国際フォーラム1999/9月号インターネット版

主な記事を紹介します。

国際ふぉ〜らむ 1999.9.30発行

1.アフリカ青年がやってくる!

2.武士の情けとトルコ人

3.稲刈りしながら地球環境を考える


アフリカ青年がやってくる!

 国際交流事業団の青年招へい事業で来日するアフリカ仏語圏の保健衛生関係者26名を津山と世界を結ぶ会が受け入れます。期間は11月24日(水)〜12月2日(木)の8泊9日です。今回は保健衛生の関係者なので、グリーンヒルズのリージョンセンターで保健フォーラムをしたり(同時通訳の予定)、開館直前の新しい中央病院を見学させてもらう予定です。ホームステイは11月26日(金)夕方から28日(日)夕方までの2泊3日です。ホストファミリーを希望される方は会長村上まで連絡してください(FAX 0868-23-5102)。なおスタッフも募集しています。

《地方分野別プログラムの予定》
 11月24日(水) 岡山駅→瀬戸大橋→津山 (夜)オリエンテーション (泊)鶴山ホテル
   25日(木) 自主研修、市長表敬   (夜)歓迎会
   26日(金) 中央病院
   27日(土) ホームステイ
   28日(日) ホームステイ
   29日(月) 自主研修        (夜)交流の夕べ
   30日(火) 大崎小学校、保健所
 12月1日(水) あすなろ園
    2日(木) 津山発


武士の情けとトルコ人

村上 育子

 トルコ人にも“武士の情け”がありました。ユーラシア大陸の果ての国でそれを実感できて満足です。
 7月のTÖMER(語学学校)は、私にとっていよいよ最後の修了コース。ところが時期が時期だけに、生徒の多くは帰省したり休暇に出かけたり。その結果かどうか、わがクラスの生徒は6人中4人も日本人がいました。“夏は休暇を取るもの”という感覚に乏しい日本人の姿が浮かび上がってきます。あとの2人は中国人とイラン人でしたが、さすがにこの時期通ってくるだけあって、どちらも真面目で勤勉な方たちです。かくして我がクラスはとても熱心なクラスとなりました。
 まず休まない、宿題は必ずやってくる、作文は毎日とはいかなくても週に2〜3回は必ず書く、さらに自主的な学習会に取り組む人もいました。暑い季節の集中コースに敢えて参加しているだけあって皆やる気は十分といったところでしょうか。合い言葉は「皆一緒に修了を」でした。
 それでも哀しきかな、皆の実力は五十歩百歩で今一歩。暑い中でのたった一ヶ月、上級コースとしては時間不足です。我々日本人は授業の後いつも一緒に昼食を食べながら、愚痴ったり励ましあったりでした。(何となく受験生の姿がだぶります。)トルコ語の会話力には役立ちませんがストレスの解消にはなっていたことでしょう。でもこれでは終了証に値するだけの実力が十分ついたとは思えません。
 そして試験の当日、「これだけやったんだから」で臨んだものの、やはり難しいものでした。TÖMERのテストは6種類(文法、読解、聞き取り、会話、ヒヤリング、作文)あって、どの科目でも6割以上とらなければなりません。この日とりわけ難しかったのが読解の問題で、残り時間をにらみながら皆真っ青になって取り組んでいました。すると監督の先生は我々を哀れに思ったのか、全員に貴重なアドヴァイス(それは限りなく解答に近いもの?!)を与えてくれたのです。あれがなければ多分皆同じコースをもう一度やっていたことでしょう。
 さていよいよ発表。全員“合格”の文字を見たときはさすがに興奮しました。改めて受験生の気持ちが解りました。後で聞くに、監督の先生曰く「君たちは勤勉だったからね。」とのこと。おお、私たちは“武士の情け”という言葉を思い出しました。合格できたことは勿論うれしかったけれど、勤勉さを評価してもらえたこともうれしいことでした。きっと本当のトルコ語の勉強はこれからなのだろうし、日本人が美徳とする“真面目、勤勉”でいつでもうまくいくとは思わないけれど、一生懸命が通じるっていいですね。


