霧の中をなおも進むと、城が建っていた。中世の頃に造られたような、立派なものだ。
近づいて扉の前に立つと、何と扉が勝手に開いた。導かれるまま、中に入る。
人気がなく静まりかえった、だがそれでいてきちんと整備されて全然寂れた様子はない、そんな感じがした。
ここにあの少年が住んでいるのだろうか。
この城の雰囲気は、彼に似つかわしい気がするのだ。
正面にある階段をゆっくり上がっていく。上がりきった所で、左右に廊下が続いているが、迷わず左に向かった。
そのまま奥に進み、ある部屋の前で足を止める。
扉を開け、室内に入る。
寝室のようだった。見回していると、ベランダに紅い髪が見えた。
少年は、ヒイロに背を向け、ベランダで椅子に腰掛けて外を眺めていた。
近づくと緩慢な動作で振り返る。
「ここに来客とは、珍しいな…」
「おまえが訪ねていいと言った」
「…オレが…?」
少年のいぶかしげな表情に、眉を寄せる。
「昨日のことだ。まさか忘れたわけではないだろう」
「………」
少年は再び外を眺める。
「悪いが、忘れたよ。オレはあんたを知らない」
「…!」
忘れただと? 昨日の今日で?
「ふざけるな」
ヒイロは背後から顎を持ち、無理やり上向かせた。
少年はまったく動揺せず、じっとヒイロを見返す。
その瞳に、違和感を感じた。
見ていないのだ。
すぐ目の前にいるヒイロを、映しているように見せて、実際は映していない。
ヒイロを、ヒイロだけでなくすべてを見ていない。
ヒイロは目を瞬かせた。彼は昨日もこんな瞳をしていたか?
違う。昨日はちゃんとヒイロを見ていた。
では今日の彼は、何だというのだ?
本当に忘れてしまったのか?
何も映さない瞳がショックで、口付けた。
舌を侵入させるが、彼は何の反応も示さない。薄く目を開けると彼の瞳が間近にあった。キスされているというのに、目を閉じもせず、どこか遠い所を見ている。
何故か悔しくて、きつく舌を絡めとって貪る。
どれくらい時間が過ぎたのか、彼がおずおずと反応を返す。ヒイロの肩に手をやり、押そうとするが、力が入らないようだ。
再び目を開けると今度は苦しそうな表情の彼がいた。
きつい体勢で、しかも顎を掴まれているために呼吸ができず、息苦しいのだろう。
最後に強く吸って、唇を離した。
いきなり入ってきた空気に、彼は身体を折ってむせぶ。
呼吸を整えてから、ヒイロに向き直る。
「…おまえか。本当に来るとは、律儀だな」
瞳が先刻とは微妙に変わっていた。
「…オレがわかるのか…」
「昨日逢ったろ?」
彼が薄く笑う。昨日と同じ笑み。
ヒイロは安堵の溜め息を吐いた。同時に自分に驚く。
何故安心するのだ。彼が何を見ていようと知ったことではないはずなのに。
ヒイロは彼に背を向けて部屋を出た。
「おや、帰るの? そんじゃ、おやすみ」
彼の脳天気な声が聞こえたが、振り返らなかった。
何なのかわからないが、どうしようもなく苛立っていた。
その翌日、何故かまたヒイロは彼に逢いに行った。
自分でもわからないが、彼の顔が見たかった。
調査の期間は今日でラスト。明日になれば自国へ帰らなければならない。その前にもう1度彼に逢いたかった。
報告書などをまとめていたため、既に薄暗くなりかけていた。心配する他メンバーには適当な言い訳をし、城へ向かう。
城内に入った途端、立ち込める血臭にむせかえった。
驚愕に目を見開く。
彼は階段に座り込んでいた。その足元には、人間の死体。
「な…!」
血塗れの死体。そして彼は自身の手に付いた血を舐めていた。恍惚の笑みで。
まさか、彼が殺したのか?
