足利尊氏10


<観応の擾乱2>
 尊氏と直義は和睦して京都へ戻ったが、尊氏党の土岐頼康、細川頼春、仁木義長、赤松貞範らは直義党に政権を握られたことを不満に思い京都を去り自領に戻り兵を募った。九州では直冬と尊氏党の一色範氏が争っていて、高師直を除いても尊氏党と直義党の争いは収まらなかった。南朝に降伏していた直義は、南朝に両統合一と武家に政治を委任することを申し入れたが拒絶された。直義と南朝は決裂した。正平六年(観応二年、1351年)八月、尊氏党の不穏な動きに危険を感じた直義は、再び京都を出て北陸へ行き桃井直経・斯波高経らと謀って挙兵した。
 直義と南朝勢力に挟まれた状態になった尊氏は、北朝を廃すること、神器を返還すること、南朝の年号を使うこと、という条件で南朝に降伏を申し入れた。直義勢が近江観音寺城の六角(佐々木)信詮を攻めて殺したので、尊氏は出陣して浅井郡八相山で桃井直経・石塔頼房を撃退した。直義は越後に逃れ、信濃を経由して鎌倉へ向かった。同年十月二十五日、尊氏は南朝から直義追討の綸旨を受け取って、義詮を京都を守らせるために残して同年十一月に京都を出陣した。
 鎌倉へ入った直義は、ここにいた尊氏の子・基氏を追放して兵を募った。直義は鎌倉を目指して進軍している尊氏を迎撃するため兵をやったが、直義軍は駿河で連敗した。尊氏は追撃して各地で直義軍を破って直義を伊豆へ追い詰めた。尊氏は直義を降伏させて鎌倉へ呼び寄せて延福寺に幽閉した。直義を幽閉しても、未だに各地に直義を支持する者が残っており、尊氏と直義の争いの隙をついて南朝勢力も不穏な動きを見せていた。正平七年(文和元年、1352年) 二月、直義が急死した。直義党を弱体化させるためと、南朝の動きを警戒して尊氏が毒殺させたと言われている。
 このころ畿内では、尊氏の降伏を認めた吉野の南朝が義詮と交渉して後村上天皇の京都還幸を行おうとしていた。義詮は要求に応じて神器を南朝に返還した。後村上天皇は賀名生を出て大和に行き、そこから住吉へ向かった。同年閏二月十五日、住吉の後村上天皇のもとに伊勢国司・北畠顕能の軍勢が到着した。後村上天皇は、顕能と共に男山に移り、ここに河内・大和の楠木正儀、和田正忠らの軍勢が馳せ参じた。南朝の動きに対して義詮は警戒を強め、男山に使者を送って問いただした。後村上天皇は、自ら使者に会い弁明したが、その後間もなく軍勢を京都へ攻め込ませた。義詮は細川顕氏や細川頼春と共に防戦したが、破れて近江に逃れた。京都は南朝に占拠され、北朝の光厳・光明・崇光上皇(崇光は尊氏が南朝に降伏したため廃されていた)と廃太子・直仁親王が男山へ連れ去られた。
 これに対して尊氏は鎌倉を動くことができなかった。上野で挙兵した新田義宗(義貞の嫡子)・新田義興(義宗の兄)・脇屋義治(義助の子)が鎌倉を目指している上に、陸奥の北畠顕信も南下の動きを見せたからである。尊氏は武蔵で義宗と戦いこれに破れ、義興と義治に鎌倉を奪われた。しかし、尊氏は、その後新田勢を破って鎌倉を奪回した。新田勢は壊滅したが、新田義興は、この後も関東でゲリラ活動を行い続ける。
 関東での尊氏の勝利が畿内に伝わると、近江に逃れていた義詮が盛り返して大軍で京都へ攻め込んだ。南朝の総大将・北畠顕能は京都で戦うのは不利とみて、後退して男山に防御陣を作った。義詮はこれを厳重に包囲して攻めたてた。南朝勢は敗走して、後村上天皇は乱軍の中を落ち延びて河内東条に逃れた。この時北朝の三上皇と廃太子・直仁親王も南朝に拉致されたまま東条へ連れ去られた。
 義詮は京都を回復したが、北朝の皇位継承者をすべて連れ去られたため窮することになった。同年五月、義詮は南朝に三上皇と皇太子の環京を申し入れたが拒絶された。同年六月、後村上天皇が北朝の三上皇らを拉致したまま賀名生へ戻ったため、義詮は光厳上皇の第三皇子・弥仁(いやひと)親王を立てることにした。新帝の即位には、神器と治天の君か先帝による譲国の儀(宣命)が必要だったが、治天の君にあたる光厳上皇と先帝の崇光上皇は賀名生に連れ去られていた。このため光厳上皇の母で弥仁親王の即位に反対している広義門院(西園寺寧子)に、無理に迫って治天の君に準ずる格を与えて譲国の儀を行い、神器の無いまま弥仁親王を強引に即位させた(後光厳天皇)。北朝の権威はもともと低かったが、これによりさらに低下してしまった。

2000.2.21/2.23

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