稲刈りしながら地球環境を考える

岡本 俊則

 トルコ、ギリシャ、台湾を立て続けに巨大地震の大惨事が襲い、また東ティモールも人災とは言え、酷い状態が続いている。キルギスの日本人技術者拉致事件も、解決するのにまだ時間がかかりそうだ。毎日の新聞の国際欄は、この数ヶ月賑やかで目が離せなかった。
 翻ってわが日本では、台風18号が各地に大きな爪跡を残して去って行った。こちらは当事者なだけに結構深刻だ。田んぼや畑がこっぴどくやられた。それでも、台風一過の晴天がその後も続き、我が家の田んぼもやっと刈り入れが始まったのはめでたいことだ。
 最近では稲の収穫はほとんど機械で行う。昔のように手で刈り取っていた頃とは比べようもないほどのスピードで稲刈りは行われる。稲の植わっている田の表面には意外なほど様々な生物たちが住んでおり、コンバインに乗って地表面を見ていると、まるで台風か竜巻で家の屋根を吹き飛ばされた住人のように、それらの生き物が追い立てられて出てくる。大小のクモや甲虫、バッタ、カエル、トカゲ、小さなハタネズミやヘビまでいる。上空を見上げるとそれらを狙ってコサギやダイサギが旋回しているし、道の向こうの木の梢にもモズが目を光らせている。
 人間にとっては、米さえできればそれで十分な土地も、様々な生物が複雑な生態系を形成している生息空間なのである。
 それにしても、昔はもっとたくさんの生き物がいたものだ。田んぼのわきを流れる小川を覗き込むとき、ちょっとした興奮を禁じえなかった。そこには確実に何種類かの魚が泳いでいた。ほとんどは小さなドジョウであったりカワムツやメダカだったりしたが、ときには大きなフナが一匹、目にも止まらぬ速さで目の前をすり抜けて行ったりして、そんな光景に子供のボクは胸をワクワクさせたものだ。
 いつの頃からか、田んぼの区画整理がなされると同時に、小川が整然としたコンクリート壁の用水路になり、それらの生き物たちがことごとく姿を消してしまった。メダカひとつとってみても、このあたりの小川でそれを見つけることは、もはや不可能である。そして、とうとう環境庁は、絶滅危惧種という有難くない肩書を付けてしまった。我々は、いったい何ということをしてしまったのだろう。
 確かに稲作の労力はこの20〜30年で飛躍的に進歩した。ボクが子供の頃、熟練した農夫ですら一日10アール程度の田植えをこなすのがやっとだった。稲刈りにしても同じ。更に刈り取った後の調整はこれまた大変な重労働だった。モミの付いた稲束をハゼに架け天日で干す。一週間余り後に脱穀。動力脱穀機は重く、原動機につなぐのは大仕事だった。脱穀したモミは更に庭でムシロに広げ天日で干す。毎日毎日広げては夕方に寄せて屋内に運び込む。最後のモミすり作業は一家総出であった。この機械も巨大で、3つのパーツを組み立て更に原動機をつなぐ。出てきた玄米は千石通しというふるいにかけて、くず米を選り分ける。こうした作業は、わずか1ヘクタールくらいの田の稲の収穫に常に家族数人でかからねばならなかった。しかもそれぞれの行程が数日かかることもあるのだ。
 ところが、である。昨今の米作りは、たとえば上記の収穫作業をたった一人でわずか2、3日で済ませてしまえるのだ。コンバインで刈り取りと脱穀を同時に済ませ、それを夜の内に乾燥機で干し、翌朝には乾燥機から出すと同時にモミすりをして玄米の出来上がり。くず米の選別と計量も小さな機械が自動的にやってくれる。まさに稲作の労働生産性は、その規模にもよるが、数十倍向上したといえる。もはや、稲作は重労働ではなくなった。
 そして、我々は多くのものを失った。うまい米の味、収穫の喜び、家族の絆。何よりも嘆かわしいのは田園の生態系が極めて貧弱になったことだ。この2,30年で、このあたりで見られなくなった虫や魚の名前を挙げればきりがないだろう。そのことが今後農業生産や住空間にどのように影響してくるのか、はなはだ懸念されるところだ。
 先日、日本のNGOの招きで来日しているフィリピンの農村青年がぼくの農場を訪れた。フィリピンには、きっと今でも、ぼくが懐かしむ、かつての農村風景が残っていることだろう。残念ながら、彼らが求めているのは日本の進んだ農業技術である。ぼくは、本当の技術とは生産性を向上させると同時に、残すべきものを守っていけるものでなくてはならないと思う。農業の分野だけに限ったことではないが、彼らには、ぼくらが技術革新の名の下にに失ったものも、しっかりと学んで帰って欲しいと思うのである。


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