真夜中の太陽
 



















 夏休み初日。
 普通の生徒なら、遊びに行ったり部活に燃えたり宿題に取りかかったりするところだが、ヒイロ・ユイはデュオ・マックスウェルの家に向かっていた。
 それは昨日学校でデュオに話があると呼び出されたからである。嬉しくないわけがない。けれど呼ばれたのは自分だけではないことが少々(かなり)気にくわない。
「ヒイロ」
 十字路で横から来た二人に、ヒイロの眉が微かにひそめられた。
 トロワ・バートンと張五飛。ヒイロやデュオのクラスメートである。
 二人はデュオの友人だが、特にトロワはデュオに好意を持っており、ヒイロにとってはむかつく存在以外の何者でもない。クラス委員という立場を利用され、校内ではデュオと二人きりになることはおろか、話しかけることすら困難になっていた。
 この二人も向かう先は同じなので、自然と並んで歩くようになる。ヒイロとしては朝から見たくもない顔をいきなり見ることになり、不機嫌度上昇。自然に足も速まる。さっさとデュオに逢おう。そう考えれば気分も少しは良くなってきた。






 デュオに示されたマンションに到着し、インターホンを押す。
「おう、入れよ。開いてるから」
 おそらく気配で既に三人のことは気付いていたのだろう。間髪入れずに返事が返された。
 言葉どおり鍵のかけられていない部屋に上がる。不用心だととれるが、考えればこの部屋の住民は魔族である。入ってきた泥棒などが後悔するだけだろう。
 ひんやりした空気が肌を撫でる。薄暗く、雨の日の室内のようだ。魔力で故郷の環境に近くしているだろうことは容易に想像できた。ついでに空間もいじっているらしく、外見から予想していたよりも室内は広く、部屋数も多い。
 突き当たりの部屋でソファに座っている二つの人影を目にし、三人の足が止まった。
「な…何だ、その格好は!」
「何って…。暑いから涼しい服着ているだけだけど」
 五飛の怒鳴り声に首を傾げるデュオ。
「可愛いでしょう?」
 その横でカトルが微笑む。
 カトルはタンクトップに短パン、デュオは髪を編み込んでアップにし、キャミソールに短パンという服装だった。
 よく外で見かける格好だが、二人にはこれまたよく似合っていた。可愛くないなんて言う奴がいたら、そいつの美的感覚は変だと断言できる。
 トロワは「ほぉ」と素直に感嘆し、ヒイロは固まったまま見とれていた。
「それは女物だろうが! しかもはしたない!」
 憤慨する五飛のこめかみには怒りマークが増えていく。
「男じゃないんだから女性用の服着てもいーじゃん」
(…え?)
 衝撃的な言葉が耳に入り、ヒイロは正気を取り戻した。
「…男じゃない…?」
 茫然と呟きながらヒイロはデュオを上から下まで眺める。確かにデュオは華奢な体つきをしているし整った容姿は女性的でもある。私服でいれば少女で通じる。しかし声は低いし、第一ヒイロはプールの授業で水着を着たデュオを見ている。てっきり男だとばかり思っていたのだが…。
「ヒイロ、知らなかったのか? 魔族に性別はないぞ」
「何?」
 トロワに言われ、思わず声を荒らげる。事実を知らなかったのはこの場ではヒイロだけらしく、他の者は全員溜め息を吐いていた。
「…ヒイロ。おまえ、長く生きている割に、知らなすぎだな」
 デュオにとどめを刺され、ヒイロの心に槍がぐさりと刺さる。
 とりあえずソファにすすめられるまま腰掛け、用意されていたジュースを口に入れる。デュオの隣の席はちゃっかりトロワがキープし、ヒイロの気分は下降を辿るばかりであった。
「自己紹介させていただきますね。僕はカトル。カトル・ラバーバ・ウィナーです」
 金髪の少年は優雅に微笑む。ヒイロは先日逢っていたが、お互いに名乗りはしていない。また、トロワと五飛にとっては初対面である。
 カトルはデュオの幼なじみであると言い、三人のこともデュオから聞いていることを告げた。
「魔族が二人も来るとはな」
 五飛が目を細める。彼の家系では妖魔に関する事柄が伝わっており、魔族についても伝承がある。しかし家系の中でも実際に魔族に遭遇した者などいない。それほどまでに人間界に関与することを避ける魔族を二人も目にし、会話しているのである。
 これほど希有な体験はそう無いだろう。
 そして、その魔族が二人も来なければならないほどの事態が起こっているということが伺える。その事実のほうが脅威だ。
「一体何がある」
 睨むような視線に肩をすくめるも、魔族二人の笑顔は崩れない。これはある意味、トロワのポーカーフェイスよりも厄介かもしれないと五飛は思った。表情が読めない。
「オレたちもはっきりと断言はできないんだ。まだ調査段階なもんでさ。わかったらちゃんとおまえらにも言うよ。だから今日ここに呼んだんだし?」
 にっこりと笑うデュオに、しぶしぶながらも五飛は引き下がる。その様子にデュオは内心で苦笑した。
 本当は全部話すことなどできないし、話す気もないのだ。重要任務の内容を漏らすような真似はしない。今日はただ今後のことを考慮した上で、信頼を失わないために呼んだだけだ。それに今日得ようとしている情報は、この土地に古くから住んでいるトロワと五飛には聞いてもらって損はないだろう。もしかしたら更なる情報を得られるかもしれない。
 裏切りを心で考えながら、笑う。
 そう。自分はこういう性格なのだ。他者を欺き、利用し、裏切る。最近どうも甘くなってきているが、デュオにとって最優先事項は任務だ。それを改めて自覚する。
 何処か寂しさのようなものが胸をよぎったが、表には出さず、正面の席に座るヒイロに向き直る。
「ヒイロ。話してくれるか? あの宝玉のことを」
 代々の巫女姫が所持していたといわれる宝玉。先日それに込められた力が反応を起こし、ヒイロはそれに関わっていた。
 デュオが封印する時見た女性の影は、最後の代の巫女姫であり、ヒイロがかつて仕えた主であったと、その直後ヒイロ自身が告げている。
 全員の視線が向けられ、ヒイロは静かに刮目した。
 ヒイロが宝玉の番人であることは自ら話した。今更言い逃れする気はない。あの時、宝玉が暴走しかけた原因もおそらくは自分で。
 言わなければならない。だが、自分にとって罪でしかない過去を口にすることはさすがに抵抗がある。
 それでも。
 もう巻き込んでしまった。話さなければ卑怯だ。デュオたちにとっても自分にとっても。
 意を決し、顔を上げる。
「わかった」
 自分自身にも言い聞かせるかのように、ヒイロは語りだした。




















 はるか昔。その土地は聖地とも呼ばれていた。
 穏やかな自然が取り囲む中に、邸宅がひっそりと、だが確かな存在感を持って建っていた。
 汚れた者は近寄ることもできない結界に守られ、美しき平和がそこには在った。
「巫女姫。お呼びでしょうか」
 開け放しにされた扉の前で少年、ヒイロはうやうやしく跪いた。
「ヒイロ」
 高貴な装飾の施された椅子に腰掛けたまま、巫女姫と呼ばれた少女が顔を向ける。白いドレスを纏い、一つ一つの動作までもが気品を帯びている少女は、聡明な美貌も相まって、まさに《姫》と呼ばれるにふさわしかった。
「お茶の相手をして下さるかしら?」
 どこまでも優雅に、巫女姫はヒイロを室内に招く。
「私めなどでなくとも、他に作法に覚えのある者に…」
「貴方でよいのです。それよりそんな堅苦しい言葉はやめて。今ここには私たち以外はおりませんから」
 微笑む巫女姫に、ヒイロは溜め息を吐き、彼女の正面の椅子にテーブルを挟んで腰を下ろす。一度言い出したことは頑として引かない巫女姫の性格はよく知っている。下手に逆らわないほうが身のためだ。
「…リリーナ。オレはおまえの家臣なのだぞ」
「わかっていますわ。けれど時には息抜きすることも必要ではなくて?」
 もうヒイロの態度には目上の者に対する敬意など微塵もなかった。だがリリーナはそんな横柄な態度を気にすることもなく、笑みを深める。
 無口なヒイロは自分から話題を振ることはない。リリーナが口にする言葉に耳を傾け、時折相槌を返す。それだけであったが、穏やかな空気は決して変わることなく、二人を包んでいた。それは日常のほんの一息。
 巫女姫守護隊の一員であるヒイロは、その実力から若くして隊の中でも指折りの騎士であった。役目は主に巫女姫の身辺警護であるが、周囲の依頼を受け巫女姫の命が下れば、任地に赴き妖魔退治を行うこともあった。巫女姫の守護隊は、最強の戦士集団と謳われ、エリート職とされていたのである。


 ある日、不審な気配があるとリリーナから極秘に調査命令を受けたヒイロは、とある山に赴いた。
「この辺りのはずだが…」
 岩がごろごろ転がる山岳地帯は、霧がかかり、視野が判別しにくい。うっすらと見える周囲を見渡し、何が突然起こっても冷静に対処できるよう、神経を集中させる。
 ヒイロは攻撃能力は秀でているが、霊視などの感覚能力は一般人とそう変わりない。余程はっきり敵意を持ったものしかわからないのだ。人間相手ならともかくも、霊や妖魔が力を押さえたり気配を消している場合は、判断できない。
 しかし、実力のある者ほど、自らの気配を容易に操作する。それらを敵にした時の戦闘法は一つ。敵が攻撃してくる一瞬をつくしかない。
 空気は穏やかで、怪しい気配は感じられない。だが、巫女姫が不穏なものを感じた以上、何かあるはずである。巫女姫の力はそれほど強大なものなのだ。すでに不審物が去った後なのか、それとも、身を潜ませているだけか…。
 静かだった。人が立ち入ることのない岩山。そこには植物も生えておらず、動物もいない。生命が存在しない荒野。だが、土の息吹が沸き上がっているような、不思議な雰囲気があった。まるでこれこそが、本当の自然の姿であるとでもいうように。
 静寂。
 風の音さえも消える。
 その時、何かが傍を通り過ぎる気配を感じ、反射的に身を翻した。それは戦場の先頭に立つ騎士としての身に付いた本能と言えるほどの、咄嗟の行動だった。
『ほう。人間にしてはなかなかやる』
 何処からか声が現れた。それだけで先程までの穏やかな空気が一変する。
 動きから妖魔であると推測するも、気を消しているらしく、まったく居場所が掴めない。
 霧のせいだけではない。敵自身が自然と同化に近い状態になる技術を身につけている可能性があった。
 かなり強い妖魔である。
 その時代、妖魔はすべて人間の敵とされていた。霊には様々な種類がおり、見方によって敵味方が変わるが、妖魔は人間や世界に害なす者として扱われていた。
 となれば、ヒイロにとってこの妖魔は敵でしかなく、滅殺すべき存在。だが、相手の実力は相当なものであることが、戦士としての経験でわかる。
 倒せるのだろうか。
 これほどの敵ならば、部隊を率いて来るべきだった。
 思わず舌打ちをする。
 巫女姫が感知した気配は僅かなもので、勘のようなものでしかなかった。被害の届けも出ていないことからヒイロ一人が調査を命じられたのだが、それが仇となった。
 既に敵に発見されている以上、逃げることはできないし、わざわざ見逃してくれるとも思えない。
 にじみ出てくる汗を感じながら、剣を構えて集中する。
(何処から来る?)
 だが、緊張も束の間。一向に攻撃してこなかった。
「何故かかってこない?」
 攻撃する気もないほど格下に見られているのかと、声が苛立っていた。
『何故戦わなければならない? 貴様を殺したところで我には何もないというのに』
 相変わらずの静かな声が返される。そこには緊張や動揺は欠片も見えない。
「見くびるな!」
『我が何か損害を与えたか? 敵対される覚えはないが』
「おまえたちはこの世界に危害を加える! それを防ぐのがオレの任務だ!」
『軽率な信念だな』
 どこまでも余裕ある妖魔に、自然に怒りが沸く。
 この妖魔はどこか違う。魔力といい知能といい思考といい…。
 まさか。
「魔族か!」
 話は聞いたことがあった。だが魔族はめったに現れないはず。それがどうしてこのようなところに。
『そうだ』
 あっけないほど肯定される。
 相手が魔族とは。ヒイロの手に力がこもる。
 妖魔の上にいる存在。敵であることに変わりはない。しかし魔族に勝てるのだろうか。
(最悪の状況だな…)
 敵の正体を認識した途端、冷静さが戻った。
 姿や気配がわからなくとも、少しでも敵を判断できればましになる。一応ヒイロは優秀とされる騎士だった。いつまでも取り乱してはいない。
「臆したか? かかってきたらどうだ?」
 わざと挑発する。姿が見えない以上こちらからは攻撃しても無駄だ。魔族がひっかかってくれなければ。
『その度胸と精神力はたいしたものだ。…よかろう。それほど言うのなら』
 少しの沈黙の後、ゆらりと空気が揺れる。
 黒いマントを纏い、顔を隠した人影が現れた。人間の青年のような外見だ。妖魔のような人外の姿を想像していたヒイロは、目を見開く。
 魔族はもう魔力を抑えなかった。静かであるのに強い圧迫感がヒイロにのしかかる。巫女姫の柔らかな力とは相反的な、凍りつくような感覚。動けない。
 力を振り絞って唇を噛みしめ、一気に飛びかかり剣を振り下ろす。
 魔族はやすやすとこれを避ける。すかさず横になぎ払うが、これもかわし、ヒイロの背後に回った。
「くっ」
『騎士よ。貴様はどう思う?この世界を』
 戦闘中であることなど忘れたかのような静かさで魔族が問いかけた。
『巫女姫に仕え、それで満足か?』
「何が言いたい!」
 何故そんなことを言うのか。ヒイロには単なる余裕としかとれなかった。考えが読めない。
「魔族の考えなど関係ない」
 言葉で人心を惑わすのは、悪霊や妖魔の常套手段である。いちいち聞いていてはこちらがやられる。
 ヒイロの攻撃は次々とかわされ、かすりもしない。
 剣を突き出し、魔族が横にかわした瞬間、空いていた左手に気を込め、叩きつけるようにぶつけた。
『!』
 さすがに予想しきれなかったらしく、避けきれずに受けた魔族は空中に逃れる。
(空中浮遊能力もあるのか)
 とどめを刺すチャンスを逃し、ヒイロは舌打ちする。
『惜しいな。それほどの実力を持ちながら…』
 破れたマントの端を手に取り、魔族が苦々しい声を出した。先程のヒイロの攻撃も寸でのところで避けられており、たいしたダメージは与えられていないようだった。魔族とはこれほどまでの力の持ち主なのかと驚愕する。
『もう少し精神的に成長すれば、見えてくるだろうに…』
 あくまで魔族はヒイロに敵対する意志はないようであった。攻撃をしかけることもなく、言葉をかけるだけだ。
 何を考えているのか。そもそもこのような生物のいない土地でひっそりと潜んでいたのは何故なのか。
 わからない。
 そしてこの魔族は自分に何を期待しているのか? 
 そう、何かを期待し、落胆したような雰囲気を見せている。
 何を言いたいのか。その時のヒイロにはわからなかった。彼にとっては巫女姫に仕え、役目を果たすことがすべてだった。幼い頃からそれ以外に思うことなど何もなかった。
 たった一人の大切な、守るべき女性のために…。
 だからこそ、意味不明な言葉を紡ぐ魔族は己を惑わす存在でしかなかった。
 魔族の右手の人差し指に黒い気が集中していく。それは光の速さでヒイロの胸を貫いた。

