二度目に目覚めた時は、いくらか意識もはっきりしていた。しかし体のほうは、
相変わらず太いベルトで台に固定されたままで、一向に動かせない。
「気がついたかい? 蔵馬君」
いきなり、メガネをかけた老人が覗き込んでくる。
「おっと失礼。君のほうが私より年上だったね」
「………。!」
蔵馬はハッとした。声が出ない。
「まだ薬が効いているようだな。声がだせないだろう? ここは東京にある研究所
だよ。君は公園の芝生の上に倒れていたのでね。運んで来たのだよ」
(幽助たちは? 魔界は? どうなったんだ?)
蔵馬は今すぐにでも魔界へ行きたかった。固定ベルトがもどかしい。
この研究所の科学者らしい、白衣を着た男女が三人、蔵馬に近づいてきた。
「身体中に重傷を負っている割には、元気そうですわね」
「大した回復力だ。手当てなどいっさいしておらんのにな」
「しかし、まだ生きている妖怪がいたとはのう。悪運の強いヤツじゃわい」
三人とも、珍しそうにジロジロと蔵馬を観察している。初めのメガネの老人が蔵馬
の様子に気付いたのか、メガネをかけ直しながらいった。
「おや、仲間のことが気になるかね?」
科学者の中で一番若い壮年の男が老人の後を続ける。
「教えてやろうか? 妖怪どもは皆、消滅した。戒次元砲によって、魔界ごと消え
去ったのだ」
「>」
「何じゃと! 魔界が無かったじゃと? バカを言うな!」
コエンマは、魔界の様子を見てきたぼたんを怒鳴りつけた。
「…あ…あたしだって、信じたくないですよ。これが夢だったら、どんなに………
…うわーん! 幽助ー! みんなー! …うっう……」
床に突っ伏して泣くぼたんを見て、コエンマも真実を理解した。
「そんな……」
コエンマは絶句した。ただの夢だと思いたかった。現実には、皆はちゃんと生きて
いるのだと信じたかった。
「フフフ、ハハハハ! 思い知ったか、守銭奴め! ハハハハ」
楼牙の生き残った部下が、高らかに笑い出した。
「そやつを早くひったてろ! 裁判は後回しじゃ!」
そう怒鳴った後、コエンマは俯いて呟いた。
「何が【真の平和】じゃ。幽助たちのおかげで、妖怪たちの犯罪も無くなったという
のに。それに、もともと悪かったのは、そういう霊界の思い上がりだと何故理解で
きんかったのじゃ。……くそっ。ワシは…ワシは…何もできんかった、何も………」
これほど自分の無力さを思い知ったことはない。これほど自分を憎んだことはない。
コエンマの握り締めた拳から、血が滴り落ちていた。彼は泣いていた。幽助たちへ
のすまなさと、自分への怒りで。
「…コエンマ様…」
周囲の者は皆、沈痛な面持ちで主を見ていた。
蔵馬は茫然としていた。まるで悪い冗談のような、男の言葉が頭の中をグルグル
回っている。妖怪もろとも魔界を消し去った…。幽助がいたら、嘘だと大笑いした
ことだろう。だが、身体中に感じる痛みと傷が、蔵馬を現実へと引き戻した。少な
くとも、この怪我は嘘ではない。そして魔界のほうに見えた、あの大きな爆発も…。
「私たちは直接見ることはできなかったけれど、盛大な花火だったようですわよ。
おほほほ」
女が甲高い声で笑った。
(では、あの時の強烈な閃光は…!)
