吸血鬼事件は解決し、再び平和な生活が訪れた。
 しかしそれを知っているのはデュオたちのみ。
 他の者たちは、教授1名が行方不明になったと騒いでいた。
 事実を知っていても、伝えることはできない。
 吸血鬼なんて誰も信じないだろう。証拠もない。すべて灰と化して消えていった。
 やがて時間とともに騒ぎも収まるだろう。そして忘れられていく。そんなものだ。
 仮説を立てまくって論議している学生たちを横目に、デュオは自室に入った。ヒイロはまだノルマが残っているので、研究室にこもっている。
 いつもは狭く感じている部屋が、1人だと広く思う。いつの間にやら、ヒイロがそばにいることに慣れてしまった。
 あの夜以来、ヒイロと寝るようになった。
 ヒイロは何かにつけデュオに触れようとする。
 トレーズを倒した時から『ヒイロがデュオを守る』ということが定着してしまった。
 男としては悲しい気がするが、何故か悪い気はしない。それはまた問題だと思う。
「…オレ、一体何してんだろ…」
 大きな溜め息を吐く。
 大体ヒイロも何を考えているのか、さっぱりわからない。男を抱いて楽しいのだろうか。
(…あれ?)
 そういえば、デュオはヒイロのことを何一つ知らないのだ。
 今までまったく気にしていなかったが、ヒイロは自分のことを一切話したことがない。JAP地区の者としか知らない。
 そう考えると気になってきて、自分のパソコンに電源を入れた。
 それは、ほんのささいな好奇心だった。






 1ヶ月ぶりに五人は再び古城に訪れていた。
「もう安全になったことですし、皆でピクニックでもしましょう」 カトルの提案だった。
 足の怪我はすぐに完治していたので喜んで賛成した。
 屋内にこもってばかりの生活なので、山の自然の中を歩くというのは、大変気持ちがいい。前回は吸血鬼が目的だったので、あまり周囲に目を向けられなかったが、今回は十分に満喫した。
 ついでに城にも立ち寄った。
 ただ1人、トロワだけは何やら思案していたが、皆(主にデュオとカトル)は強引に連れ入る。
 周囲の霧は相変わらずだったが、場内の雰囲気はまったく変化していた。
 陽の差し込まない内部は薄暗く、静まり返っている。主がいなくなっただけで、こうも変わるのか、と少し驚く。
 霧に囲まれているためか、ひんやりとした空気がかする。外は温暖化の影響で初夏の気候だというのに、ここだけ時間が止まっているような様子だ。
「自然のクーラーかぁ。気持ちいいね」
カトルが嬉しそうに足を伸ばす。
 応接室らしき部屋で5人はくつろいでいた。少々埃を被ってはいたが、はらえば平気な程度であったため、品の良いソファや椅子に腰掛けて休む。
 デュオはちらりとヒイロを見た。
 ヒイロはデュオが寝転んでいるソファの縁に座っている。その横顔はいつもの無表情で何も読み取れない。
「………」
 デュオは一瞬目を細め、意を決して立ち上がった。
 窓に行き、外の景色を眺める。深い霧に包まれた森しか見えないが、それを見据えながら言葉を出す。
「…ヒイロ。ちょっと訊きたいことがあるんだ」
 ヒイロがデュオに顔を向ける。
 他の3人も何事かと目を向けた。
 ゆっくり振り返ったデュオは、心の中の疑問をはっきりと口にした。
「おまえ、何者?」


















「おまえ、何者?」
 デュオの声が静まりかえった部屋に響く。
 何を言っているのか、という顔をした3人は、デュオの真剣な表情に何も言えなくなった。
 ヒイロは無表情のまま、何の反応もしない。
 真っ直ぐにヒイロを見返しながら、デュオは続ける。
「おまえ、JAP地区出身って言ったな。確かに在学データを見てもそうなっている。…だが、直接JAP地区の方の資料を見たら、おまえの名はない。JAP地区が今年このアカデミーに送った学生は1人だけ。…最初の犠牲者だ」
「何!」
 驚いた3人が音を立てて立ち上がる。
「《JAPのヒイロ・ユイ》で検索したら、ただ1人該当者が出たよ。コンピュータの天才児であり、ジオトピア計画に関わってもいたが、ジオトピア完成間際に行方不明となった。当時15歳。…おまえにそっくりな顔をしている」
 皆の視線がヒイロに集中するが、ヒイロはただ無表情のまま、じっとデュオを見つめたまま微動だにしない。
 ヒイロから視線を外さず、トロワは顎に手を当てる。
「…1つ気になっていた。トレーズの首筋に噛まれた跡があった。つまり誰かが奴を吸血鬼にしたことになる」
 トレーズの首に噛まれた跡がちらりと見えたのに、トロワは気付いていた。そのことがずっと気になってはいたのだが、皆に言い出しにくく、今まで黙っていたのだった。
 トロワの言葉で、カトルと五飛の顔が驚愕に変わる。デュオだけが表情を変えずにヒイロを見据える。
 ただ、ヒイロの返事を待っていた。
 ヒイロがわずかに目を伏せた。
「――――――――古来…ある一族が存在した」
 小さく、ぼそりとした声だが、はっきり聞こえた。
「やがてその一族も、生物の法則に従って滅びの道を歩むことになり、ただ1人の生き残りがこの城に住んでいた。そしてオレは、生涯に1人だけ人間を一族の者に変えられるという術を、受けた」
 そう言って耳の後ろの髪をかき上げる。
 首に何か赤いものが見えた。
 紅い、バラのような痣。
「…じゃあ、君が昔行方不明になったヒイロ・ユイなのか?」
「! ということは、おまえを変えた吸血鬼が存在するというわけだな。何処にいる?」
 学生2人を殺しトレーズを犯人に仕立てあげた者は、そいつだろう。ヒイロは居場所を知っているはずだ。真相を知っていながら黙っていたのは、正体を知られたくなかったからだろう。
 皆はヒイロが犯人ではないとわかり、内心安堵しながら、問い詰める。まだ問題は解決してはいないのだ。
 何故かデュオ1人は静観していた。後に自分自身で驚くくらい冷静だった。
 しかし、ヒイロは薄く笑い、手を伸ばす。
 瞳の色がいつもと違っているように思った、深々と夜を抱く、闇の蒼さ。

