足利尊氏3
<元弘の変>
正中元年(1324年)後醍醐天皇を中心とする鎌倉幕府打倒の密謀が発覚し、計画に参加していた武士は殺され、天皇の側近の日野資朝は佐渡に流された。その七年後に天皇の密謀を受けて北条氏の呪詛調伏を行っていた僧円観・文観・中円が捕らえられ、天皇の側近の日野俊基が鎌倉に連行された。天皇は身の危険を感じ花山院師賢を天皇と偽らせて比叡山に登らせ自らは東大寺に逃れ、さらに笠置山に移って兵を募った。こうして元弘の変が始まった。
後醍醐天皇に応じる武士はほとんどいなかったが、河内郡赤坂村の豪族楠木正成が笠置山に馳せ参じた。楠木正成は赤坂に戻り篭城の準備を始めた。赤坂城は規模が小さく、堀も無く、塀が一重あるのみだったらしい。これに対して幕府は足利高氏ら六十三人の将を攻め上らせた。このとき高氏は父貞氏の死去から間もなく仏事の最中だったので一度は辞退したが幕府の強い要請で出陣することになったらしい。最初に幕府軍の攻撃を受けたのは天皇の立て篭もる笠置山で、間もなく陥落した。天皇は先に赤坂へ向かっているはずの尊良親王と大塔宮・護良親王(比叡山前座主尊雲法親王)の後を追い尊澄法親王(宗良親王・比叡山座主)・万里小路藤房・花山院師賢等と共に笠置山を目指したが途中で捕まり、六波羅に引き渡された。このときの後醍醐天皇の様子は『光厳院宸記』によれば、乱髪に小袖と帷子を重ねて着ており王家の恥とある。これを書いた光厳天皇(後醍醐天皇は大覚寺統で光厳天皇は持明院統)も翌年には似たような境遇にあうことになる。尊良親王と護良親王は赤坂を脱出したが、尊良親王は京へ向かう途中捕らえられた。護良親王の行方はわからない。
笠置山を攻め落とした幕府軍は、楠木正成が立て篭もる赤坂山に猛攻を加えた。このとき楠木正成は巧みな戦術で大軍を相手に数日間持ちこたえたらしい。けっきょく、赤坂城は落城したが楠木正成は夜陰にまぎれて落ち延びた。足利高氏は戦後鎌倉へ引き上げたが、多くの武士が京にとどまって、護良親王と楠木正成の行方を探索した。しかし二人の行方はわからなかった。