「5月13日インテックスへの道程」
五月某日。
イベント前日の朝、蛮と銀次はだるい体を引きずりながら、大きなカバンを持ってよたよたとバス亭へと向かって歩いていた。
本当なら、もう一本早いバスで、他の友人たちと一緒にイベント会場へと向かうハズだったのだが、当日の朝彼らは体調が悪く、少し休んでから家を出た為、二人だけでバスに乗ることになったのだ。
バス亭に着くと、まさにグッドタイミングとしかいいようのないタイミングで、まったく待たされることなくバスが到着した。
普通なら待ち時間がいらなくて、喜ぶところだろうが、今日の二人は違っていた。
そう、先程も語った通り、体調が優れないのである。
「うわー、休む間もなく来ちゃったよ……」
「ホントだな……」
プシューと開いたバスのドアを眺めて、蛮と銀次は揃って肩を落とす。
だが自分たちが乗るのを待っているバスを無視するわけにもいかず、二人はそろそろとバスに乗り込んだ。
バス。
それは、乗り物酔いが激しい人間には、あまり有り難くない乗り物だ。
自慢じゃないが、蛮は小さい時から人一倍乗り物に弱く、今みたいに体調が悪いわけでもなく、至って健康な時に普通自動車の助手席で十分ともたなかった人間だ。
しかも、信号のない平坦な一本道で、その状態だったのだ。
停車することの多いバスというだけでも、あまり有り難なくない乗り物なのに、この上体調不良も重なっては目的地まで辿り着く自信すら、この時の蛮にはなかった。
そう、いざとなったら途中で降りようと考えていたくらいに、状況は最悪だったのである。
……ヤベエかも……。
銀次と離れた席に座った蛮は、バスが走りだしてから間もなく胸の不快感に襲われていた。
何とか我慢しようとは思うのだが、気力だけでもたせるにも限界というものがある。
……頼む、頼むから停まってくれるな……、ああっ、そこのお前、停車ボタンを押すんじゃねえっ……。
バスが停まる合図がある度に顔を顰め、次のバス亭に停車しまた発車する度に蛮は一心不乱にバスの揺れからくる不快感に耐えた。 時々離れた席に座った銀次の様子を見てみるが、彼もまた辛そうに俯いている。
……オイオイ、オレ達ホントに大丈夫なのかよ……。このままイベント会場に辿り着けなかったらどうするよ……。今日は人手が足りねえんだってば……。
まだ、イベントの心配に考えを回すことができるだけ、少しは余裕があるのかも……と思いたくもなってくる。
だがそれは、一種の現実逃避でしかない。
思いとは裏腹に、胸の不快感は増すばかりなのである。
……もう少し、もう少しだっ。頑張れ、オレっ……。
自分で自分を励ましながら、目的地までのバス亭があと幾つか、はっきり回らない頭で数えてみる。
……とにかく、バスを降りればなんとか……。
それから暫らく走ったバスは、目的の場所で蛮と銀次を含めた大勢の客を下ろして、次のバス亭へと去っていった。
バスを降りれば何とかなる。
そう思っていた蛮の考えは、甘かった。
バスを降りた途端に、体は限界を迎え、あろうことかその場に座り込んでしまったのである。
「蛮ちゃん、大丈夫?」
自分だって辛いだろうに、銀次が心配そうに話し掛けてくる。
「ダメかも……」
こういう時、一言ウソでもいいから『大丈夫だ』と言ってやるのが普通なのだろうが、今の蛮にはその余裕すらない。
いや、それ以前に銀次に対してウソをつく気すらなかった。
「大丈夫ですか?」
「どこか涼しいところに移動して、首筋とお腹冷やした方がいいですよ」
降りたバス亭にしゃがみこんでしまった蛮を心配して、同じバスの乗客だった女の子二人組が話し掛けてくる。
「大丈夫です……ありがとう……」
大きなカバンを持った二人組。
どう見ても、自分達と同類だろう。
おそらく、いや間違いなくこれから向かう先も同じなハズ。
「蛮ちゃん、とりあえず日陰に移動しよう。歩ける?」
「あ、ああ」
心配そうにこちらを見ながら駅の方へ移動していく女の子二人組に軽く頭を下げ、蛮は銀次に支えられるようにしてフラフラと近くの建物まで歩きだした。