「なっ…!」
 痛みはない。衝撃と熱が身体中を走る。あまりに瞬間の攻撃に、認識するのに数瞬の時間がかかった。
『世界の行く末を、終末を見届けるがいい。それまで貴様は死ぬことも年老いることもできない』
 ゆっくりと後ろに倒れていく中、魔族の声が頭に響く。
『愚かな人間よ。自らの目で破滅を見るのだ』
「…ま…待て…!」
 最後の気力で伸ばそうとした手はどうにもならず、ヒイロは霞んでいく視界に、去っていく黒の背を映す。
 覚えているのはそこまでだった。








 気付けばヒイロは医療室にいた。なかなか戻ってこないヒイロの身を案じたリリーナが、他の騎士たちに様子を見に行かせたところ、荒野に倒れているヒイロを発見したということだった。
 あの魔族がいた形跡は何処にも残っていなかった。何が目的だったのか。それを知る者はいない。
 ただ、ヒイロの身体についている妖気だけが、彼がいたことに対する証拠だった。
 外見に違いはない。しかし霊力の強い者が見れば、ヒイロに呪術がかけられていることは一目瞭然だった。
 巫女姫の側近である騎士が魔族に呪われた。
 この前代未聞の事実は、あまりに大きい衝撃を周囲に与えるため、公には伏せられることとなった。当然だろう。《巫女姫を守護する》とは、言い換えれば《人間を守護する》である。その要の存在の騎士が魔族に術をかけられた、ということはある意味魔族に殺されたことよりも悪い。騎士が魔族に操られて味方を攻撃しかねない可能性が今後予測されるからだ。
 また、その優秀な実力を惜しまれ、ヒイロが失態の責任をとらされることもなかった。無論そこに巫女姫の直談判が関与していることも公然の秘密である。
 よってヒイロはそれまでと変わりなく生活を送っている。ただ、事実を知っている上層部や仲間の畏怖と憐憫の目が向けられるだけで。視線には何も感じなかった。だが、あの魔族に対する口惜しさは消えなかった。
(次に逢った時は倒す…!)
 一層修行に励むヒイロであったが、再会することは二度となかった。それらしき存在の噂さえ聞くこともなく。
 ただ月日だけが流れ。ヒイロはとうとう巫女姫に進言した。
「自分に旅の許可をいただきたい」
「旅?何故です?」
 リリーナの反応には緊迫した気配があった。予想はしていたのだろう。だが彼女は必死に落ち着こうとする。
「あの魔族を捜します。私の汚名を晴らすまで、ここに戻ってくることはないでしょう」
「なりません!今度こそ殺されます。その申し出は受けるわけにはゆきません」
 思わずリリーナは怒鳴っていた。常に公平で心穏やかでなければならない巫女姫。しかしその時そこにいるのは一人の少女であった。
「しかし…!」
「許しません。貴方は私の側近なのですよ。それに…っ!」
 リリーナの表情が突然曇り、俯いた。これ以上のことは言ってはならない。口にしてはいけない。それは決して許されないことだ。
「リリーナ…」
 ヒイロは名を呼ぶことしかできなかった。知ってはいるが、受け入れることはできないもの。彼女の苦しみを癒してやりたいとは思うが、感情は付いていかず、立場は許してくれない。自分が離れることが彼女のためでもあると考えた故の進言でもあるのに。
「私に仕え、傍で守りなさい。ヒイロ。これは巫女姫としての命令です」
 キッと顔を上げ、真っ直ぐヒイロを見るリリーナ。一瞬で巫女姫に戻った彼女のその真摯なまでの強さと想いに、ヒイロは反抗することなどできなかった。
 ゆっくり頭を下げ、瞑目する。
「…御意」
 小さいがはっきりと出た声。
 寂しい微笑みを浮かべるリリーナ。
 跪いたまま動かないヒイロ。
 複雑な静寂と均衡が流れていた。















 コンコン。
 ノックの音で現実が甦った。
 全員の視線が突然の訪問者、すなわちドアに向かう。
「ごめん。ちょっと待っててくれな」
 デュオが立ち上がると同時に二人の少年が姿を見せた。この家に来るのは慣れているらしく、自然体で室内に入ってくる。
「やぁ。頼まれてた資料を持ってきたよ。不明な部分もあるけど、出来る限りは集めたつもりだ」
 休日だというのに制服を着た少年がファイルをデュオに渡す。ヒイロはその顔に見覚えがあった。確か昨日の終業式でも見かけた、生徒会役員の一人だ。軽く首を動かして会釈するトロワや五飛の様子からして、デュオだけでなく二人とも親しいのだろう。どんな経緯で関わったのかは知らないが、ヒイロにとって面白くない事柄が増えたのは確かだった。
「悪いな昴治。わざわざ持ってきてくれてサンキュー」
「礼を言われるほどじゃないよ。オレたちも力になりたいからね。他に何かあれば言ってくれると嬉しい」
「今はこれで十分だ。またその時は頼むぜ」
「また何か首突っ込んでのかよ、てめーら。物好きだな」
 もう一人の少年は私服であり、真面目そうな連れとは対照的な雰囲気を醸し出していた。顔が似ているところを見ると兄弟なのだろうか。こちらもデュオたちとは面識があるらしく、悪態に対してもデュオは肩をすくめるだけで返事を返す。
「じゃ、オレたちはこれで。これから文化祭の打ち合わせなんだ」
「夏休みも学校かよ。生徒会は大変だね〜。頑張れよ」
「ありがとう。君たちも無理はしないように」
 最後まで気遣いを忘れずに、昴治と呼ばれた少年は私服少年を促して帰っていった。
「中断させちまったなヒイロ。気にせずに続けてくれ」
 席に戻ったデュオよりも、ヒイロはドアに視線を向けたまま言った。
「…今のは?」
「2年で生徒会書記の相葉昴治。一緒にいたのは弟の祐希。オレらの隣のクラスにいるぜ。まぁ以前ちょっとした事件で知り合いになったってとこかな」
 事件というのはヒイロと初めて出逢った時のようなものか。彼らも妖魔か霊に関わった人間なのだろうか。デュオの正体まで知っているかどうかは疑問だが。
 トロワたちといい彼らといい、自分といい、デュオと知り合った者は結構多いのかもしれない。魔族であるデュオは見かけよりもずっと長く生きているはずで、その分知人はいるのだろう。いちいち気にしてはいけないのかもしれない。しかし、感情はそう簡単に付いていかなかった。厄介だ。
 ヒイロは小さく唇を噛んだ。なんて自分は幼いのだろうと。
 そして同時に、これまで知らなかった感情の存在に戸惑う。
 わからなくなる。自分の心が何なのか。
 かつて逢った魔族に指摘された《精神の未熟さ》とは、このことか。これでは勝てるわけがない。
 認められるはずもない。
 あの魔族にも、…デュオにも。
「ヒイロ?」
 不審下に覗き込んでくる声に、ハッとして顔を上げ、現状を思い出す。
 長い間ずっと一人きりでいたから、時間などを気にせずに考え込んでしまう癖が付いてしまっているのかもしれない。
「すまない。…続きを話そう」















 再び思いは過去に遡る。

 年月が過ぎるにつれ、ヒイロにかけられた呪術の内容が露見されてきた。
 周囲が年を重ねていく中で、まったく変化しない子ども。成長を止めた身体。
 どんな重傷を負うとも、生きて帰り、数日後には完全回復する肉体。
 不老不死。
 人が決して触れてはいけない不可侵の領域に彼はいた。
 何と表現してよいのかわからない心境を周囲が抱える中で、彼一人だけが少しの揺らぎもなく、事実を受け止めていた。ヒイロにとっては関係ないことであった。
 不老ならば、今のこの力が衰えることがない。
 不死ならば、どんな敵が現れても巫女姫を守りきることができる。いつかあの魔族に合間見ることができるかもしれない。
 何を憂うことがあるというのか。怖れることなど何もないだろう…? 何も変わりはしない。


 その時の彼は、本当に何も知らなかったのだ。
 時間が止まることの意味も。
 自分自身や人間や、世界すべての限界も。
 人の心の弱さも。
 永遠という名の果てしない苦悩も。


 そして、運命の日は訪れる。
 破滅はあっけないものだった。
 張りつめた糸はあっさりと切れ、二度と触れ合うこともないままに、バラバラになって互いだけで絡んでいった。


 巫女姫リリーナの次代を誰にするか。
 その話題がちらほらと出るようになった。
 巫女姫に就任する条件に年齢制限はない。実力さえあれば良いのだ。事実、三十路になってもリリーナの力は衰えることもなく、未だにその威厳を見せつけている。
 しかし、巫女姫とて人間である。やがては老いと共に力も生命も失われる。そうなった場合、引き継ぐ者が必要となる。
 現段階では該当者は存在していなかった。先代巫女姫の遠縁に一人、有力候補とされる少女がいるが、適性が僅かながら及んでいない。力があれば良いというわけではないのだ。
 このままでは巫女姫という存在が絶えてしまう。それは避けなければならない。
 緊迫が否応にも高まっていく空気に影響されたのかどうかは定かではない。ただ、リリーナの行動は突然だった。
「巫女姫?」
「何を…?」
 聖地の奥にある神殿に入ったリリーナは、中央に飾られた宝玉を目指した。代々の巫女姫だけが触れることが可能な、金紅の宝玉。この世界の調和を司どる、巨大な力を秘めた柱とも云えるそれを、何の躊躇もなく彼女は手にした。
 本来ならば毎年の儀礼時のみに表に出されるそれに対し、警備の兵士が引き留めようとするが、巫女姫の一喝に声を失う。
 異常事態に駆けつけた騎士達やヒイロの目前にあったのは、宝玉を両手で持ち、佇むリリーナの白く輝く姿だった。
「一体何が!」
 動揺する皆に対し、リリーナは吹っ切れたような顔をしていた。
「申し訳ありません、皆さん…」
 静かに目を伏せる。
「…これで良いのです…。こんな愚かな制度、私で終わりにしましょう」
「何をおっしゃるのですか巫女姫!」
「ご乱心なされたか? 正気に戻って下さい」
 騎士達の声も届かない。光に邪魔され、誰もリリーナに近付くことさえできなかった。
「…リリーナ! バカな真似は止せ!」
 沸き立つ叫びの中で唯一存在感を示す声に、ハッと顔を上げたリリーナの視線の先には、睨むように真っ直ぐ見つめるヒイロがいた。
 一瞬、リリーナの瞳に悲哀の色が混ざる。
 泣きそうに歪めた顔を必死に戻し、けれどヒイロを見つめたまま告げる。
「私は許されない罪を犯しました。神と世界と人々に捧げた身でありながら、たった一人の人を愛してしまった…。止められないのです。どんどん自分が醜い存在になっていくのがわかるのに…」
 抑えきれない想い。平和を願う心と、世界の終わりを望む心。
 宝玉が輝き、リリーナを包み込む。あまりの白さに視界も音も真っ白に染まった。
「私は、もうわからなくなりました。自分の心なのに…」
 思わず目を瞑った者たちのうちの何人が聞けたのか。もしくはヒイロ一人にしか聞こえなかったのかもしれない。リリーナの最後の呟きと涙を。

