辻原鼎文先生のお言葉
墨の出具合を見るために点を打つと米点が出来、字を書き終わって筆を紙になすると
しゅんさつ(南画の画法)となります。
故に南画は文人の余技と言われる訳であります。私は学問もなく才能もありません、
只千二百年の伝統を墨守するだけが念願でして、今まで四十五年の間に何度も
本を読むことも書画をかくこともやめようかと思いましたが生来好きなことなので、
どうしても廃められません。この頃もの入れの中から山水画が二十枚ばかり
出ましたので友人に見せましたら是非発表してはと勧められ今回丸善書店の厚意
によって筆を加えたり新しく画き足して皆様のお目にかけることにいたしました。
御清鑑下さい
南画について(山水図)
南宗画は如何なる絵かということは筆舌で表わすことは甚だ困難で、
それを画なり又、それを画くところを見れば直ちに了解できる。
しかしそれを真に知ることは感覚の問題で玄人として一生をかけても解らない
者も少なくない。
南画の祖は唐の王維と称され、これを完成した者は南唐の僧巨然である。
巨然は董源の弟子で世に董巨と称せらる。
巨然ー元の四大家ー明の四大家ー清初の六大家
元の四大家ー黄子久・呉鎮・王蒙・倪雲林
明の四大家ー趙子昂・沈石田・文徴明・董其昌・他に文伯仁
清初の六大家ー王時敏・王鑑・王麓台・王石谷・呉歴・南田
其の他の名家ー黄鼎・弘仁・粛尺木・高簡・*賢・道済・八大山人等
清末の名家ー援鉄生ー顧若波ー陸灰等そしてこの顧陸の二家を以って
中華の南宗山水画は終わったるは日本画における栖鳳・春挙・玉堂の如し
又、印人で画を善くしたものに呉譲之・張之謙・呉昌碩あり。
日本の南画
日本に南画の入りしは甚だ晩く粛尺木の太平山水冊が初めて伝来し祇園南海等が
これを学んだ。次いで芥子園画伝が入りこれが南画の聖典視された。
しかしこの書は******日本の山水画が発展せざりし原因である。
南画は文人画と言われ即ち文人の余技であるからには漢詩文の素養が必要である。
古来詩書画一致と言われ書が善くなくてはならぬ故にこの方面の努力も要す。
漢詩文を作ることは中々難事で、又其の方面の才がなくては困難であるが、
これを読むこと位は努力せねばならぬ。これを書巻の気を養うと言う。
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先師柚木玉邨翁は人品高潔詩書画三絶の人でその作品は気品が極めて高く、
山水四君子等可ならざるなく墨竹が殊に高名であったが、墨蘭の方が
更に優れており日本にも中華にも古今比肩する者がない。
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大骨法による画法
先師大橋廉堂翁、華人の山水画の無尽蔵に複雑なる画を作れるを見て
何か方法があることを思念され日夜苦心の末に大骨法の法を解明され、
ついに古人の域に達せられた。故に日本に初めて本当の山水画が出来たのである。
これ即ち王麓台の称する大分合の法である。
先生は菊地惺堂翁の二男で勤王の大儒大橋納庵先生の曾孫に当り、惺堂先生は
詩書画を善くし日本橋に東海銀行を創立、其の頭取となり名書画ことに中華の
名品の収蔵に富みしに大正八年の大震災の際、全部を鳥有に帰す、惜しむべし。
付記
最初の文は昭和48年丸善岡山支店画廊にての辻原鼎文個展目録より
南画については昭和56年倉敷市民会館での記念作品展での説明文より
一部抜粋
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南画入門