銀の記憶
   















 自由と平和。完全平和主義。
 その先導である少女の強き瞳は、戦後の地球圏に輝かしい光をもたらしていた。
 人々はその主義の下に、新たな平和な世界を築いていっていた。
 しかし、平和を望む者ばかりではない。いつの時代にも、己の利潤のみを求める者がいるものである。
 それは平和になったはずのこの世界でも同じ。
 当然彼女は頻繁に命を狙われることとなり、その護衛にも細心の注意が払われる。
「リリーナ・ドーリアンを狙っている組織はL2コロニーのものらしい。ここまでしか、まだ掴めていない」
 今やプリベンターの一員である五飛が、手にした書類をデスクの上に置く。
 かなり苛立っているように見えるのは、気のせいではないだろう。潔癖な彼のことだ。自分が手を尽くしても思うように情報が得られないことが悔しいのであろう。
「L2…」
 ヒイロは繰り返すように呟く。彼もプリベンターの制服を身につけていた。
 現在ヒイロは普通の学生として生活しているが、時折プリベンターの仕事を手伝ってもいた。今回はリリーナの周囲で不穏な動きを見せる組織があるということで、協力を依頼されていた。
「デュオと連絡がつければ良いのだがな。奴はスイーパーグループにいるそうだから、裏情報にもかなり精通しているはずだが…。いくら捜しても、行方がわからん。おまえは知らんか?」
「いや」
「そうか…」
 たいして落胆したようでもない五飛に、ヒイロは気付かれないように口を緩める。
 見つからない。当然だろう。
 組織とはL2のスイーパーグループ。そして、送り込まれる暗殺者はデュオ。
 それは可能性でしかないのに、何故かヒイロは確信していた。

















 リリーナは、大会場で次期大統領選挙の立候補演説をしていた。
 それを幕の後ろから見ながら、ヒイロは周囲に視線を巡らす。
 会場内部は五飛を始めとするプリベンターやSPによってしっかり警備されている。しかし相手がデュオであるならば、侵入してくるだろう。彼は音もなく敵地に忍び込むのを得意としているから。
 リリーナを殺されるわけにはいかない。彼女は時代に必要な人物。これからの世界を担っていく者なのだ。
 そう思っていた時、視界の端に何かがひっかかった。
 二階席奥通路の柱の影に、銃口が光る。
 気付いた途端、ヒイロは幕から飛び出した。
 咄嗟にリリーナの前に出て、胸元からすばやく銃を取り出す。
 銃声が一つ響いた。ヒイロの撃ったのと暗殺者が撃ったのは同時だった。
 反射的に急所は避けたものの、胸に被弾したヒイロは、衝撃のままに後方へ倒れながら、目を凝らす。彼の銃弾をよけきれなかったのであろう。相手の影が見えた。
 その影の後につられるように落ちていく、三つ編みを、確かに。
「ヒイロ、しっかりして!!」
 駆け寄るリリーナの声もすでに聞こえていなかった。
 だが、目を閉じていく寸前その唇が小さく動いた。
 リリーナや集まるSPの中に読唇術を習得している者がいれば、わかったであろうが、その時その場にいた者は誰一人気付かなかった。彼が意識を失う直前に紡いだ言葉に。

   デュオ…――――――

















 ドーリアン外務次官が狙われたという報を受け、レディはすぐさま五飛と連絡を取った。
「よし! 暗殺者は捕らえたのだな」
「ああ。かなりてこずったがな。今はこの警察病院に収容している」
「そうか。意識が戻ったらすぐに尋問を行なってくれ」
 五飛たちに任せておけば心配あるまい。だが、そのガンダムパイロットたちをてこずらせたほどの相手というのが気にかかった。
 それに対し五飛は苦笑する。
「…おそらく、何も吐かせられんと思うぞ。なんせ、ガンダムのパイロットだった男だからな」
「何だと!? まさか、そいつは…」
「死神。デュオ・マックスウェルだ」













 本当に美しいものを見つけることができれば、それだけで人は生きていけると、昔の哲学者が説いていたらしい。
 デュオは確か、幼い頃世話になったシスターの歌声と言っていた。
 自分が美しいと思ったのは、すべてを受け入れて前を向く強さ。その瞳の奥にある光。どんなに離れても忘れることのなかった、彼の姿。
 …そんなことは決して口には出さないけれど。
 目を開けると、真っ白な天井があった。起き上がろうとして、走る痛みに顔をしかめる。
「まだ動かないほうがいいわ。銃弾は左腹を貫通していたの。咄嗟に致命傷を避けたのはさすがだけど、重症には違いないわ」
 気付いたサリィが再びヒイロを寝かせる。身体を委せながら見回すと病室のようだった。一人部屋で、いるのはヒイロとサリィだけのようだ。
 自分がこんな所にいる経緯を思い出し、ヒイロはついててくれたのであろう女医を見る。
「デュオは?」
 サリィが目を見開いた。彼女はリリーナを狙った犯人のことなど一言も言っていない。また、彼がここにいるということも。なのにヒイロはデュオの名を出した。
「…気付いていたの。彼は隣の病室よ。強力な麻酔をかけてあるから、そうすぐには目覚めないと思うけど。…あなたたちは薬に対する抵抗力を鍛えられているから、どこまで効くかはわからないと言うので、五飛が見ているわ」
「負傷の具合は?」
「外傷は左上腕に被弾したのみね。貫通していたし、問題ないわ」
 そう言うと、ヒイロはやっと体の力を抜いた。
 瞠目し、再び顔を上げる。
「…話がしたい」
「デュオと? でも…」
「顔を見るだけでもいい」
 その揺るぎない瞳に、サリィは溜め息を吐いた。
「わかったわ。でもあなたも一応怪我人というのを忘れないで。五分間だけよ」
 医者としては不本意だが、許可を出す。開口一番にヒイロが尋ねたのは、狙われたリリーナでも自分の状態でもなく、デュオのこと。それが意味するヒイロの気持ちを、尊重してあげたかった。



