国際フォーラム1999/8月号インターネット版

主な記事を紹介します。

国際ふぉ〜らむ 1999.8.31発行

1.暑くそして、「熱かった」2日間(世界と語ろうin越畑)

2.「世界と語ろう」に参加して

3.トルコ大震災によせて


暑くそして、「熱かった」2日間
〜今年も世界と語りました〜

 8月21日、今年も「世界と語ろう」の日がやってきました。
 毎年照りつける日差しの中でこの日を迎えていたのに、朝の天気はなんだかどんよりとあやしい雰囲気です。「お天気大丈夫かなあ」と一抹の不安を抱きながら、ひたすら北に向けてくねくね道を走りました。
 今年の舞台は鏡野町越畑、泉山の懐にある静かな山里です。午前11時前、準備のためにスタッフのみんなや資材を積んだトラックが次々にみのり山荘に到着し、にわかに活気づいてきました。早速みんなで取りかかった仕事は盛りだくさんでしたが、そこは昨年の電気なし、電話なし、おまけに五右衛門風呂という「サバイバル」な状況を乗り切ったスタッフの事、わいわいと、かつ手際よくこなしていったのでした。
 午後1時45分、バスが到着し、会場は一気に国際色あふれる雰囲気に包まれます。開会式、そして班ごとのオリエンテーションと、開会行事は順調に進行。初めての参加者が多かったにもかかわらず、どの班もすでに和やかなムードで、これからの盛り上がりを大いに期待しながらクイズラリーへ・・・のはずだったのですが、天気はいよいよあやしくなり、ついに雨が落ちはじめました。結局、前半は屋内で豪華賞品(!?)つきゲームで大いに盛り上がり、少し雨が治まった後半、近くの滝までみんなで楽しく散策しました。
 そして参加者、スタッフ入り交じってバーベキューの夕食の準備。炭火をおこしたり、材料を切ったりと、ここでは準備の段階からみんなが主役です。男性陣も台所に入り、鮮やかな包丁さばきを披露していたのが印象的でした。バーベキューはビーフ入りと、ハラルチキンとシーフード入りの二種類でした。お肉のあとはこれも例によって焼きそばタイムでしたが、何処からか職人はだしの人も登場し、あっという間にみんな平らげてしまいました。こうして、多くの言語が自然に飛びかい、初対面の人たちもごく当たり前に受け入れられるという、いつもの交流会のバーベキュー風景が、今回も展開されたのでした。 ところが、食事も終わりにさしかかった頃、またまた雨が降り始めてしまい「オレは雨が好きだ!」と外で頑張っていた人もいたものの、ほとんどの人が屋内に引き上げてしまうことに・・・でも、そこでタイミング良く玉置さん一座の登場です。一段とグレードアップしたフォルクローレの演奏に一同酔いしれているうちに、いつしか雨も上がり、無事楽しいスイカ割りをとり行なうことができたのでした。
 宿泊はみのり山荘と、田舎情緒あふれる国際交流ヴィラです。津山の熱帯夜からは想像もつかない涼しさの中で、それぞれの宿舎に到着したあとは、まさに何でもあり、という感じでした。英語で熱く語る人たち、ゲームで盛り上がるグループ、けんけんがくがくの論争を繰り広げる人たち、その他いろいろ面白いこともあったようです(!?)
 そして打って代わって快晴の空の下、翌22日を迎えました。「これが昨日だったらよかったのに〜」とみんなで残念がりながらも、このイベントのメイン、ディスカッションが始まりました。今年も昨年同様、予め決まったテーマに沿ってではなく、それぞれの班ごとに自由にテーマを決めるところから討論がスタートしたので、まとまりにくさはあったものの、話題に幅があり、話に積極的に参加しやすかったようです。「男女の役割」「家族制度」「十年後の自分の国はどうなっているか」などが話題に上りました。そして話し合いを続けていくうちに、それぞれの国の現在の実情や、いろんな面での問題点が浮き彫りになってくるといった感じで、どの班も意義ある話し合いになりました。その後ヴィラのグループもみのり山荘に移動し、この会ではもうすっかり定着しつつあるマレーシアカレーをみんなで準備し、舌鼓を打ちました。そして閉会式があり、名残を惜しみながらも、全員スマイルで集合写真をパチリ。バスに乗り込んでゆくときはまさに握手のあらしで、いつものことながら「またお会いしましょう」の声が飛びかっていました。
 みんな同じ地球に住む人間であり、国籍や文化、言葉の壁を越えて、いつまでも友達でいたいし、そうなることは可能であるという気持ちを強めた2日間でした。また、いろんな個性を排除することなく広い気持ちで受け入れてゆくという、私たちの会のカラーを大切にしてゆきたいと改めて思いました。
 最後になってしまいましたが、このイベントを成功に導いてくれた11ヵ国からの参加者の皆さん、どうもありがとうございました。そして、こまやかな面からサポートしてくださったり、開・閉会式ですてきなあいさつを頂いた地元の皆さんにも、心より感謝したいと思います。