「許して。ヒイロ…」

「リリーナ!!」
 伸ばした手は届かない。
 光に飲み込まれていく気高き女性。
 舞う涙が花びらのような、何処か現実離れした光景を、ただ呆然と眺める自分がいた。
 ゆっくりとスローモーションのように、一コマ一コマ映像が流れていく。
 何か言えば良かったのだろうか?
 どうすれば良かった?
 後でいくら考えても答えの見つからない、けれど忘れられない映像。
 それが終わった時、その場に残されたのは白金の宝玉だけだった。巫女姫の姿はもう何処にもない。
 リリーナは宝玉を発動させて自殺したのだと誰もが悟り、そして全員が言葉を失くしていた。
 衝撃の事実と、巫女姫の死。
 それらをどう受け止めればよいのか。ただ呆然とする人々の前で、色が変わった玉だけが鈍く光を放った。














 巫女姫は強大な力の持ち主。宝玉とリンクすることで、様々な霊力を得ると同時に、自身の守護力も高まる。並の者では傷付けることはおろか、触れることすら適わない。
 また、その立場の重要性からまず守護騎士達が彼女を常に警護している。巫女姫を殺すことができるものなどいない。そう、されてきた。
 しかし、巫女姫本人が自らの命を絶つなど、誰が予測できたのか。
 リリーナが使用したことによって変色した宝玉は、時間と共に徐々に元の色に戻っていった。
 だが、聖地の混乱は一向に収まる気配を見せない。
 次の巫女姫は存在せず、有力候補とされていた少女ドロシーが現在は代理を務めているが、それも長くは持たないだろう。ドロシーは宝玉に触れることはできる。けれども宝玉とリンクすることはできなかった。それ故に巫女姫にはなれない。
 彼女はリリーナに匹敵するほど優秀であった。賢く冷静で強く、指導力にも長けていた。だが、巫女姫でないというだけで、皆に伝わらないものがある。この世界がどれだけ巫女姫を中心として動き、人々の生活の拠り所にしてきたのか、噛みしめる事実であった。
「私はこの馬鹿げた制度を消すつもりですの」
 ヒイロを呼びだしたドロシーは、唐突に告げた。
「………」
 一瞬驚いたが、ヒイロには何も言うことができなかった。生来の無表情故、動揺も表には一切表れなかったが、ドロシーは気付いたようである。
「最初の頃は良かったのでしょう。けれど今となっては、腐敗しきっただけの官僚制度。リリーナ様は苦心なされていたけど…上層部の者は我が身の権力しか考えない。巫女姫という存在が消えただけで、慌てふためくことしかできない能なしばかり。それでも救われていた人々はいたから今まで耐えてきましたけれど…もう限界ですわ」
 長きに渡り、聖地に君臨する巫女姫。その力を背後に、上層部は政治干渉まで行い、どんどん権力と財産を増やしていった。自らの親族を要所に就職させて安泰を図り、影で賄賂を受け取り…。結果、長い年月の経った現在では、私腹を肥やすことのみを考える輩が上層部を占めていたのである。
 リリーナがそれに嫌悪を感じていたことをヒイロはよく知っていた。だが、巫女姫と守護隊によって妖魔から人々が守られているのは確かであったため、彼女は制度を維持したまま現状改革を行おうとしていた。志半ばにしてこの世から去ってしまったが…。
「それで、一気に解散させようと思いますの。守護隊も同じく。未練はありませんわ。どう周囲の反対や妨害にあおうと構いません。そんなことで私はまいりませんもの」
 プライドの高い笑みを浮かべるドロシーは、言葉どおり決して妨害などに負けないだろう。誰も彼女を止めることはできまい。今はいないリリーナ以外には。
 それだけの自信と意志を示す少女にヒイロは敬服する。ある意味、リリーナよりも利発で気が強いのだろう。素質は十分に持ち合わせているのに、巫女姫としての適性だけがなかったドロシーの存在を惜しむ人々が多いことが頷けた。さぞかし立派な姫となれたであろうに。
「ヒイロ。貴方に命令を下します」
「…了解しました。ただちにその命を皆に伝え、この地から去ります」
 守護隊の解散を命じるつもりだろうとヒイロは思い、立ち上がろうとした。だが、ドロシーの考えは違っていた。

「…なんて、私が言うとでもお思い?」
 思わずヒイロは顔を上げる。ヒイロを見下すドロシーの瞳には憤怒が確かにあった。
「貴方はリリーナ様を苦しませた償いをしなければなりませんわ。誰もいなくなったこの地で一人、宝玉を守りなさい。不老不死となった貴方のその命が果てるまで、番人となってリリーナ様に供養を捧げるのです。いいですわね?」
 疑問形ではあったが、声音には反論を許さない強さがある。ヒイロに逆らう意志など毛頭なかった。
 リリーナの想いを知りながら応えられなかった。自分が消えてしまえばそれで解決するのに、離れられなかった。彼女自身が望んだこととはいえ、拒絶することはいくらでも可能だったはずなのに、しなかった。
 自分の甘さがすべての原因。許しなど請わない。それだけ残酷なことをしたのだから。
 ただ一つ。巫女姫の願いは何でも叶えてみせよう。
 何をおいても守らなければならない人を、こんなにも苦しめ哀しませた。
 それこそが、何より大きな罪。
 今思えば、ドロシーはリリーナの心を唯一理解していた存在だったのだろう。二人は仲が良かった。それこそ、苦悩を打ち明け、共感しうる親友とも呼べる存在だったのかもしれない。
 リリーナは最期に何を想ったのか。
 ヒイロに知る術はなく、大切な人を失った空虚と、永い孤独を抱えながら。
 ただ、いつ終わるともわからない懺悔を刻んで。
 宝玉が保管された社の番人として。
 切り離された空間で、牢獄のような時間を、ずっと過ごし。

 それは、リリーナの《復讐》だった。





















「…以上だ。それから後はおまえも知ってるとおりだ、デュオ」
 ヒイロの話の後も、室内は静寂が包んでいた。
 呪いの経緯についてはある程度予測できていたとはいえ、巫女姫の最期はまったく誰も知らない内容であったため皆、言葉を失くしてしまった。
 まさか巫女姫が騎士に恋をし、それを苦に命を絶ったなど。
 宝玉が暴走しかけた時、確かにリリーナの声が聞こえた。死亡した後も、彼女の力と想いは宝玉に留まり続けているのだろう。
 それほどまでに無念だったのか。
 それほどまでに焦がれたのか。
「巫女姫という存在があったことは伝承として残っているが、それがどうして消えたかは伝わっていないのは何故だろうと考えていたのだが…。不名誉な事項として消去されていたのだな」
 トロワの呟きにヒイロが頷くことで返答する。リリーナをこれ以上傷付けないようにと、ドロシーが画策したことだった。彼女はリリーナに心酔していたから。
「…で、貴様はその呪いをかけたという魔族には再会できたのか?」
 五飛にとっては、巫女姫の恋愛などよりも、ヒイロが元守護騎士だったことに興味があるらしい。
「いや。まったく気配すら感じなかった。魔界に帰ったのかもしれない」
 今となっては、ヒイロにとってあの魔族などどうでもよい存在だった。怒りも憤りも何もなく、恨む気もない。
「その魔族に心当たりはないか?」
 五飛は次にデュオに向かう。
「そう言われても…。名前もわからないんだろ? けど人間にそんな術をかけた奴の話は聞いたことないから、オレが生まれる前に死亡したんじゃないか?」
 デュオも結構長く生きてはいるが、さすがに当時はまだ生まれてなかったのだ。カトルも同様だと言う。
「そうか」
 どこか落胆したように息を吐く。根っからの戦士である五飛には、人間最強の戦士と謳われた守護騎士を手玉にとった魔族と対面したかったのだろう。だが、相手がいないのでは仕方がない。
 トロワは二人の様子をじっと眺めていたが、何も言葉にしなかった。カトルが顔を上げる。
「…どう思う?デュオ」
 主語のない質問だが、デュオには宝玉についての意見を求められているのだと悟れた。
「巫女姫の念、…想いがそのまま宝玉に込められている、ということだよな。…面倒くせぇ話」
 巫女姫が宝玉から与えられた霊力は、その女性が巫女姫としての役割を終えた時に宝玉に返される。リリーナの場合、霊力と同時にその強すぎた想いまでもが吸収されてしまったのだろう。
 下手をすれば、リリーナの強すぎる想い___念が宝玉に込められた霊力を握っている。簡単に任務を遂行するのは困難だろう。
「リリーナ姫にとって、君はライバルってことだね。これはちょっとやりにくいね」
「ライバル〜?」
 嫌そうに顔をしかめるデュオに、カトルは微笑む。
「だって彼女はヒイロを愛していて、そのヒイロは君を想っている。恋敵じゃない」
 ずっとヒイロと一緒にいたのに、ヒイロの心を揺さぶる相手が現れてしまった。それがリリーナを刺激し、先日の暴走未遂を触発したとも考えられるのだ。
「うわ〜。やめてくれよ。冗談じゃねーぜ。なんでオレが…」
 人間の恋愛にこれ以上関わるのはまっぴらごめんだ。ただでさえ、ヒイロとトロワに挟まれて苦労しているというのに。
 しかも、女の嫉妬はこれ以上なく恐ろしい。そんなもの、誰も受けたくない。
 横から傍観しているだけのカトルには面白いのかもしれないが、実際その立場に立つと苦労がわかるものだ。
「…ヒイロ。今日はご苦労だったな。もう帰ったほうがいいぜ」
 番人であるヒイロの不在は、宝玉にとってもリリーナにとっても好ましいことではない。横に置いていたクッションに顔を埋めたままデュオは帰宅を薦める。嫉妬と怒りをかうのは嫌だという態度が思いきり表れている。
「…わかった」
 ごねるのかと思いきや、案外あっさりとヒイロは立ち上がった。昔を思い出したことで、ヒイロの心境にも変化があったのだろうか。
 重い空気は変わらない。
 何に対して驚き、納得すればいいのかわからないくらい、衝撃的な話だった。
 ヒイロが優秀な騎士だったことも。
 呪術を行った魔族の意図も。
 巫女姫の激情も。
 色々考えることが多すぎる。見る目がかなり変わってしまった。
「失礼する…」
 去っていくヒイロを見て五飛も腰を上げる。
「オレも帰るぞ。どうせ今日はもうこれ以上話はないだろう?修行する」
 彼らしい理由でスタスタと歩き出した。
「おー。お疲れ」
「さようなら」
 ドアの閉じる音が消えると、静寂が生まれてしまった。
「…デュオ」
 沈黙を破るように、じっと黙っていたトロワが口を開いた。
「本当は心当たりがあるんだろう?」
「え? 何が」
 意味がわからず、きょとんとしたデュオたちに、トロワは穏やかな瞳のまま続ける。
「先程ヒイロの話に出た魔族についてだ。おまえたちはそいつは死亡していると言ったが、そうではないのだろう? …別に言いたくなければ言わなくてもいい。おまえたちとて、話したくないこともあるだろうからな。特にヒイロには知られたくないようだった」
 だから、ヒイロがいる間は口を出さなかったのだと言う。
「トロワ…。おまえ何でそんなことわかるんだよ」
「おまえのことだからな」
 確信して言い切るトロワに、デュオもごまかす気が失せた。トロワの観察力や洞察力の凄さには舌を巻くばかりだ。隠したり曖昧にごまかしたりするのには自信があるのだが、彼には通用しないらしい。
「…おまえ、凄すぎ…」
 苦笑を浮かべれば、トロワは穏やかに微笑んだ。
「話したくなければそれでいい。オレも訊こうとしない」
「優しいな」
 強制も無視もせず、ここまで気遣いされると、逆に居心地が悪い。トロワになら話しても、不用意に周囲に漏らすようなことはするまい。たとえ家族や友人であろうとも。
 チラッとカトルに目で合図すると頷き返される。カトルもトロワを認めたらしい。
 隠すよりは話したほうが楽かもしれない。
「…ヒイロに術をかけた魔族ってさ、多分オレの親父だ」
「何?」
 意外な返答に、さしものトロワも驚きの表情を浮かべる。
 魔族には性別はない。よって普通は人間のように両親というものが存在しない。だが、術で身体を男性体や女性体に変化させることはでき、その状態時に異性と性交渉を行えば受胎は可能である。
 デュオはある魔族と人間の女性の間に生まれた子どもなのだと告白した。
 混血であるが、魔族の血のほうが強いため、人間の血の影響はほとんど無い。魔族は基本的に実力主義なので、出生が何であろうが能力の高いデュオは、一人でも良い生活を送ってきており、特に問題は無かった。
「オレは会ったこともないけどな。なかなか身分も高くて実力もかなりのものだったらしい。オレが生まれて間もなく行方不明になってそれきり消息も不明」
「他の魔族の可能性もあるけど、時間凍結術を扱える者なんてそうはいないし、それほどの魔族がこの世界にやってきたなんて記録もほとんど無きに等しいからね。多分間違いないよ。僕も彼のことは噂でしか知らないけど」
 カトルの補足で確定。
 元来、魔族が人間界に来ることはほぼ無いといって間違いない。特に理由があるわけではない。単に興味がないだけのことである。
 だからこそ、訪れる魔族はデュオやカトルのように、特別な理由を持っていると考えるのが正しい。任務でもなく、人間界に興味と執着を向けたデュオの父は、特異な存在だったのだ。
「…なるほど。確かにヒイロは知らないほうが良いな」
 自分に呪いをかけた相手がデュオの父と知れば、さすがにヒイロも動揺するだろう。彼が何を今考えているのかわからない分、知った後の行動が予測できない。最悪の事態を考慮すれば、隠すにこしたことはない。
「安心していい。他言はしない。五飛にもな」
「うん。ありがとな」