 ノックをしてからノブを回す。
「ヒイロ、気付いたか」
 答えもせず、ただじっと横たわるデュオに視線を向けているヒイロをどう思ったか、五飛もベットを見やり、淡々と説明する。
「まだ目覚める気配はない。この様子だと当分は眠っているだろう。体調は問題ないようだ」
 目を閉じ、静かな寝息を立てるデュオは、普段の騒がしさなど微塵も感じさせなかった。目まぐるしく変化する表情が隠れ、整った顔を浮かび上がらせている。
「少し…二人きりにしてくれないか」
「いいだろう。オレはサリィと話してくる」
 深く尋ねるようなことはせずに五飛は立ち上がり部屋を出ていった。
 ヒイロとデュオの関係は、皆知るところなのだ。
 背後でドアの閉まる音を聞き、ヒイロはベットに近づく。
「よお、ヒイロ。久しぶり」
目を開けてデュオが笑いかけた。
 ヒイロは驚かない。彼が眠った振りをしていることくらいは、見た途端に気付いていた。
「五飛が見張ってるもんだからよ。どうしようかと思ってたんだ。この怪我に、あいつ相手じゃ、逃げるのは無理そうだしな」
 気怠そうに起き上がるデュオには緊張感は見られなかった。
 自分の立場を忘れているのか、ヒイロの前だからか。
「デュオ…」
「…何だよ。言いたいことがあるなら言えって」
 睨みつける視線を軽くかわすが、ヒイロは剣呑な瞳で見据えてくる。
 仕方なしに、溜め息を吐く。
「お嬢さんの言うことは確かに正しい。正しすぎる。完全平和なんてそんなものは全人類が聖者にでもならない限り不可能だ。人類は、いや、地球上の生物はすべて闘いながら生き延びてきた。闘いことで進歩してきた。闘いをやめることなんてできない。兵器を排除してそれでOK? んなわけねえってことは、おまえもよくわかってんだろ」
「だから? リリーナを殺せばそれでいいとでも思っているのか?」
「まっさか。そんなのはただの序章にすぎない。大事なのは、人間たちにわからさせてやることさ。現実ってモンをな」
 大きく肩をすくめるデュオをねめつける。
「おまえは、平和のために戦ってきたんじゃないのか」
「平和。けっこうなことだよ。…だが、それで何が変わった? コロニーは連合の支配から解放されたが、それだけだ。人々の生活は何も変わっていない。貧困、差別、浮浪者、…コロニーの風景は変わらない」
 一瞬、デュオの瞳に暗い光が走った。
 デュオはベットから降り立ち、ヒイロを見上げる。
 半年前までは同じくらいの身長が、今はこんなに差がついていた。
「所詮、重力に引かれ、地上に縛られる者たちには、理解できないんだ」
 彼が悲しそうな顔をした気がしたが、窓から差し込む夕日の光がすぐに隠してしまった。
 黄昏色に染まる。デュオの顔も、声も。
「オレは、偽善者になるより悪人でいたい…」
 静かに響く声。
 確かに、戦争が終わったとはいえ、新しい政府はまだ始まったばかりで、至らない部分は多い。しかしこれからなのだ。これから、いろいろと整えられていくだろう。時間はかかるかもしれないが。
 平和になったのだ。可能性は大きい。
 そして、リリーナ、彼女ならやってくれるはずだ。その道標である彼女を守ることこそが、今の自分たちの任務ではないのか…?
 ヒイロはそう思っていた。デュオも同じ考えだと思っていた。
 少なくともマリーメイアの事件までは同じだったはず。なのに何故…。
「…デュオ。今の時代を信じてみろ」
 やっとそれだけを口にする。
 ヒイロだって、現実はよく理解しているのだ。けれども、諦めたらそこで終わりではないか。
『せっかく手に入れた平和なんだ、誰かがなんとかしてやらなきゃな』
 そう言ったのはデュオだ。
「いつまでだ? いつになれば変わる? オレは待つのに疲れてきたんだ」
 雲がかかったのか陽射しが薄まり、デュオの顔が見えるようになった。見慣れた、心を読ませない笑顔。
「デュオ…」
「そろそろオレは退散するぜ。じゃあな」
「待て!」
 窓に翻すデュオの三つ編みを掴んだ途端、交わした瞳に不意に言葉が途切れた。
 いつもはぐらかしていた彼が、戸惑うような悲しいような表情を向けていた。
 思わず動きを止めた、その刹那。
 ばさり、と音がして、腕が重くなる。
 髪の中に隠していた携帯ナイフで、デュオが自ら髪を切ったのだ。
 息が詰まる。
 彼が髪を切るなんて、想像したこともなかった。
 ブラウンの髪の毛が舞い、床に散らばる。
「それはおまえにやるよ、ヒイロ」
 そう言い残して、デュオはひらりと窓を乗り越えた。

「ヒイロ、もういいだろう」
声と共にドアが開いて五飛が入ってきた。
「! デュオは? 逃げたのか!?」
 真っ先に犯人の不在に気付き、声を荒げながらヒイロに詰め寄るが、硬直しているヒイロは何も言わない。
 五飛は慌てて病室を飛び出していった。同時に廊下で騒ぎが起こる。
 ヒイロは茫然と突っ立ったまま、手の中に残っている亜麻色の編み髪をただ見つめていた。


 その頃、病院からいくらか離れた所まで来たデュオは、立ち止まり、振り返った。
「…天使と死神の恋は、決して結ばれない運命なんだよ」
 その一人言の先の相手は誰だったのか。ヒイロか、自分か、それとも…。














 プリベンターの部長執務室では、レディ、サリィ、五飛が沈痛な面向きをしていた。
「油断していた。奴は言ってることとやってることがまったく違う、人を欺くのが得意な男というのを忘れていた」
「五飛、貴方の責任ではないわ。油断していたのは皆一緒よ」
「隠密行動を得意とする死神か…。敵に回ったとなると、かなり厄介だな。再びリリーナ様を狙うやもしれん。警備を強化せねば」
「その必要はない。おそらく、もうデュオがリリーナを狙うことはない」
 それまで三人から離れて黙っていたヒイロが、静かに答えた。
「それはどういうことだ?」
「あいつはリリーナを狙ったのはただの序章のようなことを漂わせていた」
 ならば、今後再びリリーナを狙う必要はない。それが何かは不明だが、次は《本当の目的》のための行動を起こし始めるはずだ。
「…奴の目的はわからんが、オレたちの敵になったのは事実だ。ろくでもないことに違いないだろう」
 完全にデュオを敵と認識している五飛に、サリィは困惑を見せる。
「実は言うと、まだ信じられないわ。どうしてデュオがこんなことをするの?」
 ピースミリオンで共に戦っていた時、陽気な彼の性格に艦内の者たちが随分救われていたのを彼女は知っている。誰よりもコロニーを想っていて戦争を憎んでいた彼が何故、と疑問が渦巻く。
「………」
重い沈黙がのしかかった。
 誰にもデュオの真意はわからない。
 そんな中、ヒイロは静かに目を伏せた。
 デュオを逃がしてしまったというのに、誰もヒイロを責めようとはしない。いや、責められなかったと云った方が正しい。
 ふと一面ガラス張りの窓から夜空を見やる。
 冷たい闇の色をしていても、地上を温かく包む夜空。
 この空の何処かに彼はいるのだろうか。
 以前、彼と話したことを思い出した。




 自分のガンダムを爆破させた直後である彼は、風を感じるように目を閉じる。
 緑色の丘の上に二人佇む。
「なあ。もし自分の好きな奴が死んだらどうする? 後を追って死ぬ? それとも生きて他の相手を捜す?」
彼にしては珍しい、穏やかな声だった。
 相棒を失ったためだろうか。少し寂しげな横顔。
 眼下には街がある。人々が暮らしている場所だ。
 いらなくなったガンダム。訪れた平和。兵器と共に兵士も必要がなくなった。
 これからどう生きればいい…?
 平和は嬉しいが、目的がなくなってしまった。
 常でない彼の様子はそのせいだと自分を納得させていた。
「…おまえはもし自分が死んだ時、相手に何を望む?」
だから、自分も穏やかに声を出すと、デュオはゆっくり目を開けて、ヒイロを見返した。
「オレが死んだら? そうだなー…その時の状況によるだろうけど、今なら、生きてほしいと思うよ。と言うより、恋人が死んだからといってさっさと死ぬような奴を好きになったなんて、思いたくない。オレのことを無理して忘れろとは言わないから、前を向いて精一杯生き抜いてもらいたいな」
「…ならば、オレは生きよう」
おまえが望むなら。その言葉は口にはせず、はっきりと意思だけを向ける。
「え、何? おまえ、オレのこと好きなわけ? 冗談きついぜぇ」
 そう言って笑った。ヒイロの想いを否定するように、笑った。





 すべてを包み込む無限の闇のような瞳をしていた。
 夜の闇に抱かれた悪戯な女神。
 そんな表現が彼には似合う。
 デュオは恐らく、いつもどおりに笑って話しながら、次の瞬間には相手を殺せる。簡単に切り捨てられる。誰も内面に立ち入らせず、さりげなく行き過ぎていく。そのくらい、理解している。
 留めたかった。遠くに行かせたくなかった。
 ただ幸せを与えたかった。
 けれども彼は陽炎のように擦り抜けていく。
 近づきたくて、踏み出しかけて戸惑う。
 四月、リリーナの誕生日にサンクキングダム城が占拠され、ガンダムパイロット五人は一時的にプリベンターに入った。
 その時はあまりにバタバタしていて、久しぶりの再会を考える暇もなかった。
 作戦会議中の彼の表情だけ覚えている。楽しそうな顔をしていた。
 彼は、戦場でしか生きられない。
 いつからか自分たちは戦うことしか知らずにいた。
 戦って戦って、戦い抜いて、生き延びて。
 平和になって、行き場を失った。
 デュオが反政府組織に就いた訳も、少しだけ、理解できる気がした。
















