真夜中の太陽
 

















 


 荘厳なそれは、訪れる者を畏怖させるには充分な造りをしていた。
 幻想的な佇まいのその1室で、頭を垂れて恭しく片膝をつく黒衣の影。
 茶の髪は長く、黒衣を包むかのように緩やかな広がりを持っている。
 俯いた影は性別すら感じさせず、ただ神々しくも見えるその様を控えることなく誇示していた。
「よいな。これには我ら、そして世界の存続がかかっておる」
「失敗は許されん」
 何処からともなく耳に届く声たちは影に投げかけられていく。
「きわめて重要な任務だ。頼むぞ」
 その声を最後に、影はゆっくりと立ち上がり、おもむろに顔を上げた。
 紫暗の瞳が妖しく光り、笑みを形作る。
「お任せを」
 低い少年の声が、広間に響いた。








「デュオー!」
 駆け寄る声に足を止める。
「カトル」
「聞いたよ。大変な話だね、僕も手伝うよ」
「ありがとな。その時は頼む。けど今はいい」
「でも…!」
 心配する友を苦笑して制する。数少ない友人、それは互いにとっても大切だ。
「大丈夫。これでもオレは優秀なんだぜ? オレにしかできないことだしな。やってみせるさ」
 茶髪をなびかせ微笑むデュオに、迷いはなかった。






































 …気にくわない。
 奴に対する第一印象はそれだった。
 明るく人懐っこい笑顔を振りまいて、誰彼構わず馴れ馴れしく接する。転校生のデュオ・マックスウェル。
 奴は梅雨が始まった頃、転校するには珍しい時期にやってきた。空席がオレの隣だったことから、オレの日常は急に騒がしくなった。
「あのさ、教科書見せてくんない?まだ届いてないんだ」
 転校してきたばかりだから仕方ないと思って貸してやったのが運の尽き。それ以来、奴はオレを気に入ったかどうかは知らないが、やけに付きまとってくるようになってしまったのだ。
「ヒイロ。旧校舎って何処にあるんだ?放課後案内して」
 今日もいつものように軽い口調でデュオはヒイロに話しかけた。
 長い髪を三つ編みにし、蒼い大きな目をした少年。平均よりも小柄な体格をしていることもあり、一見少女と見間違えそうである。
 そのデュオをじろりとねめつけ、ヒイロ・ユイは溜め息を吐いた。
 端正な顔の割に目つきが悪いヒイロが睨み付ければ、大抵の者は引き下がるのに。この少年には通用しない。逆にヒイロの反応を面白がっているようで、下手にはねのければますますしつこく食い下がってくる。
 一ヶ月も経った今では、ヒイロも諦めて、デュオの好きにさせるようにしていた。
「旧校舎に何の用だ」
 この学校の旧校舎は数十年前から放置されていて、今は寄りつく者さえ久しく、現在の校舎の裏の森の中にひっそりと佇んでいる。
「いや、そういうのがあるってさっき聴いたところなんだけどさ。大抵、古い校舎といえば学園七不思議の舞台じゃん。見てみたくなったの」
 わくわくという擬音語が聞こえてきそうな様子で、デュオは浮き足だっている。
 その脳天気さにヒイロが疲れを感じるなんて彼は気づきはしないだろう。
「肝試しのつもりなら他の奴と行け」
「みんな放課後は部活やってるもん。フリーはおまえくらいしかいないんだよ」
 こうなるとヒイロの根負けである。
「…案内するだけだぞ」
「やりー!」
 わざわざ自分から危険に近づこうとするその心理が理解できないといったふうに、ヒイロは喜ぶデュオを横目に次の授業の教科書を取り出した。








 木造の校舎は、あちこちぼろぼろになってはいるものの、なんとか原型を留めていた。
「へぇー。いかにも何か出そうな感じ」
 見上げながらデュオが呟いた。二階建ての校舎は、壁も一部が崩れ、窓が割れている所もあるのに、中は暗がりになっていて、外からでは様子を確認できない。
 デュオが中を覗こうと校舎に近づくのを見、ヒイロは逆方向へ体を翻す。
「ヒイロ、何処行くんだよ?」
 気付いたデュオが振り返るが、ヒイロは足を止めなかった。
「場所案内は終わった。オレは帰る」
「えー。何だよ入ってみようぜ」
「おまえは勝手にしろ。オレはそれに付き合うほど暇人じゃない」
 そこでデュオが不敵な笑みを浮かべる。
「…おまえ、もしかして怖い、とか?」
「違う」
「じゃ行こうぜ。中も案内してくれよ」
 気付けばデュオはヒイロの隣に追いついて、腕をしっかりと両手で掴んでいた。そのまま引っ張って校舎内に入る。あまりの強引さにヒイロは抵抗するのも忘れてしまっていた。
「うわ、廊下に穴開いてる」
 苦笑しながらも楽しそうなデュオの声にやっとヒイロは正気を取り戻した。
「…おい、離せ」
「何だよ。ここまで来て逃げるなよ」
「逃げはしないから離せ」
 逃げはしない。ヒイロが思っているのはそうではなく。
「まあいいじゃん」
 転校してきたばかりだからデュオは知らないのだ。
 違う。おまえが思っているようなことではない。
 自分は案じているのだ。自分といると危険だから。
 だんだんとヒイロに焦りが生じる。何か起こる前に早くデュオから離れなくては。
「デュオ!いいから離せ!オレと一緒にいると危ないんだ!」
「え?」
 さすがにヒイロがお化け怖さで言っているのではないとデュオが気付いた時、窓ガラスにヒビが走った。
「!!?」 
 ガラスの破片が狙ったようにデュオに向かって飛ぶ。
「チッ!」
 舌打ちをし、デュオを庇うように抱き寄せ、ヒイロは窓に背を向けた。
「ヒイロ!」
(こいつ…。仕方ねぇな)
 かすかに目を細めたデュオに気付かずに衝撃に備えて目を瞑る。
 だが。
 ガラスが飛んでくる気配はあるのに、覚悟した痛みは訪れない。
 不思議に思って目を開けると、目の前の壁や床に刺さっていくガラス片が見えた。
(…オレたちを避けている?)
 直撃するはずだったのに、まったく当たってこない。何故と振り向いたところで、左腕に痛みが走った。
「おいっ!」
 最後に飛んできた大きな破片がヒイロの腕をかすったのだ。浅そうであるが、傷口が広く出血が多い。
「バカ!おまえ…」
 デュオが慌ててハンカチを出して傷口を縛るが、溢れる血は止まらない。
「カッコつけてオレを庇おうなんてするんじゃねーよ。早く手当てしないと。医務室へ…」
 早口でまくしたてるデュオが手を差し出すが、ヒイロはついと離れた。
「…一人でいい。おまえは帰れ」
「え?なんでだよ。怒ってるのか?そりゃこんな所に無理矢理連れてきて悪かったよ。手当てくらい…」
「そうじゃない」
「じゃあ何? ってそんなこと言ってる場合じゃない!血がすげぇことになってんじゃんかよ」
 入ってきた時と同様にヒイロ引きずるように、走り出す。
 ヒイロは尚も拒もうとしたが、彼の横顔があまりに必死なもので抵抗する気がなくなる。
 彼が責任を感じる必要はないのだ。これは自分のせいであり、彼は巻き込まれただけ。自業自得でしかない。
 無視すればよかったのだ。それを断りきれなかった。
 屈託ない笑顔を向ける彼が、嫌いではなかった。
 けれどもうすぐ彼も自分から離れるだろう。今までの周囲の者たちのように。
 …何故か、少しだけ、胸が苦しかった。







