でも「らい」の問題がクローズアップされてきて、これを緊急に変えてほしいという声が上がってきました。けれども。聖書翻訳としてどうあるべきかという問題を、単に訳語を置き換えるというかたちでは解決出来ないのではないか。そういうテンタティブ(暫定的)な考えによって要請に応えるということが、翻訳者として良心的に出来るのだろうかという意識がありました。偏見のないニュートラルな言葉だからといって、らい病を「ツァラアト」にただ置き換えるという発想は、翻訳者として無責任ですよね。私たちは、翻訳者として後悔しないように、なんとか正面から受け止めようとして、2年間という時を使ってきたわけです。そういう中で、差別されて苦しんできた人がおられるという事実と、その人の差別にかかわる言葉をどう表現するかという言葉の問題があります。言葉を差別的に用いてきたのでそれが差別になるのであって、差別されてきた方はそういう言葉を差別語として認知したわけではない。むしろ使う方の問題ですね。その言葉を避けて安易な言い換え表現を使うと、また別の差別をつくってしまう危険性もある。そのへんでも、わたしたちは非常に苦労してきましたね。
木内 時代の要請は無視できないにしても、原典におけるいみを犠牲にしてまで時代の要請に応える姿勢はとりたくないという気持ちがありましたね。例えばNRSVという訳は、かなり性別を示唆しないような訳をして、読者の心情を損なわないような翻訳なのですけれども。私達はもっとリテラル(文字通り、厳密)な、原典世界を損なわないような翻訳をしたいという姿勢でやってきました。

松本 「ツァラアト」という言葉を聖書の当時の人が聞いたら、ぎょっとするようなニュアンスの言葉だったのではないかと思いますね。そうするとほかの言葉では、それが表現できないことがある。だから、私は「レプラ」という言葉を提案した。英語でいう「レプロシー」、これは世界語ですし。けれども、療養所関係者からは、それでは困ると否定されました。
津村 私が最初から思っていたことは、その言葉が指しているかという指示対象を問題にしているのか、言葉という一つの記号を問題としているかということで違ってくるということです。例えば、聖書でこれまで「らい病」と言われてきたものが現代の「ハンセン病」と一緒かどうかとか、その同定作業で一所懸命義論する。「ツァラアト」という言葉をどう訳すかという本来的な問題ではなくて、病気についての医学的な問題に議論がいっちゃって、そこに差別の問題やいろんなことがあって、非常に複雑になっていったかなとおもいますね。

根田 松本先生が「レプラ」という選択肢を考えたいうことですけど、英語の聖書では「レプロシー」が多いですね。日本語の「差別性」が強く付与されてしまったという特殊性がありますよね。
内田 欧米の場合は、「レプラ」「レプロシー」という言葉が使えたのは、差別への取り組みが早くなされて差別が解消されていったから、まあ完全でないにしても、「レプラ」「レプロシー」という言葉が使うことができたわけです。こういう取り組みを日本の社会はしてこなかった。「らい」という言葉は、依然として非常に差別性の強い言葉として残ってしまっている。そういうことかと思いますね。
岸本 ある人たちは、現実を変えようとしないでただ言葉だけを変えてしまうと言うことは、差別された人たちの権利を本当の意味で回復していないだろうと指摘していますね。言葉の言い換えで、差別した人たちを癒したことにならないと。