 宇宙には、数多くの物体が存在する。それは地球圏でも同じ事実。
 L2コロニー郡に、老朽化のためにかなり前に廃棄されたコロニーがあった。その寿命を終え、朽ち果てるのを待つだけのそこは今、不気味な鼓動を打ち始めていた。
「諸君! もうすぐだ。もうすぐ我らの悲願が達成される。我らの長い苦難は救われるのだ」
 そのコロニーの傍に位置する大型シャトルの中では、艦橋の中央で一人の男が声を上げていた。
 正面のスクリーンには、コロニーレーザーに改造された廃棄コロニーが映し出されている。これこそが、彼らホワイトファングの切り札であった。
「地球圏統一国家は平和を推しているが、それは地球だけに都合の良いものでしかない。コロニーは相変わらず虐られたままだ。大統領や上層部が地球で生まれ育った者に占められている政府に、コロニーの民の気持ちなどわかるわけがない。我々の幸福は我々の手で掴み取るしかないのだ。立ち上がろう、諸君! 我らの家族のために!! コロニーのために!!」
 男が振り上げた拳に合わせて、歓声が上がる。男の演説とその映像は、艦内の乗組員と周囲にいる味方の船全部に送られていた。
「我々には正義がある! あのガンダムのパイロット、デュオ・マックスウェルが我らの仲間になってくれたのが、その証拠だ!」
 その言葉を待っていたかのように、男の隣に少年が並んだ。
 長い髪は肩甲骨くらいの長さになっていたため、一瞬彼と思わなかった者もいたようだ。
 普段の黒い服ではなく、ホワイトファングの軍服に身を包んだデュオは、いっそう華奢に見え、なびく髪は少女めいた容貌を強調する。
 しかし皆知っていた。そのか弱い腕でガンダムを操り、《死神》と恐れられた少年。子供などと侮ってはいけない。
 敵に回せば恐ろしいが、味方となれば願ってもない戦力である。
 皆の高揚は更に高まる。
 再び男の演説が続けられた。
 デュオは苦笑して、そっと場を離れた。
 人類の覚醒。崇高な使命。そんなものに興味はなかった。
 割り当てられている自室に入り、ベットに寝転んだ。一応重力が作られてはいるが、簡単なものであるので身体が軽い。宇宙生活が長いデュオにとって、それは心地好い感覚でもある。
「………」
 短くなった髪の一房を手に取る。今までずっと長かったので、いきなり切ってしまうと頭が軽くなったような気がして、少し寂しい。
(ま、いいか。あれはあいつにやったんだし)
 敢えて髪は切り揃えていない。ヒイロの目前で切った状態のまま、手を付けていない。
 苦笑して起き上がる。
 壁に移動し、窓枠に腰掛けて外を見やった。
 宇宙は好きだ。心が落ち着く。
 やはりここが自分の還る場所だと思う。
 無限に広がる宇宙。音も温度もない闇の空間。
 思いは馳せる。
 オレは大義名分のために戦ってきたわけじゃない。そんなものに命をかける気はない。
 ただ、守りたかった。自分の育ったコロニーを、暖かい思い出の場所を失いたくなかっただけだ。
 知らないふりをして横目で眺めていたくはなかったから、頼りにならない奴らに任せたって当てにならないから、自分が戦ってやろうと思っただけだった。
 《正義》なんて言葉は大嫌いだ。そんなものは定義づけられるものじゃない。たとえ世間から《悪》と呼ばれることだって、その悪人から見れば《正義》だろう。所詮は強者の言い訳にすぎない。
 だから、自分は《悪》になろうと思った。自ら《死神》を名乗った。
 正義の鉄槌ではなく、死神の鎌を振りかざして。
(…ああ、そういえば自分から《正義》を名乗っている奴もいたっけ…)
 けれど彼の場合は、大義名分などではなく、強者すなわち自分が正義だという、至極率直なものだったから、特に嫌悪もなかった。むしろ、わかりやすくて良いと好感が持てた。
 しかしその彼とよく似た、純粋で真っ直な瞳を持つ少年は…。
『この場合、どう見たっておまえのほうが悪人だろ?』
 初めて会ったときから大嫌いだった。
 助けたのも、近づいたのも、興味ばかりじゃない。
 自分の意思さえ持たず、ただ与えられた任務をこなすだけの操り人形。
 負傷をおしながらウイングの修理をするヒイロを見て思ったものだ。
『可哀そうに』
それは同情なんかではなく、嘲笑が混ざっていた。
『そんな空っぽな生き方をして楽しいか?』
 二人で学校に通ったこともあった。仲良く振る舞いながらその実冷めている自分をいつも彼は睨んでいた。
 目立ってばかりの奴に責められるのは癪で、わざとからかったりもした。
 はっきり云って仲は決して良くなかったと思う。
 ヒイロが自爆して死んだと思った時も、悲しいとも思わなかった。けれど。
『可哀そうに』
今度は嘲笑でもなかった。何故か少し苦い思いがした。
 ヒイロに対する見方が変わったのは、OZに捕まったデュオを助けにきた時。
 殺されると覚悟していたのに。奴は撃たなかった。
『おまえが望むならな』
 驚いた。まさかそんなことを言うなんて。
 出会った頃のヒイロなら間違いなく撃っていた。任務の障害は迷わず排除したはず。
 どうして、と疑問を口にすれば、あいつはバツの悪そうな顔をして、目を逸らした。
『…おまえのせいだろう…』
 デュオの手当に集中する振りをして、視線を合わせようとはしなかった。
(可哀そうに)
 おまえは操り人形じゃない。何も知らない子どもだ。
(そんなに死にたかったのか…?)
 何もわからないまま放り出されて、目的も意義も自分の心さえもわからなくて、戸惑うばかり。
 そして正反対のオレに惹かれた。
 馬鹿だよ、おまえ。
 オレなんかを好きになってどうするの。
 わかっていてもどうしてもここにしかいられないんだよ、オレたちは。
 それでも奴はちゃんと大切な何かを見つけて。
『オレは死なない!!』
 生き延びて、平和の中で生きている。
 オレの何処がおまえのためになったというの。
「ヒイロのバーカ…」
 呟きは黒の中に消える。
「後で死ぬほど後悔するだけだぜ…」
 ガラスに映る哀しそうな顔。人前では決して見せない表情。
(…嬉しかったよ)
(けど、駄目なんだよ。ヒイロ)
 目を閉じる。
 沈黙。
 再び顔を上げた時、デュオはある決意を持って、部屋を出た。
 何故生まれたの?
 何故出逢ったの?
 それが間違いだったとしても、出逢いを悔やんだりはしない。束の間の優しさはかけがいのない力もくれていたと、知ってるから。
 だから振り返らず走る。たとえそれで傷付いても、後悔しないですむなら。
 指の隙間を流れていく夢を、欠片だけでも掴んで。
 俯き視線を逸らすのは、何もかもを捨てて立ち止まって未来さえ手放した者の道。そう教えてくれた彼に。


