足利尊氏11
<尊氏の晩年>
尊氏と直義の対立以来、幕府は権力争いが相次ぎ、尊氏は自分の与党の離反を防ぐため好餌を与えて彼らを引き付けておく必要があった。さらに尊氏は鷹揚な性格から望まれるままに諸将に領地を与えてしまった。このため大きな力を持つ家臣を作り出してしまった。また尊氏は情に厚く、後醍醐天皇を北条氏のように流罪にしたり、北朝を擁立しながら徹底的に南朝を滅ぼすことができなかった。直義と師直を失った尊氏は、幕府を安定化することもできず、晩年を実子・直冬(直義の養子)や楠木正成の遺児・正儀との戦いに費やす。
正平七年(文和元年、1352年)に京都へ侵入した南軍を撃退して義詮が京都を奪回した後も尊氏は鎌倉に留まって関東の混乱を押さえていた。後光厳天皇が即位して間もなく、伯耆の山名師氏とその父時氏が幕府から離反して南朝へ属した。直冬は九州から長門へ移っていたが、山名父子と協力して再び西国は騒然となった。また十一月には石塔頼房と吉良光貞が南軍に属して楠木正儀と共に摂津へ進軍した。しかし奥州では北畠顕信の多賀城が陥落するなど北朝が有利だった。
正平八年(文和二年、1353年)の夏ごろ、直冬が京都を目指して進軍してきた。直冬と山名父子は山陰を制覇して丹波から京都へ侵入した。また楠木正儀らの南軍も京都へ攻め込み、義詮は防戦しきれず後光厳天皇を奉じて近江へ逃れたが、追撃され美濃の垂井まで後退した。京都は南軍に再び奪われ、後村上天皇は賀名生から河内の金剛寺へ行宮を遷した。南朝は直冬を総追捕師に任じて尊氏討伐を命じた。同年九月、尊氏は今だ関東が平穏とは言えないにもかかわらず京都の情勢を知りやむなく出陣して、美濃で義詮と合流した。尊氏は義詮と共に京都へ攻め込み南軍を撃退して、京都を奪回した。直冬は逃れたが、石見で再挙を目指して兵を募った。このころ既に尊氏は発病していたようだ。
正平九年(文和三年、1354年)四月、南朝の総司令官といえる北畠親房が賀名生で六十二歳で没した。だが同年十二月に旧直義党で北陸に勢力を持つ桃井直経と斯波氏頼(高経の子)が離反して、南軍に属したため、南軍は大挙して北陸方面と京都南方から攻めあがった。これに石見の直冬も加わり、尊氏は支えきれないとみて義詮を播磨へ向かわせ、自らは後光厳天皇を奉じて再び近江へ後退した。京都は南軍と直冬によってまたしても制圧された。だが奥州では南朝最後の拠点・宇津峰城が陥落してこの方面の南軍は瓦解した。翌年三月、尊氏は東国の兵を集結させて京都へ攻め込み南軍を壊滅させ京都を制圧した。直冬は西国へ逃れたが、これ以後、盛り返すことができないまま、消息を絶ち、再び世に現れることは無かった。
各地の南軍が瓦解する中、九州で征西将軍・懐良親王が肥後で勢力を保っており、正平十年(文和四年、1355年)には九州探題を撃退して博多へ進出して、北九州一円に勢力を広げた。これ以後、二十年近く懐良親王は九州で勢力を保つことになる。
正平十三年(延文三年、1358年)四月、尊氏はかねてからわずらっていた瘍が悪化して病死した。五十四歳だった。正平四年(貞和五年、1349年)以来、休む暇も無く戦いつづけた晩年だった。
<おまけ>
最後のほう、特に尊氏10と11は間違って部分が結構あるかもしれません。尊氏って有名なわりには地味じゃないですか、彼の人生の大体の流れを知ってもらえたら僕は満足ですので、もっと正確に(年月日とか、人物の名前とか)知りたい人は研究してみてください。
人物の一般的イメージや性格とか、なるたけ書かないようにしました。それは最初から性格を決めつけるみたいで嫌だったからで、歴史上の人物の性格は自由に想像すれば良いと思います。
ある人物の行動が悪意によるか善意によるかって、主観的に判断するしかないじゃないですか。結果や状況からは判断できないし。僕ってかなり優柔不断なやつなんで、個人的には尊氏みたいな人生は自分のことみたいでおもしろいし、なんか憎めない気がします。