足利尊氏8


<北朝の権威>
 後醍醐天皇の死によって、地方はともかく京に平安が訪れた。武士の本拠地は関東だったが、尊氏は京都を確保する必要があった。足利氏による武家政権(尊氏は征夷大将軍に任じられているので、以降幕府と書くことにする)を正当化するためには北朝が必要で、その北朝を保護するためには京を離れることはできない。しかし、南朝に対抗するために尊氏に擁立されている北朝の権威は低かった。また相次ぐ戦乱により武力を持たない公家達は、各地の所領を武士に横領され、武士達の間に公家を軽んじる風潮が高まっていた。
 興国元年(暦応三年、1340年)十月、佐々木道誉の家臣が天台宗妙法院(比叡山の系列)の庭に入り紅葉の枝を折ろうとした。ちょうどその時、門主の妙法院宮(光厳上皇の弟)が紅葉を愛でており、坊官にその武士を咎めさせた。だが武士は、かえって大きな枝を選んで折り取った。そこで宿直の比叡山の僧兵達が、枝を奪い返して討ち懲らしめて門から追い出した。それを知った道誉は、激怒して手勢三百騎を率いて、自ら陣頭に立って妙法院を焼き討ちした。また、妙法院だけでなく、延焼により建仁寺も全焼した。朝廷と比叡山は、幕府に対して道誉を死罪にするように要求した。尊氏は庇ったが、道誉は上総に流されることになった。道誉は若党三百騎を率いて、宿ごとに酒宴を開きながら配所に向かい、しかも、若党達に比叡山の神獣である猿の皮を腰に巻かせていたという。
 興国三年(康永元年、1342年)九月三日、この日は伏見天皇の忌日で、光厳上皇は伏見院で仏事を行い夜中になって還幸の途についた。上皇の行列に新日吉神社での笠懸・酒宴からの帰りである土岐頼遠が出くわした。上皇の共の者が頼遠に下馬を命じたところ、頼遠は逆上して
「なに院と言うか?犬(いん)ならば射てくれよう。」
と言うと、上皇の牛車に犬追物するように矢を放った。このため牛は逃げ出し、牛車は倒れてしまうという有様だった。幕府は北朝の権威付けに努めていたところだったため、これを知った直義は頼遠を死罪とした。頼遠は自国の美濃に逃れたりしたが、十二月になって六条川原で斬首された。
 この年直義は、これまでの五山制(禅宗の寺格)を改めて、第一に建長寺(鎌倉)・南禅寺(京都)、第二に円覚寺(鎌倉)・天竜寺(京都)、第三に寿福寺(鎌倉)、第四に建仁寺(京都)、第五に東福寺(京都)、準五山に浄智寺(鎌倉)と定めた。また、以上八ヶ寺に加えて、これにつぐ十ヶ寺が全国から選ばれて十刹の称が与えられ、さらに十刹の下に諸山という寺格を設けた(五山十刹の制)。

2000.2.19

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