「せんせー! …もう帰ったのかよ」
 医務室のドアを開けると同時に叫んだデュオの声が、すぐに落胆したものに変わる。
「しょうがねー。オレがやるか。ヒイロ、そこに座れよ」
 ヒイロが椅子に座る間にデュオは手際よく棚から器具と薬を取り出した。
 ハンカチを外し傷口を拭くと、あれだけひどかった出血は止まっている。それどころか腕に大きく走った一文字も、よく見れば薄くなり始めている。
「へぇ、もう治りかけてんのな」
 半ば感嘆してデュオは薬を塗っていく。幸運にもガラスの破片などは残っていないので、治療は比較的楽だ。
 器用に包帯を巻くデュオを静かに見ながら、ヒイロが呟いた。本人に自覚は無いだろうが、その声にいつもの力強さはない。
「…もうオレに近づくな」
「ごめん。悪かったよ。謝るから、怒るなよー」
「違う。怒ってるんじゃない。これはオレのせいだ」
「え?」
 では何かと問うデュオに、ヒイロは目を逸らす。
 いつものことだ。話せばいい。
 ただ、他の奴らのようにデュオも自分を恐れて近づかなくなる。そして自分に向けられるのは笑顔でなく畏怖の目になるだけ。
 何故だろう。考えるだけで、苦しい。
 このままではいつかデュオに被害が出る。そうなっては自分はもっと後悔するだろう。
 だが、デュオが離れていくことがどうしようもなく嫌だった。
 どうして…。
 今までクラスメートや教師にどう思われようと平気だった。もともと自分は一人でいることが好きな性格だ。
 なのに何故デュオに対しては違う感情が沸くのだろう?
「………!」
 気付く。今までデュオのように笑いかけてくれる人間が、周囲にいなかったのだ。ヒイロには。
 あんなに素直な笑顔を向けられたのは初めてで。
 それが嬉しかったのだ。
「おまえのせいってどういうこと?」
 声が近いことに驚くと、デュオが覗き込んできていた。
 自分が言わなくてもそのうち周囲の者が伝えるだろう。ならば、いま自分から言ったほうがまだいい。
 そう決心してヒイロはデュオを見つめる。
「オレは、よく事故に遭う。しかしオレが被害を受けることはない。代わりに被害を受けるのは周囲にいる奴だ。重傷を負って入院した者もいた。…だから、これ以上オレに近づくな。死にたくはないだろう?」
 デュオが目を見開いた。この後を見たくなくてヒイロは俯く。
「…おまえが人付き合い悪いのはそういうことだったんだな。良かった。オレ、嫌われてんのかと思ってた」
 …自分の耳はおかしくなったか…?
 ヒイロは茫然としてしまった。
 聴いたこともないようなセリフを返され、思考がそれを認識できない。 
「そんなこと気にしてたのか。やっぱ優しいのな、ヒイロ」
 いつもの明るい声が降ってくる。
 今度はちゃんと聞こえた。
 信じられなくて、ヒイロはゆっくり顔を上げた。
 にっこり笑うデュオがいる。
「…怖くないのか?」
「怖い?何が? ああ、おまえのこと? 別にー。だっておまえさっきオレを庇ってくれたろ?」
 ニコニコと、普段どおりに笑うデュオ。
 その笑顔に翳りはない。
 沈んでいた気分が浮上していくのが自分でもわかる。けれど。
「あれはたまたまこれくらいですんだだけだ。今後どうなるかわからない。…下手したら、死ぬぞ」
「平気。オレは大丈夫」
「だが…」
 嬉しいながらも困惑しているヒイロに、苦笑して肩をすくめる。
「そうだな。おまえが話してくれたんだし、オレも自分の秘密をちょっと教えてやるよ」
「秘密…?」
 訝しげに見やるヒイロの目の前に、手に持っていた包帯を上げる。
「見てろ」
 驚いたことに、ふわりと包帯が浮かんだ。
 手品などの類ではない。ヒイロの周りをくるくると飛んだそれは、置かれていた棚に戻っていった。
「な…!」
「オレはこういった力がちょっとあってさ。だからお前の近くにいても全然平気なの」
 デュオは軽くウインクを返す。
 そういえば、と先程のことを思い返す。
 直撃すると、間違いなく重傷を負うと思ったガラスが、まったく当たらなかった。ヒイロが負傷したのは振り返って体の位置をずらしたからで、あのまま動かなければ無傷ですんでいただろう。
「さっきのガラスも…。おまえが…?」
「そう。割ったのはオレじゃないけど、当たらなかったのはガードしてたから」
 まさかと声を出すが、あっさりと肯定された。 
「だから、オレのことは心配しなくていい。何が起ころうが平気だし、おまえのこと嫌ったりはしない」
 平気とは言い切れないだろう。デュオの力で防げないこともきっと起こる。けれど。
「ヒイロはヒイロだろ? こんな疫病神、気にすることはねぇって」
 その笑顔と言葉が何より嬉しくて。
 今までは皆ヒイロを不気味がった。怖がって、けれど怒らせるとまた怖いかもと、腫れ物を触るように接してきた。なのにデュオはヒイロ自身を認めてくれて、後はどうでもいいと言う。
「…デュオ」
「おまえはオレのこと嫌いなのか? 仲良くしちゃダメ?」
 不安そうに表情を変えるデュオに、首を振る。
「いや…」
 嫌いなんかじゃない。
 不安はまだあるが、気付けば笑みが零れていた。
 初めて見るヒイロの笑顔に、デュオは一瞬目を見開くが、すぐに柔らかく笑う。
「ほら。ちゃんと笑えるじゃん、おまえ」
 この日から、デュオはヒイロの親友となった。












 打ち解けてしまえば、結構色々とわかってくるものである。
 ヒイロは単に不器用なだけで、実は面倒見がいいとか自己中心的でわがままなところがあるとか。
 ある日を境に態度が一変したヒイロに、校内で動揺が走ったが、本人はまったく意に介してないようであった。
 今までは自分から人に近づくなどなかったヒイロが、デュオ以外の者にもそれなりに対応するようになったのだ。デュオに対してはもう比較にならない。
 無口・無表情・無愛想でしかも危険が付きまとう。そんな彼がたどたどしいながらも他人と好意的に接するようになったことに、様々な噂が尾ひれ背びれをつけて飛びかっていた。
 デュオに対しても皆から、彼といるのは止めたほうが良いというような意見を言われたが、彼は笑って返すだけだった。
 言ったとおり、彼はヒイロといて何かが起きても軽くかわしている。他の皆には自分の力を隠しているのでおおっぴらに動くことはないが。ヒイロも彼の力については黙っていた。単に必要以上のことを話さないだけともいえるが、ヒイロ自身にも言いたくないという思いはあった。
「この数式を使うんだ」
「あ、なるほど。じゃ、ここは?」
 なんら違和感なく、はた目からすれば普通の友人同士である。
 初めは色々と好奇の目も多かったが、しばらくすればそれも消えていった。しかも、ヒイロと一緒にいるデュオが負傷したこともないことから、以前にヒイロにされていた噂も実は嘘だったのではないかと、周囲の者もヒイロを恐れなくなり、単なる生徒として接するようになっていった。
 だんだん感情を表に出すようになったヒイロにとって、自分を救ってくれたデュオの存在は、日増しに大きくなっていったのである。
「なあ、ヒイロ。今日、お前の家に行ってもいいか?」
「ああ」
 放課後、これから帰ろうとした時に、デュオが言い出した。
 そういえば互いの家に行ったことはないと気付くが、ヒイロに断る理由も気もない。
「おまえ、家族は?」
「オレは一人暮らしだ。アパートの一室を借りている」
「え? じゃあ家事も全部自分でやってんの?」
「ああ」
 歩きながら話しているうちに、家の場所どころか、互いの家族構成や生活状態さえ知らないのだと今更ながらに思う。
 デュオが何処から転校してきたのかさえ知らない。その理由さえも。
 趣味とか誕生日などの、一般的なプロフィールまで。
「………」
 自分は今までデュオと何を話していた?
 学校のこととか教師や授業のこととか、些細でたわいのないことばかり。個人的な話をしたことは、あの保健室での時だけだ。
 まだ知り合ったばかりだから、といえば仕方がない。なのに、自分はデュオのことをろくに知らないと実感した途端、何故か悲しくなった。
 自分はデュオの何なのだろう。
 デュオは自分のことをどう思っている?
「ヒイロ、おまえが言ったアパートってここじゃねーの?」
 デュオの声に顔を上げると、いつの間にか住んでいるアパートまで来ていて、気付かずに通り過ぎようとしていた。
「自分の住んでいる場所を間違えんなよ、おまえは。どうした?」
 首を傾げるデュオをよそにさっさと階段を上がる。今デュオの顔を見ると、何を言うのか自分でもわからなくて、焦りだけがあった。
 鍵を開け、部屋に入っていく。置いて行かれた状態のデュオは、物珍しそうにキョロキョロ周囲を見回しながら、勝手に付いて部屋に入っていた。
 ヒイロの部屋は、真面目な優等生の見本のような部屋だった。
 必要最低限の物しか置かれておらず、デスクの上にあるのは授業で使用する辞書と参考書、筆記用具。娯楽と呼べる部類に入る物はテレビとCDラジカセだけ。すべてきっちり整頓されていて、無機質な感じさえした。
「…なんっつーか…。おまえらしいというか…すっきりしていることで…」
 どうコメントを言ったらいいものか、デュオはとりあえず笑うことにした。
 ヒイロは鞄を乱暴にベッドの上に放り投げ、自分もその横に腰掛けた。見やるとデュオは1
LDKの部屋の四隅を何かを調べるように観察している。
「? 何だ?」
 訊くと、デュオは背を向けたまま、ぼそりと呟くように言った。
「…ヒイロ。霊とか妖魔の存在って信じるか?」
 何をいきなり訊いてくるのかと思ったが、一応答えてみる。
「実際いるかどうかは知らない。だが、この世には科学で説明しきれない事象があることは確かだ」
「ふーん…」
「何故そんなことを訊く?」
 デュオはゆっくりと振り返り、今まで見たことないような真剣な顔をヒイロに向ける。
「ヒイロ。大事な話だ。信じられないかもしれないけれど、聴いてくれ」
「お前の話は全部信じる」
 話の内容がどんなものかわからないが、ヒイロはデュオが冗談やごまかしは言っても嘘は決して言わない性格だと認識している。それに、こんな真剣な表情をされて、否定することなどできない。
 ホッと溜め息を一つ吐いて、デュオは自分もベッドの上に座る。
「オレな、霊とか妖魔とか…そういうものが見える能力もあるんだよ」
 すでにデュオが不思議な力を持っていることは知っているから、今更一つや二つ増えたところで驚きはしない。それよりも彼が今この場で言ったことが問題だ。
「ここにもいるのか?」
「いや。今はオレがいるし。この部屋は大丈夫だ」
 一旦言葉を止め、デュオはヒイロに向かい合う。
「だが…、おまえ自身が狙われている」
「何?」
「おまえには潜在的に大きな力が秘められている。自分ではわからないだろうがな。たまにいるんだ、力を持っていながらそれを発揮することのないまま眠らせている奴が。おまえもそれ。その力を狙って、悪霊どもが襲ってきている。おまえ、よく事故に遭うって言っただろ?あれはそいつらのせいだ」
 意識を弱らせたほうが力を得やすい。だから悪霊たちはヒイロを攻撃する。しかし、ヒイロ自身の守護の力が強いため、狙ってもダメージを与えられないのである。ヒイロの近くにいる者が負傷するというのは単に巻き添えになっただけのことなのだ。
 現在ヒイロの周囲に事故が起こりにくくなったのは、デュオが結界を張って悪霊を近寄らせないからだと言う。
「今は退かせているが、奴らは諦めたわけじゃない。このままじゃ埒があかないんだ。だから、決着をつけようと思う。協力してくれるか?」
 デュオはじっとヒイロを見つめる。
 一気に言われ、少々戸惑うが、内容は理解できた。霊の仕業など考えたこともなかったが、聴いてみれば納得する。今まで起こった不可思議な現象の数々。あれが自分が狙われた結果なのならば。