「デュオ」

「!!」
 五飛たちがデュオに振り返る。
「え…? デュオ…が…」
「バカを言うな! こいつは正真正銘、人間だ! 一緒に育ったオレがよく知っている!」
 カトルと五飛の言い争いも、ヒイロとデュオには聴こえていなかった。
 ヒイロは受け止めるように両手を伸ばし、デュオを見つめたまま、ゆっくり近寄る。
「待っていた。ずっと、おまえを待っていた」
 言い知れない不安がデュオを襲う。
 ヒイロのはずなのにヒイロじゃない。そんな感じがした。こんな彼は知らない。
 他の3人もヒイロの異常に気付いたようだ。
「…まさか、おまえなのか? おまえが2人を殺したのか、ヒイロ…?」
 トロワの声がかすれていた。
 JAP地区からの今期唯一の入学生は、口封じのためにヒイロが始末した。その後、単に食事のためか、再び学生を殺し、吸血鬼と疑われ始めるとトレーズを犯人に仕立て上げた。
 そんな構図が浮かんだ。
 動けないでいるデュオの顔を両手で包み込まれる。
「おまえがいればいい。他には何もいらない。おまえだけでいい」
 まるで外にたちこめる霧が室内にまで入ってきたようだ。視界がぼやけてくる。
「デュオ、逃げるんだ!」
 横からいきなり五飛に手を引かれ、引きずられるように走り出した。
 トロワとカトルも共に室内を飛び出す。
「まさかヒイロが吸血鬼だったなんて…」
 カトルが苦々しい顔をする。
「奴はどこかおかしい。邪気を感じた」
「邪気はわからんが、狂っているのは確かなようだな。しかもそれがデュオに何故か向いている。このままここにいるのは危険だ。ひとまず寮に戻ろう」
 五飛に引かれながら、デュオは考えていた。
 デュオがヒイロから離れて走り出した時、一瞬目の端に入った、彼の顔。
 愕然と、傷ついた顔をしていた。
 あんな顔をさせたかったわけではないのに。
(…え…?)
 させたかったわけではない? 何だそれは。自分が何かヒイロにしていたとでもいうのか。
 『待っていた』とはどういうことだ。
 自分と彼は以前逢ったことがあるというのか?
 一体いつ? どこで?
「デュオ!?」
 意識が遠くなっていき、デュオは倒れていった。













「デュオ!」
 呼び声に、また沈みかけていた意識が浮上する。
 目を開けると、自分を抱き締めながらずっと見つめている彼の顔。
 プルシアンブルーの瞳からは、透明な滴が流れ続けている。
(…綺麗だな)
 素直にそう思った。
 どうして彼はこんなに綺麗な涙を流せるのだろう。
 《化け物》になってしまっても、彼の心は綺麗なままだ。
 相変わらずの無表情。真っ直ぐな光をたたえる瞳だけが印象的で。
 泣かないで。自分にはこんな涙を受ける資格がないから。
 彼と違って、身も心も汚れつくしている自分には、ふさわしくない。
「…ヒイロ…」
 涙を拭ってあげようと思ったけど、もう腕が上がらなかった。
 手も足も感覚はとうになくなっていて、せめて唯一自由がきく口を動かして彼の名を呼ぶ。
 ヒイロは腕の力を強めたようだが、もう温もりも痛みも感じない。
 ヒイロはただ、涙を流し続ける。

 可哀そうなヒイロ。
 自分のために《人間》としての生を捨てまでしたのに、自分は置いていってしまうのだ。
 …出逢うべきではなかったのだろうか。
 これから、彼は、永い永い時を独りで生きていく。
 それはとても苦しくて辛いことだと、何よりも自分が知っていたはずだけれど。

「…ヒイロ」
 このままでは、彼はすぐに自分の後を追って自決するだろうことは、容易に想像できるので。
「ヒイロ」

  ―――――死なせたくなかった。

「オレ…また戻ってくるから…。生まれ変わって…、…おまえに逢いにくる…きっと……」
 ヒイロがピクリと反応を返す。
「――――だから…生きろよ。せっかく生まれ変わってきても、それを待ってる奴が誰もいないなんて…寂しいじゃねえかよ…」
「デュオ…!」
 その時、自分は精一杯の笑顔を向けたつもりだった。顔の筋肉にも力が入らなくなってきていて、ヒイロにはどんな表情に見えたかはわからないけど。彼は下唇を噛んで悔しそうな顔をした。
「…生き…ろ……ヒイ…―――――」
 彼の名を最後まで口にする前に、視界は闇に染まっていた。


