足利尊氏7


<南北朝の攻防>
 延元元年(建武三年、1336年)十二月、後醍醐天皇が吉野に逃れ、南北朝時代に突入した。京は足利尊氏により制圧されていたが、全国には後醍醐天皇を中心とする南朝勢力が存在した。その筆頭が足利氏に因縁のある新田義貞である。新田義貞は、追撃を受けながらも恒良親王と尊良親王を奉じて北陸の越前に下り、気比(けひ)宮司の気比氏治の協力を得て要衝・金ヶ崎を根拠地とした。これに対して越前守護の斯波高経は、援軍の将・高師泰と共に大軍を率いて義貞の立て篭もる金ヶ崎城を包囲して糧道を立った。
 延元二年(建武四年、1337年)、窮した新田義貞は弟・脇屋義助と共に主従七人で金ヶ崎城を脱出して杣山城へ移った。杣山で兵を集め金ヶ崎城の包囲を破るためであるが、その間に金ヶ崎城は猛攻を受けて落城した。金ヶ崎に篭城していた義貞の長男・義顕は自害し、尊良親王も自害し、皇太子・恒良親王は小船で脱出したが捕らえられて京へ送られた。恒良親王は成良親王(二人は同母兄弟)と共に幽閉され、後に二人とも毒殺されることになる。
 新田義貞率いる北陸の南朝勢は瓦解したが、奥州には足利尊氏を撃破し九州へ敗走させたことのある、鎮守府将軍・北畠顕家(義良親王を奉じる)の勢力が健在だった。北畠顕家は軍勢を率いて南下して関東に侵入して足利方の関東勢を利根川で破った。この時鎌倉には尊氏の嫡男・義詮(千寿王、八歳) が尊氏名代として遣わされていた。大軍となった北畠軍を前に諸将は退却を考えたが、義詮が防戦を主張したため鎌倉に篭って戦うことになった。しかし、義詮勢は敗走して三浦半島に逃れ、鎌倉は北畠顕家によって占領された。北畠顕家は鎌倉に数日滞在したのみで、翌延元三年(暦応元年、1338年)正月二日には西上の途についた。このため義詮は鎌倉を回復することができた。
 北畠軍には馳せ参じる者が相次ぎ、太平記は美濃に着く頃には五十万騎(誇張がある)になったと伝える。顕家は美濃で土岐頼遠らと戦い、伊勢路から伊賀を越えて奈良に入った。北畠軍の進撃で南朝方は勢いを得て、越前杣山で新田義貞も勢力を取り戻すことができた。顕家は軍を二手に分け、弟・顕信に京の南方にある男山に向かわせ、自らは堺へ向かい新田義貞と呼応して三方より京に攻め上がることにした。これに対して尊氏は執事の高師直を男山の討伐に向かわせた。高師直(こうのもろなお)は、直義が政治面で尊氏を支えているのに対して、軍事面で貢献している人物である。高師直は、男山を牽制すると、転じて堺に向かった。五月二十二日、摂津の阿倍野で北畠軍を撃破し、北畠顕家を討ち取った。北畠軍の主力を破った師直は男山の攻略に向かったが、越前の新田義貞が守護の斯波高経を破り敦賀まで進出したのを知り、忍者を使って男山を焼き討ちさせた。男山に陣取る北畠顕信はそれでも持ちこたえたが、兵糧が焼失してしまった。新田義貞は男山の炎上を知り、もはや落城したと思い、敦賀で進軍を止めた。食料を失った北畠勢は、滞陣を続けることができず男山から退却した。
 六月、直義が戦没者の鎮魂のため全国に安国寺利生塔の建立を始める。安国寺は、興国五年(貞和元年、1345年)に勅許を得て全国六十六ヶ国に設置されることになるが、新たに建立するのではなく既存の各国守護の檀那寺を改称させる場合が多かった。
 七月二日、新田義貞は越前・灯明寺で小黒丸城に篭る越前守護・斯波高経を攻撃していたが、戦局の打開のため少数の手勢で藤島へ移動していたところ、敵部隊と遭遇し討ち取られた。八月十一日、主な武将が戦死し南朝勢力がほぼ壊滅したため、光明天皇(北朝二代)は尊氏を征夷大将軍に任命した。
 新田義貞と北畠顕家を失った南朝は、義良親王を再び陸奥へ下向させることにし、北畠顕信を鎮守府将軍に任じて補佐させることにした。これに、宗良親王と南朝の総司令官とも言える北畠親房が加わることになった。一行は伊勢の大湊から大船五十二艘で出港したが、遠州灘で暴風にあい北畠親房の舟は常陸へ、宗良親王の舟は駿河へ、義良親王と北畠顕信の舟は知多半島沖の篠島に漂着した。義良親王は伊勢へ引き返して、翌年の三月に吉野へ帰ったが、この年・延元四年(暦応二年、1339年)の八月に後醍醐天皇が崩御したため践祚した(後村上天皇)。
 後醍醐天皇の最後の綸言は『太平記』に次ぎのように記されている。
「・・・・ただ生々世々(生涯)の妄念ともなるべきは、朝敵(天皇家の敵、尊氏・北朝)をことごとく滅ぼして、四海(世界)を太平(平和)ならしめんと思ふばかりなり。(中略)玉骨(自分の骨)は南山(吉野)の苔に埋まるとも、魂魄(こんぱく、魂のこと)は常に北闕(北朝、京)の天を望まんと思ふ。もし命(遺言、朝敵を滅ぼすこと)に背き、義を軽くせば、君(後村上天皇)も継体の君にあらず。臣も忠烈の臣にあらず。」
 そして、左手に法華経第五巻を持ち、右手に御剣(ぎょけん)を抱いてたと言われている。
 後醍醐天皇の死を知った尊氏は、政務を七日間停止し喪に服すように命じ、さらに盛大な仏事を催し追悼文を読んだ。後醍醐天皇の怨霊を恐れたのであろうか。さらに寺を建立することを決め、尊氏・直義兄弟の禅の師である夢想礎石を開基として、寺名を元号からとって暦応寺とすることにした。しかし、元号を寺名にすることに対して山門(比叡山延暦寺)の反対もあって天竜寺と改めることになった。

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