旅行記その6 最後の訪問国ドイツ

文明が行き着く先は・・・

 この日は4時に起床。朝食用としてもらったお弁当の紙袋の中には、パン・チーズ・ハムと、りんごがまるごと1個ころんと入っていた。その上機内食も出た。ローカル線のルフトハンザ航空の機内食の食器だけはアルミパックではなく、ひと昔前のちゃんとした陶器で金属製のナイフとフォークに布のナプキンである。ややっ!ちょっと待てよ?ひと昔前と違うかも知れない。だってゴミ問題先進国のドイツである。使い捨てを見直してこのスタイルをとっているに違いない。そうするとこれこそ今一番新しいスタイルということだ。ローカル線だからこそ、ほんとうのドイツらしさがうかがえた。

 ベルリンに着き、バスに乗って市内観光。バスから見えるベルリンは、あちこち工事中が多い。ガイドさんによれば、

「ベルリンでは、車が増えすぎて街路樹のためによくないので、今工事をして道路を狭くしているところです。

     ああ、文明の行き着く先が見えた。

 河川が蛇行していると決壊して洪水が起こると、人間は川をひたすらまっすぐにコンクリートで固めてきた。それが、最近見直されてきた。土砂の堆積や魚のためにもコンクリートで固めない蛇行した川に戻そうと。

 ダムだってそうだ。日本ではまだダムを建設中のところもあるが、アメリカではどんどん壊している。時代によって価値観が変わる。でも、人間のおごりを捨てて「自然」と共存することがいつの時代にも一番大切だと思う。

 

 ザクセンハウゼン

     強制収容所

 

愚かな繰り返し

 ここはベルリン郊外のザクセンハウゼンにある旧ナチスの強制収容所博物館である。ここの特徴は、終戦後、人々をナチスから解放した者が、次には自らの政敵を弾圧するために同じこの施設を利用したという忌まわしい点だ。

  1936年〜1945年 ザクセンハウゼン ユダヤ人強制収容所

  1945年〜1950年 ソビエト特別収容所(共産主義に敵対する者を収容)

 この日は風の強い寒い日だった。入口から収容所の門まで、寒風の中、長い道のりを歩いた。

 

 入口の門扉の鉄柵には「ARBEIT MACHT FREI」(働けば自由になる)

 という鉄の文字がはめ込んである。この言葉はすべての強制収容所の入口に書いてあるそうだ。これを信じる者がいただろうか。中には広い枯れた芝生の敷地が広がり、中央の一番奥には慰霊碑が高くそびえていた。この敷地を芝生に整地するために掘り起こしたら、無数の白骨が出てきたという。周囲は高い塀と鉄条網や高圧線で囲まれている。塀の近くには「どくろマークの立て札」があり、「何人もここから生きて出ることはできない」と書いてある。こちらは本当だ。

心が凍る、身体も凍る

 冷たい風に、みんな肩をすくめ、ストールで身体をくるんだり、えりを立てた。車椅子に乗っているだけの龍平君は特に寒そうで、歯をガチガチいわせているのが見えたので私の上着を彼の前側にかけてあげた。ここでは心が凍りつくからよけい寒いんだな。

 私は芝生の上の落ち葉と、Y字型の何かの木の種子を拾い上げ、そっと手帳にはさんだ。50年前、同じ木の葉を彼らは踏んで歩いたに違いない。過酷な労働のため、またガス室への絶望の道へと。

 今、落ち葉と種子は大切に私のアルバムに収まっている。たとえ、直接ユダヤ人の虐殺に関係なくても、実物ということは、時として写真以上に心に迫るものがある。

 ・・・・・・・・静かに目を閉じて葉っぱをさわっていると、私は、あの広場の寒風の中の孤独なユダヤ人になる・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

純粋な少年たちよ、ここを忘れないで!

 上の写真のバラックの中は、今は博物館と映画館に改造されている。私たちも入ろうと、前の集団が出てくるのを待っていた。

 と、突然ドアが開き、たくさんの人が出てきた。見ると、まぶしそうに出てきた人々は高校生ぐらいの少年ばかりで、みんな目を潤ませているではないか!