   ただ、
   生きてほしかった。













「――――思い出した…」
 目を開けると、皆が膝立ちで覗き込んでいた。察するに、気を失っていたのはほんのわずかな間のようだ。
 思い出した。自分の過去。昔の自分を。
 どこかまだ夢のような感じで、前髪をかき上げる。脂汗が出ていた。
「…あいつの…言うことは本当だ…。ヒイロは多分…、オレを待っていた…」
「どういうことだ?」
 五飛はいぶかしげに見やる。
「オレは、昔ここにいた…」
「! まさか、転生?」
 カトルの言葉にうなづくことで肯定を示す。
 デュオはここにいた。この城の本来の主。そして、ヒイロを変えた者。
「行ってやらないと…」
「何処へだ」
 茫然と呟くデュオに五飛がきつく睨む。
「オレが言ったんだ。『待ってろ』って。だから…」
 ヒイロのところへ行かなければ。それだけが頭の中を回る。
「ともかく、一旦帰って落ち着いた方がいい」
 トロワに施され、何とか立ち上がった。
 扉を開け、霧の中に出る。
「ヒイロ!」
 ヒイロが先回りして待ち構えていた。
 人形のような完璧な無表情。表情から感情が一切なくなっていた。
 驚く4人に向かって歩く。
 咄嗟に庇おうとデュオの前に出た五飛の首を片手で掴み、持ち上げた。
「五飛!!」
 五飛はもがくが、ヒイロはものすごい怪力で締めつける。横にいたトロワとカトルは蹴り飛ばされ、木に叩き付けられた。
「やめろ! ヒイロ!」
 ヒイロの腕にデュオがしがみつく。
 ヒイロはそれでも五飛を締め上げる手を緩めない。だが、デュオを振り解くこともせず、何の感情も示さない瞳を向けた。
「やめろ、ヒイロ…。オレがいるから…そばにいるから…」
 泣きそうなデュオの表情を見、力を抜く。
 同時にデュオを抱き締めた。がむしゃらに抱き締めてくるヒイロの背にデュオも腕を回す。

「…う…」
 声に目を向けると、やっと気道を確保できたらしい五飛が起き上がろうとしていた。
「五飛」
 五飛に駆け寄ろうとしたデュオであったが、ヒイロに手で目を覆われる。
「ヒイロ?」
「オレ以外のものは見るな。何も見なくていい」
 ヒイロの声がやけに低く感じる。
「だってそうだろう? オレの中にはおまえしか存在していないのに、おまえは違うなんて、不公平じゃないか」
 背筋が冷えていく思いをした。
 どこか、感じる、違和感。
 手を外され、見た先にあったのは、冷たく冴えた光。
 それに驚愕している間に抱き上げられた。







 連れていかれたのは、他の部屋と違って全然埃もなく、綺麗に掃除されている寝室だった。品のよい細工の大きなベットや家具。壁に掛けられた美しい絵画。白いカーテンがつけられた窓の外には広いベランダ。
 覚えている。ここは《デュオの部屋》だ。
 数え切れない程の日々をここで過ごした。1人で。ヒイロに出逢ってからは2人で。
 ベットに寝かされ、ヒイロが覆い被さってきた。
 三つ編みの中に手を入れられて髪を解かれる。
 少しウェーブのかかった髪が、ふわりと広がった。
「デュオ…」
 ヒイロが眩しげに目を細める。
 そういえば、こいつの前で髪を解いたことはなかったな、とデュオは思う。
 ヒイロはデュオの髪を指に絡ませ、口付ける。
 そのままデュオを抱き締め、唇を自分のそれで塞ぐ。
「んっ…」
 舌を侵入させ思う存分貪る。きつく吸い上げ、強く歯を立てた。
「っ…」
 顔を離したデュオの口から血が出ていた。ヒイロはそれを唇で拭い、舌に付いた血を舐め取る。
 丁寧なのか乱暴なのかわからないヒイロに、そっと薄目を開けると、間近にあるものに絶句した。
 瞳の色が暗いと思ったが。これは違う。
 濁っているのだ。
 どろんとした瞳がデュオを見下ろしていた。
 …眩暈がする。
 容赦なくジーンズを脱がされ、脚を大きく開かされた。
「あーっ」
 馴らすこともせずにいきなり突き入れられ、デュオは悲鳴を上げた。
 身体を裂かれるような激痛に背を跳び上げる。するとますますヒイロを感じてしまい、身体が強張る。
 ろくに息もできないまま、揺さぶられる。
 血が流れるのがわかる。

 紅い、紅い残像が通り過ぎていく。
   すべてが歪む。
            歪んで、いく。









 下肢の鈍い痛みにデュオは意識を取り戻した。背に温かさを感じる。どうやらヒイロが擦り寄っているらしい。何かぶつぶつ言っているのも聞こえる。
「…もう離さない…どこにもやらない…。オレのものだ…。デュオ…」
 目を強くつむる。
(ヒイロ…)
 彼はここまで自分に執着していただろうか? こんなに独占欲が強かっただろうか?
 …変わってしまったのだろうか、彼も。
 その原因を考えて、デュオは悲しくなった。
 自分のせい…?
「…ヒイロ」
 起き上がって、ヒイロに向き直る。
「デュオ」
「服…着ていいか?」
 伸ばした手をかわされ、少し眉を寄せたヒイロだが、すぐに床に投げ出されていた服を取って渡す。
「サンキュ」
 ベットから下りて服を身につける。身体は拭いてくれているようで、すっきりしていた。
 ヒイロの視線を感じるが、決して振り向かなかった。振り向くのが恐かった。
「何処へ行く?」
「ちょっと見回ってくるだけだよ」
 軽く応えてドアを開けた。

