足利尊氏5


<建武の新政>
 帰京した後醍醐天皇は直ちに論功行賞を行った。高氏は後醍醐天皇の名「尊治」から一字を賜り尊氏と改名した。他に尊氏は恩賞として鎮守府将軍、武蔵と上総の守護職に任じられた。尊氏は全国の武士の代表と言える存在だが後醍醐天皇の新政に参加する権利は与えられなかった。鎌倉幕府は武士の権益を保護するための組織だったが、その機能が低下したため、倒幕へ全国の武士が協力したのだが、後醍醐天皇は武士が政治に参加することを認めなかった。後醍醐天皇の新政は武士の権益を侵す部分が多く、また中央集権化を急ぎ公家や寺社の既得権益も侵したため各層に失望と不満を与えた。
 尊氏は後醍醐天皇の新政に対し六波羅に館を置き奉行所を開設することで対抗した。これを危険視したのは征夷大将軍・護良親王である。護良親王は倒幕の功労者で畿内周辺の武士の信望が厚く、楠木正成・赤松円心らが追従していた。護良親王の勢力に対抗するため尊氏は後醍醐天皇の寵愛が深い阿野廉子に取り入った。阿野廉子は自分の子・恒良親王を皇太子に立てるため尊氏の力を借りた。こうして尊氏と護良親王の対立は激しくなっていった。尊氏の力を恐れた後醍醐天皇は護良親王から征夷大将軍職を剥奪し自粛を命じた。
 元弘三年(1333年)十二月、尊氏の弟・足利直義は関東を統治するため阿野廉子の子・成良親王を奉じて鎌倉に下向した。これは足利家の勢力が強い関東に武家組織を作るためである。直情的で開放的な尊氏に対し、直義は理性的で政治的な人間だった。
 建武元年、護良親王は尊氏を討伐するため諸国の武士に令旨を下した。しかし、これを察知した尊氏は後醍醐天皇に訴えた。尊氏討伐は後醍醐天皇が護良親王に指示したことだったが、事前に察知されたためかえって尊氏を刺激することとなった。このため後醍醐天皇は、名和長年に命じ護良親王を捕らえさせ鎌倉に流罪とした。直義は護良親王を東光寺の土牢に幽閉した。梅松論には護良親王が
 「武家(尊氏)よりも君(後醍醐天皇)のうらめしく渡らせたまふ」
と言ったと記している。

2000.2.10

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