根田 「らい病」という言葉のもつ社会的な要素を見てきましたけれども、もうひとつ重要なのは、この言葉がメッセージでどのように解釈されて使われてきたかということです。中には短絡的に、聖書の登場人物が罪を犯したことの結果として「らい病」になったと安易にとらえる危険もある。例えば、日曜学校の先生がお話しをするとき、「らい病」のイメージとしてハンセン病の症状が頭に入っていて、テキストと関係なく、それを前提にして罪の恐ろしさを教えるための道具として短絡的に使ってしまう。そういうことによって現実のハンセン病の患者さんが非常に心を痛めるといったことが起こってしまう。これは聖書解釈に問題です。改訂をめぐる論議で聖書の解釈問題も再三話題になってきたわけですが、特に「らい病」と訳語の問題が大きくクローズアップされてきたレビ記の解釈について、論議の過程を語っていただればと思います。
木内 「らい病」と訳されてきた「ツァラアト」は、レビ記では13章に出てきます。このツァラアトという病気がレビ記13章で語っているメッセージを訳語で示唆することができればと、造語を試みました。かつて新改訳聖書で試みた、そしてうまくいった造語の例に「聖絶」という言葉がありますが、そういうかたちの造語を考えようと。その段階では、そういう線しかないのではないかと考えました。レビ記13章には皮膚病ついての処方が語られています。これまでは病理学的に「ツァラアト」がどのような病気を指したかということに論議が集中していたのに対して、「ツァラアト」の症状と対処法が記されているということで、神様が何を語っておられるのkというメッセージの方が重要であるという視点で、私たちは考えたわけです。これはなにも13章だけでなくて、11章のきよい動物、食べてよい動物、汚れた動物、食べてよい動物、食べてならない動物について、また男女の性器からの漏出物につての箇所もそうなんですけれども、神様の前にはそれ自体が最終的に問題であるわけではない。その人体をとおして神様は、人間がどんな存在であるかを語っている。「ツァラアト」という特殊な皮膚病は、異常に見えたり、紛らわしい形で現れるということが、規定の中にあるわけですよね。それがはっきり現れたらその人は祝福されるという規定で、そういうことをもって人間の罪深さというものを、人間とはどういうものであるかを語ろうとしている。つまり、人間は自分自身を隠そう隠そうとしているけれども、時々出てしまう。それは出てしまったときに初めてあるものではなくて、ずっとあるものが出てくる。しかも、いっぺんきえたかと思うと、また出てくる。消えたときには「きよい」と言われるのですね。また出たら「汚れている」。ですから「きよい」と言われても、なくなったわけではない。そういう陰湿な、潜行性の特殊な皮膚病をもって、人間の罪深さを語っていると思われます。そこで私たちは、「潜」(ひそむ)という字に、自分自身を隠すという意味を込めた「被」(こうむる、かぶる)を組み合わせて「潜被」(せんび)という造語を考えたのです。これに対して療養所関係者からは、被の「皮」という字は、ハンセン病を連想させるという懸念が出ました。そこで今度は、「被」に変えて「微」という字を入れて「潜微」という案を出した。これは、非常に見分けがつきにくいが確実に存在する人間の罪深さということを表現しようとしたのです。病理的にどうであるかということよりも、いつも潜行している、潜行しているという人間の霊的な病。そのことを語ろうとしている。「ツァラアト」というのは、実は、これが全人類の心の状態ではないかという語りかけを神様はしていると思うのです。なお。「せんび」には、聞き慣れないという意見がありましたけれども、造語というものはいずれにしても聞き慣れないものですので、時間がたてば慣れてくるのではないかと考えておりました。
内田 「潜被(被)」という言葉を私たちが考えたプロセスの中では、ハンセン病と同一視されることは避ける表現をなんとか見つけたいということがありましたよね。しかしまた、レビ記に描かれているような症状を何らかの形で表現する言葉を探して漢字の熟語を考えたと思います。そういう意味では、なんらかの病気を負っている人が、「潜被(被)」という言葉を使うことによって、自分の病気と同一視するようなことにならないという利点もあったと思います。けれども、「潜被(被)」という言葉があまりにも受け入れてもらえななかったのは、言葉の響きがあまりよくないといったこともあったのでしょうか。
木内 後に言われたのは、「ハンセンビョウ」を縮めたような・・・・。
津村 そこで、「潜被(被)」に「ツァラアト」とルビをふるのはどうかと。
松本 それもかんがえましたね。

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根田 そこまで配慮して考えた造語にかかわらず、強い抵抗感があるという指摘がありました。それだけ、日本においてはハンセン病の人たちが疎外感を覚えてきたいうことの反映かなと私は受け止めたんですけど。たとえば、「せんび」という音がなんとなく「ハンセン病」を連想させるのではないかというのは合理的なものではないですよね。ですけど、それを想起させるものは払拭してしまいたいという強い願いが感じられます。
津村 ハンセン病を意識しながら「らい病」という語をどうするかと考えているから、それが問題なんだと思います。一方で「ライ病」を「ツァラアト」と置き換えただけだったら、現行の新改訳二版を持っている会衆がほとんどの中で牧師が三版で聖書朗読をした場合、「ツァラアト?」「あ、らい病のことだ」という連想が断ち切れないのではないかということを懸念しました。ですから今回の第三版の決定は、単なる置き換えではないんだというところにポイントがあります。