あれは、魔界の最期の輝きだったのだ。あの時、魔界は永久に消え去ってしまった
のだ。そしてその魔界にいたすべての妖怪も…。
「君だけ生き残ったということに免じて、いいものを見せてあげよう」
壁に取り付けられた大きなモニターに、ある映像が映った。
(異次元砲? いや違う。あれは…)
「これが、我々の科学の結晶とも言うべき、【戒次元砲】だよ。霊下院p異次元砲を
元に、我々が開発したものでね。その威力は君も知ってのとおり…」
「まさに最終兵器と言える代物よ。霊界の知識は大したものですわ」
「異次元砲は地球の気をエネルギー現としていたが、これはもっと強力なものを使用
した。…これじゃよ」
画面が映り変わる。
そして蔵馬が見たものは。
…おびただしい数の人間の死体。
数えきれないほどの、生命を抜き取られた抜け殻が、巨大な闇の中に、山と積まれ
ていた。そのすべてが、恐怖と絶望に満ちた表情で息絶えている。
それは、まさに地獄絵図だった。暗く深い闇の底から、生け贄にされた人達のすす
り泣く声が響いてくるようだ。
「そう。人間だ」
蔵馬の体に戦慄が走った。
「生物の、恨み・憎しみ・悲しみ…。そういった負の感情のエネルギーは、とてつ
もない力を持っている。その中でも、人間の感情は群を抜く。それで、大量の人間を
集めたんじゃよ。警察やマスコミはどうとでも押さえられる」
「もっとも、霊界の楼牙たちは、このことは知らないでしょうね」
「楼牙たちはただ我々に、自分たちの持つ全ての知識を与えたにすぎん。まあ、こ
ちらとしては、ありがたかったがな。おかげで我々の科学は更に進歩した」
そう言いながら科学者たちは誇らしげな下卑た笑いを見せた。
(狂っている…)
楼牙たちは、自分たちの正義を守るために妖怪を抹消しようとした。
だが、この科学者たちはそんなものとは違う。妖怪も人間も、ただの実験材料と
しか思っていない。彼らにとって、魔界を消滅させ、妖怪を根底から消し去るなど、
どうでもよかったのだ。自分たちの発明品の威力を試すのに、魔界が都合よかった
というだけだったのだ。
笑い声が更に高くなり、部屋中に響き渡る。
「さてと、君は、さらなる科学の発展のために協力してもらおうか」
男が指をパチッと鳴らすと、天井からゆっくりと機械が降りてきた。女が蔵馬の顎を
軽くつまむ。
「貴方は、人間に憑依したという、きわめて珍しいタイプだそうですわね。本当の姿
は妖狐でしたかしら。貴方みたいなタイプの妖怪を捕らえたのは初めてなの。いい
データが得られそう…」
(…こいつらが皆を殺したんだ…)
「おやおや、怖い顔だね。だが、今の君には、にらむことぐらいしかできないんだっ
たね」
「麻酔をかけるから、おとなしくしていることだな」
蔵馬の眼が金色に光り始めた。周囲のあざ笑う声は止もうとしない。蔵馬の中の
何かが消え去ろうとしていた。
鈍く光る注射針が、ゆっくりと蔵馬に近づいてくる。
「所詮、人間も妖怪も、大いなる研究の前では単なる【検体】にすぎん」
(…許せない!)
老人の言葉が、蔵馬のかろうじて繋がっていた理性の糸を完璧に切った。
蔵馬の怒りが頂点に達した。
ものすごい轟音とともに、科学者たちは壁に叩きつけられた。周囲にいた所員たち
もろとも、吹き飛ばされた衝撃で、その血しぶきをまき散らす。
床に倒れ込んだ数人の生存者は、霞む目を何とか開いて、部屋の中心を見る。
立ちこめる煙の中に、銀色に輝く魔獣が立っていた。金色に揺れる瞳には、憤怒の
炎がちらつき、それをいっそう美しく引き立てている。
「…………」
生存者は声も出せずに、ただ茫然と見つめていた。恐怖も驚きもなく、大きな畏怖
の念だけを感じていた。狂人は、この時初めて、自分の愚かな罪を全部思い知った。
が、既に何もかも手遅れだった。
騒ぎを聞きつけて、警備員たちや所員たちが焦って駆けつけてきた。
「おい! 何があった…」
所員たちは、その目を合わせただけで殺されそうな凄まじい形相におののき震え
ながら、無言で立っているそれを見つめた。まるで吸い付けられたかのように、魔
獣から目が離せなかった。
「見つけたぞぉ、蔵馬〜」
背後から聞こえてきた声で我に返った所員たちが振り返ると、傷だらけの霊界人の
狂人のようにぎらついた目があった。
「よくも楼牙様を〜。殺してやるぅー!」
