恋人の種






     二億年生きていた 恋人の種    二億年 まどろみの夢の中

     ひたすらに待ち続け 今ここにいる   今日生まれ明日死ぬ 私の前に

     その人は知っている 原始の空を    岩石に降り注ぐ 温かい雨

     繰り返す昼と夜 無限の闇の     さみしさに冷え切った 長い明け方

      ゆらゆら面影消えないでもう少し

      会いに行く 僕は君に 会いに行く いつかきっと

 

     その人に残るのは たった一つの    宇宙さえ震わせる 願いだけ

     こんなにもこんなにも 君に会いたい   さみしくてさみしくて 君に会いたい

      たとえ永遠が僕たちを隔てても

      辿り着く 僕は君に 辿り着く いつかきっと

 

     再びこの星に静けさが訪れて  その姿が消えた後も 想いはそこに残るだろう

      たとえ永遠が僕たちを隔てても

      辿り着く 僕は君に 辿り着く いつかきっと

 






 
 水滴が落ちる岩窟の中を、人影がゆっくり動いていた。
 慣れた足取りはやがて最奥に到達する。そこで影は僅かに微笑んだ。
 花に包まれて眠る、何よりも愛しい存在。かけがえのない大切な…。
 ゆっくり近づき、覗き込むように傍に片膝をつく。
「…もうすぐだ。やっとおまえに逢える」
 影は静かに言葉を紡ぐ。この空間を壊さないように。傷付けないように。
 愛しい存在から目を離すことだけは無く。
 何も返答が無いことは、もう影を落胆させなかった。
 だって、もうすぐだから。
 また自分を見てくれる。名を呼んでくれる。笑いかけてくれる。触れてくれる。
 長かった。どんなに待ち望んだことか。
 もう離れない。傍にいてくれる。決して離すものか。
 間もなく訪れる未来を思い、影は満足げに目を細めた。












【やっと、見つけた】

 暗闇から、声が響いた。
「どうした?デュオ」
 後方に顔を向けたまま突っ立っている親友に、五飛は声をかけた。
 その呼びかけにデュオと呼ばれた少年は振り返る。柔らかな丸みを帯びた顔につられて、長い三つ編みが舞った。
「いや、何でもない」
 笑ってデュオは慌てて彼に駆け寄る。その様子に彼も向き直り再び並んで歩き出す。
 豊かな自然の生い茂る山道。人影など他に見えようもない。
(誰かに呼ばれた気がしたけど、気のせいだよな)
 デュオは先程に考えを巡らし、すぐに消した。
 声というものではなかった。耳で聞いたのではない。ただ、心に引っかかる想いを感じた。例えるなら視線にも似た感覚。しかしそれも正確な表現ではないだろう。
 わからないものは考えても仕方がない。デュオは結構大ざっぱな性格なのであった。
 それよりも目の前の光景のほうが余程興味をそそる。
 今までは映像や自然博物館でしか見られなかった光景がここにある。公園などとはまるで違う、本物の自然。覆い茂る森林や草花。遠くから聞こえる鳥や虫たちの小さな息吹。
 生まれ育った場所とはまったく違う、世界。
 感動とも言い表せない、懐かしさのような思いが込み上げる。
 皆もこんな気持ちなのだろうかと思ったところで、前を歩いていた二人組のうち、金髪の少年が前方を指差した。
「あ、見えてきたよ」
 木々の隙間から、自然に似つかわしくない近代的な建物が見える。これからデュオたち4人が生活する場所である。
「やっと着いたか」
 山奥に建設された寄宿制の学校。ここに今日から入学するのだ。
「よかった〜。もうヘトヘトだよ〜」
「大丈夫か、カトル」
 大きく息を吐く金髪の少年を、トロワが気遣う。
「すごい自然だな」
「山奥すぎるんだよ、これは」
 感心したような五飛の言葉にデュオは即座に突っ込んだ。登山し続けて数時間かかった苦労が今更のように沸いてくる。自然といっても、限度がなかろうか。

 ふと視線を感じて道の脇を見やる。
 少々きつめの目をした、整った顔の少年が、じっとこちらを見ていた。
 木の幹に身体を預け、腕を組んでいる姿は、不思議なほど周囲の風景に合っている。
「よぉ。おまえ、ここの学生?」
「オレらも今日からここに入るんだ。よろしくな」
 何故彼が自分を見ていたのかはわからないが、誰であろうと仲良くしておくことに損はあるまい。花のような笑顔でデュオは手を差し出した。
 少年の瞳が一瞬緩む。
「………」
 無言のまま少年はデュオに歩み寄り、その手を取って恭しく甲に唇を落とした。

「うわぁああああ!!!! 何すんだよ!」
 叫ぶと同時にデュオは全速力で後ずさり、少年から離れた。ぶつかりそうになったところで五飛に支えられる。
 見ていたトロワ・カトル・五飛の3人の目は点と化していた。何かとんでもないような物を見た気がする。
 満足そうな笑みを浮かべる少年に、デュオはただ狼狽えるばかりであった。