「デュオ、大丈夫か!?」
 廊下を五飛たちが走ってきていた。
「よかった、無事だったんだね」
「おまえらこそ」
 互いに喜び合ってはしゃぐ。
 しかしすぐに真顔へと変わった。
「…みんな、オレのことはもう気にしなくていいから、早くこの城から出るんだ。そして今後一切近寄らないでくれ。頼む」
「デュオ…。けれど…」
 言葉を止めるカトルの視線を追うと、ヒイロが出て来ていた。
 瞳は、冷たく濁ったまま。
「ヒイロ。こいつらに手を出すな。オレはここに残って、おまえといるから…」
 デュオの前にトロワが踏む出す。
「正気に戻れ、ヒイロ」
 薄く笑ったヒイロが、片手を振り上げた。
「よせーっ!」


『よせ!』
 言葉が記憶とだぶる。
 これはいつか聞いた言葉。
 言ったのは、彼。
 言われたのは、自分。
 遠い記憶。
 いつも、ひどいことをするのはデュオのほうだった。
 ヒイロはデュオをただ見つめるだけだった。
 責めるような、哀れむような、そんな痛ましげな瞳で。
 彼は優しかった。《食事》の時も、採る精気はほんの僅か。採られた生物が疲労や怠さを感じる程度だった。血を吸うことでさえ、滅多にしなかった。ましてや、生命をたやすく奪うような真似は決してしなかった。

 なのに。

「うわっ」
 トロワの腕が朱に染まる。
「トロワ!」
「――――どうして…」
 茫然とデュオは呟く。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 何処で間違ったのか。
 彼なら生きていけると思っていた。
 自分は狂っていて、狂っていたからこそ、生きていけたのだけれど。
 彼は純粋で強い光を持ったまま、生きていけると思っていた。
「デュ…」
「来るな!」
 血塗れで差し出される手を拒むと、ヒイロが少し目を見開いた。
 一瞬、いつもの深い海の底のような瞳に戻った気がした。
 そうだ。ここに来るまでは正常だったではないか、彼は。優しくなっていたけど、真っ直ぐな瞳は昔のままだった。だからこそ、さっきは信じてたのだ。
 むしろ、こんなに待ってくれていたと知って嬉しかったくらいで。
 孤独を強いることになった自分は応えねば、と罪悪感すら感じていたのに。
「…何故だ」
 ヒイロの顔からすべての表情が滑り落ちた。
「何故オレを拒む!? オレはずっとおまえしかいなかったのに! 何故!?」
 …ああ、もうだめだ。彼は狂っている。わかる。
 ヒイロは本当にただデュオに逢いたかっただけなのだろう。
 ヒイロは純粋だった。純粋すぎたのだ。

『あいたい』

 それだけの想いが、永い孤独の中で少しずつ彼を狂わせていったのだ。
 生きて欲しかった。
 逢いたかった。
 それは間違った願いだったの?
 この想いは間違っていたの?
「…ヒイロ。オレたち、出逢わなければよかったな」
 そうすれば。きっとヒイロは間違わなかった。

(出逢わなければよかった…?)
 ヒイロは心の中で繰り返した。
 違う。そんなことはない。
 ただ夢を見ていた。見続けていた。終わらぬ夢を。
 永遠に等しい時間を一緒に生きていこうと誓った。
 自分にできるたった1つのこと。名前を呼んで抱き締めてやることだけを繰り返すしかできなくて。
 腕の中の重みが増す感覚。徐々に冷えていく身体。
 1人、世界に閉ざされていく感覚。
 紅い悲しみが溢れてくる。止まらない。
 止まらない。

 あんな想いだけは、もうしたくない。
「―――デュオ。愛している」
 抱き締める。今度は彼はずっと傍にいるのだ。
 それは当然のこと。だからずっと待っていた。
「…おまえは、ヒイロじゃない」
 腕の中でデュオが冷たく言い放つ。
 だが、否定の言葉はヒイロに届いてなかった。
「…おまえは、ヒイロじゃない」
 されるがままに抱き締められながら、デュオは繰り返す。自分自身に言い聞かせるように。
 時間がここまで彼を追い詰めた。
 自分も、完全に記憶を取り戻したとはいえ、昔の自分とは違ってしまっている。

 わたしは誰。
 あなたは誰。
 ここにいるのは誰。
 《永遠》なんて、そんな淋しい言葉があると知りもせず、ただ愛していた。
 夢の中で眠り続けていたら、幸せでいられたのに。
 気付かなければよかった。
 もう帰れない。どんなに夢を見ても。
 もう、夢の中でしか、生きられない。

「…っ!」
 振り切るように、デュオは思いっきりヒイロを押しやって離れる。
 ヒイロに素手で傷付けられた腕を診ているトロワたちの元へ駆け寄る。
「トロワ、傷の具合は?」
「一応止血はした」
「だけど傷口が広い。早くきちんと手当した方が…」
 確かに包帯代わりに巻かれたハンカチに染み込んだ血を見るに、早目の手当が必要のようだ。
「ここには医療道具なんてないからな。寮の医務室まで行こう」
 歩き出そうとして、背に強い視線を感じ、ぞくっとした。
 皆も同じらしく、恐る恐る振り返る。
 ヒイロが怒りを顕にして睨みつけていた。対象は、デュオではなく、デュオの周囲にいる3人だった。
「みんな早く!」
 デュオは先導して走り出す。このままではヒイロは間違いなく3人を殺すだろう。学友であったことなんか気にしない。ただ、デュオを手にいれるために。

 もう、いない。
 彼はいない。何処にもいないのだ。
『デュオ…』
 優しく耳元で囁かれた声、力強く抱き締めてきた腕の温もりが記憶をよぎる。
 絡み付いてくる甘い誘惑を振り切って、駆ける。