 ジンときて私も目をそらせた。その光景は映画をみる前から私たちを感動させた。ドイツやヨーロッパの学生は、日本の子どもが広島に修学旅行に行くように、必ずここをおとずれるようだ。(広島への修学旅行が減ってきているのは悲しい。)

映画「シンドラーズリスト」

 「シンドラーズリスト」は本でも読んだ。本の方がスケールも大きくおもしろかったが、映画の最後のシーンは忘れがたい。本当のシンドラー氏の墓に赤いバラが一本供えられている。そこへシンドラーに救われ、今も生きている実在の人と、彼を映画の中で演じた俳優がペアーでそれぞれ花を供えていく。その列は長い。実在の人はかなり高齢だ。この映画の最後は記録映画でもあったのだ。

 映画「シンドラーズリスト」についての感想をドイツのガイドさんにたずねると、「ドイツ人は、『私たちが先に、この映画をつくりたかった。』と、みんななげいていますよ。」

 

ドイツ料理でさよならパーティー

 

 最後の夜、ドイツ料理を前に全員が旅の感想を発表することになった。最後の夜はみんな精一杯おめかしをしている。悦子さんはいつも黒で統一していてすてきだ。悦子さんと同室のYさんもシックなブラウス姿、おやっ、たみさんもベージュのスーツでバシッと決めているではないか。

 順番にひとりずつの感想が始まった。龍平君はここで、各国の空港や観光地で車椅子を利用することで、福祉の度合いを比較してそれを肌で実感した、と言う。おお、そうだったのか。確かに血友病で関節に血がたまり、足が痛かったのではあるが・・・。

 どの国でも希望すると当たり前のように車椅子が用意されたが、とくにスウェーデンは車椅子を押す係員も手際よく、あっというまにゲートまで運んでくれた、さすがだ、という。

 私の番、つい口がすべって?本音をいっぱい喋っちゃった!

「ほんとうに充実した旅でした。オランダの飾り窓の女は衝撃的で、いろんなことを考えさせられました。私自身のことを言えば、私が『性』と『生』を大切に生きるようになったのは、子どもを産んでからでしょうか。食事中で申し訳ありませんが、生理用ショーツなど独身の時は『女のたしなみ』とか人に言われて、物陰に何かで覆って干したりしたものです。

 でも、子どもを産んでからは自分の『性』に誇りをもつようになりました。人口の半分は女なのに、どうして女の性だけが、汚れた恥ずかしいもののように扱われたり、商品化されたりするんだろう、と疑問をもつようになりました。それからは生理用ショーツも市民権を得て、堂々と竿(さお)に干すようになりました。(もっとも最近のものは、それらしくなくなりましたね)

 今は従軍慰安婦問題や、夫婦別姓問題をライフワークとして取り組み、ひとりで運動しています。ホームページも作成中で、そのうち田舎町から世界に向けて発信したいなと思っています。

 今回の旅でちょっと気になったのは、『人権の旅』なのに空港で、心臓が悪くて早く歩けずにいる人にみんな気づかずに置き去りにしてしまいそうになったことです。また早足での観光巡りは、足の悪い人が遅れがちになりました。少々予定を変更してでも、一番ゆっくりな人に歩調を合わせる旅だったらよかったなと思いました。

 また『オランダの飾り窓の女』についての見解は、Y団長と私は少し違いました。でもそれが私のアイデンティティーだと思いますから、『一番最初に自分が感じたこと』を大切にしたいと思います。」

 みんな、団長の方を向き、「よかった、よかった」というだけの感想の中で私はちょっと批判的なことも言った(ここでは省くが、かなり厳しいことも言ってしまった)。それなのに、すごい拍手がきた。隣りの席のほうから、「よくぞ言ってくれた」というささやきも聞こえた。無所属で権力のしがらみのない私は、なんでも思うことが言えて、ふふふ幸せぇ〜。

 なんと、ずばずば言ったおかげで、この後、川田悦子さんと親しくなれ、副編集長からはプレゼントまでもらい、悦子さんと同室のYさんという素敵な人と旅行後、文通が始まった。教訓・・・口は幸いのもと!!

 次回 「旅の余談 お宝プレイガール・プレイボーイ」                                 をお楽しみに!

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