   過ぎ去る風。
   消せない願い。





























 ヒイロは疲れ切っていた。
 全力でデュオの行方を追ったが、見つからない。
 おそらく、もう地球にはいないだろう。
 彼が何を行おうとしているのかはわからないが、くい止めねばならない。
 十日間必死で手がかりを求めた。結果は無きにしも有らず。
 不眠不休で調査を続けるヒイロの体を案じたサリィにより、一日だけ休みを取らされることになった。
 休む気など毛頭ないヒイロだが、強制的に命令され、仕方なく住居としているアパートに向かっていた。
 手は自然に腰に回る。ベルトには紐飾りが付けられていた。デュオの髪で作ったものだ。
 階段を上ったヒイロは、ある気配に足を止めた。
 自分の部屋は一番奥にある。その扉の前、柵に両肘をついて立っている人影があった。
 肩より少し長いくらいの髪の少女。こちらに背を向けているので顔はわからない。白いノースリーブのシャツと膝までのスカート、白いサンダル。清楚なイメージを感じさせた。
 少女はゆっくりと振り向く。
「デュオ…?」
 少女の姿をしたデュオは、小さく微笑んだ。
 ヒイロは言葉を失い、立ち尽くしていた。
 いろいろと言いたいことがあったはずなのに、顔を見たら何も思い浮かばない。デュオに逢うと、いつもそうだ。何も言えなくなる。
 残暑の日差しが肌を焼く。じりじりと。
「ヒイロ。今からそこの遊園地行かねえ?」
 先日のことなどすっかり忘れているかのように笑いかける。
「オレ、遊園地って行ったことないんだよ。一度行ってみたくてさ。けど一人じゃつまんねーだろ? だから、な? 一緒に行こ」
 驚いたように目を見開くヒイロに近づき、腕を取る。ヒイロは固まったまま。
「行こ。それとも今忙しい?」
「いや…」
 その言葉が合図となって、デュオは半ば強引に引っ張っていった。



 十日ぶりに見るヒイロは、少しやつれたようだ。
 それは自分のせいなのだろうなと少し後ろめたく思いつつも、それだけは変わらない瞳に安堵もする。
 責めるように、慈しむように見つめてくる瞳。
 いつも苦しくて、だけど嬉しくて。
 どうしようもない想いに駆られて泣きたくなる。
 けれど本当に泣くことはできなくて。
 浮かんだのは笑み。

 もう、笑うしかなかった。











「面白かったー。もっぺん乗ろうぜ」
「まだ、やる気かっ」
「当然だろ。何? おまえもうへばってんの?」
 呆れるヒイロに、からかうように笑う。
 今までは、ヒイロを裏切りたくなかった。
 だから彼に甘えるような真似や期待させるようなことも、決してしなかった。
 けれど今回は違う。
 意図的に裏切るのだ。
 それがどれだけ彼を傷付けることになるか、理解している。それでも。
 それでも、これが最良だと思ったから。
 大丈夫。彼ならきっと乗り越えていける。
 自分をどれだけ憎んでも、許してくれなくてもいいから、後ろを振り向かないで。
 だから…今だけは、甘えさせて欲しい。
 一生のうち一度くらいは、こんな時間があってもいいだろう…?
「ヒイロ、次はあれ乗ろうっ」
 デュオに振り回されて疲れたような、それでも楽しそうなヒイロの手を引いて走り出した。
 デュオが女装しているため、今の二人は何処から見ても違和感なく、幸せな恋人同士にしか見えない。
 自分たちのそんな姿を思って、デュオは心の中でそっと苦笑した。今だけの恋人、今だけの夢を抱き締めて、胸の奥底にしまう。
 未来は途切れてしまうけれど、今過ごしているこの瞬間は消えない。
 きっと、何処かに在り続ける。








 全部のアトラクションを回り終えた頃、閉園を知らせる放送が流れた。
 ゲートの外でデュオが振り返る。
「ヒイロ、ありがとな。楽しかった」
 表も裏もない笑顔を初めて彼に向ける。
 ヒイロは眩しげに目を細め、デュオを抱き締めた。
「ちょっ…」
 こんな所で、と思ったが、周囲はすでに薄暗く、人通りもない。デュオは黙って自分も手を回した。
 ヒイロは腕の中の感触を確かめるように、柔らかく身体の線を辿る。
 初めて出逢った時と、まったく変わらない姿。
 細く小さな、折れてしまいそうな身体のままで。
 少し成長した自分の腕の中には、すっぽり収まってしまう。
 何故か哀しくて、彼をアパートに連れ帰った。デュオは黙って付いてきた。
 そのまま彼を抱いた。
 抱き締めても抱き締めても、不安が消えない。
 先が見えない。何も、見えない。
 昔はあんなに見えていたはずの心も。すべてが遠い。
 抱き締めるほど、消えてしまいそうで、ヒイロは触れた指先を離すことができなかった。
「…何が狙いだ?」
 ぽつり、と口にする。
 追われていることは知っているだろうに、いきなりヒイロの目の前に現れたデュオ。
 まさか遊園地に行きたいというだけで来たはずはないだろう。
「…奴らは今、コロニーレーザーを開発している」
「!」
 思わぬ存在に、ヒイロは目を見開いた。
 コロニーレーザー。
 それはコロニーを一つ丸ごとレーザー発射機に造り替えたものである。
 その巨大な銃砲から放たれるエネルギーは想像を超える破壊力を秘める。
 オペレーション・メテオ以前、それはコロニー側の最終兵器として考案された。しかし実行されなかったのは、必要な経費が莫大であり、また、連合の目を隠れながらの作業は思うようにはかどらず、結局、コロニーレーザーは未完成のままで捨てられ、オペレーション・メテオが良好な作戦として採用されたのだ。
「あれはオレが破壊する」
 デュオの瞳には強い意志の光があった。
「警備は厳重だ。技術者と幹部、そしてかなり信用された者でなければ、システムに近寄ることもできない。ミスは許されない。奴らがあれを完成させる前に…」
「そうか…」
 ヒイロは目を細めた。
 デュオはコロニーレーザーを破壊するために潜入したのだ。この平和が嫌になったわけではない。
 そう思ったら、驚くほどの安堵と喜びが湧いた。
 自分と敵対するわけではない。
 デュオの頭を肩に引き寄せ、髪を梳く。短くなった髪。慣れた感触はなくなってしまったが、デュオ自身に変わりはない。
 抱き締めてくる温かい腕の中に、デュオは顔を埋めた。
 そっと目を閉じて。夢をみる。
 うたかたの、夢を。











 翌朝ヒイロが目覚めると、既にデュオはいなかった。
 少し残念に思うが、今自分と長く居ることは彼の目的にとって都合のいいことではない。仕方ない。
 ヒイロは服を着ると、大統領府とプリベンター本部のあるブリュッセルに向かった。休暇は撤回するつもりである。昨日までの疲労はまったく残っていない。彼が傍にいるだけで、ヒイロはどこまでも強くなれる。
 重症だなと苦笑しつつ、目的地にさしかかった時。

 ドォン!

 大きな爆発が起こった。
「!」
 反射的にヒイロは駆け出した。
 大統領府の脇の道路は、見る跡もなく吹き飛んでいた。自動車の破片と血だらけの死体が転がる。政府高官たちの乗った車が、道路上で爆破されたのだ。
 それだけではない。爆発は周囲を通っていた民間人や住宅までも巻き込み、悲惨な状況を生んでいた。
 ヒイロはその工作員としての勘で、少し離れた所のビルとビルの間を走った。読みどおり、そこに爆破の犯人がいた。
 だが、それは思いもよらぬ人物。
「悪いな、ヒイロ。おまえのデータ、ちょっと拝借したぜ」
 デュオは少女の姿のままだった。
 ヒイロが持っていた、高官たちの行動予定に関する情報を、デュオは盗んだのだ。昨日彼がヒイロのところに来たのはそのため。他はそれを気付かせないためのカモフラージュだったということか。
「デュオ…何故、こんな…」
「今更奇麗事言ってんじゃねぇよ。おまえだって人を大勢殺してきただろうが。同じ人殺しだよ」
「…だからといって、何の関係もない者まで殺すというのか?」
 罪もない民間人。死体の中には幼い子どももいた。
 デュオは笑みを崩さない。
 どうしようもない怒りが込み上げてくる。
 彼は自分を利用したのだ。
「―――おまえは人間じゃない」
 ひどく冷たい声が口から出ていた。
「狂っている」
 睨みつけ、低く吐き捨てる。
「ああ、そうだよ」
 あっさり肯定し、いっそ楽しげにデュオは笑う。
「…おまえを、殺す」
「…いいぜ」
 静かな声が交差する。しかしそれは強い存在感と意志を示すもの。
「けど、まだだ。今死ぬわけにはいかないんでね」
 言うが早いか、デュオはポケットから煙幕弾を出し、地に投げつけた。
「待てっ」
 ヒイロの声を背後に、デュオはその場を離れた。
 逃げ足の速さに関してはデュオの方が上だ。ヒイロは追いつけない。
 デュオは全力で走った。





