足利尊氏4


<鎌倉幕府の滅亡>
 元弘二年(正慶元年、1332年)三月、北条氏は後醍醐天皇を隠岐に流し代わりに持明院統の光厳天皇を立てた。しかし数ヶ月後には吉野で護良親王が挙兵し、それに応じた楠木正成に赤坂城を再び奪われた。正成は赤坂城を平野将監に守らせ自らは千早城に移った。また播磨では護良親王の令旨を受け赤松則村(円心)が挙兵した。
 元弘三年(正慶二年、1333年)二月、幕府軍は吉野・赤坂・千早に攻撃を開始した。閏二月一日に吉野が陥落し護良親王は高野山へ逃れた。同日、赤坂城も陥落し平野将監は捕らえられた。平野将監は京都で斬られたといわれている。一方、千早城は吉野と赤坂城を落とした幕府軍が攻城軍に加わったが正成の巧みな戦術で攻め落せなかった。正成が大軍を引きつけている間に、後醍醐天皇が隠岐を脱出して出雲に渡り、名和長年に迎えられて伯耆の船上山に移った。播磨で挙兵した赤松則村は勢いを得て京都に迫り男山に陣取った。また後醍醐天皇の命で伯耆から千種忠顕が丹波に迫った。六波羅勢は千草勢を撃退したが、千草勢は逃れて赤松勢と合流した。
 このとき幕府軍の援軍として関東勢が京都を目指していた。この援軍を率いていたのは足利高氏と名越高家である。高氏は妻・登子(のりこ)と嫡子・千寿王(後の義詮、このとき四歳)を人質として鎌倉に残していたが幕府を裏切ると決めていた。京都に着いた関東勢は高氏と名越高家の二手に分かれて出撃した。名越高家は赤松勢と戦い討ち死にした。高氏は京を出て西に向かい桂川を渡り、老ノ阪を越え丹波に入った。高氏はここで幕府に対して反旗を翻し兵を募った。
 五月二日、高氏が人質として鎌倉に残していた登子と千寿王が姿を消した。かねてから脱出の準備をしていたのかもしれない。五月七日に高氏は京へ進み六波羅を攻め落とした。六波羅探題の北条時益と北条仲時は光厳天皇と花園上皇を連れて鎌倉を目指したが、途中で野伏に襲われて北条時益が殺され、光厳天皇が左の肘に矢傷を負った。北条仲時は自害して光厳天皇と花園上皇は捕らえられて京へ送られた。千早城を攻撃していた幕府軍は六波羅の陥落を知ると囲みを解いて逃げ出し、正成は千早城を守りきることができた。
 五月八日、新田義貞が上野(新田氏の本拠地)で挙兵し南下して武蔵に入った。このとき足利高氏の嫡子千寿王が合流した。これを知った関東の武士が続々と集まり新田勢は大軍に膨れあがった。同じ源氏でも新田氏は足利氏より格下と思われていたのである。義貞は鎌倉を目指したが、幕府軍の激しい抵抗にあった。だが、新田勢に相模の三浦勢が加わり六波羅陥落の知らせが届いたこともあり幕府軍は戦意を喪失し大敗して敗走した。それでも鎌倉は要害の地で簡単には攻め落とせないはずだったが、義貞は干潮を利用して海から攻め込み鎌倉を制圧した。北条高時ら一族郎党が東勝寺で自害し鎌倉幕府は滅亡した。また同時期に九州の鎮西探題の北条英時も少弐・大友・島津勢に攻められ自害した。
 後醍醐天皇は伯耆から兵庫に移り楠木正成を先陣として京へ還幸し、光厳天皇の即位をなかったものとし、年号を建武と改めた。建武の新政が開始されたのである。 2000.2.10

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