(なんか聴いた限りではヒイロのほうが優位そうだったけど、トロワのほうが大分上手だねー。この件でヒイロより一歩どころか、はるかにリードしたし…)
 二人の会話を横目にしつつ、カトルは冷静に考えていた。人間の恋愛沙汰には関わろうとしないデュオとは対照的に、カトルはそれを掻き回して面白がる傾向がある。さしもに中心にいるのがデュオであるため、複雑にする気もヒイロとトロワを応援する気も無いが、眺めて楽しむぐらいはいいだろうと思う。こんな三角関係、そうそうお目にかかれるものじゃないのだし。
(それくらいは良いよねデュオ? 君と僕の仲だし)
 唯一の味方にまで手を離されているとは知らないデュオは、不幸なのか、ある意味幸福なのか…。
 けれども親友が離れてしまうかもしれないという複雑な淋しさを、カトルも感じてはいるわけだから、そう悪くはないかもしれない。









 事情がわかったら、即座に作戦を練り、実行する。
 それが何であれ、任務というものは得てしてそれがセオリーである。モタモタしていたらチャンスを逃してしまう。しかもこの任務にはあまり時間がない。
 ということで、トロワも帰宅した後、カトルと相談したデュオは神社に訪れた。
「ヒイロ。いるんだろ?」
 返事をしようとしたが、ひょっこりと表れたデュオを見て、ヒイロの口は止まった。
 先程までの格好のまま、今度は髪をポニーテールにし、ブレスレットやピアスなどのアクセサリーを付けているデュオがいた。
 これで彼を男と思う人はいないだろう。どこからどう見ても美少女である。
 目のやり場に困って視線をしばし彷徨わせるが、悲しいかな男の性でやはり目がデュオにいってしまう。
「なあ、おまえここにずっといるわけ? そんなんじゃどうせろくなもん食ってないだろ。弁当作ってきたから食べようぜ」
「え?」
 思いもかけない言葉に戸惑っていると、デュオが持っていたバスケットを目の前に上げてきた。
「…何だよ。いらねーの?」
 反応を返さないヒイロに呆れたように溜め息を吐き、それなら食わなくていい、と引っ込めようとする腕を咄嗟に掴む。
「…食べる」
 いらないわけがない。そこまでは生来の不器用さ故に言葉にならなかったが、素直な反応に自然にデュオに苦笑が浮かんだ。
 手作りの弁当を食べるなど、ヒイロにとって生まれて初めての経験だった。しかもそれが他の誰でもないデュオの製作とくれば、感動もひとしお。それに加え、デュオの料理の腕は天才的で、もしヒイロが感情豊かな人間だったら泣いていたかもしれない。それほど美味い食事だった。
「おまえいつも何食ってんの?」
 横に腰掛けてヒイロを見ながらデュオが問いかける。
「別に…。呪いのせいか、何も食べなくても特に変調は現れないし、空腹感も感じない。町や学校に出た時は周囲に怪しまれない程度に食事をとる程度だ」
 予想通りの答えに、デュオは呆れるしかない。そりゃ時間が止まってるのなら栄養をとる必要はないだろうが、一応、食欲は人間の基本的欲求の一つだろう。それさえも無関心なヒイロはどこまで異質なのか。この様子では学校の給食以外は今までまったく口にしてなかったに違いない。
「…時間があったらまた何か作ってやるから食えよ。何か口にしないとダメだぜ」
 食べながらヒイロは頷く。断る理由など何処にもない。
 そんな彼の子ども染みた仕草に、ついデュオの顔に微笑が浮かぶ。本当に彼は自分を信じきっているのか。
 何の疑いも持たずに、デュオが渡そうとしたものはすべて受け取る。それ以上に大切なものは無いとでもいうように。
 どうしてそこまで無防備になれる?
 過去の話を聴くからに、彼はリリーナと主と臣下の関係を越えた絆はあったものの、それは男女の恋愛関係ではなかった。だからこそリリーナが苦しんだのだから。
 だが、大切な存在というものなら、リリーナは確実に当てはまるはず。たとえ彼女が巫女姫ではなく、ただの少女であったとしても、ヒイロにとって守るべき存在だっただろう。ヒイロの様子から見てとれる。
 その彼女にさえ見せなかった一面を、惜しみもなくデュオにさらしている。
 自分を愛してくれた女性ではなく、クラスメートにしかすぎなかった魔族を選んだのは何故?
 これが年月がもたらした結果だとしたら、ヒイロも人間的に成長したのだろう。もしかしたら幼い頃はこんなふうに素直な子どもで、騎士として働くうちに心の奥底に封じてしまっていたのかもしれないが。
 時間とは偉大なものだとデュオは思った。その時間を止めようとした父は、何を望んでいたのだろう?
「呪術をおまえにかけた魔族にもし逢えたとしたら、おまえはどうするつもりだ? ヒイロ」
 問いはあっさりと出た。問い自体に意味はなかったのかもしれない。ただ、ヒイロが何を考えているのか知りたかった。
 ちょうど食べ終えたヒイロは、ゆっくりとバスケットを蓋し、言葉を探す。
「…わからない」
 かつては憎んだこともあったが、今となってはそれも遠い。長く生きたおかげでデュオに逢えたのだから、そう考えると怒りなど沸くはずもない。
 ただ…。
「訊いてみたいかもしれない。奴がオレに言いたかったことは何なのかを」
 成長すれば見えてくるだろうと言った奴は、自分に何を期待したのだろう。何を見せたかったのか。
 過ぎ去っていく時間の中で、多くのものを見てきた。その中に奴の意味するものはあったのだろうか?
「…それだけだ」
 だが、もう死んでしまった存在は返らない。謎のままで消えてしまった答えは、何処にも無い。
 デュオは考えを馳せるヒイロの横顔をじっと見つめていた。

 顔さえ知らない父は、ヒイロに何を願ったのか。特に両親に対する慕情などがあるわけではないが、やはり気にかかりはするのだ。
 いない存在のことを考えても仕方ないということはよくわかっているので、思考から消す。それよりも…。
 緩慢に目を瞬かせ始めたヒイロに、笑みに気付かれないようにことさら優しく声をかける。
「ヒイロ、腹一杯になったから眠いんじゃないのか?寝たらどうだ?疲れてんだろ」
「…いや」
 満腹感からの眠気…ではない。しかし耐え切れそうにない眠気が襲ってきているのは確かで、昔の話をしたことで、それほどまで精神的に疲れたのだろうか? 僅かに疑問が沸くが、それを深く考えるだけの思考もまとまらない。
 優しく頭を撫でるデュオの手。静かな空間。
 ゆっくり歪んでいく視界を堪えながらデュオのほうを見やるが、彼の顔もハッキリ見えないまま、ヒイロは眠りに落ちていった。
 デュオは立ち上がり、その場で横になっているヒイロを冷ややかに見下ろす。
(こうも簡単にひっかかるとはねー)
 睡眠薬入りの弁当にヒイロは気付かなかったらしい。無味無臭の代物だから大丈夫だろうとは思ったが、ヒイロはいっぱしの騎士だった男だ。万が一ばれた時のために、ごまかす言い訳まで考えを巡らせていたのに、必要なかったようだ。
「いいぜカトル」
 ヒイロが完全に眠っていることを確かめてから呼ぶと、少し離れた木陰にいたカトルが現れる。
「うまく眠ってるようだね」
「こいつにゃ悪いが、邪魔されたくはないかんな」
 とりあえずヒイロを眠りやすい体勢に整えてやり、二人は階段を上がって祠の前に立つ。
 番人がいては任務の遂行はさすがにやりにくいのだ。
 今日は、宝玉は静かだった。デュオ達が近付いても何の反応もない。そういえば初めてデュオが此処にやってきた時も何の問題もなかった。やはり発動のキーワードは《ヒイロ》ということなのか。
 ゆっくりと扉に手をかけ、そっと開ける。
「あった…」
 小さな祠の奥に、金とも紅とも区別の付かない色で輝く玉が鎮座していた。強大な霊力が渦巻くように玉内を駆けめぐっていることが、肌に直接伝わってくるようだ。
「凄い…。これなら…!」
 カトルが感嘆の声を上げる。想像以上の力を秘めた宝玉に、期待が沸く。
「…よし、やるぜ」
 一呼吸した後、デュオは膝を突き、手を組んだ。
 巫女姫の宝玉は、大抵の者には扱うどころか触れることもできない。ましてや魔族にとっては、高熱に焼け付いた鋼鉄に近寄るようなものである。その霊力と清浄さに、苦痛に苛ませられるだけだ。
 魔族でありながら、宝玉を扱える者はただ一人。人間の血を引き、高い魔力を持つ、デュオのみ。
 だからこそ、この任務は彼でなければ遂行できない。
 カトルは邪魔にならないように少しだけ後ろに下がり、自分も姿勢をとる。
 今回は先日とは違う。呪具や霊具などのアイテムや魔力増強の武具も持参してきている。身につけているアクセサリーは実は全部特殊なアイテムだった。万全の準備を整えて来ているのだ。
 失敗は許されない。
 小さく紡がれるデュオの呪文に合わせ、周囲に風が舞い始める。ふわりと軽やかに、あるいは力強く。
 宝玉の霊力を得るため、精神で宝玉に語りかける。少しずつ意識を送っていくデュオの身体は、カトルが守護する。
 細心の注意と完璧な詠唱で、リンクを図る。自分の波長が宝玉と何処まで合うことができるのかが勝負。
 浮遊感を感じ、目を閉じると、デュオの精神は宝玉の中に飛んだ。
「…成功…かな?」
 真っ白な、天も地もない所で、デュオは首を巡らす。
 上手くいったらしい。この空間の何処かにある、宝玉の中心を探さなければ。
 上下左右に足場がない空間を泳ぐように浮かんで移動する。空間自体が強い力を持っていて、中心など判別できない。
「間に合ってくれよ…!」
 意識を飛ばすにも、そう長い間は無理がある。限界が来るまでに見つけないと、自分の命が危ない。
 目がおかしくなりそうな純白の世界を漂うデュオの視界に、不意に何かが横切った。
(?)
 何なのかもわからなかったが、それが去っていった方向に進路を変える。進んで進んで、そこに空間に溶け込みそうな純白のドレスを身に纏った、女性がいた。
「あんたは…リリーナ?」
 ブロンドの髪を翻して振り返った女性は、誰かに似た強い光を放つ瞳をデュオに向ける。
 先日は人影しか見えなかったが、彼女が最後の巫女姫だとデュオは確信できた。
 リリーナは死亡時は熟女と呼べる年齢だったはず。しかし、今デュオの前にいるのは、デュオ達と同じくらいの外見年齢の少女だった。
『…ヒイロ』
 リリーナはデュオに向かって、見当違いに呟く。
 いや、そうではない。彼女の目には、デュオは映っていなかった。
『ヒイロ?ヒイロは何処?』
 周囲を見回す彼女には、デュオだけでなく、他の一切が見えていないのだろう。ただ愛しい男の姿を追っている。
(これは…)
 何故リリーナが此処にいるのだろうと思ったデュオだったが、よく見ればそれはリリーナの魂ではなかった。
 ヒイロを想う心があまりに強すぎて、その気持ちだけが《念》となって宝玉に留まったのだ。
「何てことだよー」
 デュオは思わず頭を抱えた。
 強力な念ほど厄介なものはない。その欲望を果たすためだけに存在するそれは、他に何も持っていない分、強く頑丈で、聞く耳持たない。本能だけの獣にすぎない存在。
 魂ではないから成仏することはない。安らぐことも無く、消滅するまでただ一つの願いを求め彷徨い続ける。
 その上、リリーナの念は、宝玉と同化していた。つまり、中心とも呼べる存在と化していたのである。
 これほど困難な任務がかつてあっただろうか。いや絶対にない。
 心で自問自答するデュオは、半分ヤケになっていた。念と同化した宝玉の力を操るなど、それだけでも困難な作業であるのに、その念が自分に決して好意を持つことも屈することもないだろうとなれば、お手上げだ。
 だが、放棄するわけにはいかない。まったく予測していなかったわけではないし、ここまで来て引き下がるのは何よりデュオのプライドも許さない。
 どうしようかと思っている時、リリーナがデュオに目を合わせた。
『…貴方…思い出しましたわ…。私のヒイロに…、よくも…!』
 ようやく認識してもらえたかと思えば、先日この祠の前でヒイロに告白されたあげく抱き締められたことを恨まれているらしい。
 やばい。
『死になさい!』
 リリーナの両腕に霊力が溜まっていく。同時に圧迫感がデュオを襲う。
「…あれはオレが悪いなんてことは無いと思うんだけどなー」
 顔をひきつらせながら呟いてみたが、案の定彼女には届いていなかった。
 相手が宝玉自身でもある以上、滅多な攻撃はできない。宝玉が使えなくなっては意味がないのだ。結界を張って防御の態勢をとる。
 リリーナの手から紅い光が放たれ、結界とぶつかり、大きな音を立てて弾け飛んだ。
「うわっ! さすがにすげー力…」
 おどけてはいるが、デュオは冷静だった。結界で攻撃は防げそうだと判断し、様子を見る。さすがは巫女姫であっただけはある。そこらの妖魔なら、一撃で吹き飛ばされているだろう。
 リリーナの攻撃は止まず、続けざまに次々と放たれていく。
 防いでいる中、何かがちらりと目をかすめた。
「? 何だ」
 凝らしてみれば、それはリリーナの心だった。此処はリリーナと同化した宝玉の中。不思議ではない。
 見えたのはリリーナと、ヒイロの姿。
 何も知らずに一緒に遊んでいた幼い頃。
 何気ない会話を楽しみながら茶を飲んだ時間。
 浮かんでは消えていくビジョンは、どれもヒイロとの思い出ばかりだ。
 そして、幸福と悲しみ。