 不機嫌を顕わにし、わざと大きく足音を立てるデュオの後を、3人は笑いを堪えつつ歩いていた。
「何なんだよ、さっきの野郎は!」
 デュオの憤慨の元は、先刻の見知らぬ少年である。受付で入学手続きを済ませ、食堂で遅い昼食を取っていた時には、すっかり忘れていたように見えたが、今になってまた怒りが込み上げてきたらしい。
 トロワとカトルは最初はそういうデュオの思考に付いていけず戸惑っていたが、今は、横から見ていて楽しいから放っておこうという結論に達していた。別に自分に被害があるわけではないのだ。
 彼と幼なじみである五飛は、さすがに慣れているので、純粋に面白がっている。
「髪が長いから、女とでも思われたんじゃないのか」
「誰が女だって!?」
「おまえだ。けっこう可愛い顔をしているぞ」
 ピタッ。
 デュオが動きを止めた。
「…五飛」
 何やら戸惑うように五飛の顔を覗き込み、恥じらうような素振りをするデュオ。
「知らなかったぜ。おまえがそんなふうにオレを見ていたなんて…。オレ、ホモじゃないけど、おまえとはずっと仲良くやっていきたいし…おまえが望むなら……」
「何を考えている貴様は!!」
 顔を真っ赤にして怒鳴る五飛は、本気で怒っているようである。こういう冗談は苦手らしい。
「まあまあ、落ち着いて2人とも」
「デュオ、おまえの部屋はここを右だろう」
 カトルが宥め、トロワが話を逸らしたところで、十字に分かれた通路に出た。
 デュオに割り当てられている部屋は他の3人とは棟が違うので、ここから別れるのだ。
「あ、うん。じゃあな、みんな」
 五飛をからかったことですっかり上機嫌になったデュオは、大きく手を振りながら道を折れた。
 とにもかくも、今日からこのアカデミーの学生として暮らすことになる。嫌なことはさっさと忘れて楽しくやらなきゃ損だ。気を入れ直すように両腕を挙げて背伸びをし、足取りも軽く、部屋へと向かった。
「えーと、012号室…ここか」
 目的の部屋の前に来て、足を止める。
 このアカデミーでは、教師も学生も、事務員に至るまで全員、寮生活を義務づけられている。校舎と寮の建物は各階でつながっており、行き来は簡単に出来る。また、学生は同専攻の2人で1部屋となっていて、同室となった相手と講義・研究においてペアで行動することにもされている。パートナーが頻繁に変わっては勉学に集中しにくいだろうとの経営側の配慮である。
 トロワはカトルと同室だと言っていた。デュオとしては、同室の相手は五飛が望ましかったのだが、専攻が違うので仕方ない。相手が誰であろうと仲良くやっていける自信はある。あるのだが…。
 合わない相手だとやはり疲れるものである。そして自分は、合わない相手の方が多いタイプのようで…。
 少し緊張しながらドアを開けると。
 同室者であろう、机に向かっている人影がある。
 デュオに気付いてゆっくり振り返る少年の顔が見えた途端。

 バタンッ!
 部屋に1歩も入らぬまま、デュオは勢いもよくドアを閉めていた。
「――――――――――まじ…?」
 ドアに背をもたれさせながら大きく深呼吸をし、気持ちを落ち着かせる。
 そうして再び部屋番号の確認。
 …部屋は間違っていない。
 少し考え込んでいるところに、いきなりドアが開き、デュオの頭に音を立てて直撃した。
「何をしている」
 そう言って呆れたように溜め息を吐く同室者は、先刻校庭で逢った、あの少年だった。





 デュオは自分のベッドに腰を下ろし、盛大な溜め息を吐いた。
 よりによって自分のパートナーが、今現在最も見たくない顔だったとは。不運といえばあまりにも不運。
(なんでこいつなんだよ〜)
 思わず額に手を当てる。そしてまた溜め息。
 ヒイロ・ユイと名乗った少年は、デュオの百面相を面白そうに眺めている。その様子にちょっと腹が立ち、デュオはひきつった笑みを向けた。
 彼は自分がパートナーと知っていたのだろうか?だから?
(しかし普通、挨拶で手の甲に口付けるなんてするかあ? 中世の貴族じゃあるまいし。それともこいつの出身地区では当たり前なのか? そんな習慣のある地区、聞いたことねぇぞ)
 思考がぐるぐる回るが、そうしたところで現状が変わるわけでもなく。
「…考えてもしょうがねーか…」
 立ち上がり、今度はしっかり用心して、窓に寄りかかっているヒイロに右手を出す。
「オレはデュオ。デュオ・マックスウェル。れっきとした男だ。ま、仲良くしていこうぜ」
 《男》という部分を強調して、しっかりアピールしたのだが、当のヒイロは聞いているのかいないのか、無表情のままでデュオの手を握り返す。
「……おい…おまえ、人の話聞いてるか?」
「ああ」
 肯定しつつも視線と手を放さないヒイロに、デュオはいぶかしげな表情を返した。














