足利尊氏1


<両統迭立>
 両統迭立(りょうとうてつりつ)とは皇位を持明院統と大覚寺統という二つの皇統が交互に継ぐことをいう。発端は鎌倉時代末期の第八十八代後嵯峨天皇にある。後嵯峨天皇は譲位して嫡長子・後深草天皇を即位させたが、次男の亀山天皇を偏愛して後深草天皇を無理矢理退位させ亀山天皇を即位させた。後深草天皇は父親であり治天の君(実際に政務を取る天皇家の主、治世の君とも)である後嵯峨法皇に逆らうことはできなかった。後嵯峨法皇はさらに皇太子に亀山天皇の皇子(後宇多天皇)を立てた。後嵯峨法皇は崩御の際に所領の分配をしたのみで皇位に関しては本意を明らかにしなかった。すなわち自分の死後の治天の君は幕府の推戴に任せるとの趣旨であった。
 北条氏は後嵯峨法皇の意に従い亀山天皇を治天の君と定めた。治天の君になり院政を望んでいた後深草上皇とその近臣達の失望不満は大きく、ついに天皇方と院方の対立へと発展した。しかし亀山天皇は嫡流である後深草上皇の不遇に同情し後宇多天皇に譲位した後、皇太子に上皇の皇子(伏見天皇)を立てたので事無きを得た。この後両統交互に皇位についたが両統の対立は激しさを増していった。
 困惑した幕府は両統迭立の案を立てた。この案にもとづいて両統の代表者である後伏見上皇と後宇多法皇が談合して今後両統から確実に交互に皇位につくことが約束された(文保の和談)。これに従って花園天皇が譲位して後醍醐天皇が即位した。皇太子(後二条天皇の皇子)が早世すると後醍醐天皇は自分の皇子を皇太子に立てようとしたが幕府は先の和談に従って持明院統の量仁皇子を東宮(皇太子)に立てた。
 このことが後醍醐天皇の討幕運動の直接的な原因となるのである。 


2000.2.6

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