『ヒイロ』
 愛する男は変わらず存在するのに、年老い醜くなっていく自分。
 結ばれることはおろか、想いに正直になることもできず。
 ただただ世界のために耐えるだけの姿を、醜くなっていく精神を、最も見せたくない相手に晒さなければならない現実。
 これほど苦しいことは無い。
 好きで巫女姫に生まれたわけじゃない。私も普通の女の子のように…!
 そう。やっと解放されたのだから。
 ヒイロは私のもの。ずっと一緒にいるのよ。
 邪魔するものは許さない。邪魔なんて、させやしない。
 
 念は正直だ。ごまかすことなく本音を出す。
 リリーナは恋をした時から、《巫女姫》ではなくなっていたのだ。
 世界の調和と平和と人々の幸福を考えなければならない巫女姫が、迷い苦悩した時から、ただの恋する少女になっていた。
 それでも最後の理性で抑えていた想いが、死と同時に解放された。ずっと抑圧されていた分、それは止まることを知らない。
 少しずつではあるが、リリーナの力が強くなっていく。
 埒があかない。
「仕方ねぇ…!」
 舌打ちしたデュオの右手に紫の光が集中し始めた。
 可視光線の中でも、紫の光はエネルギーが高い。
 虹を例に挙げると、外側に行くほど波長が長くなる。つまり赤色が最も波長が長く、スピードが速い。逆に内側の紫色が最も波長が短いということになる。
 しかし、波長が短いというのは、言い換えれば振動する回数が多く、大きなエネルギーを持っていることになる。紫色よりもさらに波長が短い紫外線が生物に害を与えるというのは、それだけ強いエネルギーを持っているためである。
 暖かく感じる赤外線などのほうがエネルギーも大きいように思われることがあるが、熱エネルギーと光そのもののエネルギーは相対しないのだ。
 それは、リリーナの紅光気よりも、デュオの紫光気のほうが強いことを示していた。
『きゃああー!』
 相殺されなかった紫光がリリーナを包んだ。加減はしていたから、これであの念が消滅することはないはずだが、ますます敵意を抱かせてしまったことにはなるだろう。
(これ以上は無理だな。日を改めて出直したほうがいい)
 混乱に乗じて一旦引くことにする。作戦を練り直したほうが得策だろう。
 以前、宝玉にリリーナの影が見えたことから多少の予測はしていたが、まさか念が宝玉と同化していたなどとは思わなかった。しかも、リリーナがこれほどまでにヒイロに執着していたとは。
 肉体はとうに消滅しているのに、魂はすでに天へ上がっているのに、想いだけが留まり続ける。
 それほどまでに相手を想う愛とは、一体何なのだろうか。
 自らの身体に戻りながら、デュオはふと憧れに近い感情を抱く自分に気付いた。







 リリーナとデュオの力の衝突は、現実世界にも影響を及ぼしていた。
 宝玉が強烈な光を放ち、デュオの身体に結界を張っていたカトルはその衝撃を受けた。倒れはしなかったものの、数歩後ずさった。
 実際にデュオが意識を宝玉に飛ばしたのは数秒前だが、宝玉の中ではずっと長い時間が経っているはず。何があったのかと考える前に、親友の元に駆け寄る。
「デュオ!」
 答える代わりにゆっくり目を開けるデュオに、安堵の息をもらす。
 背後で起き上がる気配を感じ、振り向くと、今の光で気付いたらしいヒイロが起き上がろうとしていた。
「う…デュオ?」
 ヒイロは頭を巡らし、デュオの姿を見つけた。
 確か自分はデュオから差し入れられた弁当を食べて…その後の記憶がない。現在の状況把握に頭がついていかない。何があった?
「オレはとことん嫌われてるらしいぜ」
 立ち上がったデュオは、不敵な笑みを浮かべた。諦めとも挑戦ともとれる表情で。
 不審がるカトルだが、デュオに促され、その場を共に離れる。
 何もわからないヒイロは一人取り残され、ただじっと宝玉を見つめていた。
「…デュオに、何をしたんだリリーナ」
 独り言のような呟きは、聴く者は誰もいない。
 確信はないが、リリーナとデュオに何かあったということは理解できた。おそらくその原因は自分で。
「デュオは関係ない。何か鬱憤があるなら、すべてオレに向ければいい。オレに…」
 誰かを愛することさえ、許されないのか。
 力無く項垂れたヒイロの拳だけは震えていた。