蔵馬は霊界人が撃ってきた霊気を軽くかわすと同時に、薔薇棘鞭刃で霊界人を真っ
二つに切り裂いた。
「ぎゃああああ!」
その上半身が宙を舞い、蔵馬の足元に落ちた。飛び散った血が、顔に少しかかった
が、今の蔵馬はそんなことは全く気にならなかった。ただ、自分の足元に転がってい
る敵を殺すことしか考えてなかった。
コエンマがその場にやっと着いた時、そこは辺り一面、血の海と化していた。元の
建物は見る影もなく崩壊している。
その中心に蔵馬が居た。
「……た…助けてくれ……頼……む……」
自分の足にしがみつこうとした人間を、蔵馬はちらりと一瞥する。
「よせ! 蔵馬、やめろっ!」
コエンマの叫びもむなしく、次の瞬間、人間は食人植物の餌となっていた。
蔵馬が気配に気付き、コエンマを見る。その姿には戦神のように鬼気迫るものがあ
り、コエンマは思わず、ゾッとした。
蔵馬はコエンマを見ても、全く表情を変えなかった。
「破壊してやる…何もかも…。みんな、殺してやる」
蔵馬がコエンマに襲いかかる。コエンマは咄嗟に身を翻した。
「蔵馬! ワシがわからんのか?」
蔵馬の拳をかろうじてかわす。瞬間、いきなり左袖が裂けた。妖気が通っている薔薇
の花弁が、コエンマの回りを漂っている。
「…蔵馬…」
限りない怒りと悲しみのために、蔵馬の目には何も映っていなかった。
「死ね」
蔵馬が冷淡に呟くと同時に、コエンマは懐から物を出し、蔵馬に突きつけた。
「蔵馬!もうやめろ! お前の気持ちはよくわかる! じゃが、人間を全て殺したと
ころで、幽助たちが喜ぶと思うのかっ!」
花弁の動きがピタッと止まる。それは、かつて暗黒武術会に出場したとき、皆で
撮った写真だった。皆、心から楽しそうに笑っている。
「あ…」
蔵馬の瞳に光が戻ってきた。コエンマが淋しそうに言う。
「…蔵馬…。復讐しても、また同じことが繰り返されるだけじゃ…」
「………」
蔵馬は写真に釘付けになっていた。優しく心地よい呼び声が頭に響く。
『蔵馬。蔵馬』
「…みんな…。…! コエンマ!魔界はどうなった? 幽助たちは無事なのか? どう
なんだ!」
蔵馬が、初めて見せる必死な形相でコエンマに詰め寄る。コエンマは黙って俯いてい
たが、不意に口を開いた。
「…行ってみるか? 蔵馬」
もしかしたら、あいつらのことだから生きていてくれているかもしれない。そう、
心の何処かで信じていた。いつものように笑って自分を迎えてくれるのではないか。
何もなかったように、陽気にはしゃいでいるのではないか、と。
だが、蔵馬の願いは無惨にも打ち砕かれた。
そこには、何も無かった。魔界があるはずの空間には、何も無かったのだ。
何も無いというのは正確ではないかもしれない。ただ、果てしない暗黒の空間が
広がっていた。何の生命も存在せず、何の音も、光すら無い、無の世界…。まるで
亜空間に大きな穴が開いたように、そこに暗闇があった。
蔵馬は声も出ず、立ちつくしていた。あまりのことに自分の目が信じられなかった。
もう、何が何だかわからなくなっていた。
「…こ、こんな…バカな! …隠れているんだろう? 幽助! 飛影! 黄泉!…」
やっと絞り出せた声で、蔵馬は仲間の名を呼んだ。知っている限りの妖怪の名を全て
叫んだ。…だが、その呼び声に応えてくれる者はいなかった。どんなに目をこすったり
しても、目の前の光景は変わらなかった。
「…>」
大きな絶望感と虚無感が身体にのしかかり、蔵馬は膝をついた。科学者たちの言って
いたことは、嘘ではなかったのだ。
「…嘘だ…。こんな…こんな……」
コエンマは自分の足元でうずくまって泣いている血塗れの狐をじっと見ていた。
美しい獣は、血を吐くような叫び声をあげて震えていた。
痛いほどの悲しみが伝わってくる。コエンマは唇を噛みしめ、肩を震わせていた。
ずっと長い間独りで生きてきて、やっと見つけた【仲間】。やっと見つけた自分の
【居場所】。やっと見つけた、かけがえのない【親友】…。
それが突然消え去ったのだ。【死】ではなく【消滅】。魂すら、無となってしまった。
もう二度と、出逢うことすらない……。
誰もいない空間に、二人の涙が散った。
「もう、落ち着いたか? 蔵馬」
霊界の自分の部屋で、コエンマは目の前に立っている蔵馬に尋ねた。
「…はい」
心が引きちぎれるような苦しさと悲しみはまだやまない。いや、これからも消える