 《彼》はもういない。












 外はもう真っ暗になり、星が輝き始めた。
 月明かりのおかげで森の中も道がはっきりわかり、迷うことはなかった。
 アカデミーまでもう少し、という所でデュオたちの前に人影が現れた。
 ヒイロかと思って身構える。
 ゆっくり歩いてくる人物の顔が見えた。学生だった。
 安堵したのも束の間。人影はどんどん増えてくる。
 皆、うつろな目をしていて、デュオたちに近づいてくる。
「これは…オレたち以外のアカデミーの人間全員、操られているというのか…?」
 うつろな目は何も映していない。正常な状態でないことは一目でわかる。
「そんな…。みんな吸血鬼にされてしまったのか?」
「いや違う。こんな短期間に全員を変えるなんて不可能だ。単に操られているだけだろうな」
 増えていく人影を見つめ、デュオは目を細めた。
「多分、催眠療法じゃないかな。あいつには精神感応術なんて使えないから」
 ヒイロはコンピューターに関しては天才と呼ばれていた存在だ。アカデミー中のパソコンを操作して、それを見た者に催眠術をかけるなど不可能ではない。
「トレーズみたいな能力があるのではないか?」
 五飛はバラを操った男を思い返したが、デュオは首を振る。
「元の《素質》というものがあるんだよ。一族にだって、強い魔力を持っている奴もいれば、寿命と食物以外は人間と変わらない奴もいた。…ヒイロの場合は特別な力を持たない代わりに、身体能力が異常に上がっている」
 人間離れした怪力や速さがその証拠。
「こっちだ!」
 デュオは元来た道に走り出す。ここはデュオの方が詳しいと判断した皆はデュオに続く。
 段々雲が出てきて、空を隠し出す。森の中が真っ暗になっていった。









「戻ってきてどうする気だ!」
 城まで来てしまい、五飛が憤慨する。
「………」
 デュオも予想外だったらしく、頭をかいている。
「………」
 怒る気も失せた五飛は深い溜め息を吐いた。
 周囲が闇と化してしまったため、道がわからなくなってしまった。はぐれないように移動するのが精一杯で、場所など確認できなかったのだ。
 いくらデュオにこの辺に住んでいた頃の記憶があるとはいえ、これでは責めても仕方がない。
「そう怒るなって。一応隠れる場所ならあるから」
 苦笑いを浮かべて振り返るデュオ。
「んで、たった今思い出したけど、この霧ってちょっと魔力持っててさ、森の中で迷った人間はここにおびき寄せられるようになってんだよ」
「そういうことはさっさと思い出せ!」
 走り回った分、時間と体力を無駄にしただけのようで、気が荒立つ。
「落ち着け、五飛。デュオ、隠れ場所に案内してくれ。このままではヒイロに見つかる」
 うなづいて、注意しながら城の裏に回っていく。
 物置小屋のような建物があった。
 扉は付いていないようで、4人は簡単に侵入できた。中はホウキが1本転がっているだけで、がらんとしている。
 デュオは迷わず右手の壁に歩み寄り、すっかり錆びついている燭台を引いた。
 静かな音を立て、中央の床がゆっくり動き出す。
 音が止まると同時に、地下へと続く階段が現れた。
「隠し部屋か…」
「足元に気を付けろよ」
 皆を促して最後にデュオが入ったと同時に、入口がゆっくりと閉じられていった。
 岩肌を辿りながら暗闇を下りていく。
「光が見えるぞ」
 階段を下りきると、洞窟に出た。岩肌全体が光っている不思議な洞窟は、奥までずっと続いているようだ。
「これは…岩が光っているのか?」
 トロワが横の壁に触れる。よく見ると、全体ではなく、ところどころで何かが光っていた。
「発光性のあるコケだよ。これが天然の灯となっているんだ」
 説明しながら奥に進む。
「ヒイロにはこの地下洞の存在を教えていない。オレが死んだ後、あいつが城内を探索していたら、もしかしたらここを見つけているかもしれないけど」
「とりあえず、今隠れるには良い場所だということか」
 洞窟は結構長く続いていた。幾つにも分かれた枝道を、慣れたようにデュオは進んでいく。デュオがいなければ間違いなく迷うだろうと思う。
「けっこう深いな。どこまで続くんだ?」
「あと少しだ。ここは聖域、一族の墓地なんだ。ちょっと気味悪いかもしんないけど、我慢してくれよ」
 言葉のとおり、段々と道が広くなってくる。

 同時に気温が下がっていった。
「何か、寒いね」
 カトルが自分の肩を抱いて息を吐いた。半袖の服では肌寒くなってきている。
「…おかしいな。ここは確かに気温が低い所ではあるけれど、こんなに低いはなかったはずだ。単に昔はあまり寒さを感じなかっただけかな」
 吐く息が白くなる頃、広いホールのような所に出た。ここが最奥なのだろう。
 ホールの中央に、寒さの原因を見つける。長方形に切り取られた大きな氷があった。
「何だ? あんなもの、ここにはなかったはず…」
 近寄って覗き込んだ皆は、思わず息を呑んだ。
 色とりどりの花に飾られて輝く緋色。氷の棺の中に眠る、その人。