「わかった」
 ヒイロもデュオを見つめ返し頷く。
 狙いが自分だというのなら、これ以上他人に迷惑をかけたくはない。デュオとて四六時中傍にいるわけではないし、傍にいる間は負担をかけてしまっているはずだ。
「オレは何をすればいい?」
 自分が何処ぞの辺境でも行って一人でいることが一番手っ取り早くて簡単な方法だろうとは思うが、デュオの傍にいたい。だから彼を巻き込んでしまっても一緒にいられる方法を探す。
「こう言っちゃ悪いけど、囮になってもらえる? 寄ってきたところを一気に片付けるから」
「できるのか?」
「オレをなめてもらっちゃ困るぜ」
 デュオの表情はいつもの笑顔に戻っていて、先程までの重い空気が消えていた。
 ヒイロにはこういう場合の知識も経験もない。デュオに任せるしかない。
 用心深い性格だと思っていたが、デュオに関しては無条件に信じてしまう自分がまた驚きで、それも悪くないと、そう思った。
「大丈夫。おまえはオレが助けてやるよ」
 ポンポンと頭を撫でられる手が心地よくて、されるがままにおとなしく目を閉じた。
 



















 星は瞬いているが、新月であるために月は見えない。そんな夜空が浮かんでいる。
 二人は近くの公園に来ていた。人通りのある広場ではなく、奥の茂みで、準備を整える。
 話がまとまってすぐ、行動を起こすことになったのである。デュオは初めから今日この日に行うと考えていたらしく、鞄の中からいくつかの道具を取り出す。
「これ持ってな。一応、護身用」
 渡されたのは小さなナイフ。何か特殊な加工を施されたものだということは一目でわかった。奇妙な文様が刻まれていて、不思議な印象を受ける。
(…?)
 そこで何か感じる。不思議な、例えるなら懐かしさのようなもの。
 初めて見るものなのに以前似たものを見たような感覚。
 ふと、何かが形になりそうな。
「ヒイロ。そろそろやるぜ。覚悟は良いか?」
 デュオの声にそれは消えてしまう。
「ああ」
 デュオはヒイロを少し開けた所に立たせ、そこから動かないように指示する。
「変な声が聞こえたり風が吹いたりしても気にするな。奴らが集まるまでじっとしてろ」
「わかった」
 悪霊といってもその一つ一つは微弱だ。それらがある目的のために集合体になると、強大な力を発揮するのである。一つ一つをいちいち倒していたらキリがないということで、デュオは一気に片付けるつもりなのだ。
 夜、しかも新月の日というのは霊が活動しやすい時間帯であるらしい。普段は息をひそめている霊も現れるであろうから、どれだけ出てくるのか予想がつかない。デュオの力がどれほどのものか知らないが、それだけの悪霊に対抗できるのだろうか。
「いくぜ」
 デュオはヒイロから少し離れ、目を閉じる。
 デュオが張っていた結界が消える。数分としないうちに空気がざわめきだした。
「来るぜ。その短剣を持っているせいでおまえにも見えるはずだ」
 静かな、うなり声のような音が響いてきた。同時に生ぬるい風がまとわりつくように吹く。
「!」
 白い煙のようなものが目の前を掠っていった。あれが霊なのか。
 霊の数はだんだん増えていき、ヒイロの周囲を飛び交う。光景だけ見れば綺麗かもしれないが、雰囲気はどんどん重くなっていき、気分が悪くなってくる。
 思わず顔をしかめるが、ちらりと伺ったデュオは感情のない表情で様子を見ていた。彼から合図があるまで動くわけにはいかない。 
 囮というものは、ただじっと敵が罠にかかるのを待つだけで、それ以外にすることはない。だからこそ苦しいところもあるが、引き受けたのは自分だ。後戻りはできない。
 何処から集まってくるのか、やがて霊たちは一つに固まりだした。凝縮されていくそれは、怪物のような姿に変形していく。
『ぎゃああー!!』
 はっきりした形になってきた途端、地の底から響くような絶叫が響いた。
 突如発生した紫の光が、霊の半分以上を吹き飛ばしていた。
 ヒイロも霊も光の飛んできた方向、すなわちデュオを見る。
「さすがにここまででかいと、一撃で片付けるのはきついか」
 デュオはあくまでも冷静で、余裕ある笑みを浮かべていた。
 ヒイロの背にぞくりとしたものが走る。
 質の悪い、暗い笑みをしたデュオが、自分の知らない別人に見えた。
『貴様! 《ハンター》か!』
 いくつもの音を重ねたように響く声が空気を揺るがす。それが霊の声であると気付いた時にはデュオが飛びかかっていた。
 デュオの手から伸びた何かがキラリと光る。
(糸?)
 糸は霊を拘束するように囲んでいく。鮮やかなまでのその手腕に、ヒイロは何もすることもできず、見ているだけだった。
 霊が完全に拘束されると、デュオは糸を持つ手を引いた。糸の輪が縮まり、音もなく霊は四散し、消えてしまう。
 あっけないほどの最期。だがヒイロに浮かんだのは驚きでも解放の喜びでもなく、デジャヴ。
 以前にも、あった。
 そうだ。自分は昔、こいつらと戦っていた。数えきれないほどの回数。
 いつ? どうして?
 意識の底から、何かが揺さぶってきて。
 ビジョンが、浮かんで。
 少しずつ、花が綻ぶように、弾けて、眩暈が。
「ヒイロ!」
 デュオの声と同時に、背中を熱いほどの衝撃が襲った。
 倒れながら顔を巡らせると、異形な熊の姿をした妖魔が爪を振り下ろしていた。
(いつの間に?)
 デュオも直前まで気付かなかったのだろう。慌てて駆け寄ってくる。
「チッ」
(油断したぜ)
 デュオは苦々しく舌打ちした。この妖魔が根源だったのだ。先程の霊たちは、目の前の妖魔が利用していただけにすぎない。おそらくこの妖魔は、ヒイロのガードが無くなる時をずっと待っていたのだ。
 先程ヒイロは何かの思考に陥っていた。そこを襲われたのである。
 自分が付いていながらこんなことになるとは。
 デュオが攻撃を仕掛けようとした、その時。
 地に倒れ込む寸前でヒイロが、デュオから渡されていた短剣を妖魔の口内へ投げつけた。
『ガアー!』
 弱点に対妖魔用の武器を刺され、妖魔は断末魔の悲鳴を上げて倒れていった。
「ヒイロ!」
 デュオがヒイロを抱き起こす。
 デュオは偶然だと思っただろうが、そうではない。ヒイロは、あの妖魔の弱点は口内だと知っていた。
 そう、自分は知っていた。霊や妖魔の存在も、自分の力も。
 思い出したけれど、目がかすんでくる。彼の顔がぼやけてくる。
「ヒイロ…。ごめん。助けてやるって言ったのに…オレ…」
 デュオは唇を噛んだ。あまりに重症で、ヒイロがもう助からないことは一目瞭然だった。
 自分のせいだ。あそこで油断しなければ、ヒイロは…。
 責められても当然なのに、何故かヒイロは。
 穏やかに、微笑んで、ゆっくりと瞳を閉じた。
「ヒイ…ロ…?」
 呼んでもヒイロはもう動かない。答えはない。
 彼は死んだ。死んでしまった。
(なんで?)
 どうして最期に彼は笑ったのだろう? デュオを許してくれたのか? 何故? 
 そこまで彼は優しかったのか?
「どうして…」
 答えは返されることなく、ただデュオは茫然と、腕の中の人間を見やっていた。














 ヒイロは急に転校したことにして、学校や周囲にはごまかしておいた。そういう工作はデュオにとっては軽いもので、すぐに夏休みが始まったこともあり、誰も怪しむことなく、日常はすぎていった。
 デュオはあの後すぐに、ヒイロを人目に付きにくい森の中に埋葬した。
 こんなことはしたことがなかったが、見よう見まねで、人間が行うように、墓の上に十字型の杭を刺す。
 妖魔は死ぬと灰になって消えるため、放っておいても心配ないが、そうでない人間にはきちんと埋葬してやるべきだろうと思ったのだ。
「デュオ…」
 呼ばれて振り返ると、そこに心配そうなカトルがいた。
「君が気にすることはないよ。あの妖魔は知能が高いタイプだし、自らの気配を消すことも知っていた。それに、目的はちゃんと果たせたんだし」
 デュオの今回の任務は、ヒイロの力目当てで集まってきていた悪霊を一掃することだった。霊が集合することで邪悪なものとなり、それがヒイロの力を吸収して強大になって被害を増大させる前に処分する。
 ヒイロに近づいたことさえ、計算尽くでやったことだった。
「ああ…わかってるよ」
 任務の折りに人間を巻き添えにしてしまうことは珍しいことではない。デュオとて初めてではない。
 なのに、ヒイロに対しては罪悪感のようなものがあった。多分それは、彼があまりに無防備に自分を信頼してくれて、そして最期に微笑んでくれたから。
 霊に、妖魔に狙われさえしなければ、普通の生活を送っていけただろうに。
 少なくとも、あんな死に方はしなくてすんだはず。
 彼が不運だったといえばそれまでだが…。
「…なあ、カトル。オレにはわからないよ。なんで殺されたのに、笑えたんだ…?」
 カトルからの返事は期待していない。独り言に近い呟きだった。
「…デュオ」
 デュオは力無い表情で再びヒイロの墓に向かい立つ。
 そこでおもむろに手刀で左手首を切った。
「デュオ?」
「こういう時、人間は涙を流すんだろう? けどオレたちには涙なんてないからさ、代わりだよ」
 流れる血を、墓にかける。数秒で傷は塞がったため、たいしてかからなかったが。
「だって可哀想じゃん、あいつ…。誰も泣いてくれる奴がいないなんてさ」
 学校にあったデータでは、ヒイロは生まれてすぐ両親を亡くし、祖父に育てられたらしかった。その祖父も数年前に亡くなり、彼は遺産で生活していたという。
 孤独だったのだ。彼が純粋なまでにデュオを信じきったのは、寂しさゆえ。
 真っ直ぐに向けられたその信頼を裏切ってしまった。けれど所詮は任務のためだと割り切ってしまう自分がいるから、せめて詫びの印を送る。
(ごめんな…)
 謝っても仕方がないし、自分は彼が思っていたような良い人物ではなかったけれど。
 しばらく時が経てば、些細な任務で起こったことなど忘れてしまうだろうし、哀しんで泣いてやることもできないけれど。
(…ごめん)
 せめて、願おう。彼が綺麗なところに行けますように。
 神に祈ることさえ、自分はしないから。
「行こう。デュオ」
「ああ」
 カトルに促され、身を翻して歩き出す。
 もう二度とここへ来ることもない。そう思って、最後に一瞬だけ、いつも無表情な彼が時折見せた、綺麗な微笑を思い出した。
















