「う〜ちゃぁん」
「うわっ!」
 昼食時で賑わう食堂内にひときわ大きな声が響く。
「一週間ぶりだね、デュオ」
「よう、カトルにトロワ」
 椅子に座っている五飛を後ろから抱きついた格好のまま、デュオは片手を少し挙げる。
 専攻ごとに講義内容や時間割が異なるので、他専攻の者と顔を合わせることはなかなかない。カトルたちが偶然五飛と会い、共に食事をしていたところにデュオが現れたのだった。
「どうでもいいが、貴様いつまでくっついているつもりだ」
「つれないこと言うなよ、うーちゃん。会いたかったあー。もう寂しくてさー」
 眉を吊り上げる五飛だが、デュオはさらに頬を擦り寄せて甘える仕草をする。その光景は飼い主にじゃれつく犬か猫のようで、大変愛らしい。
 つい、ほのぼのとしていたトロワとカトルであるが、デュオの後方の人物にふと目を止めた。
「デュオ、そちらの彼は…?」
「あー、こいつはヒイロ。オレと同室で、JAP地区出身」
言われて初めて気付いたようなデュオは、素っ気なく紹介しヒイロに振り返る。
「ヒイロ、オレはここにいるから。今日はAランチな」
「わかった」
 一言応答すると、ヒイロはカウンターへ向かい、デュオは五飛の隣の椅子に座る。
 そのあまりに慣れているような二人の行動にカトルたちは意外に思う。
「…デュオ。彼は先日の…」
「そ。最初部屋の中にいるあいつを見た時は、マジで驚いたぜ」
 彼――ヒイロは、初見時に思いっきりデュオに嫌われたはず。それが今の様子を見るからに、十年来の付き合いのような振る舞いをしている。
「すっかり仲良しなんだね。驚いたよ」
「別にー。ほとんど四六時中一緒に行動してるんだから、自ずと仲良くもなるぜ」
 デュオは頬杖をついて大きく息を吐き、続ける。
「それにウチの専攻って、エリート意識高くてお堅い奴ばかりでさ。オレが話しかけたりしても、一蔑するだけだぜー。だから一応、ヒイロは唯一構ってくれる存在なんだよな。けど、あいつ無口で無表情で無愛想だし・・・、おまえらと会ってやっと《会話》ができて、オレはめっちゃ嬉し〜」
 もはや、しっぽを振る犬。笑顔の大サービスといった状態である。
 が、急に無表情になり、声をひそめてテーブルに乗り出してきた。
「…で、思うんだけどさー。ヒイロの奴、マジでオレを女か病人かと勘違いしてないか?」
「どうした?」
「んー、何っつーか…。優しいと言やぁそれまでなんだけど…、やけに気遣ってくるんだよ。ここでの食事だって、カウンターの方は混んでて危険だからって、あいつが並んでオレの分まで取ってきてくれてさ。その間にオレは空いた席を探す、ってのが今では日常となっちまってんの」
「親切な奴じゃないか」
 トロワは素直な答えを返した。
「あいつの場合《親切》というより、オレを《守ろう》としてるみたいなんだよ。…確かにヒイロの方が腕力とか体力とかあるみたいだけど、オレだって男なんだぜ! 身長も体重もほとんど同じ奴に守られてどうすんだよ!」
 言葉の最後の方では、デュオは完全に憤慨していた。
 同じ男として気持ちはわかるが、ヒイロの気持ちもわかるような気がするので三人は苦笑するしかない。なんせデュオは、大きな目、長い髪、柔らかそうな頬と、低い声音さえ聞かなければ少女にも見える。はっきり云って、そこらの女の子より可愛い。しかも細い身体は華奢な印象を与える。庇護欲を感じても無理はない。
 そうこうを考えているうちに、ヒイロが二人分のトレイを持って戻って来、当然のようにデュオの隣に腰を下ろす。円形のテーブルなので、全員が互いの顔を見れる配置となっている。
「こんにちは、ヒイロ。僕はカトル・ラバーバ・ウィナーと言います。環境科学専攻です」
「カトルのパートナーのトロワ・バートンだ。よろしく頼む」
「張五飛だ」
 とりあえず自己紹介をするが、ヒイロは三人の方などまったく目もくれない。
「ヒイロ。挨拶くらいしろよ。みんなごめんな。こいつ本当に無口・無表情・無愛想の三拍子でさー」
「…ヒイロ・ユイだ」
 デュオにこづかれてやっとヒイロが口を開き、五人は中断していた食事を再開した。
 食事の最中も喋り続けるデュオとは対照に、ヒイロは黙々と食べている。しかしデュオの話だけはちゃんと聞いているようで、話を振られれば、短いが相づちを打つ。
 不意に、ヒイロが手を伸ばした。
 何かと思えば、デュオの頬に付いたライスを取り、そのまま自分の口に運んだ。
「あ…。ありがと…」
 真っ赤になって、一応礼をいうデュオ。あっけに取られる三人。
 そんな周囲をものともせず、デュオに軽く微笑んで食事を続行する少年を、四人は思い思いに見つめていた。





 キーボードを打つ手を止めてデュオは、何か言いたそうに見つめてくるヒイロに顔を向けた。
「ん? どした?」
「…あの五飛という奴とは、かなり親しいようだな」
 いつもにも増して低い声で問いてくるヒイロにデュオは明るく返す。
「まあな。オレな、ガキの頃に両親亡くして、親戚にあたる五飛んとこに引き取られたんだ。あいつとはずっと一緒に育ったから…兄弟みたいなもんかな」
「そうか…」
 どことなくホッとしたように聞こえ、首をかしげる。
「トロワとカトルはここに来るまでのライナーの中で知り合ったんだ。けっこういい奴らでさ、すぐに親しくなっちまった」
 何となく不機嫌が解消されたようなヒイロを少し不審に思ったが、それよりも五飛たちのことをちゃんとヒイロが認識していたということに気が逸れた。食事中はデュオのことしか目に入れていないようだったので、少し心配していたのだ。実は。
 安堵して操作を再開する。口笛も吹いて、軽やかに。
(…何かオレ、こいつの保護者になったような気分だな…。何でだろ…? ……まあ、いいか)
 心中複雑だが、気にしないことにした。
(誰にも渡さない)
 デュオを見つめるヒイロの瞳が鈍く光っていたことに、デュオは気付かなかった。









「へぇー。綺麗なもんだなー。さすが実際に見ると違うな」
 窓から見える夜空には月が大きくあった。
 デュオは、本物の月を見るのが初めてだった。今までは映像でしか見ることのなかったものだ。
 ジオトピア。つい先日までデュオはそこにいた。現在、ほとんどの人類が居住している場所。
 21世紀、蔓延する公害や地球汚染から逃れるために、人類は新たな生活の場を求めた。そして挙がったのが、地球でまだ比較的汚染が及んでいない所、地底である。
 世界各国の地底に巨大都市を開発し、人類はそこで居住する。食料は都市の周辺に設けた農園や牧場から得、エネルギーは地熱や太陽光などの汚染の問題のないものを使用する。地上は自然に返す。人類は安全な生活を確保し、その上で地上は他の動植物の楽園となる。
 当初、この計画は、ギリシャ語で地球という意味の《ジオ》と、理想郷という意味の《ユートピア》を組み合わせて《ジオトピア計画》と称された。今その計画の名は地下世界を示すのに用いられる。
 地底なので当然空はない。天井に映像を映して太陽や星があるように見せるだけだ。極力本物に似せられてはいるが、やはり本物とは違う。
 カトルなどは本物の日光に感激していたが、自分はこうやって月を眺める方が良いと思う。強過ぎる日光よりも、静かで穏やかな月光の方が心地好い。