根田 そのような懸念も考慮した上で、結果として「ツァラアトに冒された者・人」という表現に決まったのは、どのような理由からなのでしょうか。
津村 「ツァラアト」というヘブル語が聖書中で人に対して使われるとき、実はこの名詞から派生した動詞の受動態の分詞形が用いられているのです。ですから、受身形の「冒された」というのはふさわしいだろうと。
根田 単なる名詞として出来ているわけではないと。
津村 「ツァラアト病」というよりも、「ツァラアト」という、壁にも皮膚にも衣服にも現れる共通の症状によってなにか影響を受けているという、受動態を表すのには「冒された」というのが非常にいいのではないかと。それと、もう一つは、ツァラアトとはいったい何なのかが分らない。でも、「冒」が使われていると、何かの病だと「思わせぶり」に示すことができる。これは助言を受けた言語学者の意見ですけれども、「思わせぶりの言葉だからいいんだと」と。読んだ人が、はっきりとは分らないけれど何かの病気だと想像はつく。そういう、何か分らないけど思わせぶりな言葉、それが示すある病に冒されているというニュアンスは伝わるのではないか。

根田 そのような変遷を経て、とにかく「ツァラアトに冒された者・人」という結論に到達したわけですね。その第三版が使われるようになる時の、積極的な意味あいを考えたいと思います。いくら訳語が変わっても、どうしてそのように変えたのか認識しなければ意味がありません。説教者が講壇から語る時に、短絡的に「これは以前ではらい病のことだ」「ハンセン病のことだ」というのでは、差別性が払拭されるわけではないのですから。翻訳に携わった先生方が、この「ツァラアトに冒された者・人」をどのように使ってもらいたいのか。こういうところを注意深くやってもらいたいといった気持ちがあるのではないかと思いますが。
木内 どういう訳語にするかということについては、解釈をどれくらい、どれくらい、どの程度まで訳語に反映させるかということがあると思いますね。単純に「ツァラアト」と訳して解釈は読者に任せるというやりかたもある。一方、「潜被(被)」という場合には、訳語そのものがある種の解釈をほのめかしている。私たちの到達した結論は、読者に解釈していただく、学んでいただくという訳語になったわけです。
岸本 第三版の「あとがき」で若干の解説をしますけれども、基本的には「ツァラアト」という原語は何を表しているのか、それぞれが学ぶことを期待します。
内田 例えばイエス様はたくさんの人を癒しているわけですけれど、いわゆる「ツァラアトに冒された者・人」「ツァラアトに冒された者」に対して手を差し伸べ、触れて癒したことの意味は大きい。ほかの病気の人の場合は言葉だけで癒しておられる。もちろん体に触れるケースもありますけれど、いつも体に触れなければ癒すことができなかったわけではなくて、空間的に距離があっても癒しの奇跡を行っているわけですね。ところが、「ツァラアト」に冒されてイエス様のところに来た人には、手を伸ばしてわざわざ触れている。触れることによって結局、当時の差別の現実をイエス様自身が乗り越えているわけですよね。普通は「ツァラアトに冒された人」にさわったら自分自身も汚れた者になって差別されていくわけですけれど、そういう現実がありながら、わざわざあえて触れているということに非常に大きなメッセージがある。そういう福音のすばらしさを説教者がテキストからくみ取って、講壇から語れるようになっていただきたいと思います。
根田 少し丁寧な解説が必要になるかもしれないですね。今まで日本語で「らい病」と書いてあれば、それが正しいかは別として、
会衆はなんらかの大変な病だというイメージをもって読んでいた。それが、「ツァラアトって何?」というところから始まるわけですから説教者はそれを丁寧に説明してあげる必要が出てきますね。
内田 そうですね。実際に、大勢の群集がいる中で、「ツァラアトに冒された人」がそこに出てくるということだけでも、非常に勇気のいることだったわけで。
岸本 山上の説教の直後のマタイ8章冒頭で、最も片隅に追いやられた人が第一番目に扱われていることは、すばらしいことなんですね。
内田 非常に印象的ですよね。そのようなことを理解するためには、「ツァラアトに冒された人」がどのような状況に置かれていたのか、丁寧に説明しないと、福音のすばらしさを説き明かすことはできないと思いますね。
岸本 その聖書の箇所にふさわしく説き明かせばいいんだけど、往々にして病気の問題としてとらえ、ひどい病気が治るという
レベルで読んでいる。それでは本当に聖書を読んだことになっていない。
津村 しかも状況よりも、これが差別化どうかという問題になってしまう。いったん現実の問題から離れて、言葉として考える必要がある。言葉は、誰がいったい用いるかで意味が変わりますよね。「罪人」というような言葉もクリスチャンが用いる場合と、そうでない人が用いる場合とでは違うでしょう。一般に差別語として用いられている言葉を、イエス様はそういうふうに使わなかったいうことが重要です。
根田 その意味では今までと違って、説教者あるいは会衆は、安易に「らい病」という言葉がもっているイメージに依拠できなくなる。「ツァラアト」とは何なのかということを探求しなければならなくなるわけですから、聖書のテキストをもっと注意深く読まざるを得なくなるわけですよね。
津村 たとえ「ツァラアト」が厳密に何を指しているか分らなくてもいいんですよ。イエス様の態度に集中できるから。
根田 どんな文脈で、その病気の人々が描かれているのかはつかむことができますね。こういった論議をとおして、あらためて気づきが与えられる。1人の聖書読者として恵みを感じますね。
岸本 新約で「ツァラアトに冒された者」が出てくるのは約束の救いが始まったことを表すのでしょうね。病気治しが主眼ではない。