ことはないだろう。
『あの頃は何でもねえような、ささいなことが楽しかったよな』
『自分の大切なものを、ずっと大切に思っていられるっていいですよね』
前に幽助と交わしたセリフが思い出される。あの時何気なく言った言葉が、いやに
心に染み通ってくる。
コエンマは軽く俯いてから再び顔を上げ、静かに言った。
「少し休むがいい。何もかも忘れて…。そして、争いも苦しみも存在しない、平和な
世界に生まれ変わるがいい…。…のう、蔵馬…」
「…はい」
蔵馬が去った後、コエンマは霊界の主だった者達を集めた。
「コエンマ様。人間界バージョンのお姿になられたりして、どうなさったんですか?」
不思議がる部下たちに、コエンマは威厳を持って語った。
「皆! 心して聞いてくれ。…先日、反対派の者達が人間と組んで魔界を消滅させた
ことは、誰もが知っておるな? そして、魔界・霊界・人間界の三つの世界で、それ
ぞれバランスがつり合っていたことは、知っている者もおるだろう。…大体予想はつ
いたかもしれんが、魔界が消滅したことによって、このバランスが崩れた。おそらく
このままでは、他の二つの世界も消滅、あるいは多大な被害がでるじゃろう。そこで
ワシは、ワシの霊気全てを用いて、次元間の歪みを修正することを決心した」
皆がどよめきだす。
「コエンマ様! 無茶です! そんな途方もない方法を取れば、いくら貴方様といえ
ども、無事では済まされないのですよ!」
「お体ごと消滅してしまいます! 良くても、死は免れません!」
「それに、必ずしも成功するとはかぎりません! コエンマ様を失ったら、私たちは
どうすればいいのですか! おやめ下さい!」
皆の必死の説得も、コエンマには効かなかった。
「心配はいらん。ワシがいなくても、おまえたちは立派に霊界を盛り立てていける。
…ワシもいい加減疲れた。…ワシの命をかけてでも、霊界と人間界は救ってみせる。
後は頼んだぞ」
行こうとするコエンマの前に、あやめが立ちふさがる。
「コエンマ様! どうか、おやめになって下さい!」
「…じゃが、他の方法を考えているヒマはない。それに、これが、幽助たちへの償い
にワシができる、唯一のことなんじゃ…」
そう言い残して、コエンマは出ていった。止める者はもういなかった。コエンマの
悲しい瞳に、誰も止められないと悟ったのだ。
「…コエンマ様ぁ〜」
泣き崩れるあやめを支えながら、ぼたんたちも泣いた。
魔界があった空間に、蔵馬の骸が漂っている。コエンマはそれにそっと触れた。
直撃は避けたものの、魔界消滅時に蔵馬が受けたダメージはひどく、蔵馬は息を引き
取った。せめて皆の近くで…。それが蔵馬の遺言だった。
コエンマは静かに微笑して、口から魔封環を外す。不思議なほど穏やかな気分だった。
「幽助…飛影…。ワシもいくぞ…」
亜空間が光に包まれた。
その後、霊界や人間界がどうなったかは、誰も知らない。
穏やかな空の下、子どもたちが遊んでいる。
「あ、あれは何だろう?」
そのうちの一人が空を指差した。他の子も、何かと見上げる。
「…あ! 鳥だ! 青い鳥だよ!」
「うわぁ。きれい」
「僕、青い鳥なんて初めて見たよ」
「僕も。…あれ? 何で泣いてるの?」
一人の少年の目に、涙が浮かんでいた。
「わからない。わからないけど…、涙が止まらないんだ」
少年はずっと鳥を見つめていた。鳥が空の彼方に去っていった後も、ずっと見つめ
ていた。
いつまでも。いつまでも。
その少年の顔には、優しい笑みが浮かんでいた。
鳥が飛んでいった方向には、明るい太陽が光輝いていた。
END
後書き
一番最初に書いた小説が死にネタってところで、空水のバカさがわかりますね。
けれど、これはそれなりに好評でした。「可哀想です」という感想を結構いただいてしましましたが、
皆さん好意的で、更にうちの他の本を読みたいと思われた方もいらっしゃり、殴られそうだなと思っ
ていた私としては、ほっとした覚えがあります。
夜中に薄暗い部屋で表紙を塗っていたら、とんでもない彩色になっていて、朝に見直した時に泣き
たくなりました。仕方ないのでそのまま製本しましたが、表紙で逃げていく人は多かった…。
こういう嫌な思い出なら山ほどありますね。初心者のくせに無謀なことした奴が悪いんだけどねー。
愚痴ってたらキリがないのでこれで逃げます(殴)。