『人間じゃない』
 覚悟はしていたし、わざと仕向けたことだったけれど、叩きのめされる気がした。
 救いのはずなのに、残酷で。
 思い知らされた気がした、彼と自分の間にある、決定的な壁を。
 血塗れた手。たくさんの血痕が染み付いた手。
 赦しも救いもいらない。元々そんなものはない。それでいい。
 自分にはなくていいから、罪は全部自分が背負うから、だから。
 せめて、彼だけは。
 彼に救いと幸福を。
 彼はその権利がある。地球を守り平和を支える天使。
 彼の苦しみも悲しみも痛みも全部オレが受けるから。
 どうか、彼だけは。
 この世にもし神というものがいるならば、どうか。
 祈る資格さえない自分が、ただ、願う。






 どれくらい走ったのか、やがてぽつぽつと何かが身体に当たってきた。
 雨はすぐに勢いを増し、どしゃ降りになった。
 デュオは立ち止まり、全身で雨を受ける。
 残暑の雨。生暖かく、べったりとまとわりつくように身体を濡らしていく。まるで血のよう。
 温かい雨もやがて冷たくなるだろう。
 夏が終わる。
 突然の雨のため、忙しく家路につく人々の中で、一人、雨の中にじっと立つ子ども。
 微動だにせず、立ち尽くす。
 移り変わる世界の中、止まった子ども。
 成長しない身体。時が止まった身体。
 そうして、ひとり、取り残される。
 少し淋しくはある。けれど。
(けれど、これが《オレ》だから)
 後は精一杯生きればそれでいい。

 精一杯。その言葉を心に繰り返した。
















 今度は黒い帽子にサングラス、Tシャツにパンツという格好で、デュオは宇宙港にいた。
 男というだけでなく、今度は女装した姿でも、指名手配されているだろう。さっさと地球から出るべきだ。
 シャトル発射までまだ時間がある。目立たないようにロビーの隅で雑誌を読んでいたデュオに、近づく影があった。
「デュオ」
「何?」
 さりげなくデュオの斜め後ろに背中を向けて座った人物は、普段と変わらず静かに呼んだ。
 デュオも普段と同じように答える。ロビーに現れた時から、相手が誰かは気付いている。プリベンターが自分を追っていることは知っているだろうに、捕まえる気も、皆に知らせる気もない様子なので、警戒は最低限に解いた。
「オレはおまえのことを知っている。後何日ある?」
 ページをめくる手がわずかに反応した。
「…そうか。だてに《バートン》の姓を名乗っているわけじゃなかったな」
 トロワ・バートン。その名を名乗り、末端とはいえバートン財団に関わっていた彼ならば、知っていても不思議はない。だが、教えない。誰にも教える気はない。笑みを浮かべ、沈黙を守る。
「…おまえは、それで良いのか?」
 ヒイロはもうおまえに気を許さない。おまえの思惑どおりになった。だが、本当にこれで良いのか?
 トロワの声にはわずかに迷いが感じられた。
 デュオは苦笑する。
 自分がどんな返事をしたところで、トロワは何もしないだろう。すべてを知っていても、見ているだけなのが彼だ。それならば、こんな問いは無意味であるはずなのに、わざわざこんな所までやってきて。
 彼も彼なりに《仲間》を心配しているということか。
「良いも何も、自分で選んだことだぜ? オレは後悔していない。そういう生き方をしてきた」
 だから心配なんてする必要はないよ。オレはオレだ。
「―――そうか…」
 それ以上、トロワは何も言わなかった。
 少しずれて背中合わせに座り、視線も向けることなく。それでも間にある空気は決して不愉快ではなく。浅くもなく深くもない、奇妙な関係。
 戦争の中で得た、小さなものの一つ。
「時間だ。じゃあな」
 雑誌を丸め、デュオは立ち上がる。
「ああ」
 互いに他人のふりをしたまま別れた。







 地球圏統一連合に支配されていた頃、コロニーは互いの情報さえ、ろくに知れない状態だった。他のコロニーで何が起こっていてもわからない。
 例えば、廃棄されて住民がいなくなったコロニーの一つである研究が行われていたこととか、である。
 ヒトゲノムを操作し、優秀な戦士を造り上げる。
 《ヒトゲノム》とは《人間》を形作っているDNAのことである。これがたった一個違っても、人間の機能は正常でなくなる。ヒトと猿のDNAの違いは、遺伝子配列がわずか十六%異なっているだけという。
 ならば、ヒトゲノムを自由に操作できれば、《人間以上の人間》が創れるのではないか。
 神への冒涜にも等しいこの実験を考えた者たちは、既に狂っていたのかもしれない。
 上層部も、いつ拡大化するかわからないコロニーの反乱に備えて、この研究を極秘に容認していた。
 失敗を繰り返し、何度も実験が行われた。そしてAC180年、やっと完成体が生まれた。何百本の試験管の中からたった一つ、成功したその子どもは、ある日突然行方不明となった。誰かが連れ出したのか、自分から逃げたのか、その理由は不明なままである。ただ、設備は破壊され、データも消されていたため、研究の続行は不可能となり、施設もコロニーごと閉鎖された。
 当時連合に取り入っていたバートン財団のデキムはこれを知り、その子どもを捜した。オペレーション・メテオの軸となるガンダムは、普通の人間では乗りこなせない。だが、その子なら…。
 まったく手がかりの掴めなかった頃、L2群のV08744コロニーで、ある噂を耳にした。たった八歳の子どもが連合軍基地から鮮やかにもモビルスーツを奪取した、というのだ。調べてみると、その子どもは孤児で、成績は学年トップ、数年前にそのコロニーで流行したウィルスにも感染しなかったという。
 デキムが駆けつけた時は既に教会は焼け落ちており、子どもは姿を消していた。だが、幸運にもデキムの望みどおり、子どもはガンダムパイロットとなる。
 デュオ・マックスウェル。
 それが子どもの名であった。


















 政府高官の暗殺。しかも大統領府の目と鼻の先で行われたとなると、政府内部をはじめ、世界中で混乱が起きていた。
 プリベンターも躍起になっていた。《火消し》が後手に回っているわけにはいかない。L2コロニー群を集中的に調査していた。
 突然、発信人不明でレディに通信があった。
 組織はホワイトファングの残党から成るものであり、首謀者はデキム・バートンの側近であった男。潜伏地の座標等まで細かく書かれてあった。
 この情報を鵜呑みにできるものかどうか。しかし信憑性はあった。デュオが言っていたことの中に真実が混じっていたとすれば、敵がコロニーレーザーを手に入れているということである。記された座標には、基盤にうってつけの廃棄コロニーがある。確かめる必要はある。
 だが今から確認をとり、それから出撃するのでは到底間に合わない。
 レディはヒイロをプリベンターの地下格納庫に連れていった。
「これは…!」
 思わず目を見開いていた。
 そこにあるモビルスーツはヒイロにも見覚えのあるものだった。それも決していい思い出はないものだ。
 ガンダムエピオン。そう呼ばれた機体であった。
「EVE・WARS後にゼクスが隠していたものだ。もしもの事態に備えて回収して修復しておいた。相手がガンダムパイロットとなれば、これが必要だろう」
 ゼクスはノインと共に旅立つ時、レディに一つのメモを残していた。それにはエピオンの隠し場所が示さおり、一言『これが必要のない存在になることを願う』とあった。
(実際は必要となってしまったが…)
 レディは目を伏せて唇を噛んだ。
 現在、このエピオン以外にガンダムは存在しない。これで対処できなければ、そこで終わりだ。
 平和を維持することはなんと難しいことか。
「すぐに出撃する」
 ヒイロは機械的に言い放ち、テロップへ向かう。
 彼だけが、最後の希望。
 レディは真摯な想いでトレーズの設計したこのエピオンを見上げた。
