もう、頭の中は何も考えられない。
とにかく今は、この不快感を何とかしたい。
それだけだった。
だから、銀次が口にした内容など、今の蛮の脳裏には掠めもしてなかったのだ。
「さっきの人たち、同類だよねえ。きっと蛮ちゃん、徹夜でペーパーとかコピー誌とか作ってて、寝不足で体調悪くなって貧血起こしたとでも思ったんだろうねえ」
……確かに、そうかも……。
銀次に言われて、今の自分が他人(しかも同じ世界の人間)から見たらどういう状況なのか、ということを理解して少し可笑しくなった。
だがそこで笑みを零す余裕など、どこにもありはしない。
とりあえず何とか辿り着いたファッションビルで、蛮はそのまま壁に背をあずけて座り込んだ。
まだ朝早いせいか、店もほとんど開いておらず、人も従業員らしき人がまばらに行き交うくらいである。
「銀次、先に行った奴らに連絡入れといてくれるか……?」
「あ、うん」
もはや自分で携帯を操作する気力すらなくて、座り込んだまま銀次に頼む。
銀次が他の仲間と連絡をとっている間、蛮はただ荒くなった息を少しでも通常に戻そうと、体を休めていた。
「蛮ちゃん、連絡とれたよ。宅急便の荷物、スペースまで運んでおいてくれるって」
「そっか………」
友人たちに迷惑をかけるな……と思いつつ、蛮はゆっくりと立ち上がった。
「大丈夫?」
「ああ、ちょっとトイレ行く……」
それは大丈夫なんかじゃなくて、限界が近いことを知らせる言葉だった。
「向こうみたいだよっ、こっちこっち」
銀次に道を指し示されながら、フラフラとその方向へ足を進める。
だが、どんなに頑張って歩いていても、その結果というのは案外無情なものだったりするのだ。
トイレまであとほんの五メートルといったところで、蛮は本当に限界を迎えてしまったのだ。
……ヤバ……。
思っても、もうどうしようもない。
胃の中に蟠る不快感が、はけ口を求めて込み上げてくる。
胃の中はすでにカラッポのハズなのに。
……ないものを出そうとすんなよっ……。
自分の胃にしょうもない文句をつけながら、蛮は今まで蟠っていた不快感を吐き出した。
「ワリィ……」
隣にいた銀次に謝って、そのままトイレに駆け込む。
銀次は「しょうがないよ」と言ったが、汚してしまった廊下をどうするのかを考えると、しょうがなくもないような気がする。
……とりあえず、アレ片付けねえとな……。
少しだけ正気に戻った頭でそんなことを考えながら、蛮は洗面所で口を濯ぎ、体が落ち着くのを待った。
幸いにも服は汚れなかったので、このままイベントに行っても差し支えはないだろう。
もちろん、「行ければ」の話だが。
「蛮ちゃん、大丈夫?」
少しして、銀次が蛮の隣にやってきた。
「掃除のお姉さんが綺麗にしてくれたよ」
「そうか、よかった。どうしようかと思った」
此処はファッションビルの中。
清掃の人間くらい居るハズなのに、蛮はそのことにまったく気が回ってなかった。
正気に戻ったと思ってた頭は、やはり正常には動いていなかったらしい。
廊下に出て、清掃のお姉さんにお礼を言うと、二人は今度は駅に向かって歩きだした。
ちょっとすっきりした今なら、ニュートラムもへっちゃらだ、と思ったのである。
しかし、その考えは甘かった。
ホームはすでに人でごったがえしでいたのである。
どう考えてもニュートラムの中はぎゅうぎゅう詰めだろう。
今の蛮に、その状態が耐えられるのかどうかは、かなり怪しかった。
「はい、蛮ちゃん、これ首筋にあてといて」
少しの間だけ姿を消していた銀次が、蛮に濡れたハンカチを差し出す。
どうやらこれの為に駅の中を一人で歩き回っていたらしい。
「ああ、サンキュ」
受け取ったハンカチを言われたとおり首筋に当てると、とても気持ちがよかった。
……ああ、銀次、お前はなんていいヤツなんだ。っていうか、お前も体調悪かったんじゃねーのか? ちょこちょこ歩き回ってて大丈夫なのか? これから地獄のニュートラムだぞ……?
