コマタさん(仮名)への道


 それは、とある印刷会社のセットの締切が近付いてきたある日のこと、ふとシュミットの脳裏に嫌な予感が過った。
 このセットを使う予定の新刊は、来週に迫ったONLYあわせのもの。
 だが、よく考えてみればこの日は他の大きなイベントと日にちが重なっている。
 しかも、そろそろ冬コミあわせの早期締切にさしかかる頃ではなかろうか。
 はたして、この時期にこのセットが使えるのか?
 普通、忙しい時期にはセットの締切も早くなるもの。
 もしかして、来週あわせの本の締切などとっくに過ぎているのではなかろうか?
 徐々に不安になってきたシュミットは、カタカタとワ−プロを打っていた手を止め、すくっと立ち上がった。
 そして、目的の印刷会社の電話番号を自分の携帯のアドレスの中から検索する。
 携帯に印刷会社の電話番号を入れてあるあたり、すでにカタギの友人には絶対に貸せないものになっているのだが、本人はそんなことはまったく気にしていない。
 要は自分に便利なものであればいいのだ。
 そして目的の電話番号を見付けると、シュミットはその番号を表示させたまま、自宅の家庭用の電話の受話器を手に取った。
 決して裕福な同人生活を送っているわけではない彼にとって、それは当然の行動である。
「※※セットで ×日のイベント合わせなんですが、締切いつでしょうか?」
 「もう終わってるよ」と言われたらどうしようと内心ドキドキしながら、シュミットは電話の向こうの人に尋ねる。
「ああ、それなら三日後だよ。必着ね」
 三日後ということは、通常の締切と同じ。
 その答えを聞いたシュミットはホッとした。
 しかし、それも束の間。
「インテあわせでしょ? それなら直接搬入で三日後締切。これでギリギリだね。今忙しいから」
 インテあわせ? いや、それは違う。
 この本は同日に開催されるONLYあわせなのだ。
「インテあわせじゃないんですけど」
「ああ、それなら直接搬入は無理だね」
「じゃあ、前日自宅発送で……」
「う−ん、それだと納期が短くなるからねえ、ちょっと無理かなあ。もうちょっと早く入れてくれない?」
 印刷会社の人の言葉を聞いて、シュミットはチラッとさっきまで打っていたワ−プロを伺い見た。
 今のペ−スでは、どう考えても三日後締切がギリギリ。
 いや、正直言って、それすらもかなり厳しい。
「それは、ちょっと無理っぽいんですけど」
 今更「分かりました、すぐに入稿します」なんて大見栄を切っても仕方がない。
 無理なものは無理なのだ。
「う−ん、それじゃあ、イベント前日の夜にうちまで取りに来てくれないかな?」
「へ?」
 スラッと流された印刷会社の人の言葉に、シュミットは一瞬我が耳を疑った。
 ……ちょっと待て! 普通、そういうことはこっちの住所を聞いてから言うもんじゃないのか!
 これで俺んちが北海道だったらどうするつもりなんだ?!……
 と思ってはみたが、もちろん言葉にはしない。
 印刷会社を敵にまわすことほど、同人作家にとって恐ろしいことはないのだから。
「あ、君、家どこ?」
 シュミットが一人で怒り(?)を堪えている中、思い出したかのように印刷会社の人が尋ねてきた。
「大阪市内です……」
「大阪の何処?」
「住吉区です……」
「あ−、じゃあちょっと遠いね」
 確かに、目指す印刷会社はちょっと遠いくらいで行けない距離ではない。
 いや、行けないなんて言ったら、地方に住んでいらっしゃる同人作家さんからお怒りの言葉をちょうだいするに決まっているだろう。
「夜七時から八時くらいになると思うんですが、それでもいいでしょうか?」
 その日に仕事が終わる時間と、此処から印刷会社までの距離を考えて、シュミットは尋ねた。
「ああ、それなら助かるよ。遅いほうがこっちもギリギリまで作業できるからね」
 ……そうか、遅いほうが助かるのか……本当に切羽詰まってるんだな……
 シュミットは印刷会社の苦労を察しつつ、とりあえずイベント前日のスケジュ−ルを頭の中で確認した。
「じゃあ、来週の土曜日の夜に伺わせてもらいますんで」
「は−い、わかりました。じゃ、頑張ってね」
 印刷会社さんの明るい声によって、その電話は切られた。
 最後の「頑張ってね」という言葉は、間違いなく「原稿頑張ってね」ということなのだろう。
 ……いらん予定が増えてしまったな……と思いながら、シュミットは再びワ−プロの前に座り直す。
 そして、すっかり忘れかけていた事実を、シュミットは思い出したのだ。
「しまった! 来週の土曜日ってブレットが泊りにくるって言ってたんじゃないのか?!」
 そしてこの日は、同居人のエ−リッヒも帰りが遅くなると前々から言っていた日。
「ブレットを一人、この家に置き去りにしていくか……、それとも巻き添えにして印刷会社まで連れていくか……」
 この日から、長いようで短い印刷会社コマタさんへの道は、スタ−トしたのである。