 自室に戻った途端、デュオは壁に倒れるようにもたれて右手で胸を押さえた。
 地球にいた間、笑顔の下に隠していた痛みと吐き気が、一気に襲いかかる。
 キリキリと何も考えられなくなるほどの苦痛が視界を揺らす。
 堪えきれず、膝を付いて激しく咳き込んだ。
 耳鳴りが思考を支配する。体中から汗が吹き出す。
「……ハア…ハア…」
 何とか息を整えて口を抑えていた左手を見ると、吐いた血で真っ赤になっていた。
 締めつけるような心臓の痛みは、まだ鈍く続く。
「――――そろそろ、限界かな……」
 口端を曲げて苦笑するが、顔は苦痛に歪んだままであった。
 神への冒涜には、必ず報いがある。
 無理やり作り出された生命は、脆く、限りあるものだった。
 一定以上成長しない身体。狂気をはらんだ精神。
 そして、短い寿命。
 《人間でない人間》は本来存在してはならぬもの。
 じゃあ、どうして自分は在るの?
 今ここで生きているのに。
 自分は何だったの?
『後何日ある?』
 運命のカウントダウンは始まっている。
 時は流れる。止まることはない。戻ることはない。
(もし、時間が戻せるなら)
 やり直すことができたのだろうか…?
 別の生き方ができたのだろうか…?
 やけに不似合いな感傷に、自分で苦笑する。
 そんな奇跡が起こったとしても、自分には何もできないし、変えられないのだから。
 こんなにも人を殺し、血に塗れながら、自分は、平気で笑い、罪悪感さえ感じず、周囲を欺く。
 異常だ。狂っている。よくわかっている。
 涙さえ出てこない。泣くこともできない。
 どんなに泣きたいと思ったとしても、自分は泣けない。
 代わりに出てくるのは、笑い。
 狂っている―――。
 そんな自分にまた笑ってしまう。どうしようもなく、笑ってしまう。
 それこそ、異常なのだと。知っているけど。
 知っているけど。
 自分に対する嘲笑しかなくて。また少し自分が嫌いになって。
 同じ環境にいて、それでも狂わずにいるヒイロ。あれほどまで真っ直ぐでいられるのは何故?
 羨望した。そして少しの嫉妬と憎悪。
 歪みきっている自分は、戦場でしか生きられない。戦場でならば自分は正常なのだ。
 けれど彼は違う。
 彼は平和を生きていける。これからの未来を、前に進んでいける。
 未来が何処にもない自分とは違うのだ。
 同じ赤い血。二人で同じ時間を過ごした瞬間。
 決定的な違いがここにある。
 おまえと一緒には在れない。
(…ヒイロ)
 許さなくていい。憎んでくれていい。
 それこそが望み。
 憎んで憎んで…、そして忘れて。
 思い出すこともないように、記憶から消して。自分のすべてを。















 現ホワイトファングは、地球に対する憎しみが拭えない者の集合といってよかった。
 虐られた過去を忘れられず、復讐のみを誓った者たち。彼らにとって大儀は名分でしかなく、実際の目的は《地球の排除》以外の何物でもなかった。
「プリベンターの実働部隊がこちらに向かってきている模様です」
「気付いたか。だがもう遅い。コロニーレーザーは完成した。残念だったな」
 通信士からの報告を受け、スクリーンの前に立っていた男はほくそ笑んだ。先日演説をしていた男、現ホワイトファングの司令である。
「コロニーレーザーのエネルギーチャージを始めろ」
「プリベンターの方の対処はどうしますか?」
「心配いらん。そちらは死神に任せておけばいい」
 男はかつてデキムに仕えており、デュオのことも知っていた。何としても味方に引き入れたいと考えていたのだ。デュオが自ら仲間になると言ってきた時は、内心怪しんでいたが、彼は与えた仕事は確実にこなしてくれた。不信の気配はもうない。
 デュオは完全に信用を得ていた。当初からの畏怖の目はあるが、それは仕方ないだろう。
 《白い牙》の中で一人異質な黒い死神は、否応なく目立っていた。
 そのデュオが、艦橋のレーダーを見て動き出した。
 恐れるものなど何もない。ただ、自分の願いを果たすのみ。
 生まれた意味などわからなくていい。生きた証などなくていい。これはただの自己満足。
 できる限りのことはしてみせる。世界のために、彼のために。
 何より、自分のために。







 エピオンは、バーニアを全開にして、情報のあった座標へと向かっていた。その後方には、五飛が率いるプリベンター実働部隊がある。
 エピオンのゼロシステムは答えていた。デュオは間違いなくそこにいると。
 ヒイロは暗い目で正面を凝視し続ける。あの紐飾りは懐に入れていた。何故か捨てられなかった。彼を許すわけにはいかない。所詮、彼は《死神》なのだ。戦いと死を招く存在でしかない。なのに、記憶が邪魔をする。
 彼の心からの笑顔を見た時があったのだ。
 深く深く海の底に隠している本心を見せてくれたことも、確かにあったのだと。
 ヒイロはそれを無理に押し込んで、スロットを握る。
 目標がレーダーに映った。廃棄されたはずのコロニーにエネルギー反応。周囲にある数隻の宇宙船。間違いない。
「目標発見。これより敵を鎮圧する」
 ヒイロが言うと同時に、敵艦すべてから、何かが出てきた。
 数十機のモビルドール、ビルゴである。
「モビルドールか!」
 兵器を撤去したはずの現代にまだこれだけのビルゴを持っていたとは…。
 舌打ちをし、ヒイロはビルゴの部隊に突っ込んでいった。







 大型のコンピューターが壁一面に設置された部屋の中央にデュオはいた。以前リーブラでドロシーが使用したモビルドール指揮命令システムを改良したものである。ミリアルドが開発したこのシステムの設計は、ホワイトファングの持つデータの中に保存されていたのだ。それから更にゼロシステムの効能を上げ、操縦者の指令が細かい点まで伝わるようになっている。
「へぇ。エピオンでくるとはね。そんじゃ、お手並み拝見といきますか」
 室内が低い唸りをあげながら、光を放ち始めた。