「デュオ!?」

 髪の色こそ違うものの、それはまさにデュオであった。
 黒のローブと膝までもある緋い髪が柔らかく身を包んでいる姿は、少女のように見える。
「…オレ…?」
「これが、昔のおまえか?」
 五飛の問いにうなづくことで答えを返す。
「ヒイロの奴…何でこんな…」
 デュオは驚愕したまま呟く。わけがわからなかった。
 花が敷き詰められた棺の中に横たわる《もう1人のデュオ》は、とても儚げで脆く見える。
 自分の死体を見るとは、妙な気分だ。
 かつて自分であったもの。自分だが自分ではない。
「まるで生きてるみたいだ。ただ眠っているだけで、今にも目を覚ましそうな…。《眠り姫》だね」
「デュオ…」
 五飛に呼ばれ、顔を上げる。
「おまえ、前世は女だったのか。道理で女々しいところがあると思ったぞ」
 がくりと脱力した。
「違う! オレは男だっ! 胸がないだろ、良く見ろ」
「えっ。そうなの?」
 頭を抱えたくなった。皆、女と思ったらしい。
 溜め息を吐きながら、横目で覗く。
「…昔は、男も女も誘惑できるんで自分の顔は都合がいいと思ってたけど…。今見てみると女顔だな…」
 額に手を当てて顔をしかめた。過去のデュオは、自分の容姿に特に気を遣ったことなどなかったのだ。
「ヒイロがこんな埋葬をしたのも、何となくわかるな。とても綺麗だもん、デュオ」
「だけど、ただの死体だぜ」
 デュオは冷たく言い放った。死体は死体。腐っていくだけの、肉の固まりにすぎない。
「あいつも何考えてんだか。狂った奴はわかんねぇ」
 過去の自分も狂っていたから、強くは言えないが。
 しかし狂い方はまったく異なっている。デュオなら死体などさっさと始末して忘れただろう。何にも執着しない。その日の気分で行動する。それがデュオ。
 ヒイロは、デュオへの執着だけで生きているように思える。デュオ以外はどうでもいいというふうに。

「悲しみと怒りが魂の一つ所に集って、それらを抱いた者に狂気となる」
 トロワが棺に手を置いて見ていた。
「クレアイネトスの言葉だ。ヒイロはまさにこのパターンなのだろう」
 ヒイロにとって、それだけデュオの存在が大きかったということ。
 こんな、冷たくなった抜け殻を飾って、大切に保存するほどに。
 喪失のショックで、狂ってしまうほどに。
 それほどまで悲しかったのか、デュオの死が。
 それほどまで憎んだのか、置いていったデュオを。
(…それだけじゃ、ないか…)
 おそらく彼は、自分自身をも憎んだ。純粋すぎた彼だから、何もできない自身を憎んでいたと思う。
 彼は何も悪くない。そう言っても、きっと彼は自身を責めた。
 …そんな彼だからこそ、一緒にいたかったのに。










 ヒイロは城の1番高い塔の窓から、周囲を見ていた。
(どこにいる?)
 アカデミーの人間はデュオたちを捕らえて連れてくるように命令している。
 彼らから逃れても、この闇夜。森の中を自在に進めはしまい。迷ったならば、霧の魔力によって、ここにやってくるはず。
 何をしても結局ここへ戻ってくるのだ。
(戻ってこい)
 ヒイロはただ待っていればいい。彼が戻ってくるのを。やがて来るデュオを。
 しかし待ってばかりはできなかった。いや、もう待つことが嫌になった。長い長い間、待ち過ぎていた。
 自分から捜そうと踏み出すが、そこで1つ思い当る。
 《デュオ》を見つけてからは訪れることがなくなっていた、ヒイロの大切でかけがえのない存在が眠る所。
 目を閉じて思いを馳せる。

 暗闇。

 心の中で、もう1人の自分が囁く。デュオは本当に《彼》なのか、と。
 彼だ。オレはずっと待っていた。そしてデュオはオレを思い出した。《彼》の記憶を。
(では何故デュオはオレから離れる? 何故オレを恐れる?)
 …っ!!
(わかっているんだろう?)
 うるさい。黙れ。
(デュオは彼であり、彼ではない。彼の記憶、彼と同じ魂を持つけれど、彼ではない)
 違う。彼だ! デュオが彼でなければ、彼はどこにいると言うんだ?
(どこにもいない。彼はあの時死んだんだ)
 また再び生まれ変わってオレに逢いにくると言った。そう約束した!
(わかっているはずだ、おまえも。だからデュオは逢った時、そばにいることしかできなかった。抱き締めることができなかった。不安だったんだ。手を伸ばして、彼ではないと思い知らされるのが、怖かった)
 黙れ!! デュオは思い出したんだ! オレを覚えている!
(あの約束は、彼の最後の思いやり。優しい嘘。オレを生きさせるための、彼の優しさ)
「黙れ黙れぇー!!!」
 ヒイロは、頭を抱え込みながらその場に膝をついていた。
 どのくらい、そうしていたのか。上がっていた息が整って、ふらりと立ち上がる。
「デュオ…」
 彼の目にはもはや、愛しい少年の姿だけしか、映っていなかった。











 意を決し、デュオは棺の上――ちょうど眠り姫の胸の真上――に両手を付いた。
「…これは…こんなものは、残しておいてはいけないんだ…。いつまでも、縛られていちゃいけないんだ、ヒイロ…」
 悔しげな顔で、過去の残像を見据える。
 長い髪が棺の上に落ちた。
「みんな、固まってくれ。この洞窟を破壊する」
「えっ!?」
 慌てて3人はデュオの後方に集まる。
「…デュオ。本当にいいのか?」
「ああ。元々、ここはオレが死んだら崩すことにしていたんだ。滅んだ一族の形跡をすべて消すためにな。それが一族の願い。最後の誇りでもある。…ヒイロがいるなら、残しておこうかとも思ったけど…もういい…いいんだ……」
 デュオの足元から風が起こった。
 ゆっくりとデュオの髪がたなびき、広がっていく。
 棺が徐々に光を放ち出す。光が一気に強くなった時、思わず腕で目を庇ったトロワは、確かに見た。
 デュオの髪が緋色に変わっていたのを。