愕然とするヒイロの存在に気付き、彼が顔を上げる。
「これはまた、運の悪い時に来ちまったなぁ」
血化粧された唇を曲げて笑う。ぞくりとするような笑み。
しかし、ヒイロはその笑みがとても美しく思えた。
「こいつ、盗賊なんだよ。ここを荒らそうとしたから、殺った。ちょうど腹も減ってきていたしな」
茫然と見入っていたヒイロは、ハッと正気に返り、彼を見据えた。
「何故殺した。警察にでも突き出せばすむことだろう」
一瞬目を丸くした彼は、くすくすと笑い出した。
「…そうだな。人間なら警察に行くよなぁ」
「何がおかしい」
わけがわからなくて睨みつける。
「オレは、人間じゃないんだよ」
彼の口からちらりと覗いたのは、牙。
「! …おまえは、一体…」
答えの代わりに彼は笑みを深めた。
「死にたくなかったら、今のうちに帰った方がいいんじゃねぇの?」
ふらりと立ち上がる血塗れの姿に、少し耳にかじっていた伝説を思い出す。
「吸血鬼…」
「ああ。おまえらはそう呼んでいるのかな。けど別に日光浴びても十字架出されても、死んだりはしないぜ」
闇に生き、人の生き血を吸う、化け物。
闇色の服、血色の髪、夜空の瞳、美しき少年。
反射的に銃を取り出し構えた。
それを見た少年が笑い、途端、少年の姿が消える。
「!」
一瞬のうちに彼はヒイロの目の前に立っていた。
「どうした? 撃てよ」
彼は銃口に自身の胸をさらけだしていた。銃筒を掴み、心臓に押しつける。
「いかにオレでも、心臓をこの至近距離で撃てば殺せるぜ」
挑戦的な笑みを浮かべて、殺してみろと言う。
ヒイロは動けなかった。自分の指がとても重く感じられる。
何故だ。吸血鬼など、脅威の存在でしかない。殺すべきだ。簡単なことだ。指に少し力を加えればいいだけのことだ。
なのに、何故…。
そして1つの疑問が浮かんだ。
「何故、今までオレを殺さなかった」
殺そうと思えばいくらでもできたはずなのに、彼はヒイロを殺さなかった。今もそうだ。
「初めに言ったろ。おまえは殺さないって」
目を細めてヒイロを見やる。
「普通、人間はオレを見た途端、オレの虜になっちまうんだ。オレの忠実な下僕と化す。こいつもそうだ。けど、おまえは違った。…はっきり言うと、人間と会話をするなんて、生まれて初めてたぜ」
一瞬、彼の表情に陰が混じった気がした。
人間と会話…?
そういえば彼はこの城に1人で住んでいると言った。
他に仲間はいないのか?
「…おまえの仲間はどうした?」
「みんな、とっくに死んだよ。残ってるのはオレ1人。オレが最後に生まれた子どもだったんだ」
最後の、生き残り。この世でたった1人の存在。
「殺さないのか?」
動かないヒイロに、がっかりしたような顔をし、手を放す。
ヒイロは目を伏せ、銃をしまった。
「…今殺さなくても、どのみち長くはないだろう。もうすぐ全人類は地下へと移住する。おまえは食料がなくなって餓死。それだけだ」
「あいにく、それはないな。別に人間の血でなくたっていいんだ。オレの食物は生物の精気なの。植物や動物から少し精気を分けてもらうだけでいい。人間の血は、1番栄養があるってだけのことさ」
「…ならば、これ以上人間は殺すな」
言いながらヒイロは、何とか彼を殺さない理由を探している自分に気付いた。
それが何故か、またわからなくなる。
彼と逢ってから自分はわからないことばかりだ。
「そんなことは保証できないな。まあ、せいぜい早く移住するか、ここに一切人間を近づかせないようにするか、するんだな」
せっかくヒイロが努力しているというのに、彼はすべてを拒否する。
「…そんなに、殺されたいのか」
ヒイロは静かに睨みつける。声が低くなっていた。
「別にどうでもいい。いい加減永く生きてるからな。執着もないし、未練もない。退屈な人生、たまには変わったことがないと面白くねぇだろ?」
肩をすくめる彼が、何故か哀しかった。
衝動のままに手を伸ばし、抱き締める。