 セミがうるさいほどに鳴いている。
 強い日差しに、じめじめとした湿気高い空気。日陰にいても暑さで汗が出てくる。
 夏という季節だから仕方ないが、デュオはどうしてもこの季節に馴染めなかった。
 彼が住んでいた世界には季節なんてない。天気はいくらか変化することはあっても、四季で例えるなら秋の終わり頃から冬といった環境だった。日差し自身、ぼやけたように弱いもので、肌が焼けるなんてことはない。
 よって、寒さには対抗があっても、暑さにはなく、溶けかけたネコのごとく、机に突っ伏していた。
「…潰れたモチのようだぞ、デュオ」
 苦笑と共に頭にプリントが落ちてくる。
 うっとうしげに顔を上げると、長い前髪を左目にかけた端整な顔立ちの少年が横に立っていた。ダークグリーンの穏やかな瞳が印象的だ。
「おまえの分のプリントだ。夏休みの課題だと」
「このくそ暑い時に勉強なんてやれるかよ。おまえらすげーよ、トロワ」
 こちらは暑さで死にそうだというのに、平然と授業を受けているクラスメートたちが信じられず、デュオはぼやく。
「オレたちだって暑いさ。だが毎年のことだからな。耐えるしかないだろう?」
「耐えられるってこと自体がすげー」
 そうして再び机とお友達状態になるデュオに、今度は拳が落ちてきた。
「何をだらだらと…。いいかげん起きろ」
「う〜へ〜。痛ぇよ」
「貴様が情けないのが悪い」
 ふんぞり返って言い捨てるのは、肩までの髪を一つにまとめ、切れ長の目をした黒髪の少年。
 このままではまた殴られそうなので、デュオはしぶしぶながらも身体を起こし、クラスメートの二人を見やった。 
 トロワと五飛は従兄弟同士である。彼らはいわゆる霊感が強く、普通の人間には見えないものも見える。デュオのこともさっさと見破ってしまった。
 しかし細かいことはあまり気にしない性格らしく、デュオに悪意がないことがわかるとそれなりに気を使ってくれ、普通の人間と変わらぬ態度で接してくれた。
 先日この学校に仕事にやってきたデュオと二人は必然的に協力体制をとることになり、それ以来、五飛もデュオを認めたというかそれなりに気に入ったというか、仲の良い友人関係に至っている。デュオも二人といるのは居心地がよく、仕事が終わった後もそのままここに滞在している。
 次の任務が来ないことと、《捜し物》がこの街にあるらしいと判明したから、でもあるが。
「で、掃除はもう終わったのか?」
 気を取り直して向き直る。今日はトロワが料理のおいしい店に案内してくれるというので、掃除当番に当たっていた二人を待っていたのである。
「ああ。先程先生に会って頼まれたこのプリントを配ったら終わりだ」
 すぐだから、とトロワは他の生徒たちにもプリントを配布するために黒板のほうに行った。それを何気なく見ながら、デュオと五飛は雑談を交わす。
 不意に気配を感じ、デュオは窓の外に視線を向けた。
「どうした?」
 戻ってきたトロワが五飛と共に、突然黙ってしまったデュオに声をかける。
「…妖魔の気配だ」
 視線を動かさぬまま、他の生徒たちに聞こえないほどの声でぼそりと告げる。途端に、二人にも緊張が走った。
「何?」
「何処だ」
「…あの山のほうだな」
 静かにデュオが指差した先には、学校から一キロほどの距離にある小さな山がある。
「店に行くのは後回しだな」
「放っておくわけにはいかないだろう」
「では行くぞ」
 深く言わなくても考えが通じているところがありがたい。三人はそれぞれの鞄を持って、教室を後にした。











 森の中に、不穏な気配が漂う。
 風のような速さで、木の枝を渡っていく影があった。
 小動物のように身軽に飛び移るそれは、小動物に近い大きさであるものの、姿は人間に近いかもしれない。
 何かから逃げるように必死に走るそれが、ある巨木の前で驚愕を浮かべて足を止める。
 巨木の枝に立つ人影は、恐怖のあまり動けないでいるそれに、白銀の刃を向けた。
 










 外れにある山は、小柄ながらも近隣の住民さえあまり近づかないらしく、道と呼べるような山道など存在せず、野ざらしにされた木々や草がうっとうしいほどに覆い茂っていた。
 デュオたちは草木をかきわけながら、先程気配を感じた方向に進んでいた。
「ええい。うっとうしい。妖魔は本当にいるんだろうな?」
 一番後ろを歩いている五飛が目の前に伸びている枝を押し退けながらぼやいた時、前方の二人がいきなり立ち止まり、顔を見合わせる。
「…妙だな」
「ああ。何があったんだろ」
 五飛に答えるのではなく、真剣に話し合っている二人に、会話の意味が判らない。
「何がどうしたというんだ」
 暑さと足場の悪さにいい加減五飛も苛立っており、自然と口もきつくなる。しかし二人にはそれよりも気になることがあるらしかった。
「気配が消えたんだ」
「さっきまで走り回っていたようなのにな。いきなりいなくなったというのはおかしい」
「何?」
 五飛は霊感があるといっても、人間とその他を見極めるとか近くにいる妖魔の気配を感じるくらいのもので、こんな山の中にいる妖魔の行動などほとんどわからなかった。
 その五飛よりもはるかに敏感なトロワは、手を口元に当てて思案している。
「…瞬間移動でもしたか、死んだか…という可能性くらいしか思いつかないが」
 妖魔の中には、次元を歪めて移動する事ができるものもいる。その中でも術を自在に操れるものなら、瞬間移動も可能なのだ。
 しかし、とデュオは先程までの気配と自分の知識を照らし合わせてみる。
「いや、そんな高度な技を使えるようなやつじゃない。と、なると…」
 死んだ、いうことになる。自然死ではないだろう。事故死も考えにくい。病死なども妖魔にとってはかなり可能性が薄い。では。
 誰が殺したのか。
 先程よりも違った緊張を纏って、三人は再び足を進める。妖魔を殺したのが誰かは知らないが、そいつが妖魔より上の実力であることは確かで、味方かどうかはわからない。
 そうして着いた地点には、真っ二つに切られた妖魔の死体があった。
「な…」
「すでに殺された後だな。まだそう時間は経っていないようだ。数分前といったところか…」
 一撃で妖魔はこときれていた。見事なまでの切傷。
 まだ死体が灰になっていないことからも、これほどの腕前の者がまだここら辺にいるはずである。味方であるという安堵はできない。気配すら感じさせない、姿の見えない敵。
 静寂と緊張。緊迫した空気が漂う。
 唐突に、かさりと枯れ葉を踏む音がした。
「誰だ!」
 五飛の声と皆の視線が向けられる。
 途端、影が去っていくのが目の端に捕らえられた。少年のようだとは判断できたが、あっという間に影は森の奥に消えていった。
「!!」
「ちっ。逃げ足が速い奴だ」
 舌打ちする五飛の横で、デュオはただ愕然としていた。
 素早く消えた少年の顔を、デュオだけは見ていた。
(バカな…)
 見間違いかもしれない、記憶違いかもしれない。少年の顔は見覚えがあるものだった。
(あいつは、あの時確かに死んだ…。死んだ筈だ)
「どうした、デュオ?」
「あ、何でもない」
 動揺を必死に抑えて隠し、笑ってごまかした。
 デュオが見た人物。それは一年前デュオの目前で死んだ少年だったのだ。

 名は確か、ヒイロ・ユイ。













 翌日。いつもどおりに学校へ行く。いつもどおりといっても、デュオは普段から遅刻ギリギリの時間に登校していて、その日も慌てて教室に駆け込んだ。
「? なんか騒がしくねえ? 今日って何かあったっけ?」
 教室内がいつもよりざわめいていることに首を傾げ、前の席のトロワに伺う。
「何でも転校生が来るそうだ」
「ふーん」
 気のない返事を返して、そこで会話は終わる。
 実際転校生に興味はなかった。
 それよりも、昨日の件が気になって仕方がなかった。
 妖魔を倒した者はまだこの街にいるかもしれない。手口からしてかなり腕が立つ相手である。慎重に対処しなければならないだろう。
 味方だとは思えない。初対面の相手に対してそういう概念を持つほど、お気楽な性格ではなかった。自分と同じ世界から同じような任務を受けた者なら、まず先に潜入している自分に連絡が来るはずなのに、それはない。トロワたちのように強い力を持つ人間もそうそうにいない。
 もし敵ならば、戦うことになる。用心の必要も考えなければならない。
 かいま見た顔が見知ったものであるように思えたけれど、それは打ち消していた。彼はあの時間違いなく死んだのだし、自分自身彼の顔をはっきり覚えていないのだ。むしろ思い出すことさえなかったというのに。
 なのに何故か彼だと思ったのか。
(馬鹿馬鹿しい…)
 ぼんやりと窓の外を見やる。空は頭にくるほどの快晴で、太陽が照っている。また今日も暑くなりそうだなとうんざりした時、扉が開き、担任が入ってきた。
 担任はいつものように簡単に出席をとった後、おもむろに教室を見渡す。
「今日は転校生を紹介する。入りなさい」
 待ってましたとばかりに教室内に歓声が沸き起こる。男か女かと欠けているような声までどこからか聞こえた。
 ゆっくりと廊下から転校生がやってくる。
 真新しい白のカッターシャツと紺のズボン。男だと判明し、がっくりした男子生徒の声と期待を込めた女子生徒の声が響く。
 その次に見えたのは黒に近い、濃い色の髪。長い前髪で目が隠れていたが、端整な顔立ちが見てとれた。
 教壇の横に立った転校生は静かに顔を上げ、息を捨てるように声を出した。
「ヒイロ・ユイです。よろしく」
 その碧い瞳を見て、デュオを驚愕が襲う。
(ヒイロ…だと…? そんな…)
 目を見開いて、転校生を凝視する。
 昨日山で見た影。あれは今前にいる少年なのか?
 去年、デュオが逢った時、ヒイロは中学三年生だった。あのまま生きていれば今は高校一年生。計算は合う。
 しかし。
「後ろの空いてる席が君の席だ。わからないことがあれば、クラス委員のトロワ・バートンに訊くといい」
 教師に促され、ヒイロと名乗った転校生はデュオの隣の席に向かって歩いてくる。
 思いの外、容姿抜群な転校生に、女子生徒の輝く目が向けられるが、本人は無視するかのようにも目標の座席しか視界に入れていなかった。そんな態度さえ、知っている者のようで、デュオは早くなる鼓動を必死で押さえようと机を睨み付けていた。









