「無始以来の謗法罪与同罪を捨てて、今身より佛心に至るまで三世諸佛の持ち給得る上行所伝の南無妙法蓮華経を保ち奉る。」日奥聖人讃歎文
久遠の昔から、犯してきた自分が正法を誹謗する「謗法罪」と、他人が犯した罪でも自分も共同責任として受けなければならない「与同罪」を決して犯すようなことはせず、今の罪深いこの身から仏の身になるまで、過去・現在・未来(三世)の一切の諸仏が受け持ってこられた、上行菩薩所伝の南無妙法蓮華経を受け持ち、信心いたし奉ります。 正妙寺だより令和7年6月号シリーズお経⑧ 讃歎より
私たちの信心は、お題目を信じて成仏するのが目的ですから、謗法罪、与同罪を捨ててまで信心しなくても、ただ信心をすれば成仏できるのではないかと思うのですが、なぜ特に唱えなければならないのでしょうか。
旅行に例えれば、色々プランを考えて目的地に着くまでの計画を立てます。行く道を間違えたり、途中で変更すると無事に最初の目的地に着きません。
成仏の目的地を目指して実大乗(法華経)のお題目の乗物に乗って出発しても途中で謗法して乗物を変えたり、信心を間違えたりすると成仏の目的を達することができないのです。
このように自分から信心を変えた場合は謗法を犯したことになります。謗法とは正法をそしり汚すことです。
謗法には三通りあります。
一、謗身=自分が謗法すること
二、謗家=一家のうちに謗法者がいること
三、謗国=一国の中に謗法者がいること
第一番目が普通にいう謗法罪に当たります。二番目と三番目が与同罪に当たります。
与同罪とは自分が正しい者であってもその家やその国に謗法者がいると、旅行中に他から邪魔をされて目的地へたどり着けないのと同様に自分も成仏できないのです。皆が幸福にならなければ自分だけの幸福はないのです。
謗法罪と与同罪を取り除かないとお互いに成仏できないのです。
参照 不受不施派読本 一妙院日信著
如来寿量品第十六(自我偈=じがげ)
「自我得佛来(真読)」の漢文に返り点(✔)を打って和文にしたものが「我佛を得てよりこのかた(訓読)」です。信徒の皆様には、日常における馴染みの深いお経であると思います。
前号につづき、「自我偈」について解釈します。

皆さんのような知恵ある人たちよ、このことは疑ってはいけないのです。まさに永久に断じ尽くさなければならないのです。仏の言葉は実(真実)であり虚(偽り)ではないのです。
良医が狂子(本心を失った子)を救うために、巧みな方便を使って、実際には死んでいないのに死んだということに、誰も虚妄(嘘偽り)であると言わないでいるように。
私(釈尊)もこの世の衆生の父であり、その人たちの多くの苦しみや患いを救うのです。凡夫(悟りを得ていない人)は 心が顚倒(悪道に堕ちる)しているので、私は実際はこの世にいるのだが滅していると言うのです。なぜなら常に私を見ることで、わがままな心を生じ、自分勝手に振る舞い五欲に執着して悪道の中に堕ちて行くのです。

私は常に衆生が仏道に励んでいるかいないかを知っていて、どの様にしたら救済できるかを考えて種々の法を説くのです 。
私は、何を以て衆生を無上道(最高の悟り)に入らせて、速やかに仏身を成就させることができるだろうかと、常に念じているのです。 自我偈おわり
つづく