銀次に迷惑ばかりかけている自分が情けないと思いつつも、今の蛮には彼以外頼る者もなく、素直にその好意に甘えるしかなかった。
わざと一本電車を見送って、次の電車に一番始めに乗り込むことにした二人は、駅員さんの好意もあってちゃんと二人で椅子に座ることが出来た。
問題はこれからだ。
ぎゅうぎゅうに押し込まれる、人、人、人。
蛮には乗り物の他に、もう一つ苦手なものがあった。
それは、密閉された空間である。
一人で居るホテルのシングルルームすら息苦しいと感じるくらい、密閉された空間というのは苦手なのだ。
ある程度の広さと明かりがあれば耐えられるのだが、今のニュートラムの中はそんなことは言ってはいられない。
窓から差し込んでくる明かりはあっても、空間の広さはない。
しかも体調は悪く、乗り物にも弱く、人はぎゅうぎゅう詰め。
扉が閉まり、電車が動きだすと、それからはもう蛮にとって自分との戦いだった。
……ここの酸素濃度はどうなってるんだ……。二酸化炭素の方が多いんじゃねえのか……。
早くも息苦しさを感じてきた蛮は、銀次に借りたハンカチで鼻と口を押さえる。
電車がガタンゴトンと揺れる度に、再び込み上げてくる胸の不快感。
……だから、もう胃の中はとっくにカラッポなんだよっ! 頼むからこれ以上不快感を与えないでくれ。じゃないとまた………。
「蛮ちゃん、ダメだったらそのハンカチに吐いてもいいからね」
蛮の隣に座った銀次が心配そうに、蛮の様子を伺っている。
「ああ……」
だが、蛮にはどうしてもここでは吐けない理由があった。
それは、自分の前に立っている女性だ。
あまりにもぎゅうぎゅう詰めな為、本当に蛮の鼻先くらいにまで彼女の着ている白い服が掠めるのである。
……頼むから、これ以上オレに寄るなっ。もし我慢できなくなったら、あんたの服を汚しちまう……っ。
だがどんなに我慢していても、限界というものはある。
蛮は少しずつ座っている状態にすら耐えられなくなってきて、ちょっとだけ銀次によりかかった。
ほんの少しだけだけど、この方がラクなような気がする。
「銀次……、降りたらちょっと休みたい……」
「うん、その方がいいよ」
こうして、何とか目的の駅に辿り着いた蛮と銀次は人混みの一番最後に電車を降り、そのままフラフラとホームの壁ぎわまで移動した。
もう耐えられない……というように、蛮は一つ大きく息を吐いてそのまま壁にもたれ掛かるように座り込む。
暫らくそうしていると、ホームの混雑の整理をしていた駅員の一人がこちらへやってきた。
「体調が悪いんですか? それなら駅員室へ、そこにエレベーターがありますから」
本気で蛮のことを心配してくれてたのか、それとも、この混雑したホームで座り込まれては適わないと思ったのか、駅員はそう言うと改札へと続くエレベーターへ案内してくれた。
おそらく、ぎゅうぎゅう詰めの電車の中で貧血を起こしたとでも思ったのだろう。
はっきり言って、そういう体調不良の人が何人出てもおかしくないくらい、電車の中は最悪の環境だったのだから。
銀次と一緒に駅員室へとやってきた蛮は、自分の持っていたカバンを枕代わりにそこにあるソファに横になった。
「大丈夫かい? 休んでれば直りそう? 救急車呼ばなくていい?」
駅員室で作業をしていた駅員さんの一人が、心配そうに話し掛けてくる。
「あ、大丈夫だと思いますから」
答える気すらなかった蛮の代わりに銀次が、駅員さんにそう告げる。
正直、救急車だけは勘弁してもらいたかったのだ。
もし万が一、この状態で救急車に乗って病院へ連込まれでもしたら、それこそ後で笑いのネタにしかならないであろう。
それどころか、病院の人に怒られるか、呆れられるに決まっている。
「お水とか、そこにあるから飲んでもいいよ」
「あ、有難うございます」
駅員さんの親切に素直に甘えて、蛮と銀次はそこで暫らく休ませてもらうことになった。
目的地はもうすぐそこなのに、ちゃんと動いてくれない体がもどかしい。
暫らく横になっていた蛮は、あることに気がついてバっと身を起こした。
そして、枕代わりにしていたカバンを移動させ、またすぐに横になる。
……やべえ、やべえ、あの中には次のイベントの申し込み書と今日のペーパーが入ってるんだった……。枕代わりになんかしてて、グチャグチャになったら大変だ……。
こんな時でも、そういうことにだけは気が回る自分が少し情けないような気がする。
完全にこの世界に染まり切っている証拠だ。
「蛮ちゃん、お水飲む?」
「ああ、ちょっとほしい」
横になったまま、自分の為に水を入れてくれている銀次の後姿を見ながら、……こりゃあ暫らく、あいつに頭あがんねえな……と蛮は心内で呟いた。
「はい、お水」
「ああ、サンキュ」
銀次が持ってきてくれたコップを受け取る為に蛮は少しだけ身を起こすと、一口だけコクっとそれを飲み干した。
だが、ほんの少しだけ体を起こしているのもしんどくて、コップをすぐ傍のテーブルに置き、すぐにまた横になる。
「もうちょっと休んでていいか?」
「うん、ゆっくりした方がいいよ」
横になったまま銀次に時間の了承を得て、蛮は目を閉じた。
頭の中は、焦りともどかしさでいっぱいだったハズなのに、浮かんできたのは大阪に出てくる前、実家の母がよく言っていた言葉。『チャンポンはダメよ』酒飲み一家の、有り難い教え。
……あー、それもこれも、昨夜、銀次のヤツが調子にのってきっついカクテルばっかり作るから……。
昨夜の状況と母の教えを思い出して、蛮は思わずため息をつかずにはいられなかった。
……昨日、何杯飲んだっけ……?
