提婆達多品第十二で誦む
「われ過去の劫を念うに 大法を求むるを爲ての故に 世の国王と作れにと雖も 五欲の楽を貧らざりき 鐘を椎いて四方に告ぐ 誰か大法を有てる者なる」
=私(釈尊)の遠い過去世を思い出してみると、すべての衆生を救う勝れた教えを知ろうとして、身は一国の王であったが、思いのままの快楽を貪ることなく、鐘を撞いて四方に布令をだし、そのような偉大な法を知っている聖者を探し求めたのである=
寿量品第十六で誦む
「常に我を見るを以ての故に 而も憍悠の心を生じ 放逸にして五欲に著し 悪道の中に堕ちなん」
=常に私(釈尊)を見ることで、わがままな心を生じ、自分勝手に振る舞い五欲に執着して悪道の中に堕ちていくのです=
「五欲」とは、私たちの五根(五官)の
欲望の意味で、眼(げん)耳(に)鼻(び)舌(ぜつ)身(しん)の五根が、色(しき)声(しょう)香(こう)味(み)触(そく)の五境に対して起こす欲望のことです。
色欲は色彩や男女の姿形などに対する欲望。声欲は楽器の音色や歌詠みなどに対する欲望。香欲は芳香に対する欲望。味欲はすべての飲食美味に対する欲望。触欲は男女の肌や衣服に触れたいという欲望。総じて世俗的な人間の欲望なのです。
私たちの日々の生活では、これらの煩悩の根源となるものをいかに処理できるかということです。自分が自分に執着することが本当の幸福であるかどうかということです。
自分がこれに執着することで自分が苦しむ又他人を苦しめることになるなら良いことではありません。
私たちがものを見聞きし体験してこれを判断する場合、自我に立つ利己的なものかどうかということです。仏様はいつも物事を絶対的にみておられるので、自利利他(仏教用語=自分がしあわせになることと、他人を幸せにすることの両方を同時に実現すること)で、しかも深い覚り(自我をはなれて)の境地から判断されるが、私たち凡夫(覚りを得ていない人)は、相対的な自我に立ちやすく、苦しみを生じるのです。
そこで、私たちは信心によって常に仏様の覚りのお題目の境地にたって、日々の生活を営んでいかなければなりません。仏様の大慈悲の心とし、菩薩業を以て行動すれば、三毒(正妙寺だより10月号参照)が三楽となり、五欲苦が五欲楽とななり、即身成仏ができるのです。
参考図書 不受不施読本 一妙院日信著
行法式読誦法 用語解説
龍口法難
日蓮大聖人が受けた数々の法難の一つに龍口法難法難があります。
文永8年9月12日(1271年10月17七日)、鎌倉幕府は、幕府や諸宗を批判したとして鎌倉の松葉ケ谷(まつばがやつ)草庵にいた日蓮大聖人を捕縛し、酉の刻(午後6時頃)に佐渡流罪が言い渡されたが、9月13三日丑の刻(午前2時)平左衛門尉頼綱の指示で、鎌倉の口の頸の座(現龍ノ口)の刑場に引き出され、斬首されそうになったが、南方の江ノ島の方角から強烈な光り物(一説には稲妻との説)が現れ太刀を持つ侍の目がく
らみ(一説には刀に落雷した)、刑の執行は中止されたのです。
日蓮大聖人の熱心なる信徒の四条金吾にあてた手紙に「貴辺たつのくちまで連れさせ給ひ」「月天子は光物とあらはれて龍ノ口の頸をたすけ」安楽行品に云く「刀杖も加えず」、普賢品に云く「刀尋いで段々に壊れなん」と当時のことを振り返っています。
その年の十月佐渡への流罪が実行されました。
龍口御難会は10月24日(金)、佐渡御難会法要は11月20日(木)午前7時から正妙寺で執りおこないました。