従業員の苦悩


 とある、不動産事務所。
 その日はたまたま、とてつもなく暇だった。
「今日のチラシに入ってた別荘地なんだけどー」
 何やら格安の別荘を見つけたらしく、この事務所のオーナーであるミハエルは、そのチラシの事業主に電話を通じて話している。
「すごくやすいよねー、水道とか下水とかちゃんと完備してあるわけ? あくまで土地と建物の価格だけとか言わないよねー?」
 電話の向こうの事業主の返答を聞きながらうんうんと頷いているミハエルの姿を、シュミットはチラリと横目で確認した。
 ……いつもはこんな別荘地の公告なんかに興味をもったりしないのに、どういう風の吹き回しだろう……と思いながら。
「ふーん。で、駅から歩いて何分くらいなわけ? え? 歩いてじゃいけない? すごく遠いから駅から送迎バスを出す? 何言ってんのさっ、そんな不便な田舎の別荘地なんかいらないよっ!!」
 ミハエルは語尾を荒げてそう言うと、ガシャンと電話を切った。
 その様子を見ていたシュミットは、フウっとため息を一つ。
「別荘なんだから、不便な田舎に決まってるでしょう……」
「あー、いいの、いいの。暇潰しに電話してみただけだから」
 暇すぎるというのは、たまにまったくの赤の他人にとんでもない被害をもたらすことがある。
 単なる暇つぶしの相手にさせられ、最後には怒鳴られて電話を切られてしまった相手方にとっては、たまったもんじゃないだろう。
 あまりの退屈さに二人しておもいっきりため息をついた時、ちょうど事務所のドアが開いた。
「サン■リーですけど、ちょっとお話したいことが」
 入ってきた男は、確かにそう言った。
「あー、はいはい」
 ミハエルがその男の接客のために、席を立つ。
 一方、シュミットは。
 ……な、何? サン■リーだと?! ということは、酒か? 酒の訪問販売か?!……
 酒の訪問販売なんてものが存在するのかどうかは知らない。
 だがシュミットはこの時、間違いなく瞬間的にそう思ったのである。
 ……一体、どんな酒を持ってきたんだ……?
 暫らく一人で頭を悩ませていると、ふいにその男とミハエルの話し声がしなくなったことに気づいた。
 どうやら、二人で外へ出ていったらしい。
 ……そんな、ここでは出来ないような商談なのか?!……
 シュミットの思考は完璧に間違っていた。
 しかし、本人は至って本気だった。
 ……それにしても、どうしてこんな不動産事務所なんかに酒の訪問販売が……。やはり、金持ちが居そうなとこを狙ってきたのか?ということは、持ってきてた酒も一級品?!……ハッ、こうしちゃいられないっ、そんなすごい酒を持ってきてくださった方だ。粗相のないようにお迎えしなくては。きっともう一度戻ってくるだろうから、ここは私の自慢のとびっきり美味しいコーヒーでもいれて……。
 一人であれやこれやと思考しながら、コーヒーをいれる準備をし、シュミットはあたふたと二人が戻ってくるのを待っていた。
 しかし、事務所の扉が開いて戻ってきたのは、ミハエル一人だけだった。
 もちろん酒など手にしてはいない。
「何だったんですか……?」
 期待はずれの光景に、シュミットがぽつりと呟く。
「うちの事務所の横に自動販売機を置かしてくれないかっていう話だったんだ」
「自販機……?」
 ここまで言えば、普通誰だって気がつくだろう。
 だが、すっかりうかれていたシュミットの頭にその事実は浮かんでこなかった。
 ……そ、そうか、サン■リーは酒の自販機を置くために……。
 そう、これでもまだ、「酒」という文字を切り離すことは出来なかったのである。
「一応OKしたけど、ちょっと道路にはみ出しそうだからどうなるか分からないんだ。もし設置できたら、これからはすぐジュースが買いにいけるね」
 ミハエルの説明に、一瞬、シュミットの思考回路は硬直する。
「は……? ジュース………?」
「そうだよ、何驚いてんの?」
 ピタっと動きの止まってしまったシュミットを覗き込みながら、ミハエルが不思議そうに問う。
「……ジュース?」
 顔は硬直させたまま、もう一度呟いたシュミットに、ミハエルはさらに不思議そうに口を紡いだ。
「そうだよ。サン■リーだよ、自販機だよ。当たり前でしょ?」
 当たり前……。
 そう言われてみれば、そうなのかもしれない。
 普通の人間ならまず、サン■リーと聞いてジュースを思い浮べるだろう。
 どうしてシュミットはそれを、「酒」と思い込んだのか。
 それについては、深く突っこまないで欲しい。
 本人もこの後十分に自己嫌悪に陥ったということらしいので。
「ミハエル……、どうしてわざわざそんな話を聞いてたんですか?いつもなら仕事に関係ない人間は追い返すのに」
「んー、暇だったから。あ、それよりシュミット、僕の為にコーヒー入れてくれたんだね、ありがと! ちょうど喉が乾いてきたトコだったから、早速いただくよ」
「どうぞ……」
 ミハエルの為の飲み物となってしまったコーヒーを、シュミットは力なく彼の前に差し出した。
 何はともあれ、人間の思い込みとは、素晴らしいものだという話である。