  【おかえり】

 声が聴こえる。何処から? 月から、星から、夜の暗闇から声がする。
 頭の中が真っ白に染まる。
 デュオは無意識にドアへ歩き出していた。
(呼んでいる…)
 何もわからぬまま、ただ身体は引かれるように動く。

「デュオ!!」
 声と共に腕を強く引かれ、意識は現実に戻った。
「あ…」
 目を周囲に巡らせると、自分の足元にあるのは切り立った崖。あと一歩…いや半歩でも進んでいれば、間違いなく落ちていた。小石が闇の中へ転がっていくのを見、デュオの背筋に悪寒が走る。
「…ありがとうな、ヒイロ…。おかげで助かったぜ」
 冷や汗を拭い、恩人に礼を言いながら体制を立て直した。
「何をしていた?」
「…わからない。何か、呼ばれた気がして…、気が付いたらここにいた」
 デュオのズボンの砂を手で掃ってくれるヒイロに顔を向ける。
「おまえは何でここに…?」
「散歩していたらフラフラ歩いているおまえが見えた」
(…オレ…何をしていたんだ?)
 空を仰げば木々に少し隠れてはいるが相変わらず夜空が静かに広がっている。
「―――そうか…。月と森が呼んだんだ…」
 理由もなく、感じたことを呟いただけだったのだが、ヒイロが驚いた顔で振り向いてきた。
「おい…ヒイロ?」
「部屋に戻るぞ」
 サッときびすをかえし、歩き出すヒイロの背を茫然と見やる。
「ああ…」
 後に続きながらそっと自分の肩に触れる。
 かすかに残っているヒイロの温もり。
 何故か、懐かしい気がした。






 翌朝は何かしら騒がしかった。
 休講になったり職員連中が走り回ったりなど、バタバタしている。
「何やら騒がしいけど、どうしたんだ?」
 食堂でトロワとカトルに会い、訊ねる。五飛はいなかった。彼はデュオやトロワたちと専攻が異なる上、人数の関係でパートナーもおらず1人で行動している。昨日はたまたま会えたというだけのことである。
「どうも死者が出たらしい」
 トロワの言葉で納得する。
 ジオトピア開発から数百年経ち、地球上の環境も少しは回復したところで、地上にこのアカデミーが建設された。世界中の優秀な頭脳を持つ者のみが集められた研究施設。そんな所で死者が出たとなれば職員が慌てるのも当然だろう。
「死因は多量の失血死。だがそれに見合う外傷はなく、唯一首に小さな穴が2つあっただけだそうだ」
 そう言ってトロワは自分の頚動脈を指した。
「首筋に2つの小さな穴、そして血が失くなってる…か。まるで吸血鬼だな」
 今や誰も信じないような民話を出して、苦笑する。
 地球規模の環境汚染だの、地下への移住だの、そんな時代の中で、吸血鬼なんてものが存在するわけがない。単に雰囲気を和らげようと言っただけのことだ。
「…そうかもな」
 なのにヒイロは真面目に考え出すものだから、思わずこけてしまうではないか。
「被害者はオレたちの同専攻だった奴なのでな。情報はけっこう入ってきた。襲われたのは昨晩10時頃。場所は寮の裏手の森だ」
「げっ! んじゃ、下手したら襲われていたのはオレらだったかもしれないのかよ」
 驚いてヒイロと顔を見合わせた。
「え? デュオ、ヒイロ。君たち、ゆうべあそこにいたの?」
「ああ…。ちょっと散歩してたんだけど…」
 デュオは昨晩を思い返す。無意識に外に出て、ヒイロが運よく見かけてくれなければ死ぬところだった。あの時すぐ近くで人が殺されていたとは。
「それで? 何か不審な人物とかは見かけなかった?」
「いや…。特に何も…」
 真剣な表情で詰め寄ってくるカトルの迫力に押され、後ずさる。
「そう…」
 気落ちして肩を落とすカトルに、慰めるようにトロワが言う。
「カトル。おまえが気に病むことはない」
「うん。けど…人が殺されるなんて…そんなの…」
 カトルの髪を優しく撫で、トロワはテーブルに向き直った。
「しかし妙な事件だ。身体中の血液が失われるなど、通常はありえない。新たな奇病か、デュオの言うように吸血鬼に襲われたか、としか考えられないな」
 死体は血液がほんの一握り程度しか残っていなかった。そこまで血を流す程の外傷はまったくない。仮に注射器のようなもので血を採ろうとしても、ある程度以上の量は採ることはできないのだ。病気としても、今までそんな奇病の存在は聞いたことはない。
「まぁ、暗く考えるのはよそうぜ。真相はいずれ解明されるだろうし。それより腹が減ったよ、オレは。メシにしよう、メシ。な?」
 わざと大げさに空腹を示すデュオに、その場の空気が一変し、皆の顔がほころんだ。
 それ以後はまったく事件の会話はせず、明るい食卓となった。






 満月。月が最も夜空に輝く時。
「ピー!」
 高い音が耳に響き、ハッとする。
 また、森の中だった。先ほどまで部屋にいたはずなのに、いつの間に出てしまったのか。
 何かが手から落ちた感覚がして、地面を伺う。
 小鳥の死体があった。血と羽根が点々と散らばっている。
 握り潰されたような小鳥。誰に?
 誰が殺した?
 顔に手をやろうとして、ふと異臭に気付く。血塗れの手のひら。まだ温かい血。
「――――オレが…やったのか…?」
 デュオは信じられずに、ただ茫然と自らの手を見つめ、立ち尽くしていた。




「どうした?」
 部屋に戻ってきたデュオに元気がないことに気付き、ヒイロが顔を覗き込む。
「…何でもない」
 何とか笑顔を作るが、すぐに目を伏せてしまった。今は誰の顔もまともに見返せる自信がない。
 ヒイロは手がデュオの頬を優しく包む。いつもは少し冷たい体温の手が、温かく感じられた。
「外に出たいたのか? 体が冷えている。暑いとはいえ、そんな薄着で出歩いていると風邪を引くぞ」
「ああ。シャワーでも浴びるよ」
 にっこり笑ってデュオは浴室に向かった。その背に、じっとヒイロの視線が向けられていた。






