「アル。早く起きないと遅刻するわよ」
        「はーい」
         アルと呼ばれた少年は、ランドセルを持って母の待つ階下に下りた。
         慌ててトーストを口に詰め込み、家を出る。
        「いってきまーす!」
         いつものように走り出すと、隣の家の扉を閉める青年が見えた。
        「おはよう!」
         元気いっぱいに手を振って挨拶する。
         静かに振り向く青年は、濃い色の髪と碧い瞳をしていた。
         名前も知らない隣人。学生だということしかわからない。
         だが、アルはこの青年に何故か好感を持っていた。
         無口で無表情で無愛想で、普通からすれば取っ付きにくい相手としか言いようがないのに。
         子どもが持つ、怖いもの知らずな好奇心なのかもしれない。
         どうであるにしろ、アルは彼が持つ独特の雰囲気が気に入っていた。
        「…おはよう」
         大きな声ではないが、はっきりと返される挨拶。
         それが何だか気持ちよくて、アルは足取りも軽く学校へと向かった。
 
 
 
        (どうしよう…)
         アルは泥だらけの自分の服をつまみ、何度目かのため息を吐いた。
         ちょっとふざけただけだったのだ。ついつい遊びに夢中になって、気がついたらこの始末。
         口うるさい母の顔が浮かぶ。ちょっと汚しただけでも怒る母が、この状態を見ればどんなこ
        とになるか、考えただけで気が重くなる。
         帰りたくないのだが、帰らなければならない。自然に歩く速度も遅くなる。
        「あーあ。また怒られるのか…」
        「どうした?」
         ふいにかけられた声に顔を上げると、あの青年の姿があった。
        「あ…」
        「泥だらけだな。何かスポーツでもしたか?それともケンカか?」
         少しだけ口元を緩めて微笑む青年に、アルは思わずしがみついていた。
        「ねえ。助けてよ」
 
 
 
         アルはきょろきょろと室内を見回した。
         事情を聞いた青年はアルを自宅に連れていってくれた。
         今アルの服は青年が洗濯機にかけてくれており、アル自身は下着姿でソファに座っている。
         青年の家に入るのは初めてだった。
         思いのほか整頓された部屋は物が少なく、淋しい感じがする。
         けれど青年には合っているように思える。掃除が行き届いた内装は、そうセンスが悪いもの
        ではない。
        「怪我をしているな」
         青年がアルの左腕を取って、持ってきた治療セットを開く。
        「あ、本当だ」
         長袖の下に隠れていたためアル自身も気付いてなかったが、小さな擦り傷があった。
         馴れているのか、青年の手際はよい。
        「あの…ありがとう。洗濯とかしてもらっちゃって…」
        「子どもはそれくらい元気でいい」
        「何だよ、それ。バカにしてるだろ」
         子ども扱いされたことに頬を膨らませる。
         それを見て微笑む青年の表情が意外で、アルは思わず目を止めた。
         そういえば青年とこんなふうに話すのは初めてなのだ。いつも会ったら挨拶を交わすくらい
        で、会話などしたこともなかった。
         彼が越してきたのは半年ほど前だが、その間に他に話した覚えはない。
        「あのさ。お兄ちゃんの名前、何てゆーの?」
         アルが何気なく聴いた言葉に、青年は少し目を見開く。
        (あれ?)
         僅かな変化だったが、アルは意外な気がした。躊躇したように見えたのだ。
         それを証明するかのように、青年は少し考えた後にようやく名を発した。
        「…ヒイロ。ヒイロ・ユイ」
        「ふーん」 
         言いにくいところをみると余程変な名前なのかと思ったが案外そうでもない。
         期待が外れたような、ホッとしたような、妙な気分になる。
         そうこうしているうちに手当てはすんだ。
        「終わったぞ」
        「あ、ありがとう」
         治療セットを片付けるために奥に向かう後ろ姿に再び訊いてみる。
         訊きたいことは幾らでもあるのだ。とりあえず、次は…。
        「ヒイロって、友達いないの?」
         アルの質問の意味がわからなかったのか、ヒイロが訝しげに振り返る。
        「だって、この家に誰かが訊ねてきたの、見たことないもん。いないの?」
         あまりに直接的なことを訊くアルに、悪びれた様子は微塵もない。
         呆れたようにヒイロは深く息を吐く。
        「…心配せずともちゃんといる。ただここに訪れることはあまりない。それだけだ」
        「じゃ、好きな人は?」
         無視しようとしたらしかったが、あまりに詰め寄るアルに根負けしたヒイロはぼそりと言う。
        「…いる」
        「どんな人? 美人?」
        「さあな」
        「さあなって…、ちゃんと答えてよー」
        「ほら、洗濯できたぞ。とっとと帰れ」
         同時に服を頭に投げつけられた。
         視界を塞ぐ服を避けてヒイロを見ると、彼はパソコンに向かっている。
         ちらりと見えた顔が心なしか赤くなっている。
         柄にもなく照れているのだとわかり、思わず笑ってしまう。
         ヒイロは振り向かない。
         アルにもだんだんとわかってきた。彼は実は結構感情豊かで根は優しい。ただそれを表に出
        すのが苦手なだけだ。
        「美人なんだろうなー」
        「早く帰らないと親が心配するぞ」
         わざと大きな声でからかうアルに、苛つくように繰り返すヒイロ。
         外を見ると薄暗くなってきていた。確かにそろそろ帰らないと母が怒るだろう。
        「うん。じゃ、もう帰るよ。ありがとう」 
         礼を言ってきれいになった服を着、玄関に向かう。
         扉を閉める前に、ふと思いついて室内に呼びかけた。
        「ヒイロ! また遊びにきてもいい?」
         ヒイロの返事はなかったけど、それは拒否ではないとアルにはわかった。
 
 
         その数日後、アルは自室の窓から隣の家に入っていく長い髪の人影を見る。
         ヒイロがどういう顔をして迎え入れたのか想像してしまって、何だか笑みが浮かんだ。
 
         
 
 
 
          後書き
             デュオの日だというのに、UPしたのがヒイロの話かい、オレ…(殴)。
             これは100と300のカウントゲットしたnagiのリクエスト「かっこいいヒイロ」を目指しました。
             うちのヒイロはデュオと一緒にいるとどうも情けなくなるので、わざと一人だけ。
             しかも第三者の視点にしました。ちょっとはかっこよくなったか?(苦笑)
             う〜ん、怖いほど優しいよな、ヒイロ…。だが彼女は喜びそうだ(笑)。
             アル少年はガンダムシリーズの「ポケットの中の戦争」の主人公から。好きなんです、あの作品。
             ストーリー的にはGWより好きかも。GWはキャラではまったし。
 
 
 
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