「痛っ」
 腰から床に落ちたカトルが思わず声を出した。
「…ここは?」
 見回すと、そこはあの洞窟内ではなかった。
 城内。しかも窓から見える景色からすると、かなり高い位置にある部屋のようだ。
「城の塔の中か…。何故こんあ所に…」
「瞬間移動。人数が多いせいであまり跳べなかった」
 声に振り向くと、前髪をかき上げながら座り込むデュオがいた。
 その髪の色は明るい茶色で。あれは見間違いだったのだろうかとトロワは思う。
「おまえ、そんな能力があったのか?」
 オレは知らんぞ、とからかう五飛に、デュオは得意そうに笑う。
「これでもオレは、一族の中でも屈指の魔力の持ち主だったんだぜ。あの身体から一時的に魔力を分けてもらったの」
(…それで、か)
 トロワは納得した。デュオは一時的に過去の自分に戻ったのだ。
 土砂崩れのような大きな音と共に軽い地震が起きた。
「何だ?」
「洞窟が崩れたんだろう」
「…過去の幻想は消え去った。後は……」
 言いかけて止め、デュオは立ち上がって、部屋の入り口に向く。
「なぁ、ヒイロ」


 ヒイロが、そこにいた。
 五飛たちが身構えるが、彼は見ていなかった。
 デュオだけ、しか見えていなかった。
 ほら、彼はここにいる。何を不安になると言う?
 彼がいなければ自分は生きていけない。彼が存在しているから自分が存在する。そうだろう?
 ヒイロは真っ直ぐにデュオへ向かう。
 咄嗟にデュオの前に出ようとする五飛を、デュオは軽く制止し、ヒイロの腕を取った。
「ヒイロ、一緒に死のう」
 そう言って、晴れやかに笑った。
「デュオ!?」
 驚く周囲に笑いかけて、窓の前に立つ。
 何をする気か気付いた3人は止めようとするが、体が動かず、声も出ない。まるで金縛りにあったように。
 実際、デュオが最後に残っていた魔力で術をかけていたのである。
「…ごめんな、ヒイロ」
 ヒイロを強く抱き締めて、泣き笑いを浮かべる。
 まるで透き通りそうな笑みに、ヒイロは息を飲んで、そして気付いた。

 許せなかったのは自分自身。彼を救えなかった自分。
 いつか命が終わるのは仕方がないこととわかっていた。救いたかったのは、彼の精神。自分がそばにいることで、彼が救えればと。彼が温もりを知って、無理に笑わなくてもすむようになるまで、ずっとそばに。
 そのたった1つの約束も叶えられず終わって、罪悪感と後悔ばかりが募って。
 待ち望んでいたのは、彼の幸せな笑顔。
 待ち望んでいたのは、この苦しい世界の終結。
 それだけだった。
 それだけだったのだと、やっと、気付く。

 デュオを強く抱き返した。
 笑みをさらに深くして、デュオはゆっくりと窓に倒れていく。開かれていた窓に、2人も支えることはできず、2人の体は宙に浮いた。
 浮遊感を感じた刹那、デュオは強く体を押された。
「デュオ!」
 室内に倒れこんでくるデュオをトロワと五飛が受け止めた。
 デュオは茫然と目を見開いていた。
 デュオを押し返した時のヒイロの顔が、脳裏に焼きついていた。

 瞬間。
 ヒイロが浮かべていたのは、柔らかい笑み。
 懐かしい錯覚。
 あの頃の、幸福な。
「――――――どう…して……」
 知らず知らず涙が流れていた。






「―――――――…のに……」
 昔言えなかった言葉。今も言えない言葉。
 心の中だけで呟く。
(好きだよ)
 もう、どこにもいない彼に向けて、どうすることもできない言葉を繰り返し告げる。
(好きだったよ)
 決して伝わりはしない想いは、ただ静かに髪を撫でる風に吹かれて。
 ただ静かに、霧の中へ吸い込まれていった。



「デュオ!」
 塔の下から自分を呼ぶ声にハッとする。
 カトルたちがさっさと下りていたらしい。
「生きてる…。ヒイロはまだ死んでいないよ!」
 生きている。
 ヒイロは…生きている?
「ヒイロ!!」
 弾かれたように、デュオは階段を走った。











 ヒイロは2日間、眠り続けていた。
 その間、デュオはずっと傍についていた。
 アカデミーでは、朝、気付いたら外で倒れていた、という者が、職員・学生の大多数におり、この不可思議な騒ぎにてんやわんやの状態だった。
 おかげで講義もなく、ヒイロの負傷も知られることなく、デュオはのんびりと寝顔を眺めていた。たまにカトルたちが様子を見にくる程度だ。
 ヒイロのことを知られるわけにはいかなかったので、治療はデュオたちが行った。
 治療と云っても、骨折を直したり、傷口に包帯を巻いたくらいだ。吸血鬼に人間の薬は効果がないし、ヒイロは自己治癒能力が高い。下手に触らない方が治りが早いのである。
 ヒイロを看ながら、デュオは考えていた。
 目覚めた時、彼はどうするのだろう。
 また狂うのか、それとも元の学生生活に戻るのか。それとも、ここを離れるのか。
 一瞬目を伏せてデュオは微笑した。
 考えたって仕方ない。彼が起きなければわからないことだ。その時どうするかはわからない。
 けれど多分、彼がどうしようとも自分は彼の傍にいるだろうと思う。