 ということで、いっきにとんでコマタさんと約束した土曜日の夕方。
 シュミットは、梅田の駅でブレットと待ち合わせをしていた。
 本人との交渉の結果、結局一緒に行くことになったのである。
 ただし、シュミットがブレットにこの日の夕食をおごる、という条件つきで。
 もちろん、原稿の方は締切ギリギリになんとか入稿をすませてある。
「え−と、阪急阪急……俺、阪急ってあんまり乗ったことないんだよな……」
「あっちだろ」
 一人でうろうろしているシュミットをよそに、地元人でないブレットが先にすたすたと歩いていく。
 こういう時、方向感覚のある友人は役に立つ。
 地元人のくせにうろうろしていたシュミットは、別にそれを恥じることもなく「あ、そうか」と急いでブレットの後をついていった。
 彼は元来、細かいことは気にしない性格なのである。
「え−と、特急に乗ると二駅目だから、意外に早く着きそうだな。市外だから時間かかるかと思ったが……」
 しっかりもののブレットの後について、シュミットも目的の電車に乗り込む。
 目指す印刷会社コマタさんは、大阪府内。
 時間さえあれば、十分に行ける場所なのだ。
 幸いしっかり席も確保でき、たわいもない話をしながら、二人の乗った電車は目的の駅目指して進んでいった。

「印刷会社のマニュアルにあった地図には、バスで行けって書いてあるが?」
 目的の駅に着いたブレットは、次の交通手段についてシュミットに尋ねた。
「タクシ−で行く。間違えたら嫌だし」
「とりあえず、バス乗り場に行くか。タクシ−乗り場もすぐ近くだし」
 ブレットはとりあえずバスの方を確認してから、無理そうならタクシ−でという考えのようだったが、シュミットははなっからそんな気はなかった。
 そう、彼の頭の中にはすでに「バスで」という言葉はなかったのである。
 ブレットがバスの方を確認し、とりあえず時間が合わないことが分かったので、二人はタクシ−乗り場の方へ。
 その時、……まあ、たいしてタクシ−代はかからないだろう……と、安易に考えていたシュミットの耳に、ブレットのある言葉が飛び込んできた。
「俺さあ、この地図見る限りだと、けっこう遠いような気がするんだよな。タクシ−代跳ね上がりそうだな……」
「……え?」
 まったく予期していなかった言葉に、シュミットの脳裏は一瞬真っ白になる。
 ……たしかに、バスで行けと書いてあるということは、歩いていける距離ではないということ……。
「あ、タクシ−来たぜ」
 暫らく待たされたタクシ−だったが、それが到着するや否や、二人はさっそくそれに乗り込んだ。
 乗ってしまった以上、お金のことは諦めるしかない。
 シュミットはざっと今の手持ちの現金を計算すると、何とかなるだろうとタカをくくって、行き先の地図を運転手に渡した。
「ここに行きたいんですけど」
「え−、駅は此処か……で、目的地は……」
 とりあえず車を出しながら地図を確認する運転手を見ながら、シュミットは少しドキドキしていた。
 何せ、目的地は同人誌の印刷会社なのだ。
 もしこの運ちゃんがおしゃべり好きで、深く突っ込まれたらどうすればいいのか。
 まあ、もちろん適当に誤魔化すつもりではいるが。
 だが、次の瞬間、運転手が放ったその言葉は、実に意外なものだった。
「ああ、コマタの印刷屋さんね。分かった分かった」
 ……ナニ?!……

 その発言に、シュミットとブレットは思わず顔を見合わせた。
 ……この運ちゃん、知ってるのか?! 自分たちと同じように、コマタさんに行く同人作家さんを乗せたことがあるのか?!……
「あ、この地図いいよ。知ってるから」
 返された紙切れを受け取りながら、シュミットとブレットは二人して動揺していた。
 まさか、「コマタさん」が普通のタクシ−の運ちゃんに通じると思わなかったのだ。
「大分前に、乗せてったことがあるんだ」
 運ちゃんはそう言うと、迷うことなくハンドルを切り、コマタさんへ向かう道を走り