 その翌朝、再び死者が出た。死因は以前と同じである。このニュースはアカデミー中に広まった。
 学生たちには夜間外出禁止が言い渡され、昼間でも外出は複数で行動の場合、しかも許可をもらった上でしかできなくなった。
「2人目の犠牲者か…」
 トロワ、カトル、五飛の3人はデュオたちの部屋に訪れていた。皆、沈痛な表情をしていた。
 五飛がいる生物学などでは、死因の究明が急遽行われていたらしい。しかし新種のウィルスや遺伝子異常などの類は見つからなかった。つまり病気の一種ではないということだ。
 そして人間では不可能な殺し方。
「巨大な吸血コウモリでも出たとしか思えん」
 突然変異で新生物が生まれたのではないかという考えだ。
「だが、人間の血をすべて吸い尽くす程の巨大なコウモリが現れるとは考えがたい。やはりデュオの言うとおり、吸血鬼でもいるのでは…」
「確かに首筋の傷は、犬歯の鋭い人間が噛んだくらいの大きさではあるが、吸血鬼などくだらん。そんなものは、ただの空想にすぎん」
 現実主義の五飛らしい意見である。
 が、巨大なコウモリとは少々想像しにくい存在ではある。アカデミーが建造される際、周囲の土地は入念に調査されている。そんな異常生物がいれば、報告されないわけがないのだ。
 第一、施設ができてまだ数年であるが、今までこんな事件は起きていない。
 皆が意見を交わしている中、デュオはずっと顔を伏せていた。
 昨晩の出来事が頭の中をぐるぐる回っていた。まだ手に残っている生温かい血の感触。
 血。生物の命を支えるもの。生命そのもの。
 その血を失われて死んだ人間。
(オレはゆうべ何をしていた…?)
 あの血は本当に小鳥のものだったの?
 集まってから一言も話さないデュオであったが、事件について考えているのだろうと、誰も気に留めなかった。
 しばらくの間、沈黙が流れた。
 ふと、肩に温かいものが触れ、デュオは顔を上げる。
 ヒイロがデュオの肩に手を置き、軽く引き寄せていた。
 デュオはヒイロの横顔を思わず見つめたが、ヒイロは真っ直ぐ前を向いたまま、沈黙を破る。
「元々この辺りには吸血鬼伝説がある。山を1つ越えた先には、住居としていた古城が残っているとか…」
「本当か? ヒイロ」
 皆の視線がヒイロに集中する。
「本物の、吸血鬼…」
「確かめてみる必要があるな」














