この世界をお釈迦様は、娑婆世界と言っています。娑婆世界とは忍土即ち苦しみを耐え忍んで暮らさなければならない土地だとしています。なぜ、私たちは苦しまなければならないのかと言えば、私たちはお互い自我が強くて自分のつまらない欲望を満足しようとするからです。この欲望が煩悩となって自分も苦しみ人をも苦しめるのです。
昔から百八煩悩とよく言います。私たちが生きている以上、五官と心の働きによって色々なことを感じます。五官とは、「眼、耳、鼻、舌、身」これに「意(こころ)」を合わせた「六根」といい、眼で見たものが能動的に悪かった(苦)、良かった(楽)、良くも悪くもない(不苦不楽)の三通りあり、六根で十八通りの煩悩があります。さらに、受動的に「苦痛だった」、「楽しかった」、「どちらでもない」の三通りの十八通りの煩悩があり、合わせて三六通りの煩悩に、それぞれ「過去」に感じたこと、「現在」感じていること、「未来」に感じることの三通りがあり、これを合わせて百八の煩悩があるのです。
さて、これらの煩悩のうちで私たちの心を悩ますものとして「三毒」という煩悩があります。「貪欲」「瞋恚(しんに)」「愚痴」です。 三毒は地獄餓鬼畜生の三悪道へ堕ちる原因となります。
「貪欲」は、「むさぼる心」不当にものをほしがる心であって、反対に他人に対しては、「物惜しみ」するのです。「欲しい」「惜しい」と自分に執着するから餓鬼道に堕ちるのです。(7月号盂蘭盆会参照)
「瞋恚(しんに)」とは、怒ることです。自分の欲望が満足できないと怒り、自分が不愉快になるばかりでなく、他人に迷惑をかけ、時には他人まで怒らせてお互いに争うことによって私たちの生活をいっそう混乱させてしまうものです。これによって、来世に地獄へ堕ちるのです。
「愚痴」とは、知恵がないために本能欲が強くて、私たちの文化の美しさを考えずして、ただ、食欲、睡眠欲、性欲など、いわゆる動物的欲望だけに生きようとし、より高い文化的な欲望を望まないため、お互いが争い苦しむ相です。 これによって「畜生道」に堕ちると言われているのです。 参照 不受不施派読本 一妙院日信著
如来寿量品第十六(自我偈=じがげ)
「自我得佛来(真読)」の漢文に返り点(✔)を打って和文にしたものが「我佛を得てよりこのかた(訓読)」です。信徒の皆様には、日常における馴染みの深いお経であると思います。
前号につづき、「自我偈」について解釈します。
私(釈尊)の浄土は破壊されることはないのに、人々は世界が焼き尽くされ、憂い怖れなどの諸の苦悩が悉く充満していると見るのです。
この諸の罪(煩悩にとらわれて生活している)人々は悪業の因縁によって、阿僧祇劫(非常に長い間)を過ぎても三宝(仏宝=悟りを開いた人、法宝=その仏の教え、僧宝=その教えを信受して修行する教団)の名を聞くことができないのです。
色々な功徳(世のため人のために役立つ行い)を修め心優しく穏やかで正直な人は、皆、私の身がここにいて、法を説いているのを見るのです。
私は、ある時にはこの人々の為に仏の寿命は限りないものであると説くのです。久しくして、仏を見た者には、仏には会うことが難しいと説くのです。
私の智慧の力はこのようなものです。智慧の光が照らすところは無量であり、量りしれないものです。
私の寿命は無数劫(無限の長い時)であり、長い修行で得たものです。 つづく