当宗が日蓮宗不受不施派と名乗ることには深い訳があります。
「不受」とは、不受不施派の僧侶は謗法の供養は受けない(お供えを受けない)ということです。「不施」とは謗法の他宗他派の寺社などへ詣ったりお供えをしないことです。
「不受不施派」と名乗れば、日蓮大聖人の後を信心しているものが、「不受不施派」と「受不施派」の二つに分かれていることがすぐ分かります。不受不施流の信心をしているものは、当宗不受不施派と不受不施日蓮講門宗の二つです。受不施派を信心しているものは、日蓮宗(身延派=平法華) 本門宗 (富士派)などの日蓮宗の宗派です。
各派とも日蓮大聖人の教義を信じていることには違いありませんが、その別れた理由が二つあります。
その一つは、門下の者がお題目を信じ弘める時、強い方法をとる折伏(しゃくぶく=正しいお題目に信伏させる)の不受不施的やり方と、弱い方法の摂受(しょうじゅ=やさしい方法で元の信心に戻させる)による受不施に別れたこと。
その二は、法華経を解釈する方法に法華経二十八品を二つに分けて、前半分の十四品を迹門(しゃくもん)とし、後半分の十四品を本門とします。日蓮大聖人は本門に釈尊(仏様)のご本意があるから本門の立場に立って法華経一部(二十八品)を観、なおその他の「一切経」を観なければならぬとのお宗旨を立てられたのですが、これが大聖人ご入滅の後になって、本門の立場から迹門の教えを解釈すると、迹門が生かされているから、法華経一部を本迹の差別なく用いることができるとする流派が「一致派」で、不受両派と身延派です。本門の立場を重要とし迹門は劣る教えとして本門の立場によるのが「勝劣派」です。
このように立義によって分派していますが、1595年(文禄4年大聖人滅後約300年)太閤秀吉が千僧供養に、京都の本宗の各派を招待するまでの門下は、「一致勝劣」の別なく不受不施的なやり方をしていました。「寛正7年の盟約」では『本迹は一体のこと』『謗法(ほうぼう)の堂に参詣してはならぬこと』『折伏を正意として布教すること』など各派一致して行う約束がありました。
しかし、太閤秀吉の威勢と宗風の緩みが災いして、京都の寺々は千僧供養に出席し、信者でない太閤秀吉の供養を受けて、「受不施」となり分派してしまいました。
京都妙覚寺の日奥聖人は日蓮大聖人以来の流儀を変えることなく、寺を捨ててまで不受不施を守り通されたのです。この時まで日蓮門下は「法華宗」と自他共に称していましたが、「受不施」が分派したので、彼らを責め諭して早く元の不受不施流に戻るようすすめました。しかし、和融することができず、やむなく不受不施派を名乗らざるを得なくなりました。
不受不施派こそ「日蓮法華宗」の正統派です。
秀吉の千僧供養に際し、日奥聖人は不受不施義を主張し出仕を拒否したことから弾圧され、その後1599年(慶長4年)徳川家康は不受不施派の京都妙覚寺の日奥と受施派の京都妙顕寺の日紹を大阪城にて対論させ、その結果日奥聖人は流罪となった。
1630年(寛永7年)に徳川幕府は江戸城で不受不施派の池上本門寺の日樹らと身延久遠寺の日乾らを対論させ、日樹らを流罪とさせた。1665年(寛文5年)いよいよ不受不施派の禁制化が始まり、翌年不受の態度を貫くことが不可能となり、不受不施派の僧俗(僧と俗世間の人)は潜伏へと入っていったのです。
激しい弾圧に耐えた不受不施派の信徒は、211年の時を経て1876年(明治9年)明治政府により再興を許可されたのです。(正妙寺だより令和6年2月号)
