足利義詮


<二代将軍>
 義詮(よしあきら)は、正平十三年(延文三年、1358年)十二月八日に北朝から征夷大将軍の宣下を受けた。この時、満二十八歳だった。
 正平十年(文和四年、1355年)に義詮は父・尊氏と共に南朝に奪われた京都を取り戻したが、山陰を中心に中国地方に勢力を持つ山名時氏が南朝に属していたし、九州でも征西将軍懐良親王が勢威をふるっていた。
 正平十六年(康安元年年、1361年)義詮の執事・細川清氏が京都を出奔して、南朝に属した。この年十二月八日、清氏と楠木正儀らが京都に攻め込み、義詮は後光厳上皇を奉じて近江へ逃れた。また、この時義詮の嫡子・春王(後の義満、四歳)は家臣に連れられて播磨守護赤松則祐の白旗城へ避難した。
 十二月二十六日には、義詮は南朝軍を追い京都を奪回する。清氏は四国に逃れて再起をはかったが、細川頼之によって攻められ敗死した。
 義詮は新たに執事として斯波高経(旧直義党)の子、義将(よしまさ、よしゆき)を起用して旧直義党との講和を画策した。この結果、正平十八年(貞治二年、1363年)に山名時氏、大内弘世と講和することができた。山名、大内は幕府に対して降伏の形をとったが、彼等の領土を削減することはできず、実際は幕府が屈したも同然だった。
 山名時氏の降伏で、彼に保護されていた足利直冬は再起が不可能になって、これ以後姿を消した。幕府もなんとか観応以来の擾乱を終わらせることができた。
 正平二十一年(貞治五年、1366年)斯波義将が叛逆者として京都を追放された。義将が禅宗を保護し比叡山延暦寺や興福寺に代表される旧仏教寺院に圧力をかけ、また武士家役の徴収率を引き上げ幕府の集権化を行ったため、各層に反感を買ったのが原因である。義詮は讃岐・阿波守護の細川頼之を執事に任命した。この細川頼之から将軍執事は幕府の管領と呼ばれるようになる。これは幕府の体制がなんとか整ったことと、頼之が幼少の義満に代わって政務を行ったためだ。
 翌正平二十二年(貞治六年、1367年)十二月七日、幕政と嫡子・義満(十歳)を頼之にたくして義詮は病死した。享年三十八歳。

2000.2.28

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