だした。
 しかし、これがまたよく信号にひっかかる。
 運ちゃんには分かっていても、シュミットとブレットにはコマタさんの位置は分からない。
 二人の視線は乗っている間中、いつ跳ね上がるんじゃないかとドキドキしながら、タクシ−の料金メ−タ−に集中していた。
「たしか、  町だったよね?」
 メ−タ−に集中している二人をよそに、運ちゃんが話し掛けてきた。
 ……町名まで覚えてるのか?!……
「あ、はい、え−と………」
 そう思いながらも、そんなものはまったく覚えていないシュミットは、先程の地図をカバンの中から取り出そうとする。
 だが、思いに反してその紙切れはなかなか出てきてくれない。
「あ−、いいよいいよ。引っ越してなければ、  町であってる筈だから」
 悪戦苦闘しているシュミットをバックミラ−で確認しながら、運ちゃんはそう軽く流した。
 駅前から離れていくと、やはり町並みはどんどん淋しくなっていく。
 それでも運ちゃんは迷うことなく、自信を持って突き進んでいた。
 恐らく、二人が料金メ−タ−を凝視していたことも、バレバレだったに違いない。
「ほら、見えてきたよ。あの建物」
 運ちゃんが指差す方向を見ると、そこには確かにコマタさんの看板がかかっている建物があった。
「じゃ、あの前でおろしてあげるよ」
 親切な運ちゃんはコマタさんの前で車を止めると、後部座席のドアを内側から開いてくれた。
 気にしていた料金も、思ってたより安くてシュミットはホッとした。
 悪質な運転手だと、わざと違う道を通ったりして、余分な金を取ろうとするヤツもいるのだ。
「ありがとうございました−」
 料金を払って、タクシ−を降りると、二人はコマタさんの前でその建物を眺めた。
 どこをどう見ても、普通の家の一回を店舗にしているだけの、普通の印刷会社にしか見えないのだ。
 その証拠に、ガラス張りのドア近くには、しっかりと「年賀状印刷承ります」と貼り紙がしてある。
 どう見たって、町の小さな印刷屋さん。
 しかも、外から伺ったところ、一階の印刷会社には誰も居ない。
「そう言えば、遅くなるなら二階に来てくれって言われた」
 家を出る前のコマタさんとの確認の電話を思い出して、シュミットはそう呟いた。
 そして、二人で二階へと続く階段を上っていく。
 そして二階の扉の前に立つと、シュミットは首を傾げた。
 どう見たって、普通の家の玄関なのだ。
 しかも、インタ−ホンがない。
「あ、インタ−ホンあんなとこにあるぜ」
 仕方なくコンコンとノックしようとしたシュミットの耳に聞こえてきたのは、後からついてきていたブレットの声だった。
 見ると、確かに踊り場のようになっている階段の途中に壁にインタ−ホンが設置されていた。
「何でこんなとこに……」
 不思議に思いながらも、二人はそのインタ−ホンを押してみた。
 すると。
「は−い」
 ちゃんと声はしたのだが、問題はその返事があった方向だった。
 二階の玄関でもない。
 インタ−ホンの向こうでもない。
 そう、一階だったのだ。
「あれえ、さっき誰も居なかったのになあ」
 しかし、二人が下に下りてみると、そこには確かに、印刷会社の中で働いている数人の人物の姿があった。
 ……さっきは居なかった。確かに居なかった。何で突然現われるんだ……
 ガラス張りの向こうの数人の人物を見て、二人はそう思った。
「すみませ−ん。本取りに来たんですけど」
 とりあえず中に入って、そう言うと、どこかで見たことのあるおばちゃんが、出来上

がった本を渡してくれた。
「あ−、これやね。わざわざ取りに来んでも送ってあげたのに」
 ……いや、発送が間に合わないから取りに来いって言ったのは、そっちだろ……
「あ、いえ。ありがとうございます」
「何で来たん? バス? タクシ−?」
「タクシ−で……」
「あら、そう。帰りはバスにしんさい。バス亭すぐそこやから」
 ……このおばちゃん、コマタさんのマニュアルにのってたおばちゃんそのまんまかも……
 なにげに印刷所の奥の方を見てみると、やはりこれまたどこかで見たことのあるよう

なおじさんが座っている。
「バスの時間見てあげるわな」
「あ、ありがとうございます」
 気の利いたおばちゃんの好意に甘えて、バスの時間を見てもらっている間に、二人は

なにげに目の前の机に置かれていたそれに、視線を落とした。
 そう、それは、先程此処に入ってきて、一番に二人の目に飛び込んできたものでもある。
 どこぞやの同人作家さんの、カラ−原稿……。
 まさか、こんな入ってすぐの場所にこんなものが置いたろうとは夢にも思わなかったのである。
 表の貼り紙を見ても、この雰囲気を見ても、町の普通の印刷屋さんにしか見えないコマタさん。
 一般の客だって入ってくるだろうに……。
「あ−、次は42分やね。ちょっと時間があるけど、前の便が遅れてることもよくあるから、行ってみ」
「あ、はい、分かりました。有難うございました」
「バス亭はあそこやで」
 わざわざ外に出て、バス亭の場所を指し示してくれたおばちゃんに挨拶をして、二人はすっかり暗くなった道をスタスタと歩きだした。
 そして、暫らく歩くと、二人は我慢できなくなったかのように、プ−っと吹き出した。
「ほんとに、あのマニュアルのまんまの人たちだったな」
「ああ、ほんとに。でもいいおばちゃんだったよな、あのタクシ−の運ちゃんも」
「今日は楽しい一日を過ごさせてもらったぜ」
 こうして、二人は無事明日のイベント合わせの新刊をゲットし、その日の役目を終えたのである。
 タクシ−の運ちゃんと、コマタさんの皆に対して、無事本を受け取らせて貰ったことと、楽しいネタを提供してくれたことに感謝しながら。

おしまい

 

 

P.S. コマタさん(仮名)タクシ−の運転手さん、ブレットくん、有難うございましたv

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