1595年(文禄4年)豊臣秀吉の東山妙法院大仏殿建立後千僧供養の時、日奥聖人はただ一人「受けず施さず」の宗規を守って出仕を拒絶した。これに端を発して長い禁制史を綴る宗門となるが、慶長年間に起きた大阪城対論、寛永年間の身池対論(身延久遠寺・池上本門寺)寛文年間の法難、そして中でも1665年(寛文5年)徳川幕府によって「邪宗門」の烙印が押され禁止されてしまいました。幕府の抑圧に対し、決して屈しない不受不施派(内信組織)の姿は、あらゆる階級の人々から共感を得ており、しかも全国的な組織を持っていたため、幕府にとっては驚異的な存在であったのです。
信徒は備前の支配者、松田の保護で安芸門徒と並び称される「備前法華」を造り、その勢力を広げていたことから、備前藩主池田光政も1666年(寛文6年)幕府の暴政に加勢し不受不施寺院三一三ヶ寺廃寺し、僧侶五八五人を追放しました。1668年(寛文8年)矢田部六人衆の処刑、1794年(寛政6年)行川法難、1802年(享和2年)備中惣爪法難、1814年(文化11年)門田法難、1819(文政2年)益原法難、1821年(文政4年)矢原法難、1831年(天保2年)備中山田法難、1834年(天保5年)佐伯・益原法難を受け、ついに1838年(天保9年)に西は芸備から江戸・上総下総に至る全国の不受不施派法中、信徒が一網打尽に逮捕され、強固だった内信組織も壊滅の危機に陥りました。
この時、不受不施僧としてただ一人難を逃れた照光院日恵聖人は、内信組織を復活し乏しい宗費を割いて、智誠院日正(後の再興法主日正大聖人)を東都へ留学させ、再興への道を切り開かれたのです。
明治新政府となり、再興法主らの不受不施派への復宗を望む一般信徒の嘆願書の提出が相次ぎました。そのような時、「地租改正」が進展せず、県政の行き詰まりで冷静さを失っていた岡山県令 石部誠中には、不受不施派の動向が政府に敵対するものと映り1875年(明治8年)9月、日寂、日寿、日耀、日円聖人等がいわれのない逮捕、弾圧を受けました。
新政府の下でも、正しい宗教活動は困難を極め、世論に訴えることが最善の策と考えた再興法主は、マスコミ(明教新誌)に働きかけ「信仰自由の今日、理由のない禁圧は解除すべきである」と論説しました。すると反響は大きく受・不受正邪の論議が公然と行われるようになりました。それを機に政府の正確な情報を掴むことができるようになり、受不施派を刺激しないよう「宗義の正邪を論じない形」の願書を再提出しました。
その頃、石部誠中に代わり岡山県令として赴任してきた高崎五六氏の強力な後ろ盾も得て、1876年(明治9年)4月10日教部省への出頭を命じられた再興法主に、教部大輔 宍戸璣氏により直接「日蓮宗不受不施派名再興の公許」を申し渡され、同時に大講義・管長心得に任ぜられたのです。
再興法主日正大聖人のご努力により不受不施派信仰が禁止されてから211年の時を経て、再興の日を迎えたのです。4月10日を「不受不施派再興の記念日」としてお祝いをするのです。(正妙寺だより令和6年3月号)
豊臣秀吉の「千僧供養」に応じることは「不受不施」の制規を命とする日蓮宗にとっては一大事であり、日蓮宗の滅亡であるとして妙覚寺(京都)十九代日奧聖人は出仕を拒否し、妙覚寺を去った。日奥聖人の退出後、妙覚寺の法憶は日船聖人によってつがれたが、身池対論の結果を知った聖人とその同志三十余名は、「時節到来あるにおいては、異体同心に一間四面の草庵にても 京都妙覚寺より持ち出した日像聖人御作の日蓮大聖人の座像を安置する処を不受不施門流の「祖山」となすべき事」を誓約して妙覚寺を去っていった。 明治9年(1876年)、派名再興はなし遂げられ、 明治15年に妙覚寺(岡山)を再建、不受不施派の「祖山」としたのです。