従業員の苦悩 其の参


 それは、お盆休みも最終日となったある日の夕方のことだった。
 不動産屋のお盆休み、正月休みは長い。
 その理由はいたって簡単で、盆や正月に家を買う人間など滅多にいないからである。
 よーするに、客が来なければこちらも暇なのだ。
 誰も居ない不動産事務所に忍び寄る影。
 営業日でもないのに、ガラガラっとシャッターの開く音。
 時間は夕方五時過ぎ。
 通常の営業日であっても、彼の事務所はいつも五時閉店なのでこの時間に人が訪れることは滅多にない。
 あるとすれば、そう……、それは、侵入者の影。
 ……この時間なら大丈夫なハズ……。
 シュミットは持っていた合鍵で事務所の鍵を開けると、さも当然のようにソレの入ったバッグを片手に中へ入っていった。
 少し暗めの室内に、電気のスイッチを入れる。
 休みの間の一週間、誰も使っていなかった事務所。
 それは、休みに入る前にシュミットが最後に見たもののハズだった。
 しかし。
「なっ、なんじゃこりゃっ?!」
 明るくなった室内に目を走らせて、シュミットは愕然とした。
 机の上には資料が散らばり、床にはゴミが何か区別のつかない白い紙が錯乱している。
 机の引き出しは開けっ放し。
 そしてなぜか自動受信のハズのFAXは何も印刷されていない白い紙を排出している。
 ……ど、泥棒かっ……?!
 シュミットがそう思ったのも無理はないだろう。
 事務所の中はそれほどまでに、荒らされていたのである。
 だが、シュミットが警察に連絡を入れることはなかった。
 当たり前だ。
 今の彼はそんなことができる立場ではないのだ。
 ……ったく、余計なテマを……っ。
 事務所を荒らした犯人に腹立たしさを感じながらも、シュミットは自分の仕事を実行すべくコピー機のスイッチを入れた。
 そして、立ち上がりの遅いコピー機を後にしてせっせと床に散らばった紙屑を拾い集める。
 こんなことをする為に此処に来たのではないのだが、どっちにしてもこの室内を放っておくわけにはいかなかった。
 この状態を無視すれば、困るのは明日の朝の自分なのだ。
 ササっと机の上と床を片付けて、シュミットはチラっとFAXの方へ目を向けた。
 何も印刷されていない白い紙が何枚も積み重なれている。
 シュミットはそれらの紙をとりあげ、まるめて、すでにいっぱいになっているゴミ箱に無理矢理詰め込むと、バっとFAXの上部を開いた。
 ピーピーとFAX本体から異常を知らせる音が響く。
 だがそんなこともおかまいなしに、シュミットはすでにセットされているFAX用紙を外し、反対方向にセットし直してから、FAXの上部を閉じた。
 それと同時に、ピーピーという耳障りな音も鳴り止む。
 ……だれだよっ! FAX用紙反対にセットしたヤツは……!
 ああ、クソ!
 私はこんなことをしに来たんじゃないんだっ……!
 そう思いながらも、ミニキッチンに移動し、明日の為の麦茶を湧かす準備をしている自分が、シュミットは少し嫌になった。
 先程スイッチを入れたコピー機はすでに立ち上がっている。
 後はこのお茶が湧くのを待って、自分の用事をすませてしまえば終わりのハズだ。
 だがシュミットは、そんな時に限ってどうでもいいものを目に入れてしまった。
 そう、先程ぎゅうぎゅうに押し込んだゴミ箱である。
 ……捨ててこ……。
 此処まで片付けたのだから、ものはついでである。
 シュミットはゴミ箱を持って外にでると、外に備え付けてある大きめのゴミ入れにそれを移し替えた。
 と、その時。
 ププーっと、どこかで聞いたような車のクラクションが鳴った。
 スピードを落としてブーンと通り過ぎていくのは、いつも目にしている、とある人物の車。
 大きな道路添いに面しているこの事務所からなら、嫌でも目に入る。
 ……な、何でこんな時間にっ……!
 シュミットは焦った。
 マジで焦った。
 そう、車の人物は紛れもなく、この事務所の社長であるミハエルと、そしてその愛犬モモちゃんだったのだから……。
 ……さて、どうするか……。
 焦っている割りに、頭の中は冷静にその対処方法を考えている。
 とりあえずシュミットは、ミハエルが車を下りてこちらに来るより先に、事務所の中に戻ることにした。
 そして一応、先程湧かしたお茶の火を止めておく。
「シュミットーっ、来てたんだね!」
「ワンワン」
 数分後、ミハエルの声と子犬の鳴き声が事務所に響いた。
「ええ、明日の朝お客さんに出すお茶がないと困ると思って、湧かしにきたんですよ」
 はっきり言って、この言い訳は嘘ではない。
 一応、シュミットが今此処に居る理由の一つである。
「それより、この事務所、まるで泥棒が入った後のような惨事になってましたが……?」
「あ、うん。昨日此処で僕、仕事してたんだ」
「そうですか……」
 ミハエルの答えを聞いて、シュミットは一つため息をついた。
 ……どうして、この人に一人で仕事をさせると、こんなに散らかるんだろう……と思いながら。
「それから、FAX用紙が反対にセットされてましたけど?」
「ああ、アレ反対だったんだ! どーりで白い紙しか出てこないと思ったんだよ!」
 普段FAX用紙など取り替えたことのないミハエルにとって、その仕事はとても難しいことだったのだろう。
 たかだか、FAX用紙をセットするだけのことが……。
 ……頼むから、一人でこの事務所に来ないでくださいよ……。
