足利尊氏6
<南北朝の始まり>
建武二年(1335年)七月、信濃で北条高時の遺児・時行が挙兵した(中先代の乱)。後醍醐天皇の新政に対する不満から多くの武士がこれに加担し、信濃守護・小笠原貞宗の軍を破り鎌倉を目指して進軍した。足利直義は成良親王を奉じて武蔵で迎撃したが破れて鎌倉へ撤退した。直義は鎌倉を守るのは不可能と見て西へ落ち延びたが、このとき部下に命じて幽閉していた護良親王を殺させた。
一方、京では尊氏が後醍醐天皇に自分を征夷大将軍に任じて北条征伐に向かわせてくれるよう願ったが、後醍醐天皇は許さなかった。焦った尊氏は、わずか五百騎で鎌倉を目指して出陣した。しかし各地の武士がこれに参加したため勢いを得て大軍となった。
直義は、鎌倉を占拠した北条勢の追撃を受けたが無事に三河の矢作(やはぎ)で尊氏と合流することができた。尊氏と直義は、進軍し北条勢を破り鎌倉を奪回した。
鎌倉に入った尊氏は、勝手に戦功のあった武将に恩賞を与え実質上将軍として振舞った。朝廷は尊氏の勲功を賞すると共に上洛を命じた。尊氏はこれに応じて上洛しようとしたが、直義が上洛するのは危険であると諌言したため思いとどまった。直義は尊氏を中心として関東に幕府を再建しようとしたのだろう。ところが尊氏は、勅命に逆らったことから政務を直義に任せて自ら浄光寺に篭り謹慎した。
上洛してこない尊氏に対し後醍醐天皇は、尊良親王を上将軍に任じて新田義貞を大将軍としてこれを補佐させ東海道から進軍させ、また陸奥の多賀城で義良親王(後の後村上天皇)を奉じて奥州を統轄している北畠顕家に鎌倉を攻めるよう命じた。これに対して尊氏はあくまで謹慎の態度を変えなかった。高師泰(高師直の弟)が三河の矢作で新田軍と交戦したが破れた。そこで直義が出陣し駿河の手越川原で防戦したがまた破れた。これを知った尊氏は直義を見殺しにはできないと言って出陣して箱根で新田軍と交戦してこれを壊走させた。この合戦の結果を知った全国の武士は朝廷から離反し足利方へ心を寄せた。足利軍に敗れた新田義貞は京を目指して敗走し、尊氏と直義は大軍を率いて追撃して上洛を目指した。
天皇方は千種忠顕・名和長年・結城親光が勢田を、新田義貞は淀を、脇屋義助(義貞の弟)が山崎を、楠木正成が宇治を守った。建武三年(1336年)正月一日に戦いが始まったが、十日になって新田勢が守る山崎・淀が破られたので天皇方は総崩れとなり、足利勢が京に乱入した。後醍醐天皇は比叡山の坂元へ逃れた。
十四日、奥州から鎮守府将軍・北畠顕家(北畠親房の子)が義良親王を奉じて大軍を率いて坂元に到着した。これにより天皇方は再び息を吹き返して、足利勢と激戦を繰り返したが、ついに足利勢は崩れて壊滅した。尊氏は丹波に逃れ、京は天皇方が制圧し 、後醍醐天皇は京に還幸した。
尊氏は、播磨の赤松・長門の厚東・周防の大内などの援助で九州へ落ち延びた。このとき尊氏は光厳上皇に密使を送り院宣を受け取っている。天皇方は尊氏を追撃しなければならなかったが、新田義貞が愛妾・勾当ノ内侍との別れを惜しんだため出陣が遅れたと言われている。尊氏追撃に向かった義貞は播磨の赤松円心(則村)の白旗城に阻まれた。
九州では天皇方の菊池・阿蘇氏が足利方の少弐・大友氏を破り少弐貞経が自害したため、尊氏が筑前に到着した時はかなり不利な状況だった。しかし、尊氏は劣勢ながら多々良浜で菊池・阿蘇軍を破ったため九州の諸将は尊氏に帰服した。尊氏は九州に落ちてわずか三ヶ月で大軍を率いて東上の途についた。このころ朝廷では奥州が不穏になったので北畠顕家率いる奥州の精鋭部隊を奥州に返していた。そのため守りが手薄になっていた。新田義貞は兵庫に退き、楠木正成と合流し、足利軍を迎撃することにした。尊氏は備後の鞆の浦で全軍を二手に分け、陸から直義を、自らは海上から兵庫を目指した。天皇方は直義勢を正成が、尊氏勢を義貞が防ぐ作戦を取った。このとき尊氏勢は義貞を無視して東上し神戸から上陸する動きを見せた。背後を突かれることを恐れた義貞は、兵を東に移動させた。しかし、これは足利勢の罠で楠木正成は敵中に孤立することになった。正成は大軍の直義勢を迎撃して須磨まで後退させたが、背後から尊氏に攻撃されて、ついに弟・正季と共に自害した(湊川の合戦)。また、新田義貞も壊走し京へ退却した。これを知った後醍醐天皇は再び比叡山に逃れた。足利勢は、これを追って比叡山を包囲し攻撃を開始した。天皇方は、必死に防戦したが、六月七日の西坂本での戦いで千種忠顕が戦死するなど苦戦を強いられた。
六月十四日、こうした有利な戦況で尊氏は光厳上皇を奉じて入京を果たした。六月三十日、天皇方は、新田義貞・名和長年・二条師基が尊氏本陣を狙って京を攻撃したが敗れて名和長年が戦死した。八月十五日、天皇方を追い詰めた尊氏は、光厳上皇の弟・豊仁親王を光厳上皇の院宣によって即位させた(光明天皇)。尊氏は、もはや防戦が不可能な比叡山の後醍醐天皇に和議の使者を送った。和議の内容は光明天皇に三種の神器を譲ること、その代わり皇太子に恒良親王を立てるというものだ(つまり両統迭立の実行)。後醍醐天皇は一時的にこの和議に応じることにした。新田義貞がこれに反対したが、後醍醐天皇は皇位を恒良親王に譲るから、これを奉じて北陸で兵を募るように命じたので義貞は恒良親王・尊良親王を奉じて北陸へ下向した。しかし、このときの恒良親王への践祚は偽りで、義貞は騙されたのである。また、北畠親房を尊澄法親王(宗良親王)と共に伊勢へ、興良親王を四条隆資と共に紀伊へ、懐良親王を九州へ下向させ後の備えとした。十月十日、京に還幸した後醍醐天皇は三種の神器を光明天皇に譲り、花山院に軟禁されることになった。
十一月七日、尊氏は、いまだ人心不安定な京を統治するため建武式目(京の施政方針を十七箇条で示したもの)を制定し、貞永式目(御成敗式目)を基本として武家政治を開始した。しかし、十二月になって武家政権の復活を目にした後醍醐天皇は花山院を脱出して吉野に逃れ、正当な天皇であることを主張した。こうして南北朝時代が始まったのである。