参加者アンケートより

☆日本文化を含む異文化を知る良いきっかけになった。

☆県北でこのような国際的な活動があることに少し驚きを
 感じた。県南からでも時間があればどんどん参加したい。

☆毎回パワフルな皆さんに驚かされる。

☆できればもう少し長く(3〜4日ぐらい)いたかった。

☆通訳が不十分なところがあった。

☆トイレは男女別に分けて欲しかった。

☆スポーツも取り入れたら良いと思う。

☆名前がなかなか覚えにくいので、ネームカードはでき
             ればニックネームにしてもらえたらと思う。


「世界と語ろう」に参加して

初参加された塩田さんの感想です

塩田 朋美

 とても楽しみにしていた「世界と語ろう」に参加して、貴重な経験ができました。
まず、オープニングで会場の真中の部屋に色々な国から来られたかたが、集まっているのをみて、なんともいえない気持ちになりました。今回エジプト、トルコ、スイス、マレーシア、イギリス、ブラジル、アメリカ、、ペルー、中国、日本、という多くの国の人が、この日本の、自分にとってありふれた田舎の景色、空間のなかに勢ぞろいしている(どこかのものものしい会議場ではなく)、とても単純に「すごいなあ。」とうれしく思いました。そして、今確かに目の前に集まっているひとりひとりが、まったく違う(自然)環境で育ってきたのだなあ。と妙に感慨にふけってしまいました。
 いざお互い話をしようとして、なにを言っていいのやら、言葉に詰まりました。よく、外国の方から「日本といえばいまだに、富士山、芸者だ。」といわれていて、私自身も違和感を持っていたのですが、一方、私自身この9ヶ国の国のかたがたを前にしてみると、同じようなレベルの印象、知識しか持っていないではないか・・・。ということに気づいて恐ろしくなりました。この9カ国についてもっと知るというのが私の当分の課題となりました。もちろん語学もですが。
 さて、いろいろなゲームや作業をやってどんどん打ち解けてきた2日め。班別の話し合いになりました。我が班は「family」について。いま、日本では、核家族化が進み、それにともない介護の問題、教育の問題、はてまた、心の問題、個人の発達、成長の問題などが噴出、日本には「大人がいない」とまで言われている今日この頃。この問題を議題にしようと、エジプトの アダムさんが提案されただけでも、私は、うれしくなりました。そして、エジプトの大家族や、その住まい方についてご夫婦そろって、しっかり意見を述べておられるのもとてもよかったです。(最後には、離婚について各国の事情を意見交換しておわるということになりましたが。)
 ということで、とても有意義な2日でした。また次のイベントも参加したいと思います。それに、交流会のスタッフの方がとてもてきぱきと仕事をこなされるのをみて、いつもながらすごいなあ、と気持ちよくおもいました。だからまた参加したいと思うんでしょうね。最後に、2日目のお昼に食べたマレーシアのカレーがとてもおいしくて、私もココナッツミルクなどをそろえて作ってみたのですが。結果は今ひとつ。次回も機会があればぜひカレーをリクエストします!!!


10ヶ月ぶりにトルコより帰国したSistersの長女こと村上育子さんより早速エッセイをいただきました。

トルコ大震災によせて

村上 育子

 「まぁ、帰っとったん?! よかったなあ。地震、大変じゃったなぁ」  多くの方からお見舞いの言葉を頂きました。お心遣いありがとうございました。幸い私はアンカラに住んでいましたので、もし帰国していなくても今回の地震の被災からは免れていたろうし、私の直接の知り合いにも何事もなかったようです。

 それにしても続々と明らかになる被害の状況、政府の対応や各国の救援隊の活躍など様々な情報を同じくニュースや新聞で知るにしても、日本で知るのと現地トルコで知るのとでは認識にかなり差ができることでしょう。例えば日本では日本の救援隊の活躍や支援金のことなどが連日報道されていますが、トルコのニュースではアメリカやイスラエル、あるいはヨーロッパの国々の活躍が大きく採り上げられ、日本の影は薄いそうです。これは単に日本の支援が少ないのか、あるいは日本人の国民性ゆえに活躍が地味なのか、はたまたトルコの国の何か政策的なものなのか、そこのところは分かりませんが、私たち日本にいる者が知っているほどにはトルコにいる人たちには日本からの支援のことは知られていないそうです。片想いのようで少し寂しい話ですが、一番大変なのは当事国でそこに住んでいる人たちで、どこからの支援であれ大切なのだし、多分どこからの支援かなど考える余裕などないだろうし、だから感謝や代償など期待できないでしょう。ボランティアとは本来そういうものなのかもしれません。もしいつか(あまり考えたくありませんが)日本で再び大地震が起きて、その時トルコの人が何もしてくれなくても、「あの時日本はトルコにあんなに色々してあげたのに、トルコの人は何もしてくれない。恩知らずだ。」などとならないことを祈ります。念のため。

 今回の地震では倒壊した家屋の手抜き工事が非難されています。アンカラなどでも郊外では新しい家屋の建築が進んでいますが、確かに素人目にも危なっかしい建て方のものが多いように思っていました。日本人の友達と「あんな建物、地震がきたらあっという間に倒れるよ。」と冗談めかして話していたことが、まさか現実になろうとは……。トルコは日本に比べると貧富の差が大きい国です。今回倒壊した家屋の多くは多分“富”に属する人たちのものではなかったと思います。それを云うなら阪神大震災でも同じような状況がありましたっけ。社会構造的な問題が被害の大きさを左右するということ。決して遠い国だけの問題ではないのですね。

 それから「被災」で思い出されるのは、昨年美作地方を直撃したという台風10号のことです。あの時私はもうトルコに行っていましたので、被害の惨状は家族や友人からの手紙で知っただけです。手紙を読みながら「わぁ、大変だぁ。」と思う一方で、「この先、今回の台風の被害は語り継がれるだろうけれど、その時私はその話題には入れないのだ。」という気持ちを持ちました。こんな悠長なことを考えられたのは、幸いにも我が家が直接の被害を受けなかったからに他なりませんが、「“自分がそこにいない”とはこういうことなのだ」と改めて考えました。私を取り巻く家族や友人や知り合い達の記憶の中には“○○年××月△△日のあの時”私がどうしていたかということはインプットされていないのだなぁ、ということです。まあこれは感傷に過ぎませんが。

 最後になりましたが、”世界と語ろうin越畑U”での義援金ご協力、ありがとうございました。


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