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『Blue Moon』 「もしもしっ」
仕事で空けていた家に、一月振りで帰り着いた瞬間、鳴り響いた電話のベルに慌てて彼は飛びつくように受話器を取り上げ言った。
脱ぎかけていた上着を袖から引き抜き、傍らの椅子に放り投げ、そのままそこに崩れ込むよう腰を落とす。実際、家を空けていた一月の内、最後の数日は徹夜続きで、ホントウは今すぐにも眠りたい。
全身が疲労を訴えている。
『…。あぁ、いたのか…』
そんな状態で、必死に出た彼の耳に返って来た相手の応答がそれで、けれど思ってもみなかった声に、鼓動が跳ね上がる。
聞き間違う筈がない、声音も勿論だが、態々電話をかけておきながら相手が出たのに対して『いたのか…』なんてトボケた言葉を発する事が出来るヤツを、彼は一人しか知らない。
「いないと思ってかけてるのかよ…トロワ」
ため息をついて、言葉を返す。
名を呼ぶ声が、さりげなく聞こえるように注意して。
『いや、いたら良いが…とは思っていたが。しかし、先日も今朝もお前は出なかったから。…今もてっきり留守かと…』
静か…と言うか、淡々とした声音。ただ事実だけを告げる彼特有の言い回し。あまりにも、変わらないそれに、肩から力が一気に抜け落ちた気がした。
「悪い。仕事でさ。で、何?」
『…あぁ、もし暇なら酒でも飲まないか…?と言う誘いなのだが?俺は今‥‥ホテルにいる』
そう言った彼〜トロワが上げたのは今彼らがいるコロニーでも有数のシティホテルで、デュオは大きく目を見開いた。
「マジ?」
『あぁ。不都合か?』
「ぁっと…、いや。ん…行く。大丈夫。ちょーっと、遅くなるかもしれないけど。折角のトロワの誘いだしな」
語尾に笑みを滲ませて、茶化して。一時間後を約束して電話を切った。
カウンターで一人飲んでいた彼は、近づいて来る気配に視線を上げた。
振り向かなくても、分かる。良く知った軽い弾むような足音と、気配。ただ、彼はその気になれば、足音どころか気配も、綺麗に消し去る事が出来る。
半分程に中身の減ったグラスをカウンターに置き、ゆっくり振り向けば、案の定彼が近づいて来る姿がトロワの緑の瞳に写った。
華奢な体に似合う、シンプルな黒のスーツ。以前より少し背が高くなっただろうか?あの頃は三つ編みに編んでいた長い栗色の髪を、今夜は珍しく右肩から前に垂らし緩く束ねている。
相変わらずどこか少女めいて見える柔らかな面立ち、淡い間接照明の下にあるせいか、一層その印象が強い。形の良い唇の端を、僅かに引き上げて皮肉な笑みを浮かべ、スルリと、トロワの隣りのスツールに滑り込む。
途端に、鼻を擽る仄かな香り〜石鹸か、シャンプーだろうか。ついと手を伸ばして、柔らかな髪の束に触れてみた。
湿気を含んで、手に馴染む感触。
「洗って来たのか?」
貴婦人にするように、それに唇を寄せ、視線だけはけれど彼の瞳に向けて問いかける。
「あぁ。待たすかとも思ったんだけどよ。…完徹続きでさ。さすがにな、そのままホテルのラウンジに来れるような格好じゃあなかった。悪い」
クスリと笑って、デュオは言い、トロワの手から自身の髪を簡単に奪い返してしまった。
勿論、トロワに“返す気”があったから、可能だったのだが。
「構わない」
軽く首を傾げ、上目使いに伺うデュオにそう薄く笑んで答え、慣れた仕草でトロワはバーテンを呼んだ。
そうして、低く一言二言言えば、直ぐにトロワの元にはおかわりのグラスが、デュオの前へは華奢なカクテルグラスが運ばれる。
「何これ?」
小さく繊細なカクテルグラスに注がれているのは、綺麗な蒼味がかった紫色の液体。透明度の高いそれはとても綺麗で、それこそ宝石を溶かしたように美しいけれど…。自身の前のそれと、トロワの前に置かれた琥珀色の液体が満たされたグラスを見比べ、デュオが不満げな呟きを零した。
「ブルームーン」
デュオの、不満が明かに見える言葉にトロワが言った。
ジンをベースにクレーム・ド・バイオレットとレモンジュースを加えた、女性にとても人気の高い甘口のカクテルだと。注釈を付け加える。彼らしい、律義な言葉。
「いや、そうじゃなくて…」
デュオは肩を竦める。彼は見かけの印象のためか、酒に弱くて甘い物が好きだと思われる事が多い、不本意な事に。だが、実際はどちらかと言えば甘い物は苦手だし、酒に関して言えばかなり強い方で、また好きでもあった。無論、トロワはそれを知っている筈なのだが。
「寝てないんだろう?それくらいにしておけ」
苦笑を含んだ、柔らかな声。
「折角奢るのにたった一杯で眠られてしまったのでは、誘った甲斐がないからな…」
「奢ってくれんの?」
「あぁ」
上目使いにトロワを見上げるデュオの蒼い瞳。したたるような、艶を含んだ笑み。
「誘ったのは、俺だからな」
「なんかそれってさ…」
笑みを深め、言う。曖昧に言葉を区切れば、トロワの柔らかな眼差しが先を促して来る。
「良いのかよ。それじゃ丸っきり、口説いてるみたいだぜ?」
他の意味に取る方が難しい。
それでも良いのか…と。
「口説いても良いのなら」
サラリと返される言葉。
「なんだよ、それ。てかさ…怒られねぇ?」
例えば、いつも彼の近くにいる綺麗な、すこし気のキツそうなお姉さんだとか。
たまにしかきっと会えないのだろうけれど、彼の事をとても気にかけてる、金色の髪の天使だとか…に。
「何故だ?どちらも兄弟のようなモノだ。俺にそんな甲斐性があったのかと…喜ぶ事はあっても。怒りはしないだろう」
「…ふ〜ん。そうゆうモンかね」
グラスを取り上げ、口に含む。甘い香り。
「そう言うお前はどうなんだ、デュオ…?」
淡々としている癖に、それよりも、ずっと、甘く甘く聞こえる問い。
「さあな…」
曖昧に、はぐらかす。
それをトロワは追及しない。
彼らしい大らかさで受け止める。それは有り難くも有り、ひどく物足りなくも、ある。
グラスを空ければ、すかさず2杯目が届けられる。何も言わず、それも飲み干した。
彼は、分かっているのだろうか?