 トロワたちは自室に戻り、部屋にはヒイロとデュオが残る。
 既に日は暮れ、外は暗くなっていた。
 吸血鬼というのは、夜に行動し昼は眠るというのがセオリーだ。それで今晩は休み、明朝出発することになった。
 デュオはベットに仰向けになり、首を巡らして窓を見ていた。
 月を見るのは好きだ。月の光を浴びると何故かひどく安心でくる。
 闇夜を明るく照らす月の光は、昼間の騒々しい火照りを鎮め、世界の矛盾を払拭し、あらゆる不純を浄化して涼やかな安らぎを与えてくれるが、それでいて、その冴えざえとした美しさには、どこか冷たい棘があるように思われる。
 それゆえか、古来から月は魔力を持っているとされ、畏れ崇められてきた。
「なあ。オレが吸血鬼だったら、どうする?」
 不意に投げられた言葉の意味に、デスクに向いていたヒイロが怪訝な顔をして振り返る。
「冗談だよ。…けど、嘘ではないかもな…。オレはガキの頃から血を見るのが大好きだった。紅い血が流れていくのを見ると体がゾクゾクしてくる。流血ものの映画とか、食い入るように見ていたものさ。それも笑いながら。けっこう周囲の大人からは不気味がられていたんだぜ?」
 苦笑するデュオから視線を外さぬまま、ヒイロは検分していた書類を置き、立ち上がる。
「……そして、オレは事件のあった2晩とも、気付けば外にいた。もしかしたら…オレが無意識のうちに…」
 言いながらデュオは一瞬顔をしかめ、目を閉じた。
「今のうちにオレから離れていたほうがいいかもしれないぜ?」
「…おまえが何であろうと、オレはかまわない」
 顔に影が落ち、目を開けると、ヒイロの顔が間近にあった。
 どきりとして目を瞬く前に、唇に柔らかいものが押し当てられる。そっと。
 ゆっくりと舌が差し入れられ、なだめるように優しく絡められる。その感触にぞくりとしつつも、意識がぼやけてくる。
 唇を離し、ヒイロは覆いかぶさるようにデュオを抱き締め、肩口に顔を埋めた。
 不思議とはねつける気にもなれなくて、デュオはヒイロの好きなようにさせていた。
 彼が慰めてくれているということはわかる。
 しかしデュオを抱き締めているヒイロは、すがりつく子どものようにも思えた。
「吸血鬼って、――――――ろうな…」
 デュオの小さく呟いた言葉が聞き取れなくて、ヒイロは顔を上げる。
 天井を見据えたまま、デュオは続ける。
「伝説だと不老不死ってされているけど、それって良いことなのか?」
 歴史の中で人々は永遠の生命を手に入れようとしていた。だが、デュオにはどうしても不老不死の価値がわからない。それは死に勝る苦しみではないのか?
「おまえは不老不死が嫌なのか?」
 伺うようにヒイロが顔を覗き込む。
「…そうじゃなくて…。何って言えばいいかな…。周囲が楽しいことばかりで毎日が幸せだったら、不老不死というのは願ってもない。そうなりゃあ、天国だよ。…けど、何もない世界でたった1人だったら…。…考えたくもない。辛すぎる…」
 闇の中の孤独。
 誰もいない静寂。
 気が遠くなるような苦痛の時間。
 誰がそんなことを望むというのか。
 自分がそうなったら、きっと狂ってしまう。
 きっと耐えきれない。
 せめて、そばに誰かがいてくれるなら・・・。
 何かを思い出しているような顔を一瞬見せたヒイロが、ゆっくり目を伏せた。
「―――ああ…。もう、1人は嫌だ。あんな孤独は…もう……」
「? …ヒイロ?」
 デュオの背に回されている腕の力が強められ、ヒイロはデュオの耳許に顔を擦り寄せる。
「…いかないでくれ。独りに…しないで…――――」
「ヒイロ…?」
 ヒイロの声が、まるで泣いているようで、デュオは戸惑う。
 彼の表情を見ようとしたが、耳しか見えなかった。
 何となく可哀そうになって、自分からもヒイロの背に腕を回し、ぽんぽんと軽く叩く。
「大丈夫だよ。オレはここにいるだろ?」
 独りじゃないよ、と呟く。
 振り向いてきたヒイロが何も言わずにデュオを見つめ返す。いつか見た気がする、真摯な眼差し。
「えっ? おいっ」
 再び口付けられる。
 今度は先ほどとは違い、むさぼるようなキス。
 舌を絡め取り、強く吸って、呼吸まで奪うほどの激しさ。何度も角度を変えて唇を合わせ直され、飲みきれない唾液が頬を伝い落ちる。
 逃げたくとも、息苦しさに力が入らない。眉根を寄せるデュオに気付いたヒイロが顔を離した途端、呟き込む。
 舌が痺れ、感覚がなくなっていた。
「っヒイロ、何してんだよっ」
 シャツの中に手を挿し入れられ、撫でられる感覚に身震いする。デュオは顔をひきつらせてその腕を止めようともがいたが、ヒイロはびくともしない。
「デュオ…」
 耳許で囁かれ、身じろく。
 そのままヒイロは髪の生え際に舌を這わせ、首筋にたどっていく。
 喉元にヒイロが潜り込んでいるせいでのけぞってしまい、窓の外の月が目に入った。
 月。魔力を持つ光。
 月の光に、心がざわめく。
 何故か拒む気も失せて、デュオは身体の力を抜く。
「デュオ…?」
 急におとなしくなったデュオを、ヒイロは不思議そうに見やるが、すぐに行為を再開しはじめた。
 シャツを脱がせ、顕になった鎖骨に口付けて、強く吸う。
「んっ」
 デュオの身体が跳ね、赤い跡が残る。
 身体の線をなぞってゆっくり手のひらを這わせると、徐々にデュオの肌が赤みを帯びてきた。
 ズボンのウエストに手を掛けられて、びくりと肩を揺らす。
 暖く握り込まれ、熱を促すように指先でたどられる。
「…う…」
 思わず身体を震わせるデュオの出したものを掬い、ヒイロはその指を奥へと忍ばせた。
「い…つ…」
 冷や汗が滲んでくるのが自分でもわかる。
 ズボンを剥ぎ取られるが、もうそんなことは気にする余裕もなく、内部をかきまわされる感覚に耐える。
 指が抜かれてほっとしたところで、膝を抱き上げられた。
「―――――っ!」
 指よりはるかに熱と質量を持っているものが、身体を引き裂くような衝撃に、デュオは息を止め、背を逸らした。
 ヒイロが伸び上がって、目元、頬と口付けてくる。その体勢のせいでまた痛みが増す。
 何度も何度も揺さぶられ、身体は次第に苦痛以外の感覚を探し当ててきた。
「…ああっ」
 身体の奥深くに、刻印を刻まれたような感覚を受けて、デュオは意識を手放した。











 翌朝、5人は待ち合わせの場に集合していた。
 今日は休日のため、大半の人はまだ眠っているらしく、静かで、鳥たちのさえずりが響く。
 外出許可は昨日のうちに取ってある。日中、しかも5人という人数のため、案外簡単に許可は出た。
「では、行くぞ」
 ヒイロの案内で山道を進み出す。
 緊張しているとはいえ、ほとんどピクニックのような雰囲気である。
「本当にいるのかな、吸血鬼って…」
 カトルが不安そうに振り向く。
「さあねぇ。けど一応対策は立ててきたぜ」
 ごそごそとデュオは自分の上着のポケットから何かを取り出し、皆にかざす。
「じゃーん。十字架!」
「うわ。用意いいねー、デュオ」
「やっぱ吸血鬼にはこれだろ」
 得意満面のデュオ。そんなもの一体どこから持ってきたのか。
「オレも持ってきた」
 そう言って五飛が差し出してきた袋からは、異様な匂いが漂ってくる。
「五飛…。これってニンニク…?」
 思わず鼻に手を当てるカトルたち。
「五飛、何だかんだと言っても、吸血鬼を信じているのか」
 十字架にニンニク。これで聖水もあれば完璧だなとトロワが呟く。
「実はお化けとかの類に関してはすげー怖がりなんだよ、こいつ」
「うるさい!」
 デュオが言い終わる前に、五飛の怒鳴り声が入る。彼のとってはかなり不名誉なことのようだ。
「きゃー。…えっ」
 ふざけて軽く走り出したデュオは、石につまづき、バランスを崩した。
 と、その時そばに影ができた。
 いつの間にかヒイロが隣にきていて、デュオを支える。
「サンキュ」
「山道は不整備だ。気を付けろ」
そう言って、デュオの手を引いて歩き出す。
 痛みを感じるほど強くはないが、しっかりと握られた手。
 意識して顔が赤くなってしまい、デュオは俯く。