 日付は変わって、次の日。
 この日はたまに手伝いにきているエーリッヒも加わって、事務所は三人だった。
「というわけで、自販機置くかもしれないんだ。電気代はこっちもちらしいんだけどね」
 昨日の経緯を知らないエーリッヒに、ミハエルが嬉しそうに説明する。
 しかし、そんなミハエルとは裏腹にエーリッヒはおもいっきりしかめっ面である。
「電気代こっちもちなんて、冗談じゃないですよ! 経費の無駄です!」
 どうやらエーリッヒは、この自販機設置には反対らしい。
 まあ、彼の性格上、分かり切っていたことではあるが。
「えー、でもそんなにたいして電気代かからないらしーし」
「とにかく、僕は反対です!」
 ピシャリとエーリッヒに言われて、ミハエルはそのまま押し黙った。
 エーリッヒの勢いに負けるようなミハエルではないが、そんな商売に関係のないどうでもいいことで言い争うのも、時間の無駄だと思い直したからかもしれない。
「まあ、いいや。ところでさ、二人とも」
 とりあえず自販機の話は中断して、ミハエルはシュミットとエーリッヒの前に、ばさっと紙の束を差し出した。
「この収益マンション、買おうと思うんだ。取引は一週間後だから必要書類用意しといてね」
 そう、二人の前に置かれたのは、マンションの契約書と重要事項だったのである。
「いくらだったんですか?」
 恐る恐る、エーリッヒがミハエルに尋ねる。
「うーん、ほんの一億円だよ。安いと思わない?」
「それは、安いですね」
「でしょでしょ」
 ミハエルとエーリッヒのやりとりを聞きながら、シュミットは思わずにはいられなかった。
 ……エーリッヒ、お前、自販機の電気代はケチるくせに、一億円の収益物件は安いと思うのか……お前こそ、金銭感覚おかしいぞ……と。
「いつのまに契約してたんですか?」
 ミハエルとエーリッヒの話に割り込ませ、契約書をペラペラとめくっていたシュミットが尋ねる。
「三日前だよ。さっきも言ったとおり、取引は一週間後だから。あ、銀行の融資のOKももらってるから」
「………」
「………」
 ここへきて、シュミットとエーリッヒは同時に沈黙した。
 普通に考えてくれれば分かるだろう。
 契約したのは三日前。
 しかも、すでに銀行の融資のOKは出てるという。
 普通、たったの三日で一億円もの融資が決まるわけはない。
「ミハエル、冗談言わないでください。いくらなんでも三日で融資が決まるわけが………」
 シュミットがそう言い掛けて、しかしその言葉は、ミハエルのキッとした目付きによって阻まれた。
「決まったんだよ。なぜかって? それはね……」
 ミハエルはそこまで言って、フッと笑った。
 そして。
「僕だからだよ」
 堂々と、そう言い切ったのである。
「あ、ちなみに僕、明日から暫らく旅行に行くから、留守は頼んだよ、シュミット」
「え? 旅行って……取引は一週間後じゃ……」
「それまでにはギリギリ戻ってこれるから。取引の準備だけしといてね」
 ミハエルの気紛れぶりはよーく分かっている。
 今更突然旅行に行くと言われても、あまり驚きもしない。
 ……まあ、エーリッヒがいれば何とかなるだろう……。
 そう思ったシュミットの考えは、甘かった。
「あ、シュミット、僕も明日から暫らく旅行に行きますんで、あとはよろしくお願いします」
「なに?!」
 満面の笑みでシュミットを見つめるミハエルとエーリッヒに、シュミットは冷汗を流しながらたじろいだ。
 ……私にひとりっきりで、仕事をしろというのか………っ。
「あとはよろしくね」
「よろしくお願いします」
 こうして、シュミットは一人、契約から取引までたった十日という異例の早さの、取引前の準備を押しつけられたのだった。

 取引前の準備。
 はっきり言って、それはたいしたことではない。
 必要な書類を揃えておけばいいだけの話なのだから。
 もちろんそんなことに、一週間もかかりはしない。
 ミハエルとエーリッヒの留守中、シュミットの仕事用のバックの中には、いつもこっそり、とあるフロッピーが忍ばせてあったことは、本人しか知らない。
 そう、まさか、事務所で堂々と原稿をやっていたことなど……。
 ちなみに自販機は、結局この事務所には置けず、新しく購入したマンションの前に置くことになったらしい。

     おしまい

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