足利尊氏9
<観応の擾乱1>
室町幕府は尊氏と直義による二頭政治でスタートした。具体的には尊氏が軍事指揮権と恩賞権を握り、直義が政務と裁判権を握った。つまり軍事以外は全て直義に委任するということだ。直義の方針は鎌倉幕府的な体制の再建を目指す漸進(ぜんしん)的なものだった。この方針は関東・北陸・中部など後進的な地域では支持を得たが、畿内などの武士には支持されなかった。これは関東が頼朝以来武士によって支配されていたのに対して畿内など西国では根強く天皇家の影響力が残っており、ここに武士が進出するためには直義の方針では問題があったためである。直義に不満を持つ者は、尊氏に直訴することでこれを解消しようとした。このため尊氏に取次ぐ執事の高師直に集まる者が現れてきた。尊氏は情に脆く直訴されると許してしまうようなところがあった。尊氏に直訴することで訴訟問題を委任されている直義の判決が覆れば裁判が機能しない。かといって尊氏へ権力を統一することはできない。性格上、尊氏は軍事はともかく政務や裁判を行うのには適さない。尊氏と直義による二頭政治は、両者とその与党の間に軋轢を生み、深刻な問題となっていった。
興国四年(康永二年、1343年) 北畠親房は常陸で工作活動を行っていたが関・大宝の両城を失って頓挫し、十一月になって吉野に戻った。正平二年(貞和三年、1347年)楠木正成の長子・楠木正行(まさつら、この時20歳半ばぐらいか?)が行動を起こす。八月に紀伊へ攻め込み、九月には河内の矢尾城を攻め落とし、さらに河内藤井寺で細川顕氏を敗走させ天王寺へ追い詰めた。これに対して幕府は援軍として山名時氏を派遣したが、正行はこれも京都へ敗走させた。これを知り尊氏と直義は狼狽し、高師直・師泰兄弟に大軍を授けて出陣させた。翌年正月、師直は南朝の先陣・正行を破り、正行・正時(正行の弟)を自害させた(四条畷の戦)。師直は、さらに進撃して吉野へ攻め込み皇居・神社仏閣を焼き払った。後村上天皇は事前に逃れて賀名生(あのう)に移った。
南朝の拠点吉野を壊滅させたが京都では尊氏党と直義党の対立が深まっていた。正平四年(貞和五年、1349年)四月、直義は尊氏党を牽制するため養子・直冬(ただふゆ)を長門探題(中国探題)に任じ備後鞆の津に派遣した。直冬は尊氏実子(義詮の兄)だが母親の身分が低かったため尊氏に子として認知されていなかった。これを直義は哀れんで尊氏に頼んで養子としていた。閏六月、さらに直義は尊氏に迫って高師直を執事から解任させ謹慎させることに成功する。師直は直義が自分を暗殺しようとしているのを察知して自邸の警備を厳重にして篭っていたが、楠木正儀(正行、政時の弟)の押さえとして河内に滞陣していた弟・師泰を呼び戻した。師直は大軍を以って直義を攻めた。直義が尊氏の館へ逃れたので、師直はこれを包囲して尊氏を威圧した。尊氏は師直の要求をいれて、直義を隠居させ、直義党の上杉重能と畠山直宗を越前へ流罪とした。直義は幽閉され、上杉重能と畠山直宗は流刑地で暗殺された。尊氏は直義の後任として義詮(二十歳)を鎌倉から京都へ呼び寄せ、義詮の変わりに四男基氏(十歳)を関東管領として鎌倉へ派遣した。九月に師直は尊氏に説いて、中国探題の直冬に兵をやって攻めさせた。直冬は南朝側の少弐頼尚を頼って九州の肥前に逃れた。
ところがこの直冬に西国の武士が次々と帰属して相当な勢力になったので正平五年(観応元年、1350年) 十月、尊氏は、師直と共に追討のため出京した。この隙をついて、直義は石塔頼房を連れて京を脱出して河内の畠山国清の所へ向かった。直義は南朝に降伏して尊氏に反旗を翻し、南朝方として兵を募り、男山(石清水八幡宮)へ進軍してこれを制圧し京を威圧した。さらに直義党の越中守護の桃井直常が北陸の軍勢を率いて比叡山東坂元へ到着した。こうして武家が尊氏党と直義党に分かれて、南朝とも入り乱れて天下三分の形で争う観応の擾乱(じょうらん)が始まった。
京を守備していた義詮の手勢は直義党の勢いを恐れて逃亡、又は直義陣営へ寝返った。このため義詮は京から退却して、桃井勢が入京した。尊氏は急を聞き中国路から引き返して義詮の手勢と合流して、京へ進軍して鴨川(三条から四条あたり?)で桃井勢と戦い、これを逢坂山に敗走させた。しかし、尊氏勢から脱走者が相次ぎ兵が激減し、逆に直義勢は兵が増すという現象が起こった。斯波高経・今川範国・小笠原政長・山名時氏らの諸将も直義へ協力又は寝返った。そこで尊氏は京で戦うのは不利とみて、丹波へ退き、ここを義詮に守らせて自らは高師直と共に播磨の書写山へ移って、石見で直冬派と戦っている高師泰を呼び戻したりして兵の増強を行った。このころ細川頼氏も尊氏を離れ直義へ寝返った。
これに対して直義は石塔頼房を向かわせた。頼房は加茂郡光明寺に陣をとった。尊氏は出陣してこれを包囲して攻撃を加えたが、落とすことができなかった。直義は畠山国清らを援軍として向かわせた。正平六年(観応二年、1351年) 二月、尊氏は囲みを解いて摂津でこれを迎撃したが数で勝っていたにもかかわらず破れて松岡城という小城に入った(打出浜の戦)。ここでも逃亡者が相次ぎ夜になると残っている者がほとんどいないような状況になった。尊氏がもはやこれまでと残った者と最後の酒宴を開いているところへ、逃げ去ったと思われていた尊氏寵臣の饗庭(あえば)命鶴丸が直義が和議を望んでいることを伝えた。尊氏が密かに命鶴丸を直義のもとへ遣わして和議を申し入れていたといわれている。和議は高師直・高師泰兄弟が出家することで整った。師直兄弟は、京へ帰る途中尊氏のそばを離れないようにしていたが、尊氏が二人から離れようと馬を急がせる上に、間に護送の兵が入り込むのでついに尊氏とはぐれてしまった。この時、師直兄弟は、武庫川あたりで先に謀殺された上杉重能の子・上杉能憲の部下と畠山直宗の遺臣達に襲われ斬殺された。佐々木道誉と共に婆沙羅(ばさら)と恐れられた師直の最後だった。