従業員の苦悩 其の弐
ここは大阪市内のとある、小さな不動産事務所。
ワンマン社長であるミハエルと、従業員のシュミットとエーリッヒの三人で切り盛りしている本当に小さな事務所だ。
ちなみにエーリッヒは常勤ではないので、仕事が暇な日は事務所に顔を見せない。
はっきり言って、その日は暇だった。
よってもちろん、エーリッヒの姿はない。
「わあ、この土地すっごくいいよ。南向きだし、地型もいいし。ほらほら、チョンチョンチョンってようかん切るみたいに区画割りして、家が建てれるよ」
他の不動産業者から回ってきた土地の資料を見ながら、ミハエルはシュミットに同意を求めた。
「そうですね……」
ため息をつきたい気分をぐっと堪えて、その資料を覗き見たシュミットはミハエルに同意する。
心の中で……土地をようかんと一緒にするのは、貴方くらいのものですよ……と呟きながら。
「買おっかなー。ねえ、どう思う?」
「その辺の地域はうちの管轄外でしょう。そこの土地柄に詳しい業者の意見を聞いた方がいいんじゃないですか?」
「それもそうだねー。じゃ、そうする」
そう言ってどこかの業者に電話をかけ始めたミハエルを見て、シュミットは心の中でため息を一つ。
どうもこの人は、事業用の土地を買う時と、普通に日用品を買う時と、たいして差がないような気がするのは気のせいではないだろう。
自分が気に入ったもの……土地は間髪入れずに買い付けを入れようとするミハエルのその様は、見ていて恐いくらいだ。
だが、事業に対するカンというものは、他の誰よりもずば抜けているらしく、対して調査もせず買った土地でさえ、売れ残ったことは今まで一度もないのだから、不思議だ。
「外、暑そうだねえ」
電話を終えたミハエルは、何の前触れもなく外を眺めると、そう呟いた。
「もう真夏日ですからね、そりゃあ暑いでしょう。此処は冷房が効いてるからいいですけど」
どうやら電話の方は、相手先の業者が明日までに詳しい情報を調べといてくれるということで、終わったらしい。
「僕、これから電気屋さんに行ってくる。ちょっとほしいものがあるから」
ミハエルの手元を見ると、そこにはすでに先程の土地の資料ではなく、大手電気屋のでっかいチラシが広げられていた。
「それなら私も一緒に行っていいですか? ちょうど新しいノートパソコンを買おうと思ってたんで」
「うん、いいよ。どうせ暇だし、一緒に行こう」
こうして、二人は仕事をほっぽりだし、ミハエルの車でとある電気屋へ向かったのである。
「ねえ、シュミットまだー?」
すでに自分の買物を終えたミハエルが、ひょこっとシュミットの前に現われる。
「ちょっと待ってください。今ローンの審査中なんです」
何でもかんでも現金で購入してしまうミハエルとはわけが違う。
シュミットは高額のものを買うときは、たいてい自分の払える範囲でローンを組むのだ。
「えー、審査なんかいーよ。早くしてよ。ねえ、何にも悪いことなんかしてないからさ、問題ないって」
シュミットに食って掛かっても仕方ないと判断したのか、ミハエルの口先は店の店員に向けられたものになっている。
「もうすぐ信販会社の方から連絡があるんで」
困ったように汗を拭いながら、店員が答えた。
「そんなの待たなくても大丈夫だって、僕が保証するから」
まるで、仕事でお客さんの住宅ローンを持ち込むときと、同じ口振りである。
少々内容の悪いお客さんでも、ミハエルはいつもこのテで住宅ローンを通してしまうのだ。
はっきり言って無茶苦茶である。
何でミハエルの無茶な言い分が銀行相手にとおるのか、その理由は誰も知らない。
だから、誰もが思うのだ。
こいつはいったい、何者なんだ……と。
「ねえ、大丈夫だからさ、早くして」
「は、はい。こちらから問い合わせてみますんで」
ミハエルの言葉にタジタジになった店員は、おずおずと手元の電話をプッシュし始める。
ここでちゃんと誠意ある対応をしないと、客に逃げられるとでも思ったのだろう。
シュミットはそんなやりとりを横目で見ながら、とてつもなく恥ずかしくなった。
そして思う。
やはり、この人と一緒に来るんじゃなかったと。
数分後、ローンのOKをもらったシュミットと、自分の買物を済ませたミハエルは外に止めてある車へと移動していた。
シュミットの方は、ちょうど在庫切れだった為、後日配達ということになったので荷物は少ない。
「じゃあ、シュミット、僕これから現場でお客さんと待ち合わせしてるから」
ミハエルはそれだけ言うと、さっさと自分だけ車に乗り込み、ブーンと走り去っていった。
「え………?」
突然去っていった車の後ろ姿を見つめながら、シュミットは茫然とその場に立ちすくむ。
「ま、まさか、ここから歩いて帰れって言うんですか……?」
こうして、シュミットは炎天下の中一人でながーい事務所までの道程を歩いて帰ることのなったのである。
シュミットにとって、先程ローンをくんで買った商品が在庫切れだったことが、唯一の救いだった。
あんな荷物を持って、歩き続ける気にはとうていなれないからだ。
……やっぱり、ミハエルと一緒に行くんじゃなかった……。
シュミットは事務所までの帰路を辿りながら、何度も何度も心の中でそう呟いた。
おしまい