「どうした、デュオ? 顔色が悪いぞ」
 休み時間にトロワと五飛が問いかけてきた。デュオはそれには答えず、今いる廊下からそっと教室の中を伺う。
 転校生は他のクラスメートに囲まれ、質問責めにあっていた。
「…あのヒイロ・ユイという奴…、普通の人間ではないようだな」
 ぼそりとトロワが呟いた言葉に、驚いて振り向く。
「妖魔ではない。人間だと思うが、かなりの力の保持者だ」
「…だが、人間にしては妙な気配を感じるぞ?」
 五飛も訝しげに転校生を探り、デュオに視線を移す。
「おまえは心当たりがあるのか? デュオ」 
 転校生が来てからのデュオの反応から、無関係ではないと悟ったのだろう。その目は誤魔化しは許さないというようなプレッシャーすら感じさせて、デュオはひきつった笑みを浮かべた。
「…デュオ…」
 トロワまで目で訊ねてくれば、逃げられない。
 自分は、笑顔でごまかして心を一切表に出さないことには多少なりとも自信があったのだが、それが顔に出てしまうほど動揺しているのかと自身に苦笑する。それとも、この二人だからこそ悟られたのだろうか。
 観念して溜め息を吐く。
 あの転校生が《ヒイロ》かどうかはともかくとして、おそらく昨日見たのは彼だ。あの時のデュオたちに気付いてこの高校に転校してきたとすれば、あの場にいた二人も無関係ではすまない。
 今後のことを考えても話したほうが良いのは確実で、何よりこの二人は信用できる。
「今はやばい。帰りに言う」
「わかった」
 用心はしているが誰に聴かれるかわかったものではない学校内で話せる内容ではないと理解している二人は、頷くと同時に、転校生に対する警戒を強める。無論、不自然ではない程度で。
 その後、隣の席であるにも関わらず、女子生徒たちが美形の転校生に躍起になっていることを良いことに、デュオはヒイロという少年を避けた。
 気付かれないように時折様子を探る。トロワたちが指摘したとおり、彼が持つ気配は不思議なものだった。確かに人間ではあるようなのだが、今まで見たことのない気がまとわりついている感じなのだ。霊や妖魔にとりつかれているわけではない。
 知識を総動員させて考えると、呪術に近いものといえるかもしれない。しかし《術》と呼ばれる範疇のものではなかった。
 正体に対する興味もわいたが、思いとどまる。自分に直接関係ないことに首を突っ込むほど暇な性格はしていない。
 それに、もう少しなのだ。この街での任務は何があろうとこなさなければならない。もめ事はできる限り避けるべきである。転校生もデュオに気を払っているわけでもないらしく、黙々と授業に耳を傾けているようであるし、警戒はするものの、放っておくことが最良だと思えた。
「トロワー、五飛ー、帰ろうぜ」
 放課後になって、デュオが立ち上がった時、転校生がデュオに視線を向けた。何か言いたそうにも見えたが、あえて目を合わせることもせず、気付かぬ振りをしてさっさと教室を後にする。再び転校生は女子に囲まれてしまい、追われる心配がないことを確認して。


 学校から多少離れて人通りのない道に出てから、デュオはやっと口を開いた。
「…昨日、山で見たのはあいつだ…」
「何!」
「奴が…?」
 思わずトロワも五飛も足を止める。
「間違いない」
 はっきり肯定すれば、三人の表情が真剣なものに変わる。
「奴は何者なんだ…?」
 呟くように五飛が考え込む。
 デュオは黙っていた。自分でも彼が何者かわからないのだから、仕方がない。
 彼はあのヒイロよりも、霊力が上で、何かしらの気配をまとわりつかせている。同一人物であるはずがない。
 なのに何故か、ヒイロだと思ってしまった。最後に微笑んだ彼だと。
 どうして…。
 考えに沈みかけていたデュオは、とりあえず現実に意識を戻した。表情には出ていなかったらしく、デュオの様子に二人は気付いてないらしいことに胸を撫で下ろす。
「とにかく用心に越したことはないな。今後は様子を見よう」
 トロワの意見に全員一致する。そして昨日行けなかった店に向かうことにした。
 結構細かいことにはぐちぐち拘らない連中なのである。楽観的な性格だといってしまえばそれまでだが。








「そういえばあの山には小さな神社があるんだ。実際に行ったことはないから、どの程度のものかは知らないが」
「神社?」
 噂どおりなかなか凝った料理に、満足したところで、トロワが昨日の山を指差した。つられて残り二人も顔を上げる。
「あんな所に何を祀っているんだ?」
「さあな。何故か立入禁止区域になっているそうだ」
 生まれた時からこの街に住んでいる五飛でさえ、存在自体を知らなかったらしい。トロワも聴いたことはあるものの、具体的な場所は知らず、訪れたことはないらしい。
 そういえば山自体にもあまり人は近寄らないという。このような小さな街において、それは珍しいともいえる。
「…それだ」
「? 何だデュオ?」
「あ、いや…。このフルーツアイスいけると思ってさ。おかわりしていい?」
 デュオの呟きを拾ったトロワが首を傾げるので、慌ててごまかす。トロワは洞察力が優れているから、ちょっとしたことから相手の異変を感じ取ってしまう。気を付けなくては。
「…まだ食べるのか、おまえ…」
「だって美味いんだもんー」
 呆れる五飛に笑って返し、再び目の前のデザートに向かった。
 