思い出そうとしても、よく分からない。
銀次の作ってくれたカクテルを何杯も飲み干したのは、間違いなく自分。
飲んでる時はそんなにキツイとは思わなかったのだ。
ついでに言うと、これはお世辞でも何でもなく、銀次はその人にあった好みのカクテルを作るのがうまかった。
だからつい、調子にのってカパカパいってしまったのである。
……ちょっと待てよ……。カクテルにいく前に確か、ワインも日本酒も何本かあけたよなあ……。しかも、けっこう長い時間ハイペースのまま飲んでたような………。
そう、他のメンバーが寝てしまっても、銀次と二人でゴクゴクと飲んでたような気がする。
そこまで考えて、今のこの状況は当たり前のことだが、完璧に自分自身に否があると判断した蛮は、ゆっくりと目を開けて、隣に座っている銀次の方を見た。
携帯を操作してるのが見える。
おそらくメールで、先に行ってる仲間たちに連絡を入れているのだろう。
……本当に、今回ばかりは迷惑かけっぱなしだ……。
そう思って、再び目を閉じる。
他の仲間たちや銀次には申し訳ないが、もう少しだけ体を休めたかった。
それから暫らくして、蛮はゆっくりと体を起こした。
「大丈夫?」
銀次が心配そうにこちらを見る。
「ああ、そろそろ行こうか」
万全の体調とはお世辞にも言い難かったが、これ以上のタイムロスは痛く、蛮は出発を促した。
体調も先程と比べれば幾分ましだ。
二人はさっと荷物を手に取ると、駅員さん達にお礼を言って、その駅を後にした。
「なあ、銀次……」
「んー? 何?」
会場までの道程をとぼとぼと歩きながら、蛮は銀次に尋ねる。
「もうとっくにサークル入場時間過ぎてるよなあ? 入れると思うか? まさか一般の列に並べなんて言われないよなあ」
一般の列に並んだ経験など、もう何年も前に一回キリしかないが、確かあの列に並ぶのはかなりの待時間と忍耐力を要したハズだ。
体調の悪い今は、できれば避けて通りたかった。
「大丈夫だと思うけど。もし万が一、一般の方に並べって言われたら、スタッフさんに言って救護室に入れてもらおう」
銀次の言葉に、蛮も「それもそうだな」と納得する。
スタッフも具合が悪い参加者を放置しておくことはないだろう。
……幸い、そのへんのコネはあることだし……。
最悪、スタッフをやっている仲間に助けを求めればいい。
「でも蛮ちゃん、その時は絶対に、『貧血』ってことにしとくんだよ。何があっても『二日酔い』なんて言ったらダメだよ」
「分かってるよ……」
目前に迫った会場を目にし、蛮と銀次は我ながら情けないと思いつつも、そう言葉を交わす。
幸いなことにサークルもまだ普通に入れたので、蛮と銀次が考えていた最悪の状況は免れた。
会場に入ってからも当分はまだ蛮の苦悩は続くのだが、とりあえず今は、無事目的地に辿り着けた安堵感の方が大きい。
「よかったねー。ちゃんと辿り着いたね」
「ホントにな……」
こうして、二日酔い二人組は何とか無事、イベント会場であるインテックス大阪に足を踏み入れることが出来たのだった。
おしまい
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