 綺麗な夕焼けが空を飾りつつも、帰り道を辿る二人の足は重かった。
「…どうすっかな、まったく〜」
 愚痴っているのはもっぱらデュオである。カトルは苦笑しながら曖昧に返事を返していた。
 カトルとしては、三角関係は面白くなってきたが、任務は支障が大きいことから、結構複雑な気分なのだ。
 大変な任務だとは思っていたが、まさかここまでややこしいことになるとは。
 よりにもよって、巫女姫の念に不老不死の少年。元々デュオ自身が珍しい出生であることも加えれば、これほどの存在たちが一同に会うなど、かつて無かった。これからも二度と無いかもしれない。
 それ故に、どうなっていくのか検討も付かないのである。
「はぁ〜」
 出るのは溜め息ばかり。一度魔界に帰って、上層部の判断を煽ったり応援を呼んできたりするほうが良いのだろうか。
 一向に考えがまとまらないまま着いた自室の前に、二つの人影があった。
「トロワ、五飛」
 デュオが声をかけると、二人は顔を向けた。
(そういや彼もいたっけ。三角関係じゃなく四角関係だったね。あぁ更にややこしくなっちゃって…)
 咄嗟にそう思ったカトルは、案外デュオほど悩んではいなかったらしい。
「あの神社の方角から力を感じたのでな。おまえたち絡みだろうと思って待っていたんだ」
「…だから、おまえら本当に人間か?」
 いくら霊感が強いといっても、ここまで感知能力があるのは驚くしかない。
 確かにリリーナとデュオの力の衝突は大きかったろうが、神社を守る結界によってほとんど塞がられていたはず。微妙な波動の変化を感じ取れるなんて、魔族でも難しい。人間でならば巫女姫レベルの霊力が必要だろう。もしかしたら、トロワたちはその血に連なる者なのかもしれない。
「見てのとおり、れっきとした人間だが」
「貴様ら魔族が人間をどう認識しているか知らんが、舐めないことだ」
 自然にきっぱり言い放つトロワと五飛はいたって真剣らしかった。魔族二人は言葉を失う。
「で、何だったんだ?ヒイロは?」
 デュオたちが呆然としていてもトロワは冷静である。用件は手短に済ませる性格の五飛とともに二人を凝視する。
「えっと…」
 頬を指でかきながら、人間って色々な奴がいるもんだなと考えを改めるデュオとカトルであった。
「宝玉がまた暴走したんで、それを止めただけ。ヒイロは神社にそのままいるぜ。以上」
 手短に説明してそこで終わらす。突っ込まれてもこれ以上答えようがない。
「…大丈夫なんだろうな…?」
 見かけによらず繊細らしい五飛が小さく問いかける。普段は豪快に突っ走る彼だが、内面では結構思うところがあるようである。
 彼は実際はまだ目にしていないが、伝承を聞くからに、宝玉の霊力は凄まじいものだ。それがこうも度々暴走するようでは、気にするなと言われても無理だ。
「大丈夫だよ。そのためにオレらが来たんだから」
 滅多に見れないだろう五飛の逡巡ぶりに、思わずデュオも笑って肩を叩く。これで取り繕えたわけではないだろうが、不安を煽るようなことは言えなかった。
「…では、おまえたちが此処に来たのは、宝玉を制御するためなのか?」
 デュオのセリフを取って、すかさずトロワが口を開く。ずっと疑問に思っていたことだ。少しでも話してくれた今を逃しては、訊けなくなる。
(やば…)
 咄嗟に顔がひきつったが、こうなっては仕方ない。
「うん…。まぁそういうことかな」
「デュオ」
 咎めるカトルに目で合図する。
 先程の件まで感知できた人物なら、これから自分たちがやろうとすることも感知される可能性は非常に大きい。下手に動かれて邪魔されては元も子もないのだから、この際話してもいいだろう。
(こいつらなら大丈夫だよ)
 最後にウインクまで付けて、微笑する。
(君がそこまで信用するなんて珍しいね)
 感心するように目を開くと、デュオ自身も自覚していなかったようで、一瞬の戸惑いがあった。
(そういや、そうかも…)
「今まで何の異常もなかった宝玉が変化をきだした理由は何なんだ?」
 トロワの続けての質問に顔を向けるデュオを、カトルは静かに見やる。
 人懐っこく、誰にでも親しげな素振りを見せながら、デュオは誰も信頼していない。それはカトルも同じで、魔族としては珍しくもないことだ。裏切りなど頻繁にある。
 デュオとカトルの関係も、付き合いが長いためにお互いのことを熟知していることと、互いが相手のことをそれなりに気に入っているだけのことである。想像すらしたことがなかったが、もし対立するようなことがあればその時はおそらく互いに容赦はしないだろうと思う。
 混血でありながら、デュオの性質は生粋の魔族そのものだった。
 しかしここ最近、この世界にやってきて人間と接するようになってから、デュオは徐々に変わってきたようだ。
 誰よりも漆黒が似合っていた彼が、光の下で屈託なく笑う。単に人間の感情に引きずられた一時的なものなのか、それとも彼の眠っていた半分の血が目覚めてきたのか。
 どちらにしろ、カトルとしては、デュオが離れていくようで淋しいことこの上ない。
「何つーかなー。至高の宝石も、それを磨く奴がいなけりゃやがて輝きは衰えていくだろ? 宝玉も同様に、制御していた巫女姫が絶えてから、随分経ったからな。押さえが効かなくなってんのさ」
 本当はそれだけじゃなかったけど。
 口には出さず、ひとりごちる。
 デュオたちも初めはそうと思っていたのだ。そこにまさかヒイロとリリーナの複雑な経緯が関係していようとは。これはもう上司が聞いたら驚愕することは間違いない。
 トロワや五飛にしてみれば、これまで普通に暮らしてきた街で自分たちの知らない聖地があったばかりか、そこに秘された霊力の異常。ショックだけではない。
 はっきり言って、皆が混乱している状態だ。
「それは宝玉自体が既にその役目を担えなくなっているということか? どうするつもりなんだ、貴様らは」
「落ち着けよ五飛。オレたちは宝玉に込められた霊力を解放しようと思ってんだ。解放された霊力は自然に還り、宝玉はただの石と化す。それで万事OKだろ」
「できるのか…?」
「オレを舐めんなよ」
 訝しげに問う五飛に、挑戦的に応えると、彼は口を噤んだ。
 まだひっかかる点はあるようだが、トロワもそれ以上何も訊かなかった。
 こういう二人だからありがたい。デュオの実力は充分認めてくれているし、信頼も置いてくれている。デュオも気兼ねなく付き合っていられる。
 この二人を気に入っているのは本当。けれどカトルが驚くように、信用し出したのはいつから…?
 ふとトロワと目が合う。デュオを見つめたまま、トロワは静かに近付き。
「無理はするなよ」
 そう言ってデュオの頭を軽く撫でた。
「…わかってるよ」
 一瞬驚いたが、柔らかに笑うと、トロワも微笑んだ。
「では、オレはこれで帰ることにする。また」
 体を翻すトロワに五飛が投げるように声をかける。
「オレはまだ訊きたいことがある」
「わかった」
 それだけで話が通じるらしく、トロワは軽く手を振って一人で帰っていった。
 後ろ姿を見送りながら、デュオはそっと頭に意識をやる。
 頭を撫でられるなんて初めてに近い。ふわりと柔らかな風が吹いたような感覚だった。
「デュオ、僕は一旦戻って報告してくるよ」
「了解。頼むな。あ、五飛、ずっと外で話してても何だから中に入ろうぜ」
 質問攻撃から逃れるために体よく逃げたカトルに手を振り、五飛を部屋に招く。
 午前中に入ったばかりの部屋は、当然ながら変化はなく、元来遠慮というものをあまりしない五飛はズカズカとソファに座った。デュオもその向かいの椅子に腰を下ろす。
「で?」
 いきなりそれだけを言い放つ五飛の性格にたまに拍手したくなるのは、何故だろう。
「で?って言われても…。話があるのはおまえのほうじゃねーのかよ」
「オレが訊きたいことは山ほどある。とりあえずはおまえから色々と話してもらおうか」
 ここまで尊大な態度をとられても、彼なら何故か許せてしまうから不思議だ。五飛の場合、いっそすがすがしく感じるのだ。
「話すって…何をだよ?」
「何でもいい。とにかく思いついたものから言え」
 そんなん有りか、と思うが、彼自身も何から訊きたいのかよくわからないのだろう。五飛も結構不器用な性格をしている。
(そういえばヒイロも不器用だよなー)
 似たような真っ直ぐな瞳をしている彼が浮かぶ。もし巫女姫でなく普通に恋愛できる少女だったとしても、リリーナは結構苦労したのではないだろうか。悪いがヒイロに充分な甲斐性があるとは思えなかった。
 …それでも、と考える。
 それでもヒイロを恋い焦がれたリリーナ。死んでも尚彼だけを求めて。
 どうしてそこまで一人の人を想えるのだろう?
 先程の自問が再び脳裏によぎる。良い機会だからこの際訊いておこうと、目の前の少年と目を合わせた。
「…五飛。《愛》って何なんだ? そんなに良いものなのか?」
「…何故オレに訊く」
 案の定不機嫌な顔をする。けれど仕方がないではないか。
「だって他に訊ける奴いねーもん」
「トロワにでも訊…!」
 そこまで言いかけて、確かにそうだと気付いて五飛は言葉を濁す。トロワとヒイロはデュオが好きなのだから、主観的意見しか云えないだろうし、カトルはデュオと同じで愛情なんて知らないから問題外。となると自分しか残っていないのである。
「………」
 目の前にはじっと見つめてくる蒼い瞳。
 答えたくないが、答えねば後味が悪いのは確かで、汗が出てくる。
「五飛…」
 すがるような瞳に、とりあえず咳払いを一つして心を落ち着かせる。
「オレにもよくわからんが…。人には愛する者のために命をかける者もいる。時にそれは人を強くも弱くもさせる。自分より大切な者がいる、ということがそいつにとって幸か不幸かは本人にしかわからないのだろう」
 答えにはなっていないだろうが、五飛にはそれくらいが精一杯だった。
 こういう時はあいつらの出番だろう、といかにも正論と真理を語ってくれるであろう知人の顔が浮かぶ。
「昴治に訊いてこい!あいつのほうが最良の返答をしてくれる」
「…かもな。けどおまえの意見も充分参考になったぜ。ありがとな」
 笑顔で素直に礼を言われると、逆に五飛は照れくさい気分になる。
「礼を言われるようなことじゃないだろうが」
「おまえら人間にとっても難しいものなんだろ? それを自分なりに考えてくれたってことだけで良いさ」
 思わず逸らした顔を戻すと、そこには綺麗に微笑むデュオがいて、息を呑んだ。
 はぐらかされた気もするが、不覚にも一瞬とはいえ魔族に目を奪われた自分の不甲斐なさのほうが上で、五飛は慌てて立ち上がった。











「…う〜ん。悪いけど、それはオレもわかんないよ」
 一度考えると、気になって仕方がないものだ。五飛が逃げるように去った後、デュオは相葉家に来ていた。偶然にもちょうど昴治が一人で留守番しているところだったので、ゆっくりと話ができた。
「ある意味、それこそが人間の存在意義になるかもしれないな。誰かを《愛する》ってことは、素敵なことだよ。喜びと幸福をもたらす反面、それは苦痛を伴い、時に悲劇までももたらす。…それでも、人は《愛する》ことをやめない。誰かを愛さなければ生きていけない。永遠とも呼べる課題であり、壮大な謎でもあるね」
 さすが言うことが違う、とデュオは出された茶をすすりながら頷く。
「オレも本当に誰かを心から愛した経験はないから、大きな口は叩けないよ。オレにあるのは家族に対する愛情と、友人に対する友情。精々それぐらいかな」
 もちろん《友人》の中には君たちも含まれているけどね。
 そう付け加える気の良さは心地よい。初めて逢った時からの彼に対する好印象は変わらなかった。
 それでも、あの事件から、自分も少しは変わったらしいと昴治本人は言う。自分の弱さと向かい合う勇気と、周囲を受け入れるゆとりを得たのだと。吹っ切れた瞳をしている。
「いやー、サンキュ。めちゃくちゃ勉強になったぜ。すげーな昴治」
「そんな…感心しないでくれよ。オレだってわからないんだってば」
 本気で誉めたのだが、照れる昴治に、ついつい意地悪心が沸く。
「で、目下の所、弟君と親友君に囲まれた気分はどうなんだ?」
 その二人が昴治をめぐって日々バトルを繰り広げているのは周知の事実である。瞬間、昴治の顔に困惑が浮かんだ。
「…何て言うか…。好かれるのは嬉しいけど、複雑な気分だよ。二人ともオレには同じくらい大切な存在だし、選ぶなんてできるわけがない。…というか、実を言うと二人ともオレを《守る》気でいるのがちょっと困ってるんだ。確かに二人ともオレより頭もいいし運動神経もいいし顔もいいけど…オレにだって男としてのプライドがあるんだけどなー」
「あー、わかるわかる。こっちの気持ちを無視して勝手に争いやがってさー。おめーらに気遣われるほど落ちぶれちゃいねぇっての」
 深々と溜め息を吐く昴治につられ、デュオも息を吐く。考えてみれば、状況は自分も似たようなもので、まったくの他人事ではないのだ。
 ハッと顔を上げた昴治はデュオを見、少しの間の後に苦笑した。意味がわからず、何?と目で問う。
「あ…いや、ごめん。けど、悪いけど、その格好で言われても説得力があまりないよ」
「え?」 
 そう言われて自分の姿に気付く。着替えなどしないまま訪問しているので、デュオは少女の格好だった。可愛い少女が「守られたくなんかない」と言っても、それを認められる男は数少ないだろう。
 脱力感がのしかかり、肩を落とす。
「ところで、あの資料は役に立てた?」
 デュオが昴治に頼んだのは、この街の歴史や伝承、未解決な不可思議事件などの記録だった。
 そこは昴治の顔の広さと人当たりの良さと生徒会という立場に縋っている。実際なかなか有効利用してくれたらしく、あの神社のある山の持ち主まで調べてくれていた。
「ああ、助かったぜ。あの山は一応公共のものなんだな」
「そうだよ。他の近隣の山々と同じ。けれど、君の言う神社の存在は何処にも記述されてなかった。役所の記帳どころか地図にも載ってない。その上、街一番の高齢者でさえ知らなかったんだからね」
 あの結界の効果は大したものらしい。存在を完璧なまでに消している。トロワが知っていたのは彼の家系柄によるものだろうが、その彼でさえ一度も訪れたことがないという。近付こうとする意識まで消してしまうほどのもの。それらが結界だけによるものなのかヒイロの工作によるものなのかは定かではないが。
 歴史や伝承についても巫女姫に関することはほとんど残されていなかった。かつてこの地は巫女によって治められていたことが記されているだけで、そこからの詳細はわからない。
 もしかしたら何か…思ったが、やはりすべては謎とされていたわけか。
 訊きたいことは訊けたわけであるし、礼を言って後にすると、既に外は夜になっていた。
 昼は真夏日でも、夜となれば気温は下がり、比較的涼しくなっている。軽く風も吹き、星が瞬く空は、深い黒。
 魔界の空には星なんて無いから、同じ夜空なのにも関わらず、ここは別世界だと認識できる。
 けれども、この空も懐かしい気がするのは、この世界で生まれた故か。
 二つの世界の血を引くデュオ。その血の意味を考えたことなど今まで無かったが、今日は色々と考えさせられる。
 快い風を受けて歩きながら、今日一日にあったことを振り返ってみる。
 恋に苦しんだ巫女姫。その罪を一身に背負っているヒイロ。
 ヒイロは宝玉の番人となったことは《償い》と言った。
 では、ヒイロにとって《愛》とは何なのだろう?
 ふと、よぎった。
 ヒイロはもう呪術はどうでもよいらしかった。だが、リリーナに対しての考えはまだ聞いていない。
 素直な子どもの面をデュオに見せるヒイロは、デュオに何を見出したのだろう?
 星を見上げて自嘲した。
 どうしてこんなふうに思うのか。
 何故ヒイロのことをこんなに深く考えなければならないのか。
 異端である存在。表面は繕えても、孤独でしかなりえない現実。
 大人になりきれないまま止まってしまった、未熟な身体と精神。
 自らの手で終わらせることもできず、彷徨うだけの仮初めの生命。
  …似ているのだ、と感じた。
 同情だとか憐憫だとか、そんな陳腐で傲慢なものではなく。
 何なのだろう、この感覚は。一つだけわかるのは、これは魔族が持たない感情だということ。
 人間ゆえに持つ心。
 情熱、希望、焦燥、侮蔑、偏見、懺悔。そして、愛。
 自分は何なのだろう?
 どちらかと訊かれればデュオは魔族だと思ってきた。人間よりも魔族の血のほうが強力なため、寿命も外見も魔族そのものだ。ただ、心だけが不安定かもしれない。
 父は何故人間を愛したのだろう?
 母は何故父を愛したのだろう?
 どうして自分は生まれたのだろう?
 自分で自分がわからなくなる。
 空を星が横切っていく。そういえば人間には、流星が流れている間に願い事を3回言うと願いが叶う、などと言い伝えがあったか。
「願い事、ねぇ…」
 呟いて考える。自分の願いとは何なのか。
 そんなこと考えたこともなかった。不自由を感じたことなど無かったし、与えられた命令をこなしていけばそれで生活できた。生来の魔力と才能ですぐにのし上がっていき、身分や財産も程良い状態を得れた。
 何も問題なかったのだ。魔界でのエリートコースを走ってはきたが、デュオ自身には権力欲も向上心も特に無かったから。
 魔界はよかった。本当にデュオに適していた。この世界に来て、人間の中で生活するようになってからだ、調子が狂ってきたのは。
 要らないことばかり考えてしまう。知らなかった感情がどんどん現れてくる。
「願いは…」
 何なのだろう。わからない。それがどうしてこんなに苦しい?