 今朝、目覚めるとすぐ目の前にヒイロの顔があって驚いた。
 しかも自分はヒイロの腕を枕にしていたのだ。
 ヒイロのもう片方の腕はデュオの肩にかけられていて、いわゆる、抱き締められている状態である。
 つい昨晩の行為が思い浮かび、羞恥と驚きで硬直してしまった。
 自分はヒイロと寝てしまったのだ…。
 女の子とキスもしたことがなかったというのに、よりによって男に抱かれたのだ。
 しかも痛くはあったが、他の感覚を感じていたのも確かで。
 …ああ、もう何を思っていいのかわからない。頭の中がパニック状態だ。
 気配に気付いたらしく、ヒイロが目を開けた。
「あ…」
 どんな顔をすればいいのかわからず、困惑した笑みを向ける。
 照れているデュオに、ヒイロは少し目を見開いた。意外だとでもいうように。
 けれどそれは一瞬のことで、またいつもの無表情に戻り、デュオを引き寄せる。
 軽く触れるだけの口付けをし、頬を擦り合わせる。
 微笑んでいることが気配でわかり、デュオはバクバク云っている心臓の音を抑えるのに必死だった。
 …思い出しているとますます恥ずかしくなってくる。
 ヒイロはどう思っているのだろうと目だけを動かして伺うが、俯いているせいで繋いだ手しか見えない。
 しっかり握られた、手。
 手を握るなんて行為は、初めてだと思う。
 今まで誰ともそんな行為をしたことはなかった。
(…あったかい)
 ヒイロの手の温かさを感じながら、デュオはそっと握り返した。


 一方、完全に自分たちだけの世界に入ってしまっている2人の後ろでは、カトルたちが居こごち悪そうな顔をしていた。
「…何かさ。僕たちってお邪魔みたいだね」
「まるで初々しいカップルだな」
「ったく…。デュオが軟弱なんだ。情けない」
 手を繋いで先に進んでいる2人の後ろ姿を見ながら、3人は呆れて大きな溜め息を吐いた。








 一時間ほど歩いただろうか。霧が周囲に漂い出す。
 進むに連れ、段々と濃くなっていく霧が、周りの木々さえミルク色に染めようとした頃。
 先導していたヒイロが正面を見たまま足を止めた。
「着いたぞ」
 その言葉に、皆がヒイロの目線を追う。
 霧の中に浮かぶ、中世風の古城。
「…いかにも、といった感じだな」
 幻想的な風景が目をかする。
 いきなり頭痛がデュオを襲った。
「デュオ!?」
 うずくまるデュオに、皆が駆け寄る。
「…ごめん。何でもない」
 痛みはすぐに治まり、デュオは笑って立ち上がった。
「少し休むか?」
「平気平気。心配いらねーって」
 心配そうに見つめるヒイロに、ひらひらと手を振る。
「そんじゃ、行ってみようぜ」
 先に歩き出して、城の扉を見上げる。
 木造で古びてはいるがしっかりとした造りの大きな扉は、訪れる者を拒んでいるような印象を与えた。
 押してみるが、びくともしない。
「う〜ん」
 今度は力一杯押してみる。扉はまったく変化なし。
「…だめだ、こりゃ。びくともしないぜ」
「全員で一気に押してみるか」
 その時、ヒイロが動き、片手で押す。
 ギイ…という音を立てて、あっさり扉は開いた。
「開いた…」
 思わず目を丸くする4人。
「…おまえって、馬鹿力…」
 ヒイロを見て、こいつを怒らすような真似はしないでおこう、と心の中で呟くデュオであった。
 中は思ったより明るかった。霧のせいで日光はあまり届いていないはずなのに、薄暗いという言葉は全然当てはまらない。
「ほお。なかなか立派なものだな」
 城の中を実際に見たのは初めてなため、皆興味深そうに周囲を見回す。
「よく来たね」
 突然の声に、息を呑む。
 正面の大きな階段の上に、いつの間にか人が立っていた。それは、デュオたちも知っている人物だった。
「トレーズ先生…あんたが…」
 アカデミーの卒業生であり、今は高名な教授として務めている青年。講義を受けたことも何度かある。頭の堅い教授陣の中では珍しく、物事をきちんと見ている人だと感心していたものだ。
「まさかここが気付かれるとはね。私も思わなかったよ」
 笑みを浮かべながら、跳び上がり、デュオたちの前に下りた。ふわりと、重力を感じていないかのように優雅に着地する。
 黒のマント姿が、これ以上はないというくらいに似合っていた。
 伝説の《吸血鬼》のイメージがぴたりと合う。
「トレーズ! 貴様が吸血鬼なのか!」
「言わずもがな…だな」
 笑みを浮かべたままの口元から、白い牙が覗いた。
「吸血鬼退散!」
 デュオが十字架をかざす。
「生憎だが、そんなものはまったく効かないのだよ。伝説というものは、真実ばかりではない」
 可愛いものだねと、おかしそうに笑う。
 まったく効果はないようである。
 拍子抜ける少年たちに対して、トレーズの笑みが冷たく一変した。
「…さて、ここまで知られた以上、君たちを帰すわけにはいかないな」
 低く呟きながら、ゆっくり歩み寄る。
「これでもくらえ!」
 五飛がニンニクの入った袋を投げ付けた。
「…やれやれ。別に何ともないが、この匂いはあまり好めるものではないね」
 マントで鼻を覆うが、別段ものともせずに踏み潰す。
 次の瞬間、駆け寄り、腰の剣を抜いて斬りはらう。
 咄嗟に5人は避け、それぞれ散らばる。
「はぁーっ」
 五飛がトレーズに蹴りかかる。
 五飛の家は代々武闘家の家系で、彼自身も称号を持つほどの達人だ。武術で彼にかなう者はそうはいない。
 が、トレーズは易々と交わした。
「何!?」
 一瞬驚いた五飛にトレーズの剣が迫る。そこへトロワが拳銃を放ち、トレーズは跳び上がる。
 すかさずデュオが縄を放ち、絡み取る。五飛の家で育ったのだ。デュオとて幾らかの覚えはある。
 しかしトレーズは落ち着いた様子で縄を切り、着地を果たした。
 デュオは身構えながら隣にいるカトルに小さく耳打ちする。
「カトル。おまえ何かやってるか?」
「護身術程度なら」
「よし、一応みんな何かの心得はあるんだな」
「うん。互いの余計な心配はいらないみたいだ」
「これで思いっきり動けるぜ」
 挑戦的な笑みを浮かべ、ナイフを取り出す。
 5人はトレーズを取り囲み、各々身構えた。
 トレーズはそれに、ふっと笑ったようだった。
「デュオ! 後ろだ!」
 ヒイロの言葉に振り返ると、茨が襲いかかってきていた。
 咄嗟にナイフでなぎはらう。
「何だよ、こいつは!」
 見ると、バラが周囲の床に咲き誇っていた。その茎や花はまるで触手のようにうごめいている。
「私はこういう《力》を持っていてね…」
 そう言って笑うトレーズに反応し、バラが揺れる。
「バラに埋もれて死ぬ、というのもなかなか美しいと思わないかね」
 一斉にバラが5人に襲いかかった。
「上だ! 階段へ!」
 トロワの指示に従い、階段へ走る。
 近い場所にいたカトルとトロワが先に辿り着き、階段を駆け上がっていく。
 五飛も何とか辿り着く。
 1人苦戦していたのはデュオであった。切っても切ってもバラは迫ってきてキリがなく、舌打ちする。足を取られないように進むのに精一杯で、走ることなど無理な状況だった。
 それに気付いたヒイロが、デュオの足元にライターを投げ付ける。バラに火が付き、攻撃が止まる。
「デュオ」
 その隙にデュオはヒイロと一緒に離れた。一目散に階段へ向かう。
 他に攻撃目標をなくしたバラが2人を目がけてくる。
「デュオ! ヒイロ!」
 トロワが階段の踊り場に掛けてあった燭台を取り、2人の背後に迫っていたバラにぶつけ、何とか2人は3人と合流できた。
 先刻ヒイロが付けた火は次々と広がり、バラを焼き絶やしていく。
 トレーズはそれを冷ややかに見ていた。
「…なかなかやるね。けれど安心するのはまだ早い」
 滑るように歩くトレーズがバラの花を数本、5人に向かって放つ。
 咄嗟によけるが、壁にはバラが音を立てて突き刺さる。その力に思わず悪寒が走った。
 トレーズが階段を上がってくるのを見、それぞれ城の奥に向かって走り出す。
 よけた方向の違いから、ヒイロとデュオ、トロワとカトルと五飛の2つのグループに分かれてしまった。
 トレーズはどちらを追いかけるか少しの間思案し、奥の部屋へ歩き出した。