 ヒイロの瞼がかすかに動いた気がして、デュオは覗き込んだ。
 ゆっくり、目が開けられる。
「ヒイロ」
 笑いかけると。彼は少し眩しそうに目を細めた。
 ヒイロはゆっくり手を持ち上げて前髪をかきあげる。それはどこか疲れたような仕草で、彼らしくない。
「…ここは?」
 一人言のような呟き。
「あ? 寮のオレらの部屋じゃねぇか」
 言ってハッとする。
 ヒイロの首の痣が消えていた。あれはヒイロが一族の一員となった証。それが消えているということは。
「…おまえは誰だ…?」
 首を巡らしてくるヒイロの瞳に見覚えがあった。
 遠い昔、初めて出逢った時の、澄んだプルシアンブルーの瞳。

 間違いない。彼は《人間》に戻ったのだ。
 奇跡としか云い様がないが、現実だ。
 デュオのことも忘れてしまっている。
 忘れてしまったのだろう。…これでいい。辛いことはすべて忘れたほうがいい。
 これで彼はやり直せる。再び、人間として、前を向いて生きていける。
 今度こそ幸せになれる。なってほしい。
 デュオはゆっくり息を吸い込み。笑って言った。

 これが、3度目の《出逢い》。
「オレはデュオ。デュオ・マックスウェル。よろしく」


  やっと、夜明けを迎えた気がした。























 ざわめきが消えようとしていく廊下を2人の少年が足早に歩いていた。
「間に合うかな~」
「ギリギリといったところか」
 腕時計を確認してぼやくデュオに、後を追うヒイロが冷静な判断を下す。

 もうすべては元通りになっていた。<
 事件は未確認のまま少しずつ忘れ去られようとし、アカデミーの生活は普段通りにすぎていた。
 真実は、限られた人間の中にのみ存在する。
 それで良いとデュオは思う。
 知らないままでいることが幸せなこともあるのだ。
 チラリと後方を見やる。
 ヒイロは知らない。いや、何も覚えていなかった。
 彼の記憶は、ジオトピア計画遂行のためにこの地域に調査をしに来たところで止まっていた。調査隊から離れて1人で森の中を探索していて意識を失って、気付いたらアカデミーの中だった、というわけだ。
 いきなり数百年も時間が経過していたことに対しては、さすがに戸惑ったようではあるが、時間を逆行するのは不可能である。この時代で生活していくことに決めたらしい。未来の技術等にも興味があるようだった。
 ということで、ヒイロが学生であるデータを変更する必要はなくなり、彼はこのままデュオのパートナーとして他の誰にも不審がられることなく在籍している。ここは元々人付き合いが悪い性格が幸いしたというべきか。変化に気付く者はいなかった。
 彼にとってデュオは初対面の人間ではあるが、警戒されないくらいは気に入られたらしい。というか、結構気に入られているようである。恋愛感情を持っているかどうかは不明だ。昔デュオに一目惚れした時とは様子がまた違うので。
 デュオとしてはそれはどうでも良かった。ただ、突然訪れた未来に慣れないヒイロを気遣って案内するだけだ。彼が生きて、再び前に向いて進もうとしているだけで、良い。
 トロワ・カトル・五飛の3人もそれぞれサポートしてくれる。
 我ながら、良い友人を持ったものだ。

「ヒイロ?」
 人通りが無くなった頃、いきなり足を止めたヒイロに振り返る。
 少しうつむいたヒイロはデュオを抱きしめ、その首に唇を寄せた。
「なんだよ。くすぐったいって」
 ヒイロは本来甘えたがりの性質らしい。何も解らない未来に来て不安なのかもしれないが、デュオに抱きつくことは初めてではなかった。
 だから、デュオはまったく気に留めなかったのだ。

   【つかまえた】

 ヒイロの犬歯が僅かに伸び、鋭く尖っていたことを。

「ヒイロ、急がないと遅刻するぜ」
 次の講義の教授は時間にうるさい。遅刻するとどんな課題の山が待っていることか。
 手を離したヒイロと共に再び足を速める。
 三つ編みが揺れるその首筋には、花のような痣が浮かんでいた。

 太陽は、昔も今も変わらずに地上を照らす。夏は続く。


 夢は、終わらない。





END
 








 
 
 以前発行した本《恋人の種》に掲載した話。これはプロローグ部分とエピローグ部分をマンガ、本文を小説という形式に初挑戦した話です。なかなか好評で、弱小サークルにしては何処のイベントに持っていっても必ず売れていたので、気付けば完売していたという嬉しい本でした。これも思わず自分の取り分さえ売ってしまってます…(涙)。
 今のPCではなくワープロ時代のものなんで既にデータは何処にも残っておらず、本もない状態ゆえに、原稿を見ながら打ちました。ついでなのでちょっと改訂してます。しかし量が多い…。肩凝りと指の疲労に苦しんでます。あとどんだけ残ってたっけ…遠い目をしたい気分…(汗)。
 なので、人に頼んじゃいました(殴)。依都くん、ありがとう!感謝します! m(_ _)m
 
 ジオトピアは現実に存在する概念です。他に『天体』という意味のスフェアを組み合わせた『ジオスフェア』という概念もあります。これは名の通り、地底だけでなく地球全体を講じたものです。しかし双方とも概念の段階であり、現実世界は戦争だの不況だので、どうなるかはわかりません。明るい未来を願いたいものです。
 ラストはわざと曖昧な形にしています。小説だと変ですが。想像はご自由に。
 過去のヒイロとデュオの話である《約束》(同本掲載)も依都くんにお願いしているので後日UPします。
 
 
 
 
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