(助けて)

「っ違う!」
 頭を振って思考を払う。こんなのは自分じゃない。助けを求めるなんてあり得ない。
 どうしてこんなことを考えてしまうのだろう。
 なんで苦しい? 胸の奥が痛い。穴が空いたような空虚感。
 知らなければ楽だったのに。どうして。
 自分が自分を嫌いになりそうだ。消えてしまう、このままじゃきっと。
 これが人間の心だとでも言うのだろうか? だとしたら人間はなんて不可解な精神構造をしているのだ。
 何も考えなければ楽なのに。

(…ああ、そうか)
 わかった。ヒイロのことを気にかけてしまう理由が。
 ヒイロもデュオと同じ、任務だけに生きてきた。なのに今はデュオを真っ直ぐに見つめている。
 あんなふうに他のすべてを捨てても良いと思うほどの《願い》を手に入れたヒイロが珍しくて、羨ましかったのだ。
 バカな奴だと軽蔑しながらも、心の何処かで、少し。
 なりたい自分。なりたくない自分。
 くだらない…。けれど幾ら努力しても思考がそれから離れなかった。

















 うるさい程に響き渡るセミの声がやけに耳に付く。まとわりつくような暑さもうっとうしい。
 苛ついた気持ちが加速されていくようで、デュオは必死に気分を抑えていた。
 魔界に報告に戻ったカトルだったが、上の命令は変わらない。元々、中断できるような任務ではない。何が何でも遂行しろ、という一言だけだ。加勢も何もなかった。
 いや、加勢するほどの力も残っていないのかもしれない。あの世界には。
 人々が自然や霊の力を忘れ、目に見えるものしか信じようとせず、心の在り方を失っていくと同時に、人間世界自体のバランスも危うくなっていった。病んでいくこの世界に引きずられ、隣接する魔界も危機に晒されている。
 デュオとカトルに与えられた任務は、その魔力と宝玉の霊力を用いて、魔界のバランスを修正することにあった。
 ヒイロ達に黙っていたのは、あくまで任務は魔界のためのものであり、この世界は対象に入っていないからだ。魔族は人間に干渉しない。それは言い換えれば、人間がどうなろうと知ったことではないということである。また、宝玉に二つの世界を救えるほどの霊力があるとはさすがに考えられなかった。
 だが、片方の世界が滅びればもう一方も崩壊する。
 デュオとカトルはヒイロ・トロワ・五飛の3人を再び家に呼び出して任務内容を話した。自分たちでやるしかない。手勢は利用する。
 魔界ではもう子どもが生まれない。長寿であるため気付くのが遅れたが、もはやカトルとデュオが最後に生まれた子だ。正確に云えばデュオのほうがカトルより僅かながら年下ではあるが。
 もしかしたら、父はこれを懸念して人間に干渉しようとしたのだろうかと、ふと思うこともあった。
 当然のごとく3人とも協力を申し出てくれた。自らの住む世界の危機に見て見ぬ振りをするような輩ではない。
「オレたちは何をすればいいんだ?」
 トロワの声に、カトルが皆を見渡す。
「トロワと五飛は僕のサポートをお願いします。霊的アイテムを渡しますので、それを持って僕の力を増幅させて下さい」
「わかった」
「いいだろう」
 二人が頷いたのを確認して、今度はデュオがヒイロに向き直る。
「ヒイロ、おまえはオレと一緒に宝玉にリンクする。あのお姫さんはおまえに執着しているからな。お姫さんを《説得》するんだ」
 ヒイロを求める念だけの彼女には、ヒイロの声しか届かない。
「…やってみよう」
 返事に少し間が空いたのは、珍しくも自信がないかららしい。あってもそれはそれで不安だが。
 ヒイロにとっては顔を合わせづらい相手でもあるのだろう。
「そんな様子でできるのか?」
 別に意地悪をしているわけではないが、五飛の物言いは少々厳しい。
「…あいつは元々思いこみが激しい性格で、他人の意見などろくに聞きはしない。無論オレの話もだ」
 何でも自分一人で決めていた。
 聞いてほしかった。そうすればあの最期も変わったかもしれないのに。
 巫女姫としての重責を背負い、聖地から出ることもできずに、束縛された生活を送る彼女に、せめてできるだけ望みを叶えてやろうと思ったのが、間違っていたのか。
 目を伏せかけたところで、肩に手を置かれる。
「気負うな。おまえが迷えばそれで失敗する。かつては親しく接していたんだろう?それを思い出せ」
 トロワだった。普段はデュオを巡って気の抜けない相手だが、それを外れるとなかなか面倒見がよい彼の人柄が見えてきて、ヒイロとしては更に対抗心を燃やしていたものだ。
 だが、今こうして緊張を解く気遣いを受けて、初めて感謝の気持ちが生まれてくる。
「ああ…」
 口にも表情にも表れはしなかったが。
「決行は次の新月の夜。それまでに各自で体調を整えておいてくれ。言う必要はないだろうけど、一応な」
 それぞれ帰っていく中、ヒイロが不意に振り返った。
「デュオ」
 その時のヒイロの表情をデュオは忘れなかった。
「大丈夫だ。決着を付けてみせるから…」
 今まで見たこともなかった、すべてを吹っ切ったような穏やかな優しい笑みを。










 月が姿を隠し、星もろくに見えず、ほぼ暗闇に近い夜で、神社を包む結界の中は光があった。結界そのものの効果と、その内にいる5人の人影の力で。
 祠の中にヒイロとデュオが座し、その祠の周囲を守るようにトロワ・カトル・五飛の三人が各々霊具や呪具を従えて立っている。
 魔族の二人はそれぞれ、魔界の法衣を身につけていた。人間界には無い技術で生成されたそれは二人の魔力を高めると同時に、強固な鎧ともなる。
 カトルはベージュを基調とした法衣で、デュオは黒を基調としている。黒衣を纏ったデュオの姿が一瞬いつかの魔族と重なって、ヒイロは打ち消すように頭を振った。
 デュオの詠唱が流れていくと同時に、カトルが掲げている鈴が鳴り出す。
 続いてトロワの持つ鏡が振動し、五飛の剣が響く。
 共鳴しあう三つの音が重なった瞬間、デュオとヒイロの意識は飛んだ。
 見たこともない、白だけの世界。足場さえない場所でヒイロは首を巡らせた。
「デュオ?何処だ」
 一緒に来たはずの彼は何処だろう?
 姿が見えないばかりか気配も感じられないデュオを探そうとヒイロが足を踏み出しかけた時だった。
『ヒイロ』
 白だけしかなかった世界が変わっていく。
 青い空の下の緑の森が周囲に現れる。見覚えのあるそれは、幼い頃の自分の遊び場だった所。
 そして。
 正面に少女が現れる。
 聞き覚えのある凛とした声。
 忘れられなかった姿は、ヒイロが呪術をかけられた頃のもので。
『私、ずっと貴方を待っていましたのよ』
 記憶の中にあるものと同じ笑顔で、リリーナは笑った。
「…リリーナ」
 ヒイロに名前を呼ばれたことが本当に嬉しいというように、彼女は笑みを深め、ゆっくりと歩み寄ってくる。
『やっと逢えたわね、ヒイロ。私はずっと貴方を見ていたのよ』
「…知っている」
 知っている。彼女の目をすっと感じていた。昔も、彼女が死んだ後も、その気配は消えなかった。
『もう何も不安がることはないわ。これからはずっと一緒にいられるのだから』
「おまえは…」
 掠れた声をどうとったのか。
 リリーナは手を持ち上げ、ヒイロの頬に触れる。
 何の体温も感じさせないそれを、ヒイロは反射的に振り払って逃れた。
 拒絶に目を見開く少女に、だが違うと首を振る。
 その姿は、年をとらない自分に合わせたのだろうか?
 魂が昇ってもこの地に留まった程の強い想い。
 彼女がこんなにヒイロを想っているなんて知らなかった。こんなにも、狂おしいほどに。
 だが、違う。
 これはリリーナじゃない。
 ましてや、自分が愛する存在では、ない。
『ヒイロ…どうして…』
 傷付いた表情。これも初めて見た。それでも動いた感情はごく僅かでしかない。
 後悔なら山のようにした。悔やんでも悔やみきれなかった。償えるならば、自らの人生も命も捨てようとさえ思った。
 だが、欲しいのは、彼女ではない。
 自分が求めていたのは彼女ではない。
 この心だけは、変えられない。







「っ!」
 流れてくる感情の波に、デュオは思わず額に手をやる。強すぎる声に頭痛がする。
 ヒイロとはぐれてしまって、何とか合流しようと探していたが、これはヒイロの心だ。
 押し寄せてくる想いを辿っていく。この先にヒイロがいる。リリーナもいるかもしれないが、避けていられない。
 近付いていく手応えと同時に、ヒイロの孤独と渇望を知る。
 彼はこんなにも、自分の何を求めているのだろう。
 傍にいるのは悪くなかった。向けられる純粋な慕情にも似た感情は、不快なものではなかった。
 自分はこんなふうに誰かを想うことはできるのだろうか?誰かを愛することはできるのだろうか?
 見えてくる。
 白の乙女と、黒髪の騎士の姿。
 こうして見ると、二人はひどく似ていた。外見というわけではない。その強い光を放つ瞳が。純粋な魂が。
「…ヒイロ」
 自然に呼んでいた。
 何故だろう。あまりにも間に入り込めない二人に、悔しくなった。二人だけでいることが許せなかった。
「デュオ」
 主人に会った犬のようにヒイロの表情が明るくなる。
 当然にもそれを見逃すリリーナではない。
 幼い頃から共にいた自分でさえも見たことのないヒイロの表情が、他者に向けられる。その衝撃は並大抵のものではなかった。
 そして悲しみは嫉妬と憎悪に変換される。
『よくも…!!』
 豊かな自然の風景が消えていき、暗雲と火花が渦を巻き出す。
 リリーナの憤怒はデュオに真っ直ぐ向けられていた。
『貴方さえいなければ…!』
 返して。私のヒイロを、返して。
 ずっと私を守ってくれた、ずっと私を支えてくれた人。ずっと傍にいて欲しいの。…何処にも、行かせやしない。
 私を置いて、なんて絶対に。
 貴方なんかに渡しはしない!
「やめろ、リリーナ! …姉上…!!」
「!!??」
 止めようとリリーナに駆け寄るヒイロの行動よりも何よりも、彼が発した言葉にデュオは耳を疑った。
 確かにヒイロは《姉上》と叫んだ。
 リリーナは実の弟を愛してしまったのだ。
 純潔でなければならない巫女姫。その彼女が想う相手は、巫女でなくとも許されない存在であった。
 だからこそ、ヒイロは応えられなかった。
 たった一人の身内。仕えるべき主。自らの命を捧げても構わないほど、大切だった。
 しかし、その根底にあるのは、幼い頃に手を引いてくれた姉に対する敬愛であって、恋愛ではなかった。
 決して。
 リリーナを一人の《女性》として見ることはなかった。
 リリーナに対し、デュオと逆方向にいたヒイロの手が届く寸前に、彼女から霊力は放出された。
 先程の驚愕のために一瞬反応が遅れたデュオに、それは直撃する。
「くっ!」
「デュオ!」
 全身を襲う電流のような衝撃と激痛に何とか耐える。
 咄嗟にかろうじて庇いはしたが、かなりのダメージを受けた。腕を血がつたい、口内に鉄の味が広がる。
(オレとしたことが…)
 足に力を入れて立ち、リリーナを睨み付けた。それが精一杯の威嚇であり、どんな状況でも相手に屈しないデュオのカラーだ。
 倒れないデュオにもう一度リリーナが攻撃しようと腕を上げる。
『ヒイロ、何を!』
 ヒイロが背後から彼女を羽交い締めしていた。
 もがくリリーナを抑え、ヒイロは瞑目する。
「…もう終わりにしましょう姉上。貴女は死んだ。消えるべきなのです。私もお供いたしますから…」
 もっと早くこうしていればよかった。
 あの魔族の謎の答えが知りたくて、生きることにもがいていたけれど。
 …いや、違う。自分は逃げていただけだった。罪の意識から。
 もう終わりにしようリリーナ。
 不老不死の呪術をかけられたオレでも、宝玉の力を持ってすればさすがに命は失われるだろう。
「還ろう。何も知らなかった、穏やかなあの頃に…」
 自分たちの運命も、苦痛も悲しみも知らず、二人で無邪気に遊んでいた時間へ。
「オレは一緒に逝くから…」
 ヒイロの行動が理解できず、それでも彼の手の上に自分の手を重ね、リリーナは温もりを全身で感じていた。
 一つ一つゆっくりとヒイロの言葉が染みていく。
 この腕に抱かれる時をどんなに思い焦がれたことか!
 体の向きを変え、腕をヒイロの首に回し、リリーナはたくましい胸に顔を埋めた。
 これだけのことを、ずっと待ち望んでいた。
 ああ、これでやっと…。
『ヒイロ…』
 抱き締めあった二人から光が発せられ、それに溶け込むように二人が光に変わっていく。
 茫然とそれを目にするデュオに、ヒイロは顔だけを向けて微笑んだ。
「デュオ…すまなかった。…さよなら……」
 さよなら。
 その言葉にデュオは怒りが沸いた。
「バカ!謝ったくらいで許されると思うなよ! おまえはそれで満足なのか?」
 リリーナと消えて、それで良いのか?
 生きたいんじゃなかったのか?
「オレは…」
 オレの望みは…。
「ヒイロ!!」
 デュオはありったけの声と手を伸ばす。ヒイロの顔ももう輪郭が見えない。
 弾かれるように、ヒイロはリリーナの手を外して振り返る。
 肉体は既に消え去ろうとしている。それでも、意識だけは必死に手を伸ばした。
「…デュオ!!」
 光がヒイロたちを飲み込むのと、互いの指先が触れ合うのは、同時だった。