 神社とは普通、何かを祀るために建てられたものであり、それに人々が参拝することは歓迎こそすれ拒否することなどないはずである。それにも関わらず立入禁止になっているということは、祀るのではなく、何かを《封印》するための存在であるということだ。
 立入禁止にまでされており、存在自体が地元の住民に隠れるようであるとすれば、そこに置かれているのはかなり重要な代物であると判断できる。おそらく結界でも張って、誰も寄せ付けないようにしているのだろう。
 それほど大切に守られているのなら、きっと。
 デュオは店を出て二人と別れた後、一人で昨日も訪れた山に来ていた。
 妖魔の死体があった地点。そこには既に何もなかった。
 ひとしきり見渡してみるが、争った痕跡すらない。当然か。昨日三人で何か手がかりはないかとチェックしても何も見つけられなかったのだから。
 周囲はひっそりとしていて、街の喧騒も聞こえない。高い木々に覆われ、空もはっきりとは見えず、太陽の光もあまり届かない。
 別世界に迷い込んでしまったような錯覚を引き起こさせる。
「………」
 そっと目を閉じる。
 この山中にある神社。それの気配を探る。
 感覚を広げ、わずかな力でも感知できるように、静かに。
 山の中に生きる小動物や虫。樹齢が長くなりすぎたため、強い精気を持つようになった樹木。それらのなかに、かすかに清浄さを感じさせる気配があった。
 目を開け、気配のする方向に走る。自分一人だけなので、スピードを制限する必要はない。全力で走るデュオは、まるで木々の間を吹き抜ける風のようだった。
 数秒くらい走った所で足を止める。
 普通の人にはまったくわからないだろうが、結界が張られていた。デュオが感じたのはこの結界の気配だったのだ。結界は人を近寄らせない効果と神社の気配を隠す効果を持っているようだ。
 息を吐いて、ゆっくり結界に入っていく。
 少し歩くと石段があり、十段ほどのそれを登っていくと。
「あった…」
 まるでここだけ切り離されたような空間の中に、こぢんまりとした神社があった。
 どうしてこれほど近づくまでわからなかったのかと思うほどの強烈な存在感と圧倒的な霊気に一瞬押されそうになり、足を踏ん張る。
 微かな気配しかない結界は、実はかなりの効力を持っているのだと感心した。
 空を隠すものは何もないにも関わらず、緩やかな太陽光。涼しさを感じるほどのひんやりとした空気。どちらかといえば、デュオの生まれた世界に似ている空間だった。異なっているのは清浄すぎるほどの霊気で、自分には合わないように感じられて居心地が悪い。
 色に例えれば輝くような真っ白といったところか。たとえ何かで汚れたとしても、その汚れを吹き飛ばしてしまうような。
 お世辞でも、自分がこの空間に合う存在だとは、デュオは思っていない。逆に闇の黒のほうがよほど似合っている。
 目的のためなら色々なことを行ったし、犠牲もいとわなかった。そんな自分には。
 ふと、ヒイロの顔が浮かんだ。
 彼と一緒に学校に通ったこと。彼が身を挺して庇ってくれたこと。彼が笑ってくれたこと。次々に記憶が浮かび上がっていく。
 彼のことを結構はっきり思い出せてしまうことに少なからず驚きを覚える。
 ヒイロ・ユイ。
 彼に逢ってから自分は少し変わったように思う。
 以前なら、誰を犠牲にしてもよかった。人間と親しくなるのは目的遂行に利用するため。それだけだったのに。
 彼を目の前で死なせてから、罪悪感というものを持ってしまった。
 今ここにトロワたちを連れてこず、一人で来た理由。これ以上巻き込みたくなかったから。霊感の高い彼らを連れてきたほうが何かと便利なのに、できなかった。
(ヒイロ…)
 優しかった彼。最期に笑ってくれた。純粋なまでの信頼を寄せてくれた。
 その彼を裏切った。許されない、罪。
 謝って許されることなんかじゃない。ただ、繰り返したくないと思うだけ。 
 忘れたくても、忘れられなかった。ただ、彼がデュオの名を呼んでくれた、その声がひどく優しく耳に焼き付いている。
 …もう、関係のない人を巻き込みたくない。
 ゆっくり慎重に祠に近づく。ここにずっと探していたものがあるなら、それで任務は終わる。もう人間界に留まらなくてもいい。誰も巻き込まなくてすむのだ。
「間違いない。これだ」
 やっと見つけた。
 祠の前に来て確信する。探し物をとうとう見つけたのだ。安堵が込み上げてくる。
 焦る気持ちのままに、祠の扉に手を伸ばした、その時。
「おまえが狙っているのは、巫女の宝玉か」
「っ!」
 唐突に背後からかけられた声に、素早く振り返ると同時に、反射的に構えを取る。
 気配をまったく感じなかった。いつの間に近付かれたのか。腕に自信のあったデュオは舌打ちをしながら相手を見据える。
「な…」
「デュオ」
 そこにいたのは、転校生のヒイロ・ユイだった。
 いや、違う。穏やかに嬉しそうに笑ってデュオを呼ぶ、彼は。
「逢いたかった」
 ゆっくり歩み寄る彼を、構えを強調することで制止し、デュオは喉から声を絞り出した。
「…誰だ、おまえ…」
 それだけ言うのがやっとだった。
 鼓動がうるさいまでに速くなる。汗も出てきた。
 けれど目の前の人間から目を逸らせない。動けない。
 そんなデュオを見つめ、転校生は寂しげな目を揺らした。
「…信じられなくて当然だ。だが、オレは見ての通り生きている。…オレは、死ねないんだ…」
「…ヒイ…ロ?」
 思わず呼んでしまった。死んだ彼の名を。
「そうだ」
 頷いて真っ直ぐに見つめ返す碧い瞳は、確かに知っていた人物のもので。
 妖魔や霊の変装や幻術などではない。
 今目の前にいるのは間違いなく《ヒイロ・ユイ》なのだと、認める声が心の底から聞こえた。
「…なんで…」
 けれど、人間である彼が、どうして生きている?
 信じられない。彼は確かに死んだのだ。墓まで作って埋めたというのに。
 死ねない、と言った。それはどういうことだ?
「オレはもう千年近く生きている。不老不死の呪いをかけられたあの時から、ずっと…」
 千年?
 不老不死? 
 呪い?
 ちょっと待て。マジか? 
「外見年齢的に、今の時代で生活するには学校へ通わなければ不自然だ。しかしずっと成長しないこの姿は周囲からすれば異常でしかないから、転校を何度も繰り返し、住む所も転々としていた。だが、いい加減そんな生活に疲れてきて、あの中学に転入した時自分で記憶と霊力を封印していたんだ。あの霊どもと戦って、思い出した」
 茫然と聴いていたデュオはやっと我に返り、ヒイロをまじまじと見やる。
 不老不死というなら生き返ったのもわかるし、それほどの強力な呪いをかけられているなら、ヒイロに感じる気配も納得がいく。
 そうやって一つ一つの事項を納得させていって、大きく深呼吸する。
 冷静になろう。
 落ち着け。
(えーと、つまりこいつは一年前に逢ったあのヒイロだということで…)
 それで良いのか?と自分で突っ込みたくなるが、納得せざるを得ない。はっきり云って自分自身が人間じゃないし、呪術に関する知識もある。さすがに不老不死をもたらすほどの強力な呪術は初めて目にしたが。
 生物にはそれぞれ独特の気の波長があって、それはさらに一人一人で異なっている。転校生はヒイロと同じ気の波長をしている。つまりヒイロ本人であるということで。もう彼の話を信じるしかないのである。
「ヒイロ…なのか?」
「ああ」
 即答されて、次の言葉を失う。 
 十五秒ほど沈黙。
 さすがにいたたまれなくなって、言葉を探す。そういえば質問したいことは結構あったはずなのだが、こういう時に限って浮かんでこない。何かあったはずだ、何か…。
「あ、おまえさ、なんでここにいるんだ?」
 これだけでは意味が通じないだろう、オレ。もちっと補足しねーと。
 この街に来たのは、引っ越しした先がたまたまこの街だったとしても。
「いや、オレと同じクラスに転校って、なんでだ? 去年は中学三年だったのに、今回は高校一年だなんて…」
 外見が変わらないというなら、学年を変える必要はあまりないだろう。一年や二年くらいならたいして問題はないかもしれないが。
 デュオ自身、外見がまったく変わっていないのに、一学年上に転入しているが、それはあの高校に用があったからだ。ヒイロがわざわざデュオと同じクラスに転入したのは何故なのか。
「…おまえに逢いたかった」
 そういえばそんなことをさっきも言ってたような…。
 本当に嬉しそうに微笑むから、デュオとしてはどう返せばいいかわからなくなる。
 ヒイロにとって、自分は唯一心の開けた友人だったのかもしれない。
 千年近くもずっと独りで生きてきたのなら、大切な友人と一緒にいたいと思うのは仕方がないだろう。
 昨日偶然にも逢った。その時デュオは制服のままだったから、そこから学校をつきとめるのは容易なことだ。
 デュオとしても悪い気はしない。
「おまえが生きててくれて、よかったよ」
 だから、本心からの笑顔を返す。生きててくれてよかった。
 後悔はしなかったけれど、忘れられなかった。
 ヒイロは眩しげに目を細め、近付いてデュオの頬に手を伸ばす。
「すまない。あの時、オレは死なないからおまえが罪悪意識を持つ必要はないと言いたかったんだが…。声が出なかった」
 あの時の微笑みはそういう意味だったのだと告げられれば、ずいぶんと心が軽くなった。
 ますます笑みを深めてヒイロの手に自分の手を添える。
 空いてるほうの手で前髪をかき上げられ、気付くとヒイロの顔がかなり近くにあった。
 触れそうなほどの距離で見る瞳は、熱く揺れていて、綺麗だなとつい見とれてしまう。
 すぐ近くから低く、だけど響く声が聞こえた。
「おまえが…。好きだ」
「へ?」
 後から思えば何てマヌケな声を出しているんだと情けなくもなるが、その時はそれどころじゃなかった。
 おそらく顔もマヌケ面だったろうが、目が点になったまま固まっていた。
 好き…? 好きっていうのは好みを示す単語で、人間にとっては恋愛感情の意味もある言葉のはず。
 恋愛感情? 恋愛って何だっけ?
 確か相手を強く想う気持ちのことで…。
 って、待て待て。今の問題は言葉の意味じゃなくて、それが自分に向けられたという事実だ。
 あ、そうだ。明日はカトルが来ると言ってたから、菓子でも用意しとかないと。
 考えれば考えるほど、内容がどんどんずれていっている。しかし、それを修正する余裕ははっきりいってデュオにはない。むしろ、わけのわからない話を逸らして忘れてごまかそうという方向に無意識に走っている。
 そして結局デュオの思考はまったく別の地点に飛んでしまっていた。
「デュオ…?」
 呆然としたまま動かないデュオに不審を感じたヒイロが、訝しげな顔をした。
「あ、えーっと…。何話してたっけ?」
 罰悪そうに頭をかいて笑うと、ヒイロが思いっきり肩を落としてうなだれてしまった。見るからにショック受けてガックリしてますー、みたいな。
「えと…。ヒイロ?」
 ちょっと心配になって顔を覗き込もうとすると、いきなり抱き締められた。
「え?」
 ヒイロとデュオは同じ身長なので、強く抱き締められると、頭を巡らしても耳の後ろくらいまでしか見えない。
 どうしようかとデュオが考えていると、やんわりと髪を撫でられる。
 優しく、包み込むように、抱き締められる。
 触れ合っている分、《愛しい》という気持ちがダイレクトに伝わってきて、同時に先程のヒイロの言葉を思い出して、混乱してくる。
 デュオは精神感応術も使える。ヒイロの気持ちに嘘はないとわかるが、どうしていいかわからない。
 今までデュオに好意を持つ者がいなかったわけではない。けれどデュオにとってはうっとうしい存在でしかなかったから、そういう輩は無視するか叩きのめすかの二通りであった。
 さすがにヒイロに対してそんな行動はとれない。
 いや、それよりも、これだけ真っ直ぐで純粋な想いを向けられたことは、今まで無かったのだ。
 何だろう。怖い。
 何が?と問われれば答えられない。だが、初めて恐怖というものを認識した。
 たまらなくなって、ヒイロを突き放し、逃げる。
 後ろからヒイロがデュオ、と呼んだ気がしたが、振り返る気にもなれず、走った。










