【讃歎とは仏や菩薩の徳を讃え説くこと)
京都の町方に生まれた日奥聖人は、幼くして学識が認められ、28歳の若さで洛内日蓮宗十六個本山の一つ、京都妙覚寺の住職に就任した。
1595年(文禄4年)9月、天下の覇者秀吉が権勢を王城の地に顕現させようとして東山方広寺大仏の開眼供養を催した。派手好みの秀吉が洛内十六本山に出仕を命じたが、どうしても出仕を拒んでゆずらなかった日奥聖人と、権力に服し他宗の供養を受けるという二派に分裂してしまった。後にいう不受不施派と受不施派であるが、日奥聖人は不受派の強行論者で宗祖日蓮の伝統を継ぐ神聖な制戒をあくまで貫きとおした。そのため宗門からも幕府からも弾圧の手が伸び、当時京都妙覚寺の住職であった日奥聖人は、意を決し秘かに本山を去っていったのである。
日奥聖人は、日蓮大聖人の立義を正しく守った人であり、不受不施主義を名乗った祖であります。
そのようなわけで、一生懸命に煩悩や悪行から離れ、身心を清らかにして、真心を込めて励み、三業相応の信心(身体で妙法蓮華経への信心を行い、口で南無妙法蓮華経の題目を唱え、心に南無妙法蓮華経を常に忘れないように、この三つのことが一体になった信心)を行い、三徳(私たちを守護してくださる徳、教導してくださる徳、慈愛してくださる徳)を具えている本仏釈尊に帰依いたします。
久遠の昔から、犯してきた自分が正法を誹謗する「謗法罪」と、他人が犯した罪でも自分も共同責任として受けなければならない「与同罪」を決して犯すようなことはせず、今の罪深いこの身から仏の身になるまで、過去・現在・未来(三世)の一切の諸仏が受け持ってこられた、上行菩薩所伝の南無妙法蓮華経を受け持ち、信心いたし奉ります。
心からお願い申しますことは、この功徳によって、無限に遠い昔から積んできた仏道修行の妨げとなる悪業の障りが忽ちに消滅し、今生では災難を払い除け、心の中の願い事が悉く成就し、後生では生死の苦しみの中に輪廻する三界を早く出ることが出来て、確かに寂光の浄土へ行けるようお導きください。
また、この世界の十界にいます私の親類縁者、あるいは縁のある者、縁の薄い者、すべての者たちに、差別なく御利益をくださるようお願い奉ります。
讃歎おわり
日蓮大聖人絵巻(清澄の開宗)「日蓮聖人註画讃」(祖山妙覚寺蔵)より抜粋
日蓮宗の開宗
日蓮大聖人は今からおよそ8百年前に今の千葉県鴨川市小湊で生まれました。12歳の時、清澄山千光寺という天台宗の道善坊の弟子となり、16歳の時出家し蓮長という法号をもらいました。32歳の時、色々の教えがある中で仏教が一番優れており、その仏教の中で最後に説かれた法華経にお釈迦様の本当の考えが説かれてあること、南無妙法蓮華経の「お題目の宗旨」が末法(お釈迦様が亡くなって2千年を過ぎた末の世で人々の心が大変悪くなり正しい法を信じなくなった時代)の人を救う教えであることを覚りました。
日蓮大聖人は、建長五年清澄山にかえり、6月2日の朝、旭ヶ森で昇る太陽に向かって高らかにお題目を唱えて宗旨を開かれました。