 シュミットは心の中でそう呟いたが、もちろんそれを言葉にすることは出来なかった。
 べつに、ミハエルが一人で此処で仕事をすることが嫌なのではない。
 その後に、シュミットに降り掛かる後始末が嫌なのだ。
「キャンキャン」
 机にもたれるようにしてため息をついていたシュミットに、ふと柔らかいものがまとわりついてきた。
 ミハエルの愛犬、モモちゃんである。
 彼(オスらしい)は普段仕事をしている机の上を我がもの顔で歩き回り、シュミットに構ってもらおうと必死で短い前脚をひっかけてくる。
「どわっ、舐めるなって」
 前脚を胸のあたりにかけられ、ペロペロとシュミットの頬を舐めだしたモモちゃんに、シュミットは一瞬ひるんでしまった。
 そしてその隙に、モモちゃんがシュミットの口元に自分の口を当ててくる。
「わあっ、キスはやめろって! ていうか、人の胸に脚かけんなよっ、実はHだろ! おまえっ!」
「キャンキャン」
「アハハ、シュミット気に入られちゃったんだね」
 楽しそうに(?)じゃれあうシュミットとモモちゃんの姿を見ながら、ミハエルはケラケラと人事のように笑っている。
 そんなミハエルの視線が、ふと彼らからそれて、コピー機の方に向けられた。
 スイッチが入ったままのコピー機。
「あれ? 僕、コピー機のスイッチ消し忘れてた?」
「あ、いえ、私が使おうと思っていまつけたんです」
「あ、そう」
 かろうじてモモちゃんのペロペロ攻撃から脱出したシュミットは、そう言うとコピー機の前に近付いた。
 今日此処に来た本当の目的。
 ミハエルの居る前でそれを実行することは、普通に考えれば出来ない。
 そう、これはあくまで私的な仕事なのだ。
 しかも、知らない人に見られては、とっても困る裏のお仕事。
 だが、この時のシュミットはなぜか自分の中ですべてをふっきっていた。
 元来細かいことを気にする性格ではないのだ。
 目的の為に、手段は選ばない。
「コピー機借りますね」
「うん」
 ミハエルの返事を待って、シュミットは持ってきたバックからソレを取り出した。
 そう……コピー誌の表紙用の原稿と、それを印刷する特殊紙を。
「コンビニとかだと、この紙に刷れないんですよね。手差しコピーできないようにしてますから」
「あー、そうだね」
 シュミットのその奇妙な仕事(?)にまったく動じないミハエルもミハエルである。
 はっきり言って彼は、シュミットが趣味で小説を書いていることを知っている。
 そしてそれを、売り捌いていることも。
 もちろん、その内容に関してまでは知らないみたいだが。
 たまに「僕をモデルにかいてよ」とまで言ってくるのだから、かなりの大物だと言っていいだろう。
 彼にバレたのには、いろいろな理由がある。
 ゲスト原稿が親切な(?)宅急便屋さんによってこの事務所に届いてしまったり、印刷会社から電話がかかってきたり、締切間際のシュミットが焦ってこの場所でノンブルを打っていたり……。
 東京のイベントに行く理由として、ミハエルに「商売に行くんです」と告げてみたり。
 あくまでそれが「同人」というものである、ということだけは告げていないが。
 ミハエルは、ただたんに作家さんの卵が自分たちで本を作ってその本を売ってる……と思っている。
 だから、その内容までは知らない。
 ミハエルの前で堂々と表紙をコピーしながら、シュミットはそれでも、……この表紙、絵がなくてよかった……と思っていた。
 さすがに絵を見られるのは恐い。
 自分は小説書きだから誤魔化せるが、絵があるとそうはいかない。
「この本、できたらいくらで売るの?」
 コピーし終わった空のトーンがはってある表紙を見ながら、ミハエルがシュミットに尋ねる。
「タダですよ」
「何で?」
「だって、原価タダですから」
「あ、そうだね。じゃあボクにも一冊ちょうだいよ」
「それだけはできません!!」
 シュミットが力いっぱいそう言うと、ミハエルは「ケチ」と言ってモモちゃんを抱き上げた。
 だが、それ以上は何も言わない。
 シュミットが私的にコピー機を使ってることも、この本がどんな内容なのかも。
 おそらくミハエルにとって、それはあくまで暇つぶし程度の興味であって、本当はさしたる関心はないのだろう。
 だからシュミットも、こんなミハエルの態度にはビクビクしつつも安心していた。
 この人ならいくらでも誤魔化せるし、事務所の器材も使いたい放題……と。
「じゃ、コピーも終わりましたし、お茶が冷めたら私は帰りますけど?」
「あ、うん、僕も帰るよ。別に用はなかったし」
 こうして、ひととおりの仕事を終えたシュミットは、この事務所に侵入してから一時間後、何事もなかったように帰路についた。

 シュミットの同人生活と、この事務所との関係は紙一重。
 利用はできるが、バレる可能性も高い。(いや、はっきり言ってほとんどバレているが)
 今後もこの生活を続けるのは心臓に悪いな……と思いつつも、シュミットはその後、小説の本文もペーパーさえも、この事務所でこっそり刷ってしまうのであった。
 そう、ミハエルとシュミットしか持っていない事務所の鍵を、夜中にこっそり使って。

                                  おしまい

 

注意 よいこの皆さんは、このお話のようなことをするのはやめましょう。普通の会社だと絶対にマズイと思います。……うちの職場環境が異常なのです……。

 

BACK

TOP