「だりぃ…」
 珍しくも早く登校したデュオは、はたまた机に突っ伏していた。
 もともと夜行性なところがあるので、夜は逆に目がさえてなかなか寝られず、朝方に数時間だけ寝るという生活をしているのだが(その分昼間の授業中に寝ているともいえるが)、昨夜は一睡もできなかったのだ。落ち着かないので、早々に学校に来てしまったが、蒸し暑さと自分でもわからないもやもやとした気持ちのせいで、力が入らない。
 暑いし、ヒイロはあんなことを言ってくるし、考えるのも億劫だ。何で自分はこんな所にいるんだろう?などと本気で考えてしまう。任務さえなければ、さっさと退散したいところだ。
「珍しいな。こんなに早くおまえが登校しているなんて」
 トロワと五飛が見下ろしてくる。まだ生徒がまばらにしか登校していない時間帯だ。きっちりした性格の二人はいつもこの時間に登校しているらしい。
「ちょっと、な。オレにも色々あんだよ」
 起き上がって、下敷きを団扇代わりにして仰ぐ。腕は疲れるが、気休め程度には涼しくなる。
「あの転校生と何かあったか?」
「! なんで?」
 いきなりトロワに指摘され驚くが、それは表に出さずに、普段どおりの笑顔で交わす。
「なんとなく、そう思っただけだが…。違うのか?」
 なんとなく。そんな言葉ですまされていいのだろうか。トロワは、洞察力が優れているというより、他人の感情を読むのが上手いと評価したほうがいいのかもしれない。あるいはその両方か。
 これじゃあ、隠しても仕方ない。何より、誰かに話して心をすっきりさせたいという気持ちもあった。
 苦笑して、溜め息を吐く。
「いや、当たってるよ。実はさ…」
 そしてデュオは昨日のことを話し出した。
 二人は終始黙って聴いていたが、さすがに驚きは隠しきれないようだ。
「不老不死…。そんなものがあるのか?」
 話し終えた後、目を見開いた五飛が真っ先に言ったのがそのセリフだった。無理もない。
 不変なものなど存在しない。神だろうといつかは死ぬ。万物は常に変化し、誕生と消失、混沌と秩序、破壊と静寂を繰り返す。それに反した不老不死という事象は在り得るのか?
「オレも見たのは初めてだけどな。正確に言えば、不老不死にするんじゃなく、対象の時間を止める呪術だ」
 どんなに力ある者でも不老不死になんてできない。不可能だ。だから考え方を変える。対象に流れる時間だけを止めてしまうのだ。それによって不老不死に限りなく近い状態になるのである。無論、それだけの呪術を使えるのは、かなりの強力な術者ということになるが。
 施した術者以上の術をぶつけられないかぎり、呪いは解けることはない。
「…ともかく、奴は敵ではないということだな」
「そういうことになるのかなー」
 無表情のままだが、トロワに安堵が沸いたのがわかった。
 正体不明の相手を警戒するのはさすがに疲れる。何を相手が仕掛けてくるか予測できないからだ。敵でないとわかれば、警戒する必要もなくなる。
 トロワはともかく、五飛は演技が苦手だから、ボロが出てしまって逆に不審を煽ってしまうことは予想できていたので、これでよかったとも考えられる。
 ああ、そうだ。もうすぐしたらヒイロも登校してくるんだよな。と今頃になって気付く。
 どんな顔でヒイロに会えばいいのか。デュオはひきつった笑みを貼り付けて固まってしまった。
「デュオ?」
 あらぬ方向を見たまま意識を飛ばしているデュオに、五飛が怪訝そうに眉を寄せる。
 しかしデュオは考えたくもないことを思い出してしまったことに、再び憂鬱感がやってきていたため、反応を返す気力もなかった。
「…この場合、どう対応すればいいんだよ〜。もうやだ〜」
 独り言を愚痴って、頭を抱える。早退しようかなという考えが半ば本気で脳裏をよぎった。
「あいつのことが好きなのか?」
 トロワに訊かれ、思いもしなかったことに瞬きする。
「好き…っていうことはないな。ただ、邪険にするのも悪いかなーと…」
 戸惑いつつも、正直な気持ちを言うと、トロワがホッとしたように息を吐いた。
「そうか、よかった」
「は?」
「それならオレにもチャンスはあるな」
「…え?」
 顔を上げると、トロワがいつになく真剣な表情で見つめている。
 何か嫌な予感がする…。
 得てしてこういうときの予感は当たるもので。
「おまえのことは全部承知済みで言う。好きだ」
 マジかよ!
「トロワ! 正気か、おまえ!」
 驚きのあまり口をぱくぱくさせるデュオを横目に、五飛が怒鳴る。
「当たり前だ。言っておくが、冗談や興味本位ではないぞ」
 ポーカーフェイスのままきっぱり言い切るトロワはとても男前だった。
「もう少しおまえがオレに心を開いてくれるまで待つつもりだったんだがな。ライバルが現れたとなれば、さすがに黙ってはおれん」
 優雅にデュオの両手を握る。
「おまえを困らせるつもりはない。何かあった時にオレを頼ってくれたら、それでいいと思う」
 静かな暗緑の瞳に、熱い情熱が浮かぶ。柔らかく包まれた手の体温が温かくて、デュオはドキドキしてしまった。
 どうしよう、どうしよう。頭に浮かぶのはその言葉ばかり。
 トロワもいい奴だ。結構気に入ってる。優しいし落ち着いているし頭はいいし顔も綺麗だし。
 しかしそれとこれとは違う。好きという感情がデュオにはわからないのだから、どうすればいいのか判断できない。
 五飛は完全に思考が宇宙の果てまで飛んでいってるらしく、呆然としていた。すでに目の前の情景など見えていないだろう。
 なんでこんなことになってしまったのだろうか。考えたところで打開策なんて浮かぶはずもないが、考えずにはいられない。
 昨日といい今日といい、どうしてこうも問題が出てくるんだ!と叫びだしたいのを必死で堪える。
 キンコーン。
 HR開始、十分前のチャイムが響いた。部活の朝練を行っていた者は片づけを初め、廊下などで話し込んでいた生徒は教室に入ってくる。
 さすがに人目をはばかんだトロワは名残惜しげにデュオから離れた。
 デュオにとって、このチャイムが救いの鐘の音に聞こえたのは、云うまでもない。
 何とかこの場は助かったとホッとするのも束の間。
「デュオ。おはよう」
 硬直。
 昨日久しぶりに聴いた声が横からかけられた。しかしその声の主を見ることができない。
 汗が流れ落ちて行くが、拭うこともできない。
「おはよう、ヒイロ・ユイ。トロワ・バートンと言う」
 すかさずトロワが間に割って入った。突然邪魔してきた営業スマイルの男を、ヒイロはじろりと睨み付ける。
「…おはよう」
「オレは一応クラス委員なのでな。この学校でわからないことがあれば言ってくれ」
「…ああ」
 一応返事は返しているが、不機嫌なのは見るも明らかだった。
 頼むからここで騒動は起こさないでくれよと心の中で願う。
 静かなままの五飛を振り仰ぐと、ふらふらと自分の席に戻っていっている。気持ちはわかるんだけどなーと同情しながら苦笑するくらいの余裕はまだデュオに残っているらしい。
 担任が教室に入ってきたところで、全員が着席し、何とかこの場の空気は元に戻った。









 デュオに対する気持ちを告白した二人は、行動に出るようになった。
 ヒイロは何かしらデュオに接触しようとするが、トロワがすかさず阻止するのである。
 対人方法や状況対応はトロワのほうがはるかに上をいくため、ヒイロに術はない。時間が経つにすれ不機嫌さを増していくヒイロと、それにほくそ笑むトロワ。
 窓際の列の最後尾の席に座るデュオは、前にトロワ、横にヒイロと囲まれた状態で、早く一日が終わってくれることを願うばかりだった。
「…おまえは一体何なんだ」
 放課後、とうとうヒイロがトロワに詰め寄った。
 一緒に帰ろうと話しかけようとしたところを、先にトロワがデュオに誘ったのである。幾度となく割り込まれ、今日一日デュオと会話することはおろか、近付くことさえままならなかった。怒りも限界に近付いていた。
 わかっているだろうに、トロワはわざと挑発的なことを言う。
「何なんだ、とは? あいにくオレはおまえと違って普通の人間だ」
「!」
 《おまえと違って》という言葉の裏には、ヒイロが呪術をかけられていることを知っているという事実がある。
 自分が話したのは、いまだかつてデュオ一人。なのにこの少年が知っているということは、デュオが話したということである。普通なら到底信じられないようなことを話せるような関係が、デュオとの間にあるということ。
 ヒイロに絶望的な表情が走る。
 それから、徐々に怒りを滲ませ、トロワに対する目が剣呑なものに変わった。
 トロワはいっそ穏やかともいえる笑みを浮かべ、視線を受け止める。
「オレもデュオのことが好きなんだ。つい今朝、告白したところでな」
「…ほぉ」
 聴いただけでわかる、怒気を孕ませた低い声。
 気のせいか気温が下がったように感じる。《涼しい》を通り越して《寒い》の領域に達するほどの。
 もしこれがマンガなら背景に、火花が飛び交うとか嵐が吹くとかの描写がされているに違いない。
 そうでなくても、教室でここだけは暗雲が立ちこめているだろう。
 無性にこの場から逃げだしたい。今すぐに。
「そ、そうだ! オレ、用があったんだ。悪いけど先に帰るから。じゃ!」
 それだけ言うと、鞄を抱え、慌てて教室を走り出た。
 冗談じゃない。全面対決の真っ只中なんて恐ろしい所にいられるか!
 情けないが、必死に逃げた。
 人間の恋愛のもつれはなかなか怖いものがある。知識として知ってはいたが、改めて実感した。
 学校を出てしばらくしてから、ようやく足を止める。
 横の塀に片手をつき、盛大な溜め息を吐いた。重い息を吐くにつれて、頭も下を向いていく。
(明日からもこんな調子が続くんだろうか…?)
 考えてしまって、ますます身体が重くなった。いっそのこと、二人ともさっさと振ってしまって、この街からトンズラするか?
 それが最良だと思うが、目的の宝玉を見つけてしまった以上、任務を果たさなければならない。
 二人の記憶を消してデュオのことを忘れさせるという手もあるが、あれだけ霊力の強い彼らには、術の効果が薄いだろう。結局現状維持しかないのか。
 …気が重い。
 割り切って、任務のために上手く利用するだけ利用しといて、終わったら放ってしまうか? 昔の自分なら、そうしたはず。
 だが、彼らに対しては、罪悪感がよぎってくる。
 厄介だ。何故こんな感情を持ってしまったのだろう?邪魔なだけじゃないか。任務遂行だけを考えれば良かったのに。どうして。
 近付いてくる気配に顔を上げる。ここは道端だったと今更ながらに思い出した。
「デュオ」
「カトル〜。助けてくれよ〜」
 柔らかい笑みの親友の顔を見た途端、抱きついていた。
「デュオ、どうしたの?」
 突然のことにカトルは驚きながら、それでも随分疲れた様子のデュオをやんわりと抱きとめる。
 カトルはデュオと同じ高校の制服を着ていた。おそらく帰宅途中の自分に違和感無く話しかけられるように、わざと服装をこれにしたのだろう。外見だけなら天使のような彼には、真っ白いシャツはよく彼に似合っていた。
 もう彼しか相談できる相手はいない。