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根田 訳語の検討にあたって、約2千の教会に実施したアンケートをどのように参考にしたのかについて触れていただけますか。
津村 集計された数字だけじゃなくて、いろんな意見の書き込みが、バラエティがあって興味深かったですね。意外だったのは、「らい病」を保持してほしいという意見が6分の1くらいありましたね。
岸本 2千通の中で516通という回収率は非常に高い。非常に関心が高かったと思います。しかもいろんな意見があるから、これを集約して、これが一つのこたえです、とはいえない。難しい問題です。
根田 確か「ツァラアト」は一番多い回答ではなくて、二番目でしたね。
岸本 新共同訳を使っている教会はすでに「重い皮膚病」という訳語に慣れている人を含めて全体で統計をとると、「重い皮膚病」が一番でした。けれども、新改訳を使っている教会の回答では「ツァラアト」が多かった。
根田 これはおもしろい特徴ですよね。やはり、慣れの問題でしょうか。
岸本 そうです。それと新改訳の読者では「らい病」がいいという答えがけっこう多かった。そこに付せられている意見は、それぞれに非常によく考えている。
根田 無思慮に「らい病」がいいと言ったわけではないのですね。
岸本 そうです。もっとも、単純にアンケートの集計結果で決めたわけでなくて、それを参考にした上で「ツァラアトに冒された者・人」に決まったのです。
津村 アンケートを結果を参考にはしたけれど、アンケートの選択肢には「ツァラアトに冒された人」というのはなかったわけです。アンケート結果で機械的に選ばれたと誤解をされることは不本意です。アンケートは確かに無視していたわけではないのですが、経過を考慮しながらも、「ツァラアトに冒された人」を考えていたのです。
岸本 このアンケート結果は、2003年の時点で福音的なクリスチャンがこの訳語の問題をどうとらえていたかということの記録として、後々のためにも大変貴重な資料だろうと思います。
根田 本日はどうもありがとうございました。

   ●本稿は6月30日に実施した新改訳聖書刊行会改訂編集委員による座談会の一部を    要約したものです。座談会ではこの後、差別語・不快語以外の改訂箇所についても    話しましたが、詳細は今秋いのちのことば社から発売予定のブックレットに収録し    ます。

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