 ヒイロはビルゴに苦戦していた。モビルドールなどガンダムならわけもないはず。なのに思わぬ苦戦を強いられ、進めない。
 五飛がトーラスで援護にきても状況はさほど変化しなかった。ビルゴは状況に合わせて戦術を変え、反撃してくる。
(誰かがゼロシステムでモビルドールを操っている)
 コンピューターの指示だけではここまで状況変化に対応できない。考える点はリーブラとの戦闘時。
「操っているのは…、デュオか!?」
 信じがたいが、彼しか考えられない。かつてあのシステムを操ったことのあるドロシーは地球、カトルはL4コロニー、他二人のガンダムパイロットはここにいる。ゼクスが再びホワイトファングに就いたとは思えないし、トロワでもないだろう。
 そう、デュオはゼロを操れる。わかっていた。誰よりもゼロシステムを嫌っていたが、彼はヒイロと同等、いやそれ以上かもしれないくらいにゼロシステムを支配できる。デュオにはそれだけの能力がある。
「デュオ…」
 ヒイロは苦々しく唇を噛んだ。
 ゼロシステムは戦況における莫大な情報を処理し、パイロットに最善の選択を伝える。通常のパイロットでは、この指示に逆らえない。脳に直接送り込まれる命令指示を拒否できる精神力など、誰も持っているはずがないからである。ヒイロやゼクスでさえ、搭乗当初はゼロに翻弄されていた。完全にゼロシステムを克服するまで、どれだけ時間と経験を積んだことか。戦争終盤でカトルやドロシーが使用していたものは、システムのソフトウェアだけを組み込んだもので、完全な形ではなかった。だから戦闘訓練を受けていないドロシーでも操作できたのだ。
 しかし、デュオはまったく翻弄されることなく、ゼロシステムを征服していた。彼の精神力はそれほどまでに他を凌駕していた。
「くっ」
 ヒイロはエピオンのゼロシステムを全開にして、デュオの先を読もうとする。
 ゼロとゼロ。二つのシステムは互いに相手を読もうとせめぎ合う。
 そして、システムを通して二人の間の距離が消えた。
「デュオ!」
「よお、ヒイロ」
 システムの先でも、彼は相変わらずの笑みを浮かべていた。それがヒイロを苛立たせる。
「おまえは何を考えている! 戦争を引き起こして、それで満足なのか!?」
 ヒイロと対照に、デュオはいたって冷静だった。ゼロシステムによる興奮さえ、抑えられるようだ。
「反省とか、過去を振り返るばかりじゃ、せっかく手に入れた平和も脆く崩れていくだけだ。与えられたぬるま湯のような生活を享受しているだけでは待っているのは堕落のみ。そして堕落した人間は自己防衛や更なる豊かな生活を求め、やがて戦争という行為につながっていく。それは歴史に証明されていることだ」
 だから、人間たちに理解させなきゃいけない。《戦い》というものの本当の意味を。
「大層なことを言って、結局はおまえが戦いたいだけじゃないのか? 死神が!」
 ヒイロの罵声にも動じず、デュオは冷ややかに笑う。
「人類に戦いという本能を捨て去ることなんて不可能だ。もしできるとしても、今の人類はそこまで高尚なレベルに達しちゃいない。今、無理に捨てようとしても、絶対にどこかで亀裂が生まれてしまう。…オレはミリアルドやマリーメイアは好きじゃなかったが、奴らの考えには同調するね」
「その無理を乗り越えていくために、リリーナたちが努力しているのだろう!」
 リリーナ。
 その名にデュオの笑みが凍った。
 地球の少女。彼と同じ、強い瞳を持つ少女。
 自らの手を血に汚したことなどない平和の女神。衣食住に困ったこともない金持ちのお嬢様。そして、彼が唯一バースデープレゼントを送る相手。
 死を運ぶことしかできない自分とは対照的に、多くのものを生み出すことができる清らかな少女。
 すべてが不愉快な存在。
「…オレは、地球なんて、大っ嫌いなんだよ!!」
 これは醜い嫉妬だ。
 自覚したが、感情は止められない。
 ビルゴの動きが格段に跳ね上がる。
「何!?」
「おのれっ!」
 ヒイロと五飛は一気に集中攻撃を受け出す。
 その様子を見た後、デュオはコントロールをオートにしてヘルメットを脱いだ。
 瞬間、眩暈が襲う。
 少しでも気を抜けばそのまま意識が遠のいてしまいそうなところを、必死で支える。
(まだだ。まだ終わっちゃいない。まだ死ぬわけにはいかないんだ)
 一瞬、レーダーに映る機影を目におさめた。
 おまえが好きだよ。多分、愛してる。
(だから、おまえのものにはなれない。なるわけにはいかない)
 デュオは意識を奮い立たせ、腰を上げた。

『後何日ある?』

 タイム・リミットは、今日。













「チャージ、百%まで完了しました」
「よし。地球の大統領府に向けて発射しろ!」
「了解。カウントダウンに入ります」
 これで悲願が叶う。艦橋内は云い知れぬ興奮に湧き上がっていた。
 邪魔者であるプリベンターは、近づくことさえもできない。
 今度こそ、我らが勝利するのだ。
 カウントを詠み上げる声だけが響く中、そぐわない声が聞こえてきた。
「ここまでにしよう。人類の覚醒にはこれで十分だろ」
 振り返ると、入口にデュオが立っていた。手に持っている拳銃は司令官に真っ直ぐ向けられている。
「デュオ・マックスウェル!? 裏切るのか!」
「心外だな。オレは元々《地球の排除》なんて考えには賛同してないぜ。賛同したのはあくまで《人類の覚醒》とコロニーを守ること。それだけ」
 デュオは肩をすくめる。
「ふん。今更何をしようと遅い。すでにカウントダウンは始まった。もう誰にも止められん!」
「それはどうかな?」
 デュオの笑みに暗いものが混ざると同時に、異常が起こった。
「こ、これは…!?」
「コロニーレーザー、エネルギーチャージが止まりません! このままではオーバーロードを起こし、耐え切れずに爆発します!」
「何だと!?」
 司令である男が慌てて操作盤に飛びつく。
「ダメです! こちらからの制御を受け付けません!!」
 オーバーロードを示すサイレンが大きく鳴り出した。艦内にいるデュオ以外の全員の顔色が変わっていく。
 怒りを顕にして男はデュオを見た。
「貴様の仕業か!!」
「ちょいとプログラムに細工させてもらったぜ。あんたらの気持ちもわからなくはないけどな、いいかげん地球と宇宙って単純な考えからは卒業しようや」
「貴様ぁ! 死神なんぞに説教されたくないわ!」
 男が拳銃を構える前に、デュオの弾丸が男の額を貫いた。
「復讐なら、あの世でやりな」
 崩れていく男を見下ろす死神の目はあまりにも冷ややかで、その場にいる者たちを青ざめさせるには充分だった。








 一方、ヒイロたちは何とか、ビルゴを半分くらいまで破壊していた。
 かつてドロシーが操っていたものとは桁が違う。しかしコロニーレーザーを一刻も早く破壊しなくては。
 焦りばかりがはやる。
 その時、ビルゴたちの動きが止まった。
「?」
「これも奴の作戦のうちか?」
 ゼロシステムのよる予測を行おうと、ヒイロがパネルに手を伸ばした時、熱探知レーダーが反応した。
「待て! 妙だ」
 ヒイロに続き、五飛もコロニーレーザーに視線を向ける。
 コロニーの熱はどんどん上がっていく。止まらない。
 そして。
 爆発。
 閃光と衝撃が走る。
「!!」
 何が起こったのか、瞬間、理解できなかった。
 レーザーが発射されたのではない。ならば何?
 閃光がひいた後、コロニーレーザーと呼ばれた物はその姿を消していた。
 ヒイロたちは茫然とモニターを凝視していた。
「コロニーレーザーが…」
「どういう…ことだ…?」
 自爆? そんな馬鹿な…。
 再びレーザーが反応する。
 今度は止まっていたモビルドールが動きだし、互いと味方の船を攻撃しはじめた。
「! モビルドールが!」
「同士打ちだと!?」
 これこそ、訳がわからない。
 この戦いは彼らの方が優勢だった。自爆させる必要など何処にもない。ましてや、モビルドールに自分たちを攻撃させるなど。
 考えられるのは、内部の裏切り。
 一人の少年の顔が脳裏をかすめた。それは刹那のことで、すぐに忘れてしまった。
「ヒイロ! 聞いて!」
 後続にいたサリィから通信が入った。モビルドールのせいで今までこの空域に近づけなかったのだ。
「この前、一応精密検査しとこうと思って、あなたやデュオの採血をしていたんだけど…」
 かなり興奮しているらしい。上がりがちな息の中、必死に声を出しているような感じだ。
「デュオの細胞にかすかな異常があったの! 自己崩壊を起こしている。原因はよくわからないけれど、これは…っ」
「!!」
 何だ? 今、何と言った?
 デュオが…?
「それはどういうことだ!」
五飛が声を張り上げる。
「つまり、老衰に似た状態…まるで、寿命がきたかのようになっているのよ」
「馬鹿を言うな! 老人じゃあるまいし!」
 サリィと五飛の言い合いを、ヒイロは遠くの耳で聴いていた。
 何が何なのかわからない。頭の中が混乱でいっぱいになっている。デュオは一体…。
 ゼロシステムは勝手に答えを見つけるために動く。
 過去のデュオが現れては消えていく。
 コロニーレーザーは自分が破壊すると言った彼。
 緑の丘の上。鮮やかに笑った彼。
 覚えていて悲しみ続けるよりも、忘れて微笑んでいる方がいいと…そんなことを言っていなかったか…?
 開かれた未来を真っ直ぐに受け入れるような言葉。
 彼の、本気で傷付くことをおそれない瞳が浮かぶ。
 デュオは自分の身体の異常を知っていた?
 自分の死が近いことを知っていた…。
 だから……。
 ヒイロは本当に声を失った。