そっと伺う横顔から、それを知るのは難しい。
綺麗に整った横顔。
身に纏う雰囲気は柔らかいのに、その奥が読めない。
そんな事は、とても珍しい。
寧ろ、概ねにおいてそんな印象を他人に与えるのは自分。勿論、大概の相手には、そこまで気づかせはしないが…。
…だからこそ、気にかかる。
「…トロワ?」
3杯目のグラスを、求めて伸ばしかけた手が止められる。
磨き込まれた黒檀のカウンター、その上で重ねられた手。
決して小さくはない筈の、自身のそれを覆い隠してしまう彼の手。細く、長い指を備えた、とても綺麗なそれ。
「好きなヤツいる?」
そのまま、問いかけた。口元に、『皮肉げな』と良く評される笑みを閃かせて、眼差しだけ、彼に向ける。
或いは、あまりにも唐突だったかも知れない。けれど、改めて真剣に聞くには、いささかプライドが邪魔をする。
「…。あぁ」
動じずに、返される短い肯定。
「美人?」
彼につかまれていない方の手で、頬杖をつく。
軽く、茶化すように、言葉を繋ぐ。
「そうだな…」
確信と、不安と。ハッキリさせたい、そう思う気持ちと、曖昧なままにしておきたい気持ち。
「どちらかと言えば『かわいい』と評される事の方が多いようだが」
言葉を切り、トロワの手が髪に触れる。
「背はあまり高くない。手足も細い、時々…折れてしまわないかと…不安になる」
「お前が?」
とても穏やかに、続けられる言葉に、短く皮肉を返す。
悪い癖だ。真面目な話を、真面目であればある程、すぐに茶化したくなる。
本当は知ってる、彼はとても優しい。優しすぎて、わからない、本当はどう思っているのかが。
「あぁ。心配してはいけないのか?」
「いけなくはないけど」
トロワの指先が、デュオの頬に触れる。
「明るくて、優しくていつも笑っているような印象がある。誰とでも、すぐに打ち解けているようにも…」
冷たくない、けれど熱くもないソレが、そっと頬のラインを辿る。
「華奢な手足。器用そうな指、柔らかそうな栗色の長い髪。笑みを浮かべてる唇」
編んでいない髪を、その指先に搦め捕られる。
「底の見えない、蒼い宝石の瞳」
貴婦人にするかのように、トロワがソレに口づける。
常なら、他人に触れられる…それだけでも不快感を覚える髪。なのに、彼に触れられるのは何故か…嫌じゃない。寧ろ…。
「俺の知ってるヤツ?」
答えが、分かってる気がする問を投げかける。
素直に…真っすぐに。それは『自分』のキャラクターではないから…。
言葉遊び。曖昧にはぐらかし、ゲームを楽しむように、言葉の駆け引きを楽しむ。
「そうだな、良く知ってるだろう」
「例えば?」
相手を選ばなければ出来ない、けれどとても好きな遊び。
「俺達とより、付き合いが長い」
「へぇ…」
「きっと、この先もずっと。お前と俺達との縁がもし切れたとしても…ソイツとの縁は切れないだろう」
「怖いな」
呟き。向けられる淡い笑み。
「鏡を覗いた時に見る顔」
「つまりは俺?」
「あぁ」
「てことはさ。俺が『美人』だって?」
「あぁ。不満か?」
「…いや。そうだな、『かわいい』よりはな…。まぁ、ベストは勿論『かっこいい』だけどな」
「そうか…」
自然と、重なる。触れる。
触れて…離れる、淡い感触。
「てことはさ…お前が『好き』なのって」
「お前だ。デュオ」
息の触れる距離で、囁く声。確かな告白。
やっと彼から引き出した…聞くことの出来たソレに、デュオは満足の笑みを浮かべた。
2杯分のカクテルと、甘い言葉に酔う。
「…たく。どこで覚えてくるんだよ、そんな口説き文句」
トロワにもたれ掛かってその耳元に囁く。
「…秘密だ」
それには、背を抱く暖かな腕と、笑み交じりの柔らかな冗談めかした言葉が返された。
Happy End |