「君がもてるのはよくわかるよ。…けど、今回は厄介な人間に好かれちゃったもんだね」
 落ち込んでいるデュオの肩を慰めるように撫でながら、カトルは溜め息を吐く。
「おまえなら、オレの気持ちがわかってくれると思ったぜ…」
 二人は神社を目指して山中を歩きながら、話し込んでいた。一度行けば道は覚えている。迷うことはない。
 カトル・ラバーバ・ウィナーはデュオの仲間であり親友である。年も近く、若くして優秀な二人は、気も合って、幼い頃から仲が良かった。この任務に関しても、メインはデュオ、補佐はカトルが行うことになっている。
「だけど、珍しいね。普段の君なら、それを逆に利用するじゃない。今回もそうすればいいのに。かなり利用価値が高そうな連中のようだし」
「そうなんだけどなー。何でだろ」
 デュオ自身わからなかった。言いようのない気持ち、曖昧でひどく不確かで、気分が悪くなる。以前のデュオを、その声が否定する。
 もう誰も傷付けちゃいけない。(どうして? 別にいいじゃないか)
 自分も傷付くから。(オレは傷付いたりしない)
 苦しくないの?(そんなことはオレには関係ないし、知らない)
 もっと考えてみろよ。(必要ないね)
 邪魔な思考を追い払うように、デュオは大きく頭を振った。
「ここかい? なるほどね、たいした結界だ」
 カトルが結界を見上げる。聖域を守るだけあって、強固なものだ。
 隣で頷いて、デュオは中に先導した。
 目の前に突如開けた空間。その先に、人影を見かける。
「ヒイロ…」
「デュオ」
 悲しそうな表情をしていたように見えた彼は、デュオを見て微笑んだ。
 
 








 どれだけ年月が経とうとも、ここだけは変わらない。
 石段に腰掛け、ヒイロは瞑目する。
 ずっと長い間この場所を守り続けてきた。それが自分に課せられた使命。
 大切な人を救えなかった、贖罪。
 それは不老不死の呪術などよりも、深くヒイロを捕らえていて離れない。離してはくれない。ずっとずっと、永遠とも思えるほど。
 あといくつ季節が巡れば、この世界は終わるのだろう。
 憂鬱と孤独に侵され、眠れない夜が続いたこともあった。それはもう遠い昔の話だけれど。
 感情さえ忘れかけていた。感覚が麻痺して、何も感じなくなっていた。
 時折、時代の変化と周囲の状況を知るために、街へ出る。それすらも機械的な作業にしかすぎず、誰とも関わらず、時を過ごしてきた。
 離れた町に行って、記憶まで消したのは、単なる気まぐれにすぎなかった。ある程度時間が経てば記憶は戻り、再び元の生活に戻る。ただそれだけのこと。
 だが、そこで《彼》に出逢った。
 失くしてしまった感情が、新たに生まれた。いや、奥底に隠れていたものを、彼が引き出してくれたのかもしれない。
 幸福感というものを初めて知った。
 こんなにも世界は色づいていたのだろうかと、感動するほどに。
 もう逢えないかもしれないと思っていた。けれど、逢えた。
 離したくない。ただ、傍にいたい。
 人間である彼は百年と経たぬうちに死んでいく。
 それでも、たとえすぐに終わるとしても、一瞬だけでいいから、彼が欲しい。
 彼だけでいい。
 初めて何かを望んだ。
 どうか、赦して下さい。祈ることを。
 たった一つの願いを。
 どうか。
 片膝を抱え、静かに沈思する。
 その時、結界の中に侵入してくる気配を感じ、伏せていた顔を上げた。
「ヒイロ…」
 驚いた顔で呟いたのは、つい今しがた想っていた人。
「デュオ」 
 呼べば、怯えるようにデュオは足を止めた。途端に胸が痛くなる。
 昨日、自分を突き飛ばして逃げた彼を思い出す。
 無理もない。不老不死の人間なんて、化け物だ。恐怖を感じられても仕方がないのだ。
 けれど、傍にいたいと願うのは、傲慢以外の何者でもない。
「怖がらないでくれ。…何もしないから」
 ことさら優しい声を出す。どうか行かないで。
 その声に目を見開いたデュオが、すっと目を細める。
「…なんでおまえがここにいるんだ? そういや昨日もいたよな」
 無表情な、人形のような顔。初めて見るデュオの表情にヒイロは驚く。
 一瞬にして姿が薄くなったような、無機質な表情。そこには何の感情も見えない。
「オレはこの聖域を守る番人だから…」
 反射的に返答する。しかし目はデュオの顔に引きつけられていて、心中はそこにあらずだった。
 不安も苦しみも悲しみも喜びも、感情のすべてが彼へと向かっている。波のようなそれは、だけど決して不愉快ではなくて。どうすれば鎮められるのか。鎮めようとも思わない自分が、また不思議に心地良い。
「番人? じゃあ、この間の妖魔は…」
「偶然にもここに近付こうとしたから始末した」
 それを聴いて、デュオの声が低くなる。
「…オレたちも、殺すわけ?」
「いや。人間には何もしない」
 だから安心していいのだと言おうとした時、デュオの隣にいた、金髪の少年が口を開いた。
「人間って…。君、気付いてないの?」
 意味がわからず瞬きするヒイロに、デュオは今日何回目かわからない溜め息を吐いた。
 そういえばヒイロはデュオのことを知らなかったのだ。初めから見抜いていたトロワや五飛とは違う。デュオが話したこともないから、彼はずっとデュオを人間だと思い続けていたのだろう。
 あの言葉も知らなかったから出たもので、もしかしたら恐れるのは彼のほうかもしれない。
「…オレとカトルは、人間じゃない」
 離れてくれたほうが楽でいい。そう思いながら、ヒイロを見つめる。
「おまえ、霊力自体は高いようだが、霊視能力は弱いみたいだな。オレたちは《魔族》だ」
「なっ?」
 思わずヒイロは大声を上げた。
 魔族は妖魔の中でも、高い知能と魔力を備えた種族だ。その分、人間とも必要以外は関わろうとせず、魔界で暮らしている。魔界では妖魔は魔族に従えられており、人間界にいるのはその魔界からはぐれてやって来た下等妖魔なのである。
 実質上、妖魔の支配者と呼べる存在。
 長く生きているが、ヒイロさえ魔族は一度しか見たことがなかった。そう、この呪術をかけた相手、一人だけ。
 デュオがその魔族だというのか。
 茫然とするヒイロに、デュオは残酷な笑みを向ける。
「オレたちも殺すか? …まあ。無理だろうけどな」
 魔族でもトップクラスの実力を持つ幹部二人に、人間がかなうはずもない。
「…オレは……」
 ヒイロが何かを言おうとしたところで、背後から強い光が広がった。
「何だ?」
 振り仰いだ先は、結界の中央にある、祠。
「暴走か!」
 今日は様子見のつもりだったので、専用の道具は一切持って来ていなかった。舌打ちし、デュオとカトルは石段を駆け上がる。
 祠が強烈な光を放っていた。霊力が上がっていくのが目に見えてわかる。
 何が理由か知らないが、祠に納められている宝玉が、内在する霊力を放出しようとしている。
 人間な中でも最高に近い霊力保持者とされた巫女姫が何代にも渡って蓄えてきた霊力。それが暴走すればどれほどの被害が出るか、想像もできない。
「よせ!」
 ヒイロが叫んで祠に駆け寄った瞬間、霊力の増加が止まった。
 その一瞬を逃すデュオではない。素早くカトルと目配せして、一気に封印術を発動した。
「くっ」
 さすがの二人でも、呪文を詠唱する間もなく、何のアイテムも使わずに、これだけの霊力を封じるというのはきついものがある。それでも、頭痛と圧迫に耐え、神経を術に集中させる。
 数分間の切迫から、やっと何とか抑え込んだ時。

『…ヒイロ』

 かすかに、女の声が聞こえた。










 光が消え、森のざわめきが止まる。
 同時にデュオとカトルは膝をついた。
「だ…大丈夫か? カトル」
「…何とか」
 かなりの疲労のため、息も上がっている。自分たち2人にここまで苦戦させるとはさすがだと、妙なところで感心した。
 汗を拭いながら祠を見やると、その前に跪いているヒイロの後ろ姿があった。彼もかなり疲労しているらしい。肩で息をしている様子が見て取れる。
「デュオ」
 視線に気付いたヒイロが振り返って立ち上がる。
「怪我か?」
「見ての通り、ねぇよ」
 手を振りながら答えると、安堵して微笑む。
 その彼と、背後の祠。そして、先程のあれは…。

「……さっき、一瞬、人影が見えた」
 白いドレスを着た女性の姿がぼんやりと、でも確かに。
「おまえの名を呼んでいた」
 ヒイロ、と。手を伸ばして。
「あれは、誰だ…?」
 瞬間、ヒイロは息を呑むのがわかった。
 じっと見つめると、少し逡巡した彼は目を伏せる。
 静かに。ただ静かに思いを馳せて、声を唇に乗せて、それは答えとなった。

「あれは…。オレの…」

 一筋の風が木々を揺らした。








to be continued
 





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