「悪いな。あんたらは死神に見入られた時、既にこうなる運命だったんだよ」
 艦内の人間は、デュオを除いて全員息絶えていた。ただただ地球へ復讐するために生きてきた者の末路。哀れではあるが、デュオには何の感情もなかった。
 モビルドールは、コロニーレーザーの爆破と同時に他のビルゴやホワイトファングの船を攻撃目標に変更するように、あらかじめプログラムしておいた。
 残るはこの艦のみ。
 艦の自爆スイッチが入ったことを告げるコンピューターボイスが放送され、オールレッドの照明がつく。
「これで終わりだ」
 入力を終えて立ち上がった、その時。
「デュオ!」
 忘れようのない声。
 通信モニターの中の彼は、今まで見たことのない、必死な形相をしていた。
「デュオ、来い! 何処にも行くな!!」
 置いていかれることを恐れ、すがるような表情。
 こんな顔、見たことない。
「――――ヒイロ…」
 その名を口にして、思わず何かが込み上げそうになった。
 逢えてよかった。心からそう思う。
 おまえと出逢えて、幸せだったよ。
 本当に幸福だった。
 だから。
「じゃあな」
 笑って手を振りながら背を向ける。
 振り向くことはない。












 不思議なほど穏やかな気分だった。心が透き通ったような、そんな感じだった。
 頭の上も足の下も、星の海。宇宙に温かく包まれているようで心地好い。
 思い残すことはこれでない。自分に課した最後の任務はやり遂げた。
 リリーナの企画した《マーズ・テラフォーミング・プロジェクト》のことは知っていた。今の、自分たちの足元を固めるのに精一杯な民衆には、その計画は支持されにくいだろうことも。
 一番の障害は内部の反対だった。保守派の体制をとる高官たちは、開発よりも現段階の維持に力を入れるべきだと主張したのだ。
 デュオが殺したのは、その保守派の幹部たちであった。頑固に反対していた者がいなくなった今、計画は実行されるだろう。
 これで人類は《更なる宇宙開拓》という意義の下に、前を向くことを考えることができる。立ち止まっていては、何も進歩しない。
 今度こそ死神の出番はなくなる。そう願う。
 もう自分のような存在が生まれることがないように。悲しい子どもがいなくなるように。
 来るはずのない未来を、ただ信じる。
 唐突に、一人の少年の顔が浮かぶ。いつも強い瞳でデュオを見ていた彼。
「おまえの心に生き続けることが、死ぬよりももっと辛いんだ…」
 隠し続けていた本当の気持ちを、最期に口にして。
「さよなら…ヒイロ…」


「……ありがとう……」

 失くしたはずの涙が、ひとすじ、頬を伝い落ちた。










 ヒイロは、赤く染まった通路を走り続けた。
 爆破まで後五分を切った。急がなくては。
「デュオ! 何処だ!」
 ヒイロの声と、カウントダウンを詠む放送だけが反響する。
 ドアを開けては次の部屋へと走る。その繰り返し。
 突きあたりのドア。これが最後と、勢いよく開ける。
 船尾の展望室。出入口側の壁以外は特殊ガラスで覆われている部屋。
 その中に、ガラスに背を預けて座っている、小さな人影があった。
 ホッと息を吐き、駆け寄って、そこで瞳が止まった。
(デュオ)
 ヒイロは瞬きをして、膝をつく。
 ただ静かに、静かに目を閉じているデュオ。
「デュオ…?」
 おそるおそる彼の頬に触れてみる。彼は何の反応も返さない。
 冷たい、体温。
 背筋が凍る。
 応えない、デュオ。
 身体の深い所で、ガラスの砕ける音がした。

「――――――――――っ!!」

 声にならない叫びが喉から悲鳴を上げる。
 思いきり掻き抱く。今までは、ヒイロは力が強いから痛いと言うデュオに気遣って、そっと抱き締めることしかできなかった。けれど、もう、どんなに力を込めても、デュオが痛がることはなかった。















 何も気付けなかった。なんて愚かな自分。
 デュオのすべてを理解できると思っていた。けれどそれは、ただの思い込み。
 オレは何を見ていた? デュオの何を見ていた?
 デュオの本当の心さえ気付けずに、何をしていた?

『生きてほしいと思うよ』

 あの時の言葉に込められていた意味こそが、彼の本心だったのだと。
 自分の見解の甘さを悔いても、もうすべてが遅い。

『生きて』

 繰り返し響く声。
 デュオの願い。

『ならば、オレは生きよう』

 ゆっくりと顔を上げて、デュオの顔を見つめる。
 彼の笑顔が甦る。
 最後に見た彼の笑顔は、苦しみも悲しみも脱ぎ捨てた安らかな微笑みだった。

(幸せだったのか、おまえは?)
(満足に生きられたのか?)

 静かな死に顔。それはヒイロの問いを肯定しているように見えた。

 …それならば、迷うことはない。

 彼のすべてが目に焼きついていて、腕の中の感触は手に馴染んでいて。
 決して忘れることはないだろう。だけど。

「さよなら、デュオ」

 まるでいい夢を見ているかのように穏やかに瞳を閉じた彼に、最後の抱擁とキスを送った。






      END.









【地上の星座】に掲載した話です。この話が本のメインになってました。
 表紙に髪を切ったデュオを描いたらオリキャラと思われてしまったという…。髪切った彼が見たかったんです。
 友人たちに「デュオがWFに入ったって設定で話書く」と言ったら、全員「え〜。そんなの、デュオがヒイロを殺して終わりじゃん」と返してくれました(笑)。さすがだ。
 本当に文才ないなオレ…と落ち込みながら書いた話でしたよ。なんで一人称になったり三人称になったり、ころころ視点が変わってんだよ。読みにくいことこの上ない(殴)。
 更に結構省略している箇所多し。だらだら長くなってもつまらないし、この話の中心はそういう部分じゃないし。って大きく言うことかよオレ(殴)。

 タイトルの《銀の記憶》は実はこれを書いた当時は歌詞を知らなくて、タイトルだけ使ったんです。後で知りました。
 というわけで、この話は谷山浩子さんの《光る馬車》と魔法騎士レイアースの《RUN》(緒方恵美さま声キャラソング)がイメージソングとなってます。これからいなくなる自分のことは忘れて欲しいという歌。残り少ない命を自分の願いのために使おうとする意志の歌。同時に話内のデュオのイメージでした。
ちなみにヒイロはBzの《TIME》でした。良い歌です。


 しかしこの頃はまさかマジでガンダムに“遺伝子操作された人間”が山ほど登場するようになるとは思っていませんでした。
 ガンダムSEEDの設定を知った時には茫然としたものです。
 
 
 
 
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