「! 何だこの光はっ?」
「デュオ!ヒイロ!」
 祠から溢れんばかりの光が放たれていく。徐々に膨れ上がる霊力は周囲を圧して、解放されようとしていた。
 中の二人はどうなったのか。
 近付くどころか、目を開けてさえいられず、押される。
 結界ももはや役に立たなかった。
 色の判別もつかない光が意識をも飲んで、すべてが、真っ白になる。
 







 強烈な光はその瞬間、世界を包んだ。
 あまりに一瞬のことだったから、気付く者はいないだろう。ほんの一握りの力を持った者だけが知った。地上に生まれた、もう一つの形の無い月の存在を。
 月は地球の従属星。太陽の光を反射して輝くもの。しかし同時に地球に大きな影響をもたらし、潮の満ち欠けや生物の生体バランス等を操る。
 その意味が変わろうとしていた。












「…う…。どうなったんだ?」
 両手を支えに身体を起こす。ちょうど他の二人も気付いたところらしい。次々起き上がっていくのがまず目に入った。
「平気か?」
「別に負傷などはしていない」
 トロワに素っ気なく五飛が応え、まだぼんやりする頭を振る。
「っ宝玉は?」
 カトルの声に、視線が中央に集中する。
 祠のあった所は、白い靄か光か判別つかないものが漂っていて何も見えない。かろうじてわかるのは、祠の形は残っていないということ。
 中にいたデュオとヒイロは?宝玉はどうなったというのか?
 固唾を飲んだ時、ゆらゆらと小さく消えていく白い影から、人影が浮かび上がった。
「デュオ!」
 現れたのはデュオだった。デュオ一人だけだった。
 他にはそこに何も無かった。無くなっていたのである。
 ふらりと倒れ込むデュオを、反射的にトロワは受け止めた。
「デュオ!しっかり!」
 カトルの声にも反応しない。衰弱しきった様子が見てとれた。
「ヒイロは…?」
 五飛はそこまでしか言わなかった。見ればわかることだ。帰ってきたのはデュオ一人。ヒイロはおそらく、光の中に消えたのだろう。
 巫女姫や宝玉と共に消えた。それが彼の望んでのことなのか、犠牲となったのかは、わからないけれど。
「…ヒイロは…ここにいるよ…」
 いつの間にか目を覚ましたデュオが弱い声を出した。気怠そうな腕を動かし、自身の胸をゆっくりと撫でる。
「デュオ? っ! 君は…!」
 驚くカトルに微笑む。
 あの瞬間、デュオの元に飛び込んできたヒイロを、デュオは迷うことなく受け入れた。ヒイロの身体は消滅したが、デュオは自らの身体に術をかけ、その魂を守ったのである。
 間に合わないと思った。だが、一瞬とも呼べないような僅かな感覚だったが、細い手がヒイロの背を押した気がした。その手の先にいたのは、あの柔らかく微笑んだ少女は、リリーナの《心》だったのかもしれない。
 とうの昔に成仏している彼女の魂が現れるなんて、あり得ないけれど。
 でも、リリーナは醜い感情だけしか持たない人間ではなかったのだと、信じたい。
 だってほら。世界が変わっている。
 光が世界を包んだと同時に、その霊力が世界中に行き渡った。世界が、バランスを取り戻したのだ。
 これは一時的なもので、また均衡が崩れるかもしれない。だが目下の所魔界も救われたわけで、デュオとカトルの任務も完了したと云える。
「…助かった…のか?」
 空を見上げる五飛の呟きを、誰ともなしに肯定する。空は見慣れたものであるはずなのに、今までとは違って見えた。
 心地よい静寂が流れる。
 不意にそれがトロワの息を呑む声に破られた。
「デュオ、おまえ…」
「魔力、使い切っちまったらしいや。人間になっちゃったな」
 法衣のために気付きにくいが、デュオを抱き支えているトロワには一目瞭然だった。細いデュオの身体は女性特有のラインになっている。声も注意してみれば少し高くなっている。
 デュオが魔族と人間の混血で良かったと、この場合言うべきなのだろうか。魔力を限界まで使い果たしたデュオは人間と化していた。そうなったからには性別ができるわけだが、ヒイロの魂を宿らせたために女性体になっていたのである。
「…ヒイロを妊娠したということなのか?」
「ううん。そうじゃないみたいだけど…」
 カトルが透視するが、別に妊娠などの気配は見られない。第一、デュオが示しているのは腹部ではなく、胸部だった。
「ヒイロはここに眠ってるんだよ。いつか新たな生命と体を得て、今度こそ自分らしく生きて幸福を掴むために、生まれる日まで…」
 いわば、デュオの体を使って、ヒイロは転生するのだ。それがいつの日かは定かではないが、デュオの子として。
 デュオも正直抵抗がないわけじゃない。だが何故だろう。ヒイロが内にいるというのは、そう悪い感覚じゃない。
 あれほど自分を求めてくれたヒイロに、何かしてやりたかった。それが叶ったのなら文句もない。
 ヒイロが手を伸ばしてくれた時は嬉しかった。生きたいと願ってくれて、歓喜した。それがどうしてなのかはまだわからないけれど、徐々にわかっていくだろう。
 デュオは人間となった。魔族には理解できなかったことも、やがて理解できるだろう。
 愛しい、とはこんな気持ちなのだろうか?
 不思議なほど穏やかな気分だった。




















 独特の薬臭が馴染んだ白い廊下の空気を壊さぬよう、青年は足を進めていた。
 長い黒髪をひとまとめに束ねた青年は、ある1室の前に立ち、静かにノックをする。
「どうぞ」
 返された声にドアを開けると、そこには穏やかに微笑む女性と、その夫がいた。
「五飛」
 ベッド上に腰掛けている女性に五飛は苦笑しながら近づく。初対面の印象が強く残っているせいか、いまだに《彼女》に慣れない節があるのだが、それを何とか抑えることに成功するくらいには自分も成長したらしい。
「経過はどうだ?」
「順調だとさ」
 元気で〜す、とにこやかに笑うデュオには確かに不調は見あたらない。
「まぁおまえらが不調になるほうが想像できんがな」
「わ。ひで〜」
 笑って返しながら、デュオは腕の中の存在を見つめる。
「ガキ生むのって大変だったんだぜ。オレ死ぬかと思ったくらいなんだから」
 白い清潔な布にくるまれた存在は、数日前に生を受けたばかりの赤ん坊。
 こぼれ落ちそうな蒼い瞳で五飛を見つめる嬰児には、かつての《彼》の面影は何処にも見受けられなかった。
「しかしこれがヒイロとは何度見ても信じられん」
「ま、あいつは目つき悪かったしー? その子は可愛いだろ、オレに似て」
「そういう問題でもないと思うぞ、デュオ」
 正直な感想を言えば、赤子の両親は笑みを深める。
 《母》として、腹を痛めながら無事に生んだ身として、デュオはとても満足そうだ。
 生まれた《ヒイロ》は、両親の容貌を受け継いでいる。美形の親から生まれただけに、将来美男子に成長することはほぼ確実だろう。だが、それは元の《ヒイロ》の容姿ではない。魂は同じでも、肉体は違うのだ。
 転生とはそういう意味だ。
 それでも、この子は確かに《ヒイロ》なのだ。
 五飛はベッド脇の窓に寄り添い立つ《父親》に顔を向ける。
「トロワ。おまえは本当にこれで良いのか?」
「『これで』とは?」
 真剣な問いを軽く返され、さすがに怒りがよぎった。
「…おい」
「冗談だ。魂が誰であろうとオレとデュオの子に違いないだろう? 何の問題も無い。オレの守るべき家族だ」
「そうか…。なら良い」
 トロワが偏見やそういった差別感を持っていないことは自分もよく知っている。だが、かつては恋敵とも呼べる存在だった人物を、我が子とするのは結構な覚悟だろう。
 そう思った故の問いかけであったが、危惧は無駄だったようだ。
 トロワなら大丈夫だ。
 ならばもう自分に言うことはない。

 ニコニコと2人を見ていたデュオが、ふと俯く。
「…2人ともありがとな。オレさ、人間になって、どうすればいいかわからなかった。2人が家に迎え入れてくれて…本当に感謝してる」
 魔族からいきなり人間になったデュオは、まず衣食住の確保から問題だった。何せ今まではずっと魔力で誤魔化していたことが通用しなくなったのだ。人間として生きるからには、人間社会のルールに従わなくてはならない。
 デュオ自身としてはどうとでもするつもりだったようだが、トロワと五飛の2人が説得して半ば強引に連れ帰ったのだ。決して世間知らずではないデュオなら1人でも生きていけるようには思えたのだが、少女を1人放っておくことは人間として許せなかった。
 トロワたちの家族は、見ず知らずのデュオを温かく迎えた。彼らはデュオの素性をきちんと聴いたわけではないが、何か感じたのだろう。元来霊能者の家系である彼らは深く追求することなくデュオを家族の1員とした。
 トロワがデュオにプロポーズした時さえ、喜びこそすれ、反対など一切しなかった。
 温かい家庭だと、デュオは嬉しく思っている。
「ふん。礼を言われる覚えはない」
「オレたちは自分のしたいようにしただけだ」
 当の本人達は、昔と変わらずに接し続ける。それもまた嬉しいことだ。
「カトルには報せたのか?」
「いや、オレにはもうそんな力は無いから」
 五飛の言葉に、故郷に思いを馳せる。
 もう二度と帰ることはない。寂しさはないが、懐かしいとは思う。
「けどカトルのほうでこっちを伺ってくれてたみたいでさ、1回見舞いに来たよ。あいつ今魔王だからなー、忙しいんだろ」
「よりによって魔王とは…」
 一時とはいえ知人であった人物が魔族の頂点にいる。五飛としては頭を抱えたい事項だった。
「魔界も変わったからな。やることは山程あるんじゃないか?」
 そんな五飛の心情を理解しつつもからかうのがデュオだ。
 その様子を和やかに見ながら、トロワは窓の外に広がる風景に目を向けた。
「…この世界は表面上は何も変わってないのにな…」
 呟きは愛する妻に受け取られ。
「これからゆっくり動いていくさ。きっと。なぁヒイロ…」
 穏やかな眠りに誘われていく息子を撫でるデュオは、聖母のような笑みを浮かべる。
 きっと。
 そうして、未来へ続いていく、祈り。

 優しい風が吹く世界を、太陽は暖かく照らしていた。








finale













【真夜中の太陽】から。
この本はイメージカラーとして、前編を青・外伝を緑・後編を赤にしてました。それぞれ、デュオ(氷)・トロワ(樹)・ヒイロ(炎)のイメージです。

わかりにくい展開でスミマセン。無謀すぎた気は今でもします(殴)。
最後の方ですが、ヒイロの肉体は宝玉と共に消滅し、魂はデュオの体内で眠るといった状態だったんです。ラストでヒイロはデュオの子として転生。第2の人生の始まりです。けれど《ヒイロ》としての記憶はほとんど残ってません。性格は、今後の育て方如何かも?
1×2としてはどうかというラストかもしれませんが、自分的にはヒイロは幸福になれたんじゃないかと思います。だって最初の構想では、ヒイロは魂もすべて消滅して想いだけが残るってラストでしたから。
最後に笑ったのはトロワって感じですが、将来は父子による母争奪戦が日夜繰り広げられることでしょう。わぁ〜楽しそうv(殺)


 





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