 ヒイロとデュオは奥の一室にいた。
 物置部屋なのだろう。殺風景な狭い室内に、埃を被った調度品が数個転がっている。
「くっ」
 デュオは苦々しい顔をして右足首をさすった。バラの花をよけた時に捻ったらしい。腫れてはいないが、時間が経つにつれ、熱と痛みが増してくる。
 隣に腰を降ろしたヒイロが足首にそっと触れてきた。そのまま癒すように包む。
 ヒイロの体温はデュオより少し低い。冷たい感触が気持ち良くて、デュオは目を閉じる。
 ヒイロが空いた方の手でデュオを抱き寄せた。
「安心しろ。おまえはオレが守ってみせる」
 その声に何故か本当に安心してしまい、微笑んだ。


 心地好い静寂に、ふと何かを引きずるような音がして目を開ける。
「何だ、この音…? 上? …!」
 天井に開いた小さな穴から、バラが伸びてきていた。
 慌てて立ち上がるが、痛みに顔をしかめる。
「大丈夫か」
「これくらい何ともないって」
「……」
 ヒイロは無言のままデュオを抱き上げ、廊下に走りだした。
 廊下に出ると、右手はすでにバラに覆いつくされていて、左手の奥に逃げる。
 2人に気付いたバラがそのスピードを速める。
「ヒイロ! オレはいいから、降ろせって!」
「馬鹿を言うな。その足で走れるわけがないだろう」
「けど…っ」
 デュオは降りようともがくが、ヒイロがしっかりと抱いたまま離さなかった。
「美しい友情だ」
 角を曲がった所のつきあたりに、トレーズが立っていた。
(追い込まれた…!)
 前はトレーズ、後ろはバラが迫っている。逃げ道はない。こうなれば決死覚悟でトレーズを倒すしかない。
 ヒイロがゆっくりとデュオを降ろす。
「残念だがここまでだよ」
 動きかけたトレーズに、ヒイロが突っ込んでいった。
 だが、簡単に払い飛ばされ、ヒイロは壁に打ちつけられる。
「ヒイロ!」
「人の心配をしている場合かね?」
 トレーズがデュオの首に手をかける。
 力が込められる、その時。
「な…!?」
 トレーズの心臓には、深々とナイフが刺さっていた。
 デュオはさらに力を込め、限界まで刺す。
「こ…んな……」
 目を見開き、ゆっくりとトレーズは倒れた。
「―――やったか…?」
荒い息を整えながらデュオは呟いた。
 相手は吸血鬼だ。これでも死なないかもしれない。
 危惧をよそに、トレーズの身体は段々と灰と化し、崩れていった。
 それを見て、急に身体中の力が抜け、デュオはへなへなとその場に座り込んだ。
「デュオ…」
 差しのべられた手とヒイロの顔を交互に見つめ、辺りを見回す。バラは跡方もなく消えていた。
 ようやく安堵し、深く息を吐く。
 ヒイロの手に捕まりながら立ち上がり、笑いかけた。
「これで終わったな」
「ああ」
 大きく背伸びをし、息を吸う。
「よーし。んじゃ、とっとと五飛たちを見つけて帰ろうぜ」
 うなづくとヒイロはまたデュオを抱き上げる。
「わっヒイロ。もういいって」
 慌てて背を浮かすと、ヒイロに睨まれた。
「何を恥ずかしがっている」
「何って…」
 平然と真顔で訊かれ、デュオは言葉をなくす。
 しみじみと溜め息と吐き、諦めてヒイロの肩にもたれかかった。
 そんなデュオにヒイロは苦笑し、歩き出した。







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