「…え…!?」
彼が驚いているのがわかる。けれど離す気になれなかった。
長く柔らかな髪の中に手を入れ、耳に口付ける。
このまま力を強めれば折れてしまいそうな、華奢な身体を全身で感じる。
少年はただ茫然としていた。
「…おまえ、何考えてんの…?」
答えず、頬を擦り寄せる。
「…あのさ。そろそろ帰らねぇとヤバイんじゃねぇの? おまえ、計画の重要人物の1人だろーが」
思わずハッとし、少年の顔を覗く。
どうして彼が計画のことを知っているのだ。
「あ〜、最初おまえに触れた時、ちょっと意識を読ませてもらったんだ」
触れた時。初めのキスの時。
「ヒイロ・ユイ。おまえはもうここに来てはいけない。帰りな」
彼の瞳が光った途端、ヒイロは身体を離し、外へ向かい出した。
身体が思い通りにならない。声さえ出ない。
後ろを振り向くことさえできないまま、ヒイロは真っ直ぐにテントへと歩いた。
自国へ戻ったヒイロは、忙しい日々を送っていた。
研究所で日々の大半を過ごす生活の中でも、心によぎるのはあの少年だった。
あのまま別れてそれっきり。血塗れの彼を抱き締めたのに、ヒイロの服は真っ白のままだった。それが彼との距離のようで、寂しかった。
キスして抱き締めた感覚さえ朧げで、あれは夢だったのではないかとさえ思ってしまう。
…それでも、彼は確かに存在した。今も、あの霧の中でいるのだろう。
数日ぶりに自宅へ帰る道中で、ある宝石店の前にふと足を止める。
綺麗に輝く紫色のアメジスト。どこかで見覚えがあるような気がした。
そうだ、霧の中で出逢った少年。
彼は宝石のような瞳をしていた。
美しく輝いてはいるが、何の感情も示さない、石。
ヒイロを見ているのに、時折ふっと何も映さなくなる瞳。
笑っていても、目がまったく笑っていなかった。
哀しい、と思った。
何にだろう。彼の目に映らない自分? それとも、そこまで狂ってしまっている彼?
彼は、ヒイロは自分と初めて会話した人間だから殺さない、と言った。
一瞬だけ見せた、淋しそうな表情。
彼は死にたかったのかもしれない。本当に。
たった1人で、孤独の中で生き続けて、疲れたのかもしれない。
永い時間を終わらせたいと思ったのかもしれない。
最後の生き残り。そのために自分で命を絶つこともできなくて。
だからヒイロに願ったのだろうか。死――解放――を。
どうしようもない慕情が湧き上がってくる。
しかし、今の自分は彼と遠いところにいた。
計画は着実に進んでいる。もう人類に時間は残されていない。自分がここを離れるわけにはいかない。
少し目を伏せ、再び歩き出す。
見上げることさえできない空が、遠かった。
その後、ジオトピアは完成した。
全人類が移住した中、1人の少年の姿が消えた。
慌てて捜すが消息は掴めず、やがてタイムリミットとなり、シェルターの入口は閉じられ、そして。
地上に静寂が訪れた。
ゆっくりと扉が開き、城内に光が入る。
階段を上がり、以前訪れた部屋に向かう。
以前と同じように、彼はベランダに座っていた。
「ここにはもう来るなと言わなかったか?」
振り向かない彼のそばに行き、後ろに立つ。
「ええ? ヒイロ」
ヒイロは背後から少年を抱き締める。彼は抵抗しなかった。
「オレをおまえの仲間にすればいい」
「…本気か…?」
呟くように、だがはっきりと声を出すと、やっと彼が顔を上げてヒイロを見やる。
宝石のような瞳は、今度はちゃんとヒイロを映していた。
「もう、おまえは独りじゃない。オレがいる」
少年の前に移動し、正面から向かい合う。
彼は目を瞬かせていた。
その瞳を見据えながら、ゆっくりと顔を近づける。
抱き締めると、少し戸惑って背に腕が回された。
「…まだ、名前を聞いていない」
唇を少し離して囁くと、紅い唇が静かに動いた。
「―――――…デュオ」
「デュオ…」
大切な言葉のように少年の名を呼び、再びキスを交わす